最近はとんと見なくなったが、昔は阪急梅田の駅辺りに『彼ら』はいた。
『魂を清めます』とか言って手翳しを始める男女だ。
そんな彼らには明らかに異様なオーラが纏りついていた。
阪急梅田の中央出口から階段を降りた辺りというのは、待ち合わせに適したロケーションだけに常に結構な人混みだ。
老若男女が入り乱れている中に混ざる『彼ら』の周りには不思議とどす黒い空気が立ち込めていたように覚えている。
『彼ら』以外の誰の皮膚もがその面妖な気配を悟り、自らに警戒を促したものだ。
サクラと呼ぶのが適切な『誰か』の頭に手を翳し、ブツブツと何かを唱えたり、或いは無言のまま目を閉じて祈る。
世俗の垢に塗れた人々に張り付く『汚ならしい何か』を、翳す平手と唱える呪文で『清めて』頂いているらしい現場を、四十郎も何度か見た。
もう随分と昔むかしのお話だし、その報道を聞いて最近そういえば見なくなったと気が付いた。
『清め』るには不浄な魂が多すぎるのかと思っていたが、この手の宗教には『時代』は関係ないらしい。

この平成の日本で、『手を翳せば難病も治る』などと言われたなら、一般常識を持つ者はそれを信じるのだろうか。
我が子が病院に担ぎ込まれ、適切な治療を施さねば命の保証がないという極限下にあって実の両親がその申し出、適切な治療を却下したという。
両の親が陶酔する『神』の教えに、現代医学の施術内容が反するからだ。
親達は苦しむ我が子に、ただ手を『翳す』。
彼らにとってはその行為だけが子を救う『適切な治療』に他ならない。
幼いその手を握りしめるでもなく、喘ぐ我が子に向けてただ手を『翳す』事を選んだのだ。

当たり前の結末だが、子供は絶命した。

そして『適切な治療』を阻害した事で、両親は我が子を殺した咎を問われてもいるという。
見殺しにしたと誰もが思うこの行為だが、親にとっては唯一我が子を救う手段だったはずだ。
心のどこにも一点の曇りも無く、一心不乱に手を翳して内なる力だかなんだかで、我が子を死の淵から救い上げようとしたことには疑いがない。
それが余りに痛々しい。
我が子を虐待の末に殺してしまう親とは異なり、恐らくは子に向けて溢れんばかりの愛情が彼らにはあったはずだ。
歪な神を無条件に受け入れた結果なのか、自分の勝手な都合だけをごり押しする不届きさ故なのか、なるべくして幼い命は贄となった。

子を失った親達は、それでも祈ることを多分止めることは無いだろう。
むしろそれは以前にも増してより強くなる筈だ。
そうすることだけが、罪深き自らを救う手段なのだから。

20100209

そんな祈りを聞き届ける神なぞいないと分かって尚の話だろう。

杜若四十郎 時刻: 18:46



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