100年に1度の金融危機が、今まさに始まろうとしている。
今世紀が始まって早々に、いきなりクライマックスが来たわけだ。
これが映画なら、なかなか緊迫した冒頭であり、『掴み』も十分なんだろうが、これは現実でありフィクションではない。
とはいえ、第三次産業に属する四十郎などにはこの危機がまだピンと来ない。
先ずは製造業と、そこに従事する総ての労働力が、この『災害』を前に立ちすくんでいる。
この未曾有の事態を『災害』や『災禍』と語ると途端に抗い難いもののように思えるが、これは自然に起きたものでは無論無く、人が起こし、人によって拡大していく類のものだ。

こんな金融恐慌を、世界は一度体験している。

その時かの大国は『ニューディール』と後年名付けられた支援策を取った。
失業率70%の社会に対し雇用安定の為に、政府が自由主義経済に介入するのが、『国家再生』の鍵とされた。
歴史をなぞれば、この政策の後に世界規模での大戦が起きて、その戦争による軍需の増大がアメリカ経済復興のきっかけとなったわけだ。
21世紀の『新たな政策(ニューディール)』にも国家の経済介入は不可避なんだろうが、現時点では絵空事ばかりが与野党間で交わされ、国家元首は漢字も読めないときつるから(笑)、或いは政府が一番危機感が薄いのではと国民の『不安』は殊更に煽られるばかりだ。
そうやって打つべき手を打てずにいる間にも、路頭に迷う人間の数は各地で倍々に増えている。

先月発表された予測では来年3月までに職を失う派遣社員は国内で3万人に上るとなっていた。
意外と少ないな、というのがその数字に対する四十郎の第一印象だ。
だがよく考えるなら派遣社員だけで3万人なのだから、期間工や正規雇用も含めると実際その4倍くらいの就業人口が恐らく職を追われるか、職場そのものを失うのだろうと考えてみて空恐ろしくもなった。
それが先日、12月26日付けの朝日新聞夕刊に拠れば、派遣の首切り『3万人』は『8.4万人』に変わっている。
IBMやソニーといった外資系は無論だが、あのトヨタ自動車が売上不振を理由に大量の派遣や期間工を解雇したり工場を閉鎖した事で、競合他社も倣う理由を見出したことが、僅か1ヶ月で2倍以上という加速をつけたのだろう。
派遣だけでその数字だ。勿論それは全てではない。
失業率が公表レベルでさえ二桁のカウントを始めるのも、さして遠い未来では無いはずだ。

職を失う者の中で大半を占めるであろう『派遣社員』という立場の人々の去就も、連日ニュースでも取り上げられている。
既に自動車製造業とそこに関わる企業の大半が、予見される赤字の補填を派遣社員や期間工といった調整可能な人件費の大幅な削減に求めた。
年の瀬に何十万人もが路頭に迷うという現象は、耳目を集めるのに十分過ぎる話題だ。
予測されたこの冷徹にして、しかし分かりきった結果に対して、識者は国の無策を非難し憐れみの声を向けるが、『派遣社員』を選択した当事者の自己責任だとか、想像力が欠落しているからだと突き放す市井の声も当たり前のように聞こえてはくる。
派遣社員で構成されるユニオンは職場と住処の供給を声高に求めたり、経営者の資質を詰る。
確かに安易な首切りで生産調整を図る事は長い目で見れば得策ではないのかもしれないが、当面そうしなければ利益率を悪化させると解りきっているのだから、経営者としてまず為すべきことは人員整理にあると四十郎は思う。
融資あっての経営なのだから、目先の利益率の上下にこそ意識を集中させ最善の手を打つことは実に健全で真っ当な話だ。
それでもまだ遣り繰りする余裕はあるのだろうと、共産党党首様なぞは大企業を攻めるが、実際どこも程度の差こそあれ自転車操業に近いだろうし、よしんば余裕があったとしても、ならば尚更に不況下にあっても揺らがない企業体質を市場にアピールする為に、余分な肉は削ぎ落とす必要が在るはずだ。
それを詰るのはどうにも筋違いに、四十郎には思えてしまう。

失礼な物言いになるが、職を寄越せだの住処を与えろだの、挙げ句に経営者を無能呼ばわりするなど、切られた彼等は何故そんなにも悠長なのだろう。
事ここに至っても尚、何をするでもなく皆で群れて妬んで喚いているだけに見える。
デモをするだけで『何か』は好転すると、本当に思えてしまうのだろうか。
互いに慰めあいながら、個人的な問題の解決さえ赤の他人の財布(国民)に委ねるのか。
職も住処も、誰かに用意してもらわなくてはいけないものなのか。
明日への危機感が、本当にあるのなら選り好みするまでも無く、仲間を押しのけてでも仕事を探すべきではないのだろうか。

『派遣』という立場は雇う側からみると、利益に連動して或る程度の調整が可能な流動的経費というポジションに映る。
増産すべき時にはボリュームを上げればいいし、生産を抑止すべき事態が来れば極端な話全員を解雇しコストを0にすることも可能な、使い勝手の良い労働力。
生産拠点を絞るからと、トップダウンで発せられるその唐突な下知に抗うことが出来ない派遣会社と、そこに属する者達。
物を知らない四十郎には、派遣という立場は酷く不利なものに映る。
よくもそんな不自由なポジションに収まろうと思うものだとも、だ。
正社員の需要が減り、やむを得ず派遣社員に登録したという人も多いだろう。
個々にいろいろな理由はあろうが、雇う側にすればそんな理由は顧みる必要がない。
それが臨時に雇われ、ある期間が過ぎれば必ず『居なくなる者』の立場だ。
だからこそ、与えられる仕事はさしたる技術や経験などを必要としない、いつでも誰でもが取って変われる仕事となる。
その挙げ句に悠長に周りを妬み、来る日も炊き出しに並ぶというのか。
そんな明日さえ甘んじて受け入れてしまえるものか。
だからこそ、派遣という手段しか見いだせなかったのではないかと思えてならない。

それをゆとり教育の功罪だと、多分言い出す者もいるだろう。
その言いようは強ち的から離れてはいない気もする。

たぶん我々はこんなにも弱くも脆くもなったのだ。
生きるということに切実になれずにいたのだ。

正規雇用を競争と言うなら、そこからドロップアウトした彼等派遣社員は、これから新たに生存を賭けた『戦争』のスタートラインに立つ事になる。
同じ立場の者同士での戦争だ。
明日生き残る為に今度こそ、自分や他人と闘わなくてはいけないだろう。
この戦争からもドロップアウトするというなら、それは生きることそのものを放棄することに他ならない。
生きようとする誰の日々もが闘いだ。
だからこそ『明日』に値打ちもあるのだろう。

2008/12/27 22:55 au