• 19 Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その7

      『田平天主堂』大正4年から3年の歳月をかけて、信者達の手によって建設されたロマネスク様式の荘厳な赤レンガづくりの教会。瀬戸山天主堂とも呼ばれている。教会建築の第一人者、鉄川与助の設計により、彼の最後の煉瓦造教会として知られる。この日、最後の教会となったのは・・・『平戸ザビエル記念教会』この地区は禁教令が解け信徒が住むようになり、明治43年には仮聖堂があったといいます。1931年、大天使聖ミカエルに捧げた教会が建てられ、献堂40年(1971年)にザビエルの三度の平戸訪問を記念してザビエル像を建て、「平戸ザビエル記念聖堂」とよばれるようになったそうです。そして、神社に。『平戸護国神社』そして『亀岡神社』平戸城内にある松浦藩主を祀る神社。秋の大祭「平戸おくんち」で知られる。「宝永五年(1708)に第三十代松浦棟氏が建立した松浦家の祖廟霊椿山神社が、居城亀岡の低湿の位置(現在の護国神社付近)にあり、年々破損が大きくなることを深く憂い、平戸藩最後の藩主、松浦家第三十七代松浦詮氏は、新築遷座の計画を立てた。時あたかも郷社七郎神社、乙宮神社、八幡神社は一応に老朽化が進んでいた。それぞれの建て替えには莫大な経費を要するため、氏子たちの財力だけでは達成不能であった。氏子たちのたっての願いにより四社を合祀し、二の丸跡の高台の地に神社を新築遷座することにした。」(亀岡神社ホームページより抜粋)・・・と、ここでタイムオーバー。今回の「長崎見参」というのは、いわゆる日本的な「神社」はもちろん、「教会」に多数見参させていただきました。この地は、日本のカトリックの方々にとって「信仰のふるさと」と呼ばれ、長崎市内だけで22、長崎県全体では137の教会があるそうです。小説、そして映画にもなった「沈黙」でも扱われているように、苛烈なキリシタン弾圧のあったこの地では、巡拝(巡礼)を重ねていくにつれ、迫害を受けてなお祈りを捧げてきたかつての信徒の方々の深い静寂が、ハートにずっと、響いていました。「神社」とは、神宿る社(やしろ)。では、神宿る社とは、一体何なのでしょう。その原点に意識を向けた時、信仰のスタイルや概念の違いは関係ない。本質において、神から分け放たれたものなど、存在しえないのだから。それは、何かを信仰しているとかしていないとか、そういうことは関係なく、ですね。ともあれ、今回の「長崎見参」にご参加いただいたみなさま、本当にお疲れ様でした!同じ九州とはいえ、距離的には離れている大分や熊本から車でご参加いただき、3日間運転していただいた皆さまのおかげで、恙無く今回を終えることができましたまた、島根や鳥取、そして我々と同じく横浜から九州入りしたみなさまも、今回の道行きは、様々な想いが巡られたのではないでしょうかまた、みなさまと共に巡拝する機会を、私としても楽しみにしております本当にありがとうございました「神社おそうじ隊 見参!」は、この後、海の京都を目指します

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  • 17 Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その6

      『カトリック紐差教会』東洋でも屈指のロマネスク様式の教会といわれています。旧浦上天主堂が原爆によって倒壊した後は、日本最大の天主堂といわれたそうです。読み方は「ひもさし」です。この教会のすぐ下には、『素戔嗚神社』拝殿の中では祭祀が執り行われていました。地域での崇敬篤い神社。『淀姫神社』壱岐・対馬を除き、日本でもっとも西に位置する神社。豊玉姫命を祀る、この地域(西浜・堤・猪渡谷)の氏神とされています。そして『根獅子浜』かつて多くの殉教者を生んだ浜。その渚に横たわる「昇天石」は、多くのキリシタンが処刑されたと伝えられる。写真にその詳細あり(写真をクリックすると拡大します)。『八幡神社』禁教令のもと、キリシタン取締りが厳しさを増す中、この神社裏の大石の隙間に信者は隠れていたといいます。このすぐ近くにあるのが、『平戸市切支丹資料館』多くの殉教者を出した根獅子の浜や、その殉教者たちを祀るおろくにん様などに取り囲まれる位置にある。密かに守り抜かれた信仰の歴史を伝える資料館。この資料館のだいたい背後に位置する場に、『ウシワキの森』「ある夫婦と女の子三姉妹の前に、一人の男の子が現れました。家族はその働きぶりに感心、長女の婿に迎えました。子をなし、もう大丈夫と思って一家がキリシタンと告白した翌日に男は姿を消し、キリシタン取締りの役人に、一家は捕らえられてしまいました。一家は両親はじめ、長女のお腹の子を含め6人が(おろくにん様)、根獅子の浜昇天石で処刑されました。遺体は海に捨てられたが、村人達は遺体を拾いこの森に手厚く埋葬、一帯を千人塚と称し聖地として敬いました。」(平戸市切支丹資料館ホームページより)また、根獅子の浜からほど近い場に『ルルドのマリア』ここからランチに 「平戸瀬戸市場」のレストランにて。うちわ海老のみそ汁を満喫

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  • 15 Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その5

      『枯松神社』慶長19年(1614)の禁教令が出され、以降キリスト教信者への取り締まりはいっそう厳しさを増したが、その中にあって、外海地方の多くの信徒たちは潜伏して信仰を保ち続けた。黒崎地方の潜伏キリシタンたちは、枯松の山頂にひそかに集まってオラショを伝承してきた。明治時代に入ると、この地に神社を建立し、日本人指導者バスチャンの師であるサン・ジワンをここにまつった。また、神社周辺には、板石を伏せて置くキリシタン墓が残っている。(長崎市ホームページより) 小雨降るなかの参拝。日本でも珍しいキリシタン神社とされるこの神社では、宗派を越えた祈りが捧げられている。『黒崎カトリック教会』長崎県長崎市外海(そとめ)町は、五島列島や生月島とともに隠れキリシタンの里として知られる。作家・遠藤周作はこの地を第二の故郷とこよなく愛し、代表作の一つである「沈黙」ではこの地を「トモギ村」として描いている。こちらの教会は「沈黙」に登場する教会。ロマネスク様式、赤レンガ造りの美しい教会でした。1920年完成。出津(しつ)町へ赴任してきたフランス人宣教師、ド・ロ神父による設計。 教会のすぐ下にあるのが、『外海潜伏キリシタン文化資料館』。  「外海地区の住民らでつくる「外海文化愛好会」により、外海地区とその周辺地域における潜伏キリシタンの歴史とその文化的伝統について調査研究した成果を公開するための施設として平成29年3月19日に開館しました」(ながさき旅ネットより)『出津教会堂』1879年に潜伏キリシタンが多かった外海の出津・黒崎地区に赴任し生涯を外海に捧げたド・ロ神父が、風の強い斜面の台地に、1882年、私財を投じて建てた質実剛健な教会。(ながさき旅ネットより) 内部は撮影禁止。『大野教会堂』1893(明治26)年、ド・ロ神父は私財を投じ、自らの設計施工によって出津教会の巡回教会として建てられた教会。ひっそりと素朴な、しかし祈りの場としての厳かさと神聖さが感じられる教会でした。大野は潜伏キリシタンの集落。彼らは集落内の神社の氏子となり、神社に信仰対象を密かに祀り信仰していたといいます。  この日はここまで。この後、本日の宿泊場所となる平戸に直行しました

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  • 08 Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その4

      『金刀比羅神社』御祭神 大物主神。雨の中、朝一番はちょっとした登山をしての参拝でした。次に向かったのは、『滑石太神宮』『長崎市指定無形民俗文化財 滑石竜踊』「長崎本籠町籠踊の古典的伝統を伝承する竜踊で、その始まりは明治10年、雨乞いと五穀豊穣を祈願するため、滑石太神宮の氏子が本籠町の指導を仰ぎ太神宮に奉納したのが始まりである。その後、昭和10年に長崎くんちで大井手町の奉納踊として出演してから長崎竜踊の風格をそなえた。毎年、県内外の要請に応えて諸行事に出演している。」(長崎市ホームページより)「長崎の龍踊りは、もともと中国から移入されたもので、享保年間(約250年前)既に諏訪神社のお宮日に参加した記録があります。龍踊りは中国で五穀豊饒を祈る雨乞い神事に始まったものといわれており、中国の年中行事や記念祭などには欠くことの出来ない催物となっておりました。当時、唐人屋敷と隣接し密接な関係にあった長崎市本籠町の町民が、唐人達の指導を受け、三百余年の間にその踊り方は非常に巧みになり、日本独特の巧妙な演技を見せるに至ったのであります。龍踊りの踊り方は、唐人服装をした「玉使い」が一人、「龍衆」が十人で玉使い、玉隠し、胴くぐりからなっており、ドラ、タイコ、龍声ラッパ等の独特な拍子に合せて長さ20メートルに渉る龍がさながら生物のように踊るさまは、実に壮観であります。」(長崎国際観光コンベンション協会ホームページより抜粋)もともと「くんち」とは、九州北部における秋祭の呼称。長崎、佐賀の唐津、そして博多のくんちを指して「三大くんち」といったりします。共通しているのは、神社から御旅所まで神輿による御神幸が行われることだそうで、そこにいわゆる大名行列などが加わったり、様々な形態をとるようです。イベント色が強く神事としての色合いが薄まった、という意見もあるようですが、そこに神事としての意識があれば、たとえ何が失われたとしても間違いなく「神事」です。また、こちらの神宮は原爆が投下された際の救護所として機能した神社でもあります。拝殿および本殿この神社のすぐ近く『滑石カトリック教会』新しく、綺麗な聖堂でした。ここからランチに。「向日葵亭」長崎のソウルフード(?)トルコライス。なぜトルコライスというのかは諸説あるようです。でも、個人的には「あり」ですここから、平戸方面に向かいました。

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  • 04 Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その3

      『国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館』『長崎原爆資料館』「昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、長崎市に投下された原子爆弾は、一瞬にして都市を壊滅させ、幾多の尊い生命を奪った。たとえ一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない心と体の傷跡や放射線に起因する健康障害を残した。これらの犠牲と苦痛を重く受け止め、心から追悼の誠を捧げる。原子爆弾による被害の実相を広く国の内外に伝え、永く後代まで語り継ぐとともに、歴史に学んで、核兵器のない恒久平和の世界を築くことを誓う。」「長崎原爆資料館は、長崎市の原爆被曝50周年記念事業の一つとして、1996(平成8)年4月に開館しました。被曝資料や被曝の惨状を示す写真などの展示をはじめ、原爆が投下されるに至った経過、核兵器開発の歴史、平和希求などのストーリー性のある展示を行なっています。」(平和祈念館パンフレットより引用)この2つの施設は隣接していて、通路で互いの施設を行き来できるようになっていました。平和祈念館の施設の上部は上の写真のようになっていて、これは、原爆死没者の方々が求めた「水」をたたえる水盤なのだそうです。夜になると、光ファイバーによって約7万個の追悼の灯がこの水盤に燈ります。(7万という数字は、1945年12月までの推計原爆死没者数)追悼空間。正面は、原爆死没者の氏名を記載した名簿棚になっています。原爆落下中心地が、この名簿棚の方向となるそうです。ここでも、おそらくは修学旅行の子供達に遭遇。施設の職員の方による解説を、私たちも一緒に聞かせていただきました。そして、「原爆資料館」。    2013年に広島の平和祈念資料館に訪れました。そして、今回の長崎です。原爆といっても、広島と長崎では使われた爆弾は違う種類のものでした。広島型原爆は、コードネームをリトルボーイと言います。そこで使われた燃料はウラン235(ウラニウム235)。長崎型原爆は、コードネームをファットボーイ。使われた燃料は、プルトニウム239です。これら使用するにあたり、投下側には様々な意図がありました。有名なマンハッタン計画やポツダム宣言そのほか政治的な思惑・・・原爆投下後のデータ採集・・・種類や威力の異なる爆弾を使って、彼らは一体何を実験したかったのでしょう。『浦上天主堂』神よ わたしをあなたの平和のために用いてください  憎しみのあるところに 愛を  争いのあるところに  赦しを  分裂のあるところに  一致を  疑いのあるところに  真実を  絶望のあるところに  希望を  悲しみのあるところに よろこびを  暗闇あるところに  光をもたらすことができますように  助け導いてください神よ わたしたちに  慰められることよりも 慰めることを  理解されることよりも 理解することを  愛されることよりも  愛することを望ませてください  わたしたちは  与えることによって 与えられ  すすんでゆるすことによって ゆるされ  人のために死ぬことによって  永遠に生きることができるからです アーメン(アシジの聖フランシスコの祈り・・・浦上天主堂パンフレット裏面に記載)「浦上では、1567年以降、キリスト教信者が多くなりましたが、特にイエズス会領となった1584年から3年間は、長崎におけるキリスト教の一つの中心となりました。 キリスト教が禁止されると、浦上の信徒たちは潜伏して信仰を続けました。厳しい弾圧が繰り返されましたが、『信徒発見』の後に行われた1867年の浦上四番崩れ(キリシタン検挙事件)は最大で、実に約3400人が各地に流配されました。」『日本二十六聖人記念聖堂』『聖フィリッポ西坂教会』1597年2月5日(慶長元年12月19日)に6人の外国人宣教師と20人の日本人信徒、二十六聖人が殉教した地・西坂の丘に建つ資料館。隣接する西坂教会とともに、建築家・今井兼次氏によるもので、建築をもって殉教者の心を伝えようとしたといいます。教会の双塔は、高さ16メートル。向かって右の塔は、天からのお恵みが降りてくる塔で、精霊の賜物を象徴しています。向かって左の塔は、祈りと賛美の塔であり、聖母マリアの象徴を表しています。そして、記念聖堂の中に入って正面。中央にΑ(アルファ)とΩ(オメガ)。始まりと終わり、すなわち「永遠の神」を示す周囲を二十六の十字架が取り囲んでいます。聖堂では、潜伏キリシタンの密かな祈りの対象であった《雪のサンタ・マリア》など貴重な物が多く展示されていました。  ここでは教会内にも入ることができました。この日はここまで。この後夕食、そして1日目の直会へと・・・

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  • 28 Nov
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その2

      『鎮西大社・諏訪神社』旧国幣中社。鎮西大社と称えられる長崎の総氏神。諏訪・森崎・住吉の三社がおまつりされ、 厄除け・縁結び・海上守護の神社として崇敬される。御祭神諏訪神社 建御名方神 八坂刀売神森崎神社 伊邪那岐神 伊邪那美神住吉神社 表筒之男神 中筒之男神 底筒之男神10月7日〜9日に執り行われる例祭「長崎くんち」は、国の重要無形民俗文化財に指定。『・・・「くんち」という名称は、九月九日の重陽の節句よりきており、大陸との関わりの深かった長崎独特の名前と言えます。寛永11年(1634年)遊女町の音羽と高尾の二人が神前で舞い始めたことが始めといわれています。かつて長崎はキリスト教の知行地(いわゆる支配地)で、それまで祀られていた神社・仏は見るも無残に焼かれ・壊されてしまいました。その後、豊臣・徳川の政権下で再三にわたりキリスト教禁教令が出され、教会に変わって幕府は神社・寺院の建立、積極的に布教を積極的に推進したので、これに漸く社寺の建立が盛んに行われる時期でした。』(御由緒書より引用)この石段を登りきった処が境内。拝殿『玉園稲荷神社』と「抱き大楠」諏訪神社境内社。境内最奥部に鎮座。また、    さまざまな神徳を受け持つ「狛犬」が続々と登場こちらのページでも特集されているので、気になる方はチェックしてみてくださいそして、ランチ。長崎といえば…外せないのがちゃんぽんと皿うどん「四海樓」長崎ちゃんぽん、皿うどん発祥の店として知られる中華料理店。諏訪神社で地元の方にリサーチしたところ、「まずはここ美味しいです」と教えていただき、一同全員一致(❓)で決まりました港も一望。もちろん、味もGOODランチ後は、『山王日吉神社・浦上皇大神宮』「一本足鳥居」で知られる神社。『・・・山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居までありましたが、1945年(昭和20年)8月9日の原爆投下により、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとはすべて倒壊してしまいました。一の鳥居はほぼ原型のまま、二の鳥居は爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残りました。しかし戦後の昭和37年、一の鳥居は交通事故により倒壊したため現在も当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなりました。』「二の鳥居の吹き飛ばされた左半分」は、近くにこのような形で展示物として残っています。「被曝クスノキ」原爆被災の貴重な遺構として、長崎市指定天然記念物に指定されています。山王神社の境内入口にそびえる2本のクスノキは、樹齢約5~600年、胸高幹囲がそれぞれ8メートルと6メートルで、長崎市内にあるクスノキの巨樹の一つです。共に昭和20年の原爆で主幹の3分の1以上を失ったため、 樹高は10メートル内外ですが、四方に張った枝は交錯して一体となり、東西40メートル、南北25メートルの大樹冠を形成しています。原爆被災により一時落葉し枯れ木同然になったにも係わらず、2年程度の後、奇跡的に再び新芽を芽吹き、次第に樹勢を盛り返し今日に至っています。また、蘇った大楠に直接手を触れ、その生命力にあやかろうと毎日多くの参拝者の方が訪れています。(山王神社ウェブサイトより抜粋)近隣なのか、はたまた遠方から修学旅行か何かで来たのか、小学生が大勢、このクスノキに触れ、絵を描き、あるいは木の中に入ったり登ったり…また、彼らは皆元気よく私たちに「こんにちわ」と声をかけてくれたことが印象的でした。こういった子供達、あるいはこのクスノキを保存する為に心を砕いてきた方々のそのエネルギーによって、このクスノキも樹勢を取り戻したように、私には思えます。果たして、東京の大木が同じような状況にあったとしたら、このように残すのだろうか…また、子供達に触れさせたりするのだろうか…「被曝」というだけで寛容さを欠く方々も多い昨今、このようなことを思いつつ、全員で参拝させていただきました。(ちなみに、写真はクリックすると拡大します)

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  • 27 Nov
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その1

      マリア観音像『大浦天主堂』「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」『‥大浦天主堂の献堂から約1ヶ月、3月17日に宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」が起る。翌日のプティジャン神父の手紙は次のように記されている。昨日の12時半頃、男女子供を合わせた12〜15名の一団が天主堂の門にいました。私が至聖所で少しだけ祈ったあと、40歳ないし50歳くらいの婦人が胸に手をあてて申しました。「ここにおります私どもは、全部あなた様と同じ心でございます。浦上では、ほとんど全部の人が、私たちと同じ心を持っております。」それからこのご婦人は私に聞きました。「サンタ・マリアの御像はどこ?」私は聖母像の祭壇に案内すると、喜びのあまり口々に言いました。「そうだ!本当にサンタ・マリア様だ!ごらんなさい、御子イエズス様を御腕に抱いていらっしゃる。」こうして神父は浦上の「信徒を発見」し、浦上キリシタンは250年にわたって待ち望んでいた「神父を発見」した。』(「大浦天主堂物語」より抜粋)いわゆる「信徒発見」は1865年に起きました。1639年に、幕府はポルトガルとの交易を断ち、全国的な沿岸警備体制、そして九州の大名による長崎港の警備などを行いました。ポルトガルとの交易を断絶したのは、イエズス会との結びつきが強い国だったからとされます。ここに、世にいう「鎖国」が完成し、それはその後250年もの間続くことになります。そして、『国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館』『長崎原爆資料館』にも、身を運びました。原子爆弾による死没者を追悼し、永遠の平和を祈念する施設である平和祈念館と、1996年に長崎被曝50周年記念事業のひとつとして開館した原爆資料館には、今回是非訪れたいと思っていました。教会・原爆‥いづれも、いわゆる「神社」というイメージからは程遠いかもしれません。でも、『神社おそうじ隊 見参!』においては、大変重要な参拝スポットになります。『神社おそうじ隊 見参!』は2011年に始まりましたが、長崎というのは、開始した頃からずっと見参したいエリアでした。神社、教会、原爆、…今回の巡拝は、長崎という地の歴史をそのまま巡る道行きでもありました。全てのご縁に感謝いたします大浦天主堂へのこの坂道から、スタートです

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