我々が生きるこの世界は、三次元であり、様々な現象もその中に起きる。

そもそも現象とは何か?

現象が起きるには「過程」がある。その中にはいくつかの「要因」があり、要因の基になる「行為」があり、行為の根本には人の「思考」があり、思考の根底に「想念」がある。

想念の過ちが、全ての基となるのだ。

目の前に展開するこの世界は、我々の想念の具現化である。つまり「我々が持っているもの」が実体化しただけだ。

要は「現象を変えたいなら、自らを律し、想念を変える必要があるのだ」

枝葉が現象である。

枝葉は無数にあるが、根本は一つである。

枝葉に右往左往するより、幹をみなければ真実はわからない。

苦労や苦難は「枝葉」である。
その先にある「想念」に気づかなければならない。

自分を見つめなければならない。
一般的には神様と言うと、「自分以外の何か」であると信じられている。

しかしよく考えて欲しい。
森羅万象、世の中の全てが神の創造物であるならば、我々も「神の子」である。聖書には「神に似せて人を誕生させた」とある。

似せてとは「外見だけではない」のだ。

人は完璧ではない。ミスもすれば、感情に流されて間違いも犯す。

果たしてそれが神と似ているか?

神が全てでいる為には「完璧」は有り得ない。なぜなら「未完成でいることは進化や進歩を妨げないことになるし、完璧や完全があるなら、それは同時に進化や進歩を否定することになる」のである。

だから神は未完なのだ。常に進化し続ける神が、森羅万象と言われる所以なのだ
この世界は「私の想念」の具現化である。

故に「他人などないし、私でないものは存在しない」
しかし、所有とは違う。つまり、私のものではないのだ。

この感覚が生まれたのは、「私は誰か?」との自己探求の答えとしてである。

人は全て内側に「神」をもつ。形のない神である。その計画により、我々が人として成長することが、神が人を誕生させ、人生を送らせている理由である。

我々の目の前に展開するこの世界は、我々が成長する上で最適であり、不必要なものは何一つない。

こういうと「戦争は?」「殺人は?」「悪を正当化するのか?」と始まる。

まず、視点が違う。

私が言うのは「学び」という視点に於いてである。

「学びに善悪はない」

私はかつて、裁判で有罪判決を受けた経緯がある。では、その逮捕され、収監されている間に、何も学ばなかっただろうか?

答えは「否」である。

私はその間に神の言葉により目覚め、今に至っている。私の人生に於いては不可欠な学びだったのだ。

ただ、私の行為は許されないし、反社会的行為として裁かれた事実は紛れも無いことである。既に刑期を終えた今でも、懺悔し続けている。

それもまた、私の学びである。

つまり、「いかなる選択をするかが問題なのではなく、いかに学ぶかが大切」なのだ。

我々はそのステージを目の前にしているのだ。