自然界の動物達は、日々を生き抜くために生存競争を繰り返している。
それは摂理であり、法則であり、あるべき姿である。
人は文明を築き、歴史を創りながら生きてはいる。しかし、生存競争は存在するし、日々を生きることには何も変わらない。ここにも、「自然界の一員」であることの証明がある。

我々に与えられているのは「今」でしかない。過去は記憶の中に、未来は想像の中にある。今を生きることができない人は、人生を生きているとは言えない。

今には何もない
人が「人として」その人の人生を生きるのは、「自分が設定した課題をクリアーしながら、成長する為」である。
なぜそれが必要なのだろうか?

「神」とは一般的な解釈でほぼ間違いない。つまり「森羅万象全て」である。ただ、一般的には「神は人とは別の存在」として解釈されている。だからこそ、神頼みをするのだ。神社仏閣に行き、祈りを捧げるのだ。
しかし実は「神は人の中に在り、そのすべてを担っている」生命を維持し、思考をさせ、行動させている存在こそ、神である。我々の中に神はいるのだ。

文字通り、神は全てである。我々とて、その「全て」の中に入る。ところが、人は自らの神に対する認識に過ちがあることに気づかない。そればかりか、「神と人は別である」という認識に立ち、神と人を別離させているのだ。

それでも神は人を愛し、生き抜く力を与えてくれている。誤った認識を基に、互いに傷つけあい、時には自らの命を断ってしまう過ちを犯し続ける我々に、なお力を与え、見捨てることはしないのだ。
何故か?

我々を見捨てることは「自らを見捨てること」だからである。
主文、被告人○○を懲役一年六月、執行猶予三月に処する」
私の刑期が確定した。
私物を確認した後、お世話になった刑務官に挨拶をした。
「お前さんは、もう戻ってくるなよ。ま、来ないだろうけどな」
送別の言葉を噛み締めて、私は決意していた。
「人のために生きよう」と。

久々に吸う外の空気は、キンと澄んでいて、ちらつく粉雪がダイアモンドのようだった。

待っていてくれたのは、彼女。そして愛娘だった。
どんなに待ちわびているかも知っていた。娘や妻の霊と対話もしていたから。
娘の笑顔が眩しかった「体だけは大人、心は子供」この弊害は計り知れない。
私は「光の存在との対話」を通じて「自立すること」を当面の目標として行動することに決めていた。
「経済的自立」「精神的独立」
この二つは、「支えてくれた人への愛」と「期待してくれた人への懺悔」が動機になっている。
これまでの私は「常に誰かに依存していた寄生虫」だった。
親に依存し、妻に依存した。
その二つを失って初めて、「自立」を意識できたのだ。
彼女と帰る途中の車の中で私は「計画」を話していた。
私の成長を具に見てきた彼女は賛成してくれ、私が「独りで歩けるようになるまで」一人になることを認めてくれた。