最近、昼ドラに嵌まってしまった。
人間関係の「ドロドロ感」が嫌で、一度も嵌まるなんてありえなかったのだが。
主演は高橋かおりさん。別の人だったら、見てないだろうな…。
亡くなった愛する人の魂が別の人の体を借りて甦り、真実を話せないまま、ドラマは展開していく。

ただ残念なのは、ドラマはドラマ。
多くの矛盾点があるし、「泣かせよう、感動させよう」とする意図が見えてしまっている。

人は霊的な存在。一度劇的な体験をしてしまうと、それまでの考え方が完全に崩壊する。
つまり、「あまり自己の意識の進化や進歩」以外には無頓着になってしまう。

それをドラマに求めてもドラマ自体が面白くなくなってしまうので仕方ないことですが。
偶然と偶然とは「人の解釈であり、受け止め方」である。

相反するものと捉えがちであるが、実は相対ではない。どちらも「起こる」点では共通している。

どちらで捉えるかは当人次第ではあるが、実はその捉えかた一つで「成長の度合い」が全く違ってしまうのだ。
「偶然」と捉えた場合、それにより自覚が促されることはない。故に「成長が促進されることはない」更に、自覚できない為に「同じ事を繰り返す」ことになる。自覚できるまで。なぜなら「今、直面している問題は、あなたが解かねばならない。それを解くことが課題であり、成長に繋がる」からだ。

その反面、「必然」と捉えた場合、「無意識の内に答えを探す」ことになる。すぐには解らなくても、必ず答えはみえてくる。

あなたは「問題の作成者であり、出題者であり、解答者であり」だからである。解けないと思うことを止めさえすれば、自然に答えがあったことに気づく。

それが進化であり、成長である
我々に与えられている命題に「生き抜く」というものがある。
文字通りの意味で、「何があっても」生き抜かねばならない。
だから、それに反する「自殺」という行為は如何なる理由があるにせよ、選んではならない。

まして暴力により誰かの人生を傷つけてしまった場合、その責任は「必ず取らされる」と覚悟した方がよい。なぜなら神は「あなたの中にあり、あなたの愛であり、あなたの良心であり、あなた自身を進化させようとする存在」だからだ。

その存在の目的に反する行為は必ず修正させられる。
つまり「暴力により本当に傷つくのは被害者ではなく、加害者である」


確かに全てが学びであるし、言うなれば「利己的で我の利益しか考えない身勝手な行為もまた、学びの一形態」ではある。

だが、現在の法や道徳は「その中であなたが学ぶべき何かがあるから存在する」のだ。
その必要性を無視して、反する行為をした場合、あなたの中の神が見逃すわけがない。
なぜなら、あなたの行為はあなたの神により見られているのだから。

警察や検察が被疑者を逮捕し、法があなたを裁くのではない。

「あなた自身があなたを裁くのだ」

それがあなたの神の責任である。