60過ぎての離婚、卒婚についてのシリーズ3回目です。

 

前回は、卒婚に至っては、相手ではなく自分との闘いになる‥

というお話を書かせていただきました。

 

なんだか厄介な話ですが、

やはり「自由」を手に入れるって、なかなか大変なのですね。

逆に責任をともなうというか。。

自由を引き換えに差し出すものは、いつでもなかなか大きい?

 

いえいえ実は、ワタシタチが「大きい、大事」と

思い込んでいるもの

または、思いこまされて育ったのだなぁと。

 

そう、思い込んでいるだけだった。。のです。

自由を手に入れるのに、何も引き換えになんかなりません。。

ただ、卒業するだけ。それだけだったと今は気づきます。

でもね、難しく深刻に考えたいのでしょうね。。

 

 

しかし!

実際、自由になってみると、いや〜

ほんとに楽‥ というか、すっごい楽!というか、

 

え〜っ?!ちょっと待って。

今までどれだけ人のために生きてきたの????

どれだけ、周りに気を遣ってたんだろう??

って、気づいてしまうわけです。

 

家族のため、夫のため、子供のため、親のため

〇〇のため、〇〇のため

もーっ、ほんとに自分ではない何かのために

粉骨砕身生きてきたんだなって。

これ、本当の意味で気づいた時、

泣けます、大泣き、号泣ですよ。

 

いやはや

自分の人生やり直したくなるくらい、、、

はい、そのくらい、一人って素晴らしすぎます、、

も〜っ、泣いていいですか。。。

ここまで辿り着いた自分にもう、感謝しかないです、、感涙。。

 

 

 

実のところ、ワタシの場合、

 

ひとりになるのが怖かった

 

という決定的な事実がありました。

一人暮らしみたいなことを短期間したことはあったけれども

親と一緒、その後は彼と一緒、同棲して結婚して子供ができて

そう、いつも誰かしらといたのです。

 

だから、ひとりになる=孤独老人の末路

 

みたいな変な概念が出来上がっていたのでした。

ひとりになったら、どうなっちゃうんだろう?

孤独死、しちゃうのか。毎日ポツン‥としているのか?とかね。

もう心配と不安がものすごかったのです。

 

 

が、ぜーーんぜん。

ほんとに全然、実際は違いました。

 

自分のためだけに

生きていいんですか?

 

いいのです〜!!

 

って、すごいと思いませんか?

 

好きな時に好きなことして

誰かのためではなく、自分のために❤️

 

これはきっと、日本の主婦を経験された方にとっては

ものすごいことなんだと思う。本当に。

 

 

離婚されて一人暮らしされてる先輩が言ってた通り。

 

寂しいのなんて、ひと月よ。

すぐに慣れて楽ちん生活。もう戻れないわ〜。

 

まったくもってその通り。

もうもとの生活には戻れません、にやり。

 

 

ワタシタチ 自由になって いいんです

 

 

菜の花畑と愛犬🌸

 

 

 

前回よりの引き続き記事となります。

60からの卒婚について書いております。

 

 

離婚と言いますと

もはや一時は家族として連れ添った相手も‥敵‥

 

いえいえ、もし戦うことが必要な場合ですね。

どうしても離れたい、縁を切りたい相手

それが夫‥(または妻)となるかなと思います。

ケースによっては、他の方の場合もあるかもですが。

 

昔は離婚は、どうしようもないほど、

相手が嫌な場合でしかできないだろう‥と言われておりました。

なぜなら、少なくともその二人で築き上げた、または

分かち合った色々なものがあるからです。

 

家、財産、私物、その他、あらゆるものです。

もちろん、子供もその一つです。

 

それをどう分けるのか?

時に熾烈を究める場合もあり、

また、2人だけの問題ではなく親類縁者が関わることもあり‥で、

相当困難を要す。つまり、簡単に半分ことはいかない。

なので、生半可な気持ちでは離婚はできないよ‥なんて

女性たちは言っていたものでした。

 

もちろん、何か相応の理由がある場合は別です。

相手に決定的な非がある場合は、闘うことも大いに結構でしょう。

この話も長くなりそうなので、今回は割愛しますね。

 

つまり、離婚は、相手という対象と離れる。

関係の解消。

フォーカスされるのは「相手」との関係です。

そんなイメージです。

 

離婚について、もっと色々書きたいところですが、

今回のテーマは、卒婚についてですので、話をそちらに進めます。

 

対して、卒婚とは?

 

フォーカスポイントがズバリ

 

自由を選択する

 

これに尽きるかなと。

 

もちろん、違う言い方もできます😌

 

常識や形式、従属という支配から解き放たれる。

檻、または籠から飛び出す。

妻や嫁や母という役割を捨て「自分」を生きる選択。

「わたし」というライフへ進む決意。

 

 

もはや、相手のことを恨むだの、罵るだのはないのです。

お互いが自由になるために、別々のライフを選択する。

結婚という形の卒業。これが卒婚。

我が家の場合はまさにそうでした。

 

 

人は変化する生き物ですね。

私たちも60年も生きていれば、色々変化します。

価値観、人生観、ライフスタイル、趣味、好み

同じところに留まっていられるはずがないのです。

 

その上、60は一区切り。

働いている方なら当然感じるところでしょう。

社会での役割に一区切りつけ、さぁ、次は何をしよう?

そういう年齢です。

昔は、60は隠居イメージありましたが、今は全く違います。

これから新しく何かに挑戦できる年代なのです。

時代が変わり、私たちの意識も変わりました。

 

 

ずっと同じところを見ている

ずっと寄り添って生きる

このようなご夫婦が世の中にどれほどいるでしょう?

いらっしゃるとしたら、その方達は

 

⚫︎ 人生にお互い変化がなかった

⚫︎ 同じように2人とも変化してきた

⚫︎   どちらかに無理やり合わせてきた

⚫︎   自分に嘘をついている

 

さて、どれでしょうか?

 

おそらく、一番ベストなパートナーシップは

 

⚫︎ お互いが自立し、自分のライフを創造している

  そして、そのライフが交差している

 

ということなのかなと察します。

素晴らしいですよね。

いや、なかなかいらっしゃらないですし、

仮にいらっしゃったとしたら、そのお二人には大きな

共有すべき学びがあるのでしょう、そう、二人のこと以外に。

 

 

かくいうワタクシは?というと、

無理やり合わせてきた または、自分に嘘をついてきた

のどちらかかもしれません。残念ながら。

子供が独り立ちするまで、待っていたクチです。

 

なので、綻びが生じてきます。

でも、なかなかね、自分に正直に生きるのは難しいのです。

 

なぜなら、

ひとりになるのが怖いから。

 

そう、卒婚の対象(敵)は、相手ではないのです。

自分。

 

この先、年老いていく自分の未来。

お金、仕事、孤独、病気‥。

 

果てしない、見果てぬ未来への恐怖と不安と対峙し

それを乗り越えていかねばなりません。

 

相手ではないのです。

最大の敵は

 

自分

 

それが卒婚です。

 

 

 

つづく

 

 

先日乗った船からの景色

まるで鏡面のような水の美しさに圧倒されました。

人との関わりもまた、このような鏡のようですね。

 

なぜか向きが変ですが。。

60過ぎての離婚、自立、田舎暮らし

はじめてだらけの日々を綴っております。

 

春一番も吹き荒れまして、春の訪れを感じます。

周囲でも何やら、色々な事件や動きが活発化してきたようです。

起こっていることは様々ですが、一様にテーマは

 

 自立

 

こちらのようです。

皆、新しい春に向けて、既存の枠から卒業していくのでしょう。

 

さて、今日の話題は卒婚について。

 

ちょうど60才で家を出まして、61才で離婚かな。

なんですが、離婚というような、離れるという感じはしませんで。

むしろ、一番しっくりくる言葉は「卒婚」。

まさに、結婚を卒業しました!

というニュアンスがぴったりでなんですね。

 

実はワタクシ、前に一度離婚しておりまして。

20代の頃です。

その時と今は、だいぶ、いや、全然感覚が違うのですね。

 

当時は、もうその結婚が耐え難く、離れたい。

その一心でしたから、離婚。しかし、なかなか大変でした。

親は反対、相手も反対。まるで犯罪者のような仕打ち。

結婚において失敗は許されないのだなぁと、しみじみ感じました。

今は昔、1980年代、バブルが弾けた頃です。

 

その後、まるで大罪を犯したように重い漬物石を背負いながら

半世紀は生きたように思います、笑。いや、そういう時代だったのですね。

まだ「自由」を語る時代ではなく、結婚は「高砂」でした。

苦楽を生涯誓った相手と添い遂げられない不埒者のワタクシは

日本にいるのも憚られ、遠く海外へ。

はい、その後、海外で10年を過ごします。

 

もちろん、離婚がなかった時代ではありません。

が、しかし、離婚するということは「どうしようもない理由」でしか

認められるものではなかったような。そんな風潮でした。

なにせ、離婚歴ありは「バツイチ」(戸籍に✖️がつく)

(または、罰を受けるに値する)と呼ばれたものですから。

 

なので、性格の不一致だとか、性の不一致だとか?

なんだそれ?という感じですね。

それこそ、親の時代は、お見合いで親戚が決めた相手と添い遂げた

時代の名残があるわけですから、彼らからしたら我儘にもほどがある!という

ところだったのでしょう。

 

そんな昭和の終わりにした離婚と、

ただいま、令和の時代にした離婚。

 

これは全く別物でありました。

令和の時代の離婚は、離れるためのものではなく

 

  自立 

 

まさしく、そのための離婚であったからです。

 

 

 

つづく

 

 

 

自作のキャンドルにシリカゲルでドライにした花たちを添えて

愛とは人生で最もすばらしい生きる力である

 

ピカソの言葉です。

 

このところは「恋愛」フォーカス期みたいなので、

今日もその手の話題に特化したいと思います。

 

さて、古来からある占星術や星の世界では、

創造(creation  )を第五ハウスという部屋で包括しています。

その第五ハウスに該当するのは、さまざまな

ワタシタチの<創造の力の源>です。

 

⚫︎ 恋愛

⚫︎ エンタメ(推し活、買い物や美の追求など)

⚫︎ アート

⚫︎ こども

⚫︎ セクシャリティ(恋愛の)

 

などがあるのですね。

 

ワタシタチにはおそらく、ある「創造の力」が備わっていて

そのポテンシャルは個人差があると思われます。

なぜなら、それは各人の設定により、配分が違うからです。

 

しかし、今回の人生で何か「創造すること」がテーマの方々は

この第五ハウスに向き合い、いろいろな体験をすることとなります。

この対象のどれを使っても良いのです。

その時のその人の設定、もしくは「意思」により決まります。

 

 

例えば、あるアーティストがいます。女性です。

彼女は恋愛至上主義で、恋愛依存症でもあります。

あー、ピカソやその他の偉大なアーティストのそれのように。

 

彼女はいつも彼のことを考えていて、喜怒哀楽が崩壊寸前まで

感情が揺れ動きます。彼の一挙一動で。

なんとなく、想像できるでしょ?

 

そんな彼女ですが、彼女は作品作りに没頭し始めると、

それらが全て飛んでしまうのです。

愛する人からのメールさえ、返信することを忘れてしまう。

そんな時、彼女は恋愛で感情的になることはありません。

その時の彼女は、恋愛モードから

アート創造モードにシフトしているのです。

 

 

また、他の女性の話です。

幸せな恋人同士だった2人が結婚し、この上ない結婚生活をしていました。

彼らは結婚しても尚、恋人同士のように楽しみ、愛を交わしていました。

ところが、その家に待望の男の子の赤ちゃんが産まれました。

彼女は男の子をこの上なく愛し、気づけば夫との距離は離れて行きました。

そうして「旦那がいなくても、この子さえいてくれたら、それでいい」と。

よく聞く台詞ですね。

彼女もまた、恋愛モードから、こどもモードへとシフトしたのでした。

 

 

この二つの例から分かるように、

ワタシタチは創造の形を変化させていくことができます。

「意思」によるものです。

実はワタシタチは、自分の意思により、

モードをシフトすることができる‥と気づいてください。

 

 

もっというと、登校拒否児童のお母さんのほとんどは

創造性欠如、創造性皆無‥という事態に陥っている方がほとんどです。

彼女たちは「こども」という自分の創造に執着しすぎて

自分自身の創造をおろそかにしたのです。

 

そこで、この原理を逆に考えて、母親たちが視点を

「こども」から他のものへ。

例えば、自分のクリエイションや、恋愛(微笑)に向けたとします。

すると、こどもたちは少しずつ、学校へ行き始めます。

ほんと不思議で、奇跡のようですが。

 

 

今は恋愛しないで、推し活に励む人もたくさんいます。

これも創造の一つのカタチです。

何が言いたいのか?と言いますと、シンプルです。

 

フォーカス(執着)しすぎない

ほどほどにバランスよく

 

ことです。どこかに振りすぎたら、他の創造性に振ればいい。

そうすることで、バランスを保てます。

 

もしも今あなたが、恋愛で苦しんでいるのなら、

ちょっとひと呼吸。

買い物を楽しんで自分をブラッシュアップさせようとか

何かを作ったり、書いたり、創造的なことを楽しむ。

そう、たぶん一番のおすすめは

推し活より、買い物より、こども(やペット)より

創作かなぁと。

何か、あなたらしいことをやってみる!

のが良いですね🎵

自分自身の創作やクリエイションに力を注いでいる人は

とても魅力的です。

あー、しかし、これもほどほどに。

夢中になりすぎて、身体を壊しかねませんから(微笑)

何事も良い塩梅が大切ですね。

 

 

さて、話の最初に戻りましょう。

 

もしもあなたが、愛にとことん苦しむタチの人であったら?

恋愛至上主義だったり、恋愛異存だったり

極端な人だったら?

 

もーっ、めちゃくちゃ苦しいですよね。。

わかります。なんでそれから頭が離れないんだ〜って

もう恋愛なんかしたくない!って言いながら繰り返す。

 

でもね、待ってください。

違う角度から考えてみます。

それは、実のところ、

あなたがとことん、創造の力のポテンシャルが高いってことです。

大変!

うわー、その力、ドブに捨ててる場合じゃありません。

そのエネルギーのフォーカス先を間違えないように✨

 

あなたしかできないことが、何かあるはずですね⭐️

 

 

 

写真は放浪時代に訪れた、青森県奥入瀬渓谷です。

早朝が素晴らしく、いいとこだったなぁ✨

 

 

 

それではまたです🎵

 

ありがとうございました!

 

 

 

 

 

今日は水瓶座の新月だそうだ。

 

水瓶座に冥王星が入ったので、まさにこれから時代は変わろうと

している。そう言われている。

そんな渦中での新月。

自分の中で、もー、これは無理だ、変わりたい〜〜〜!!

と思っていることから脱出する時‥ともいえる。

つまり、チャンスである。

 

 

さて、私たちにとって、おそらく

『依存』は最大のテーマだ。

 

お酒やタバコなど嗜好品依存から始まり

買い物依存 ギャンブル依存など

何かの対象に依存する人もいるが

人に依存する人も多い。

 

親に依存、恋人や夫(妻)に依存

子供に依存、ペットに依存

 

一番怖いのは、

自分自身への依存だ。

 

水瓶は自立した人々が同じ理想を持つ同志と歩む星座だ。

そこには、依存はない。

何かに依存している人は、好奇となりうるだろう。

 

 

さて、かくいうワタシの話になるが。

 

このところの最大のテーマだったのは

恋愛である。

いやいや、60すぎて恋愛をしたい❤️という話ではない。

 

しかし、恋愛(セクシャリティー)という創造性に

気持ちが持って行かれていたのだ。困った。。。

というわけで、昨今は、恋愛映画を見まくった。

呼ばれるように。。

おそらく50本以上は見ただろうか。

 

観ているうちに、やっと気づいた。

あぁ、自分は恋愛依存症であったかと。

 

えーーーーーっ?!って、それ今?気づいてどうする??

困り果てた。

もう1度、人生やり直したい。せめてティーンからでいい、泣。

 

 

 

恋愛依存の人格には、それに見合った学びのペアが贈られる。

そう、同じ依存症の人、または、依存という奴隷の形を作るために

支配者という役割が与えられるわけだ。運命によって。

ここはその人の人生の設定による学びなので、絶妙のタイミングで現れる。

 

学びを(依存に気付き脱却を決意する)クリアすればミッションクリア。

次へ。

しかし、この依存関係に気づくのは難しく

情だの、愛と信じているものだの、身体の感覚だのが

ものすごい邪魔をするので、なかなかクリアできない。

いや、至難の業だ。

何度も同じループを繰り返す。相手が変わる場合もあるが、結果は同じだ。

 

このミッションをクリアするのに一生を費やす場合も多々ある。

つまり、ワタシの場合がそれだ、苦笑。

 

恋愛好きであった‥と自負するが、、

まさか、恋愛依存症であったとは。

うーむ。。。

タチの悪いことに、恋愛に敗れた時、対象を変えた。

女性の場合のアルアルであるが。

ワタシの場合は、子供に対象をスイッチした。

なので、恋愛依存症 並びに、子供依存症というレッテルを

ペタペタと並べて貼ることができるというやつだ。

 

 

依存症と響きが悪いが、こういう言い方もできる。

 

いつも王子様を いつか青い鳥を

いつか救世主が現れるのを待っているのだ。

 

しかし、真の救世主は一生見つかることはないだろう。

探し求めている間は。

救世主は、他の誰でもない

自分の内面にいる。

もっといえば、最初からワタシタチが救世主であり

他の誰かを探そうとしても、それはいない。

救世主は幻想であり、錯覚なのだと気づけるか。

 

最初から 何も なかった。

自分の作り出した幻想だったと。

 

き、厳しすぎる。。。

我がことながら、、書いていて、泣きたくなる。。うぅう。。

 

 

とりあえず、気づいたからには、ここを立ち去ろう。

昨夜見た映画で語られたセリフが秀逸だった。

 

「きみは誰も必要としていない」

 

そうだ。

私たちは、誰も必要としていないんだった。

 

最初からひとりで生まれてきた。

誰かといなければならないというのは、幻想であり錯覚であった。

誰もワタシを救ってはくれない。これも経験済みだ。

そうだ。

呪文のように繰り返す。

 

 

ワタシは 誰も 必要としていない

 

 

もがく必要もない。

最初からなかったのだから。

たくさんの思い出を走馬灯のように巡らし

風に流そう。

 

 

 

 

写真は先日の大雪からの雪解け⛄️

 

 

 

皆様にも新月のご加護を✨

 

 

 

 

こんばんは。

60過ぎて田舎で一人暮らしはじめました。

 

先日のことです。

 

河原沿いを愛犬と散歩しておりますと、

遠くに何やら、ひょんひょんと茶色い2匹が歩いて?

いや、ひょんひょん飛んでいる?スキップ?しております。

 

犬?

違うな。身体が大きそうだ。

ん?1匹は大きくて、もう1匹は小さいかな。

 

ま、まさか?!

あれが噂のイノシシ?!

 

 

 

 

 

そうなのでした!

先日、このあたりで耳にしたのを思い出したのでありました。

 

「親子の猪がこのあたり徘徊しているようです、お気をつけて!」と

どこやらの職人さんが言っていたじゃない。

あー、あれは本当の話で、そして、あそこのをひょんひょん歩いているのは

 

イノシシ

 

うわ〜っ

すごい。興奮しました〜。

野生のイノシシ見たの初めてだったもので。

 

なるほど、劇団四季のライオンキングに出てくるイノシシ?

あれと同じような、歩き方。あれって本当だったんだ。

すごい観察されていたんだなぁと感心することしきり。

 

あまりに感動しましたが、、、

殿(愛犬)が吠えかかって猪突猛進キックでも浴びたら大変!

なので、今回は高みの見物ということで堪えておきました。

 

 

 

 

そしてその数日後。

今度は道端に、タヌキさんが。。

 

寝ているのか、倒れているのか、はたまたお亡くなりになったのか。

分かりませんが、足元ですよ?

めっちゃ近い。殿もくんくん匂おうとしたくらいの近さ。

 

いろいろな疑問が飛び交いましたが、いやいや

一礼して急ぎ用事を済ませに立ち去り、

一時間後にまた通りかかった時には、すでにもう

そこにはお姿ありませんでした。

 

それにしても、毛並みが美しく

尻尾がすごーく長かったなぁ。。。

などと、これまたひとしきり。

 

ちなみに、イノシシの方はそういうわけで

遠目からの撮影。何が何だかわからないか。。

ひょんひょん歩きの動画でもあれば。。残念。

そして、タヌキさんの方は美しかったとはいえ

お亡くなりになられていたら撮影は失礼‥ということで

差し控えておきましたのでした。

 

いずれにせよ

都会では決してできない

まさか?!な体験でありました。

感謝。

 

 

 

 

儀式が好きである。

何かこう、緊張感があるというか、気持ち昂るというか。

 

節分の日は儀式がたくさんで、実に盛り上がった。

 

まず確認であるが、節分とは、立春の前日のことである。

立春とは、旧暦の新年その日である。

つまり、節分とは、旧暦でいうところの、大晦日となる。

 

新年を迎えるために、昔の方々は、いろいろな執り行いをした。

今までは家族がいて、なかなかこだわって出来なかったことも

一人だから、自由にできるのさ。

 

ほとんどは、新年を迎えるための邪気ばらいと、

新しい年を無事迎え過ごせるような祈りの儀式だ。

その中で、出来うるポピュラーなものを今年はやってみた。

 

 

⚫︎ 神社参拝

 

先ず、朝起きたら、神社に詣でた。

今年一年の穢れを祓うという意味があるらしい。

実に気分が良かった。

 

 

⚫︎ 散歩

 

節分の日が最後の冬のエネルギーの日とされる。

ちょうど晴れていたので、太陽のエネルギーを燦々といただく。

実に気持ちいい。

 

 

⚫︎ 掃除

 

旧暦の大晦日ということなので、一応、部屋をきれいに掃き清め整える。

鬼門である北東から手をつけるのが良い。そこから右回り。

清々しい心持ちだ。

 

 

⚫︎  神社の豆まきに参加

 

近所に素戔嗚をお祀りしている神社がある。(朝も行ったが)

そこで豆まきがあるというので参加。

小銭や小さいパックの豆が年男からまかれた。

嬉しく頂戴して帰る。

 

 

⚫︎ お風呂に入る

 

禊というまではいかずとも、少しの塩を入れた湯船に浸かる。

この日は、愛犬も久しぶりにお風呂に入れた。

気持ちが穏やかになってゆく。

 

 

⚫︎  太巻きを恵方にむいて食べる

 

今年の恵方は東北東だとか。

携帯のコンパスで見ると、うわ、鬼門とかぶる?!

確かに、そうか。今年は鬼門の一部が恵方なのだとその時知る。

 

太巻きは丸ごと1本、恵方を向いて、ガブリガブリと手掴みで食う。

その時に大事なことは、無言。

食べ切るまではしーっ。。無言で食べ切れば、

1年間の無病息災を約束される‥という慣わしになっている。

 

しかし。。

 

この日、愛犬もこがちょっと席を立った隙に、食べかけの太巻きを狙った。

 

「あーっ、、だめ!!」

 

咄嗟に出てしまった、言葉が。。

チーン。

 

ワタシの無病息災のお約束は確保ならず。。。寂しい。。

気が緩んだ自分が忌まわしい。。笑。

 

 

⚫︎ 豆を年の数だけ食べる

 

と言ってもね〜。

60ですから。ふんっ(鼻息)数えるのもね。。

と思ったけど、数えたらすぐだった。

 

半分はぼりぼり食べて、半分は福茶にしていただくこととした。

 

 

⚫︎ 福茶

 

湯呑みに豆を入れ、そこに熱湯をかけ蒸らす。

少しすると、ハトムギ茶にやや似た香ばしい香りがしてくる。

そうしたら、それを飲み干す。

 

これは簡単! 

無理して食べなくてもいいしね🎵

 

 

 

⚫︎ 豆まき

 

そして最後に豆まきです。

やはり北東から右回りに撒いていきます。

 

鬼は〜外

福は〜内

 

 

地方でも、あまりまいている人はいないみたい。

小さい頃は、近所でみんながまいてる声が聞こえた記憶があるけれども。

 

こうして夜は更け、

立春を迎えるのでありました、まる。

 

A Happy New Year💫

 

皆様にとっても、素晴らしい年になりますように✨

 

 

 

 

 

2024年を迎えたけれど、実際のところ、

立春からが本来の新年のと感じるのは、やはり

謹賀新年と言うのと同じく、それからが銀河新年だということからだ。

 

いろいろと禊多かった昨年ではあったけれど

さらに年明けてからの1月は誠に厳しかったように思う。

能登半島地震にはじまり、なかなかのプロローグだった。

 

そんなこんな鬱々とした日々にも、やっとうっすらと陽がさしてきたな

そう感じたのが、節分あたりだ。

慢性的な陰の毒だしから、静かな抒情詩のような、まだらな晴れ間が

あたたかさを帯びながら感じられてきた。

あぁ、これで何とか、闇から抜けられる時が来たかな‥と。

 

周りを見渡してみると、壮絶な日々を送った人、

環境が変わっていた人、家族によって意識改革が行われた人

体調不良に襲われた人、なんとなくスッキリした人

 

さまざまであるが、一様に言えるのは

頑固親父や、執着婆さん

といった人格が、自分のペルソナから去った

または、去らずにはいられなくなった‥と言う印象だ。

 

固執してきたこと、ずっと握りしめていた

過去の記憶、過去の栄光、過去の傷

良いも悪くもなく、全てもう、いらない。

この先はね‥みたいな。

 

そしてこれからは、もっと自由に。

こだわりなく、オープンに。

今年はそんな風のようにありたいものだ。

なかなか難しいけれども。

 

いや、きっとそうなれるかな。

あなたも「ワタシ」も。

 

 

 

放浪中に訪れた、宮古島の朝陽

 

 

 

久しぶりにブログはじめました。

 

理由はちょっとわからないけれど、書くことで、

自分の半生(これはちょっと大袈裟)を振り返ってみようと

そんなところかもしれない。

 

還暦をすぎてから、怒涛のように人生が変化しました。

というより?

 

ずっと止めていたのは自分だったのかも。

なので、変化を止めていた、重たいオモシを

見て見ぬ振りはやめて、向き合った結果、

あぁ、やっぱり「オモシ」だったのねと気づいた。

それを外しただけ‥だったかもしれない。

 

と言ってもね。

なかなかどうして、ものすごくものすごーく

勇気がいったのでありました。

 

そして、今もなお

後悔は全くないけれど、

心は揺れ動くわけです。

ゆらり、ゆらり〜と。

 

そんな「私』のジャーナルです。

 

 

闇あればこそ、光り輝く💫

 

 

 

 

放浪生活の折に訪れた、美しい宮古島の夜より