『高堂巓古 Officia Blog』 -88ページ目

感覚四十八手 その二十二

 私は時計そのものよりも、時計まわりに興味があるタイプの男なので、滅多に時計というものをしない。陰陽学では、時計まわりのことを陽回転と云ったりするのだけれども、面白いのは時という概念が別々に発達したであろう西洋・東洋、さらには北半球・南半球においても、時というのはせっせと時計まわりにまわる点にある。あれはいったいなんなのだろうか。


草庵とは回転である。


 と昔、茶道の先生に教えていただいたことがある。無論、未だに意味がわからない。しばらく経ってから、再びあれはどういうことだったのでしょうかと野暮なお訊ねをしたのだが、さらに野暮天なことに草庵の回転感覚がやはりまったくわからなかった。言の葉というのは不可思議なもので、統語論的にシンプル&意味論的にわからないものにひどく惹かれるのかもしれない。今でも心にストラップをつけて持ち歩いている言の葉のひとつである。あゝ、閑話休題。

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裡の感覚を軀の外側に。


 これが感覚、つまりはイメジを制するときにおさえておきたいコツである。例えば、よく軸を意識させるのに背骨をまっすぐ!などのアドバイスがいきかっているけれども、あれも背骨の軸感覚を軀の外に置いたほうが、人間というのはまっすぐになるものなのだ。絵に描いた餅に力はないかもしれないが、絵に描いた背骨を自分の傍らにイメジしておく感覚は肝要。同様に、回転感覚でさらに例を挙げておくと、足裏のしたに、つまりは地下に進行方向と同じ回転をおもい描いて歩くと、歩行スピードがあがる。さらには、歩きに静かさがでてくる。兎にも角にも、時とは回転である。しかし、そこにはひと方向の渦しかない。もうひとつのたしかな回転感覚がなければ、やはり人生というものは時計にがんじがらめにされてしまうものなのだろう。