前回のつづきですが・・・
というわけで、生まれて初めて葬儀を行う側になったわけです。
深夜0時頃から葬儀屋さんとの打ち合わせがスタートしました。
告別式やお通夜の時間を決めたり、祭壇の規模を決めたり、これから必要なことをいろいろ聞きました。
葬儀屋さんが帰ってから、すぐに写真(遺影)選びです。
打ち合わせの時、父が「以前に行った葬儀で、スナップ写真を何枚か引き伸ばして、来客の待合室に掲示しているのを見た。あれをやりたい」と言い出したので、そのためのスナップ写真も10枚選ばなければなりません。
これが結構大変でした。
父は写真の思い出にふけり、同じ場所へ行ったときの写真を何枚もチョイスするのですが、10枚という制限がある以上、いろいろな母の様子を選んだほうが良いだろうと、弟と私で止めなければなりません。すると父は「保険証を探さなイカン」と、うろうろし始めます。事故ですから病院は自賠扱いで保険証はいらないのですが、そう説明しても動かずにいられないようです。まぁ、落ち着くのは無理だろうと思ったのでほうっておいたら、今度は私が整理している写真を引っ掻き回す始末。本当に気が動転していたんだろうなぁと思います。
遺影用の写真とスナップ写真10枚を選び、次に葬儀に出席する親族のリストを準備します。焼香順を決めたり、食事の用意をするためのものですから、最終的なものはお通夜の後に整理すればよいのですが、うちは親戚がとっても多いのです。母は7人兄弟、父は5人兄弟ですから、それぞれの兄弟とその配偶者、子供達(私からみるといとこ)が40人近く・・・。それをひととおり洗い出し、お通夜に来てくださったときに告別式への出席と火葬場へ行くか否かを確認しなければなりません。父と弟は仮眠をとりましたが、そういった作業をなんとなく任された私は結局眠らないまま朝を迎えました。
早朝から噂を聞いた近所の人がやってきます。よく朝の散歩で一緒になるという人が「玄関が空いてるから起きてるかと思って声かけた~」と何も知らずにいらっしゃったときは、どう説明してよいやら・・・。
次に私がするのは喪服を探すことです。「まぁ、喪服が必要になったらお母さんに聞けば良いや」と実家に置きっぱなしでした。他の着物の場所はだいたいわかるのですが、喪服は母にまかせっきりだったので、どのあたりにあるかさえわからないのです。多分2階の六畳間か三畳の小部屋だと思うのですが、行ってみるとそこは倉庫と化していました。母はボランティアで古着を海外へ送ったりしていたので、その溜まった衣類やどこからか貰ってきたらしい雑多なもので埋まっているのです。予想はしていましたが、手をつけることもできず喪服は断念しました。葬儀屋さんとの打ち合わせのとき、喪服のレンタルもあると聞いていたのでそれで済ますことにしました。真夏なので後のクリーニング代を考えるとその方が良いかもしれません。
バタバタしているところへ、事故の加害者の方が保険屋さんと一緒に来ました。ちょうど父と弟はお寺に葬儀の打ち合わせに行っていたので、叔母と二人で迎えました。不注意とはいえ事故ですから、いまさら加害者を責めても仕方ないと思ってはいるのですが、彼女が手を合わせて謝罪の言葉を母にかけるのをみていると、「あぁ、この人さえもっと注意していたら、母は死ななかったのに」という思いがこみ上げて、どうすることもできません。ちょうど電話がかかってきて出たのですが、声が震えて半分嗚咽のようになってしまいました。
いてほしくなかったので「今、あわただしいので、これで・・・」と帰るように促したのですが、「お父様にご挨拶を」と言うので、叔母に任せて私は台所へ引っ込むことにしました。そのときが一番、私の感情が震えたときだと思います。父と弟が戻り、少し話をしてから彼女は帰りました。
それから葬儀屋さんが来て湯灌をし、白装束に着替えさせてくれました。湯灌の時は、そこにいる親族がひとりずつ”ひしゃく”を左手に持って逆手に湯を少しずつかけます。宗派によって違うのかもしれませんが、子供の頃ひしゃくを逆手に使おうとして叱られたことを思い出しました。
皆で般若心経を唱えてこの家との最後のお別れをし、棺に納めて斎場へ出発しました。
なんか、こんな話読んで誰がおもしろいんだろうと思い始めてしまいました。やっぱり、やめておけば良かったかも。でも、途中でやめるのも何なので、以降はもっとあっさり書こうと思います。できるかどうかは別にして。
では、また、つづきは次回に。