何しろ、歌が難しい。「エリザベート」のリーヴァイさん。幕開けに主人公の私、の歌があるのだけれど、聞いているだけで難しそう。しかし、キャスト全員が歌いこなしていて、耳が幸せでした。しかも、物語の進行がミステリアスで、どうなっていくのかと、身も心も釘付けになり、体が緊張して、休憩時間には体が痛かったです。

 

 それだけ、歌も、芝居も白熱していました。

昨日は、朝月希和さんが私で、ダンヴァース夫人が霧矢大夢さん。

 

 朝月さんは、庶民階級の気後れしがちの慎ましい、夢見がちな21歳。希和さんのキャラにドンピシャはまって、見知らぬお屋敷に放り込まれた切ない、不安な気持ちがずんずんと伝わってきました。

 

 海宝さんは、もう、上流階級の中年の紳士、気品があって、しかも複雑な過去に混乱した神経の持ち主を細やかに表現していました。

 さて、物語の要のお役。ダンヴァース夫人。霧矢さんのお歌は久しぶりだったのだけれど、これが圧巻の凄さ。鬼気迫る熱演。このこのダンヴァース夫人の亡くなったレベッカへの偏愛が見どころなんですけれど、朗々たる声が劇場中に響き渡り、恐怖のどん底に引きずり込まれました。改めて霧矢さんの実力を感じました。wの明日海さんが演じたらどうなるのかな、凄く見たくなりました。

 

 今回の公演は、Wが明日海りおさんで、マキシムさんのお姉さんが彩乃かなみさんで、月組三人。雪組の朝月さん、アンサンブルに彩花まりさん、宙組で、なんか、親近感がありました。宝塚OGの実力をまざまざと実感した舞台でありました。

 

 

 

 

 強権主義の国で、不当に逮捕され、屈辱的な拷問を受けた中年の男ワヒド、家庭は破壊され、妻は自殺に追い込まれてしまった。ある日、偶然に拷問を指示した義足の看守を見つける。

 

 恨み骨髄に達っしているワヒドは、元看守を捕まえて、砂漠に生き埋めにしようとするが、男は人違いだと主張する。果たしてその男がその看守なのか確信が持てない。拷問時には目隠しされていたからだ。

 

 そこで、ワヒドは、彼を箱に閉じ込めて車に乗せ、当時一緒に拷問された仲間を訪れて、面通しさせる。その一人一人の反応が見どころだ。 

かっての仲間たちは、屈辱と恐怖と暴力の体験が蘇り、果たして本人なのか確かめるために、数人が車に乗り込む。

 

 皆で確証を求めて町を漂流しているうちに、元看守の子供から電話が来て、臨月の母親が倒れたと泣いている。そこで、なんと、かれらは助けに行くのである。

 元看守に対する、憎悪と、怨嗟で殺気だった人々がここいら辺りから、変身していく。サスペンスタッチの雰囲気がなんとなくコミカルになっていく。

 

 元看守の家に行き、妻の妊婦と子供を病院に運び、無事出産のお祝いまで買ってきて人々に配ったりする。ワヒドは、元看守を生き埋めにする気持ちが薄まってしまう。

 復讐に燃える殺気だった人々が元看守の妻の出産を手助けするうちに人の心を取り戻して、元看守を殺さず、放免してしまう。

 そんな善意が最後に破滅の方向へと導いてしまう。

 

 庶民の人の好さの一方で、元看守は自分を監禁した庶民を許さない。ジャベール刑事のようにラストはワヒドたちを追い詰めてる。国家権力、そこで利権を手にしている官僚の、その冷徹、酷薄さを描いて終わる。

 

 権力は非情なのだ。自身の権威を守るために暴力を使って、情け容赦なく民衆を叩き潰す。

 

パナヒ監督が実際に投獄された経験をもとに作られた作品だが、単に告発するだけでなく、客観性があり、ユーモアを交えて語っていく手際が見事である。人間洞察の深さを感じる。

 

 

 

 八年前、濱田めぐみさんの初演を見て、きれい、美しい、素敵と、大感激して、今回、朝夏まなとさんがメリーになるというので、ドキドキしながら、3月31日に見に行きました。

 

 その時の感想は、ブログに書きました。戯曲がもつ本質的な世界観みたいなのを、書いてみました。今回は、もっと別の面から書きますね。

 

3 月の時は、始まって間もなくだったし、席は一階でした。初演時に感じた舞台のすてき感が薄かったのですが、二回目は6日のブラ見ちゃん貸し切りの日。

 今回は二階席真ん中あたりで見たら、あのすてき感が戻って来て、それも、何倍も拡大して素敵が迫ってきました。

 二階席だと、舞台の奥まで俯瞰して見れて、奥の方でアンサンブルさんが歩いたり、芝居したりが見えるし、煙突屋さんたちのフォーメイションがリアルにわかるんです。照明の動きも体感として、感じられる。舞台との一体感が半端なかった。

 

 そして、二回目は、まぁ様を落ち着いて見られるのです。このシーンが終わったら、あのシーンとか、ワクワク感もあって、ウキウキしてしまう。

 そして、お歌が素晴らしくって、数年前は少し、心配するときもあったのですが、このメリーさんの難しいお歌。見事に歌いこなしていたことも、嬉しさ万倍でした。バードウーマンとのデュエットには涙が浮かび、ひばりのカルーソーみたいな高音のきれいさにびっくりしました。

 まぁ様のストイックな努力、鍛錬、修練、訓練、精進にいそしんだのだろうと、胸が篤くなりした。

 お休み中でも、ボイトレに行っているのではないかしら。凄いです。

 

 まぁ様メリーは立ち姿は、美しく、踊りはキレキレ。心根は優しくって、 人の気持ちになって、物事を判断するし、てきぱきとハンサムウーマンで、実際のまぁ様の姿が重なります。

 

 夜空に飛んで行ったメリーさん、二階席の私の真上を慈愛に満ちたほほえみを浮かべて飛んでいきました。

 

 また戻ってきてくださいね、welcomeで待っていますよ。

 

 

 

 イギリスの寂れた元炭鉱町、住民は生活に困っている人が多い。びっくりするのだけれど、食べるものにも事欠いて、食事を十分にとれない人がいるようなところだ。貧困が蔓延している。

 年齢のいった元炭鉱夫たちは「オールドオーク」という古い酒場で昼からビールを飲んでいる。

 

 そこにシリアからの難民一家が政府から指定されたのだろう、古いアパートにやってくる。

母親と、四人の子供、年長の娘は20歳前くらい。

酒場の老人たちは、むき出しの敵意を移民一家に向ける。

 

 

 ケンローチ監督の作品は人々の描写が写実的で、リアルだ。一人一人が寂れた街で懸命に生活しているさまが手に取るように描写されていて、切なさが身に染みる。

 

 これは、脚本おいて、会話がきちんと書かれているからだし、切なさを抱えて生きている人々への心の共感が深いのだ。

 差別的な老人たちの言葉は辛辣だけれど、喪失したプライドが弱者への攻撃に変わる心情を鋭く描く。

 

 唯一の家族である愛犬を失ったオーナーが、海辺で埋葬するシーンは彼の孤独が切々と伝わる。そのことを知った移民の少女がカメラを直してもらったお礼に食べ物を持って母親とやって来て慰める。其処から交流が深まっていくのだが、酒場の客たちはそこが気にいらなくて悪意を向ける。

 

 差別や偏見は、不安や未来への希望のなさから生まれ、他人を傷つけることで自分の絶望を目くらましする。つかの間に留飲を下げても、むなしいのに。

 差別する方も、辛い人生を生きている。酒場のオーナーは、共に生きる場所を作ろうと、住民と、移民一家を一緒にして、大人食堂を思いつく。辛い者同士が食材を持ち寄って、料理を作って、食卓を囲む。

 

 それが縁になって、町の人々の移民一家へ思いが変わる。一家の父親の葬儀には沢山の町の人がお弔いの品々を持って、弔問に来る。後から後から列をなすシーンははあり得ないとは思う。それほど簡単に人の意識は変わらない。

 

 しかし、ケンローチは、差別や偏見を乗り超えるには人との触れ合いが、その第一歩である。そうあって欲しいという願いを込めたのだろう。理想的過ぎるという批判を受けようともだ。

 

 

 

 

 

 

大変にわかりにくい作品で、映画を見た後、3日間考え続けて、やっと自分なりにたどり着いた考えを綴ります。

ポイントは二つ

 

 地球は、気候変動にせいで、世界規模で終末を迎えている。人々はそれにおびえている。明日は我が身が終わる。いや、そんなことは言っていられない。今すぐかもしれない。夜空では星たちが消えていく。

 不穏な空気が漂う世界に、「サンキュー、チャック」の明るげな画像が町中に流される。チャックは笑顔で満足そうだ。分けが分からなくて混乱するのは、住民も、観客も一緒だ。

 

 次のシーンでは、中年のチャックが、大道でたたかれるドラムスに喚起されて、ダンスを踊り始める。会社員風の風貌には似合わない華麗なステップ、見物の女性をパートナーにして踊って、見物のやんやの喝采を浴びる。凄く満足そうで楽しそうだ。観客は、「なにこれ?」状態、キツネに包まれる。

 そして、前後関係はあやふやだが、家族に囲まれて死期を迎えるチャックが描かれる。

 

 三章として、子供時代のチャック。父と妹が不慮の事故で亡くなってしまった7歳か8歳のチャック。

 彼はダンスに興味を持って、学校の部活で踊り始め、凄い才能で一目置かれる。その頃、祖母が不意になくなる。家の中に開かずの間があり、祖父は見てはならないと厳命する?。将来はダンサーになりたいと祖父に言うが、祖父は数学の面白さを語り、自分と同じ会計士を薦める。

 高校生になると、祖父は亡くなり、チャックは親戚の家に移る際、家を壊すのだが、あの秘密の部屋に入る。

そこで彼は見る。自分の死の瞬間を。観客は、家族に囲まれて死期を迎える自分の映像を高校生の時に、チャックが観たことを知る。

 

 ここで、一つの推測が生まれる。

① 高校生のチャックは自分の死に時を知ってしまった。それを知りながら、ダンサーの夢を封印して大人になったチャックは会計士になり、幸せな家庭を築く。大人になったチャックが楽し気に街角のダンスシーンが結びつく。

 そこで、「生きる」の志村喬が頭に浮かんだ。

 市役所の役人である志村喬は、当時は死の病だった癌の宣告を受ける。絶望して自暴自棄になるが、思い直して、市役所の仕事として、市民公園を作ることに全力を捧げるのだ。

 

ここで、思考がたどり着くのは。映画のメッセージは、死期を知りながらも、思いっきり生きること。

これは破滅の日を迎えた地球人も同じだ。思いっきり生きること。人の生きる時間は限られているのは誰も同じなのだから。

 

すると、このメッセージの根拠はどこから引き出されたのか。

②宇宙の調和 あるいは天球の音楽

この作品では、やたら、星空のシーンが出て来る。宇宙的規模の広大な星空が終末期にも、チャックの子供時代にも。何だろうと考えてある理論を思い出した。

 

 ピタゴラスやプラトンは宇宙、星の運航は数学的に調和していて、惑星の運動は美しいハーモニーを奏でている。宇宙はすべて、数学的に秩序だって調和している。ケプラーに受け継がれて神秘思想として、ヨーロッパキリスト者世界に広まった。(バッハは音楽的に楽譜として刻んだ)

 

 そこで、①と②を組み合わせて考える。

 

 最後を迎えている地球も宇宙の星の一つである。滅亡していくのは人類の環境破壊による、自らが招いた結末である。宇宙の調和を乱した故の必然の消滅なのだ。それを甘んじて受け入れるしかない。

 その終末まで、若くして死ぬ時期を知ったチャックのように、心して、自分らしく生きていくことだ。映像のチャックの笑顔は、達観しているからなのだ。「生きる」の志村喬の生き方もそうだ。与えられた時間の中で精一杯生きること。

 チャックが数字を扱う会計士になったのは宇宙を数の論理で動いていることを象徴しているのだ。無べなるかなである。

 

 この作品は神秘思想がベースにある。だから、オカルティックなのはそのゆえんなのである。

 

 それにしても、分かりにくい。というか、見る人を選ぶよね。皆さん、頭ひねりながら、ぽかんとして、映画館をあとにするだろう。

 見る人によって様々な見方があるし、解釈が出来上がる。でも、分かりにくい、なんでチャックの映像が現われたのかなあ。

天球の音楽をいうなら、チャックはダンサーではなく、音楽家にすべきなんだけどなあ。

 

 

 

 唐十郎が目指した演劇は、論理的な言葉で構築した劇世界をぶち壊すことだ。論理と、計算で作られた戯曲の構造を破壊することだ。なので、論理的にストーリーを辿ることは徒労である。

 

 今回はパチンコ台の真ん中に設置されていて、大量の出珠があるチューリップが妄想の出発点。それは大概、赤い色でできているのだが舞台では黒いチューリップに設定されている。

その黒いチューリップから湧き出したイメージに、いつものように、感覚的にひらめいた言葉をランダムにくっつけて、コラージュして、虚実皮膜の劇的世界を作りあげる。

 発せられる言葉に何の意味があるかと、問いかけても、答えは各人各様で、そこが開かれた演劇である所以であるので、各人は、展開についていけなくなりながら、必死で煌びやかで猥雑なセリフに翻弄される喜びを感じてかれの芝居に足を運ぶ。

 

 金守珍の演出は随分と、派手に役者のパフォーマンスを取り入れていると思う。天井からつり下がった布のアクロバットとかは唐十郎演出にあったかどうか定かではないが、言葉以外にマスでのドタバタ芝居を取り入れたように思える。

 この作品は作者の狙いがよくわからないので、言葉のイメージだけでは面白くないと思ったのではないだろうか。

 その分、楽しくみられるので、観客は退屈しない。

 

 

黒いチューリップはこの世には存在しない、それを咲かせようとした女は、三角関係の恋愛をこじらせて居なくなってしまう。その彼女を妹が探し出そうと奔走する物語。迷宮にはまってしまいそうでも、ラストは極楽浄土のような、美の世界で終わる。

 

観客は散々翻弄された挙句、最後は、目出度しめでたし風になり、混乱のままにあいまいな苦笑いを浮かべて、テントを出ていく。お祭りの後の寂寥感を抱えながらネオン瞬く新宿の夜の雑踏の中にまぎれながら家に帰る。

 

 これって、まさしく芝居のだいご味だろう。

 

 

 

 江端瀧昌さんを、堅物という言い方でおしまいにしては彼の本質を表せていない。彼は、人間不信、分離不安を抱えているのだ。さらに、父親を尊敬してやまない、父親のようになりたいというファザーコンプレックスの人なのである。

 

 海軍軍人の父親は海難事故で亡くなり、母親も後を追うように亡くなる。そして、預けられた親戚から理不尽な虐待受ける。

 この生い立ちが、遊びには目もくれず、軍人であることのみに精魂を傾ける人間になっている。つまり、自分を守るために、自分の周りに軍人という殻を作って、その中で息を殺して生きている。

 

 その孤独な心がお見合いではあるけれど、天真爛漫ななつ実さんに出会って、人を愛する心を知り、中途で失ったが故に、心の奥底で求めていた家族に巡り合うのです。指輪を重ねた二人の本当に幸せそうな笑顔。良かったねとこちらも笑顔になります。

 

 そう、この物語は瀧昌さんの再生の旅路を辿る物語なのであります。

 

 脚本の小柳菜穂子さんは今回も良い仕事をなさっています。原作の意図と、原作ファンの心をしっかりと掬い上げ、ミュージカルに仕立てています。狂言回しに芸子さんの講釈を使い、昭和初期歌謡を流して、時代感をだしていて、そのアイディアが卓越しています。

 扱う時代や軍人家族の話なので、作品が軍国主義風になることが心配だったけれど、お国のためというセりフを言わせることもなかった。時代ゆえに軍歌も二、三曲あったけれど過剰に軍国主義になることはなかった。

 

 千人針を集める婦人たちを登場させたり、銃後の守りを押し付けられる軍人の妻の姿を描きこそすれ、戦いに行って、帰ってこなくなる不安を吐露するエピソードを描いている。戦争をすることからくる悲劇、家族の分断を描いています。

 

 雪組の皆さんの芝居力が感じられる舞台でした。

 

 瀧昌さんの朝美絢さんのコメディセンスの良さ。シリアスと、八ちゃけぶりのバランス感覚が、素晴らしい。美がそれに加わって無敵の存在感であります。頻繁になされる瞬きが、心の動揺を表していて印象的でした。

 

 音彩唯さんも一途で愛らしくって、歌も素晴らしい。華純さんの芸達者ぶり、歌もすごい。そのほか麻花すわんさん、まるっきり知りませんでしたが、演技力凄すぎ。瀬田さんを演じた咲城さんもいつのまにか存在感出てきましたね。縣千さんはスタイル抜群が今更ながら思い知らされました。

 

 戦争する国になろとする昨今の社会を考えれば、この時代を扱うには注意が必要であると思います。もう少し戦争の悲劇性を盛り込んでも良かったかなという思いはします。

 

 ですが、きりっとお話はまとまっていて、別箱公演はよき作品が沢山ですね。

 

 

 

 配信観ていて,エキサイティングな展開に、のめりこみました。シュールレアリストの画家をシュールな舞台で作り上げました。

 ダリの伝記と晩年の孤独、愛する妻ガラとの濃密な関係を緻密な構成で見せてくれました。

 

 設定がユニーク。老いた画家が、亡くなった妻が支配するに世界に入り込んで、過去の自分と対面し、再び、絵を描く力を得ていく。其処には彼の描いた人や物が溢れていて舞台がにぎやかにファンタジックに躍動する。時計の針たちが踊って歌うのもアイディア最高。

 この世界は妖精の化身であるタカラジェンヌであればこそ作れるのだと思う。煌びやかでありながらのノーブルさ。

 

 谷貴矢さんは「元禄バロックロック」とか、「エンジェリックフライ」とか、キラキラは良いけれど、物語が散漫なので、期待していなかったのですが今回は、素晴らしい作品になっていて、見直しましたね。

 谷さんの作風がダリの作風にマッチしていて、きっと、密かに舞台化を狙っていたのでしょう。見ごたえのある作品に仕上がりました。

 

 演出家の構想を、役者たちが、創意工夫して、肉体化していて、舞台の上で実現していました。。

 先ずは瀬央さんのダリ。それほど奇天烈ではなく、温かみのある可愛い感じになっていて、応援したくなる愛らしいキャラ。瀬央さんの人柄でしょうね。美しいイケオジさんが居ました。

 

 そして、なんといっても輝月ゆうまさんのガラ。出てきたときのカリスマ性が、ものすごい。圧倒的な存在感、目の使い方がもう、名題の役者です。傲慢な存在でありながら、夫の作品の贋作を指摘されたときの動揺する人間ぽいところとか、キャスティングがばっちりはまりました。、演出家も最初から彼女だあと、心に決めていたのではないかな。

 

 そして、星沢ありささん、研5くらい?美しく堂々としていて、ほんとに、宝塚全体で娘役さんたちの才能の高さに驚かされます。

 ナルシスの華世京さん、キラキラで、しっかり存在感あって、素敵でしたね。

 

 

来週は「夫婦日和、、、」ライブビューイング、楽しい四月であります。

 

 

 

 

 前半では,シェイクスピアの妻、アグネスの魔女的描写に力を入れすぎた感じで面食らうが、後半は見事な人生における芸術の持つ力を描いている。

 アグネスは、森を自分のホームグラウンドにしたような生き方をしている。

森に分け入って、鷹匠のように鳥を操り、薬草を集めて薬を煎じる。未来を予知し、陣痛が起きると、森に行って木々に囲まれて出産する。

どう考えても魔女である。シェイクスピアの妻は魔女だったという言い伝えでもあるのだろうか。

その延々と続くシーンと、中盤から後半の展開がかみ合っていないが、映像は美しく寒村の生活描写はリアルである。

 

 夫は芝居にかまけてロンドンに行ってしまい、その間、子供たちを一人で育てていくが、双子の子供がぺストに罹り、獅子奮迅の働きむなしく男の子のハムネットは亡くなり、彼女は不在であったシェイクスピアが許せない。泣きながら彼を責め、なじる。その後彼女は何年も喪失感から抜け出せない。

 時が経って、アグネスはロンドンへ行って、夫の芝居、「ハムレット」を見る。再現されたグローブ座のセットが見ものだ。

そこで初めて、息子を失った夫の心根を知る。

 

 子供の名前はハムネット、当時は同じ名前として、認識されていたらしい。

夫はハムレットの父親の亡霊に扮し、悔恨の思いをセリフとして語る。そして、舞台上で述べられるハムレットのセリフは子供への思いをシェイクスピアが重ねたうえで、描いている。舞台上のハムレットは子供のハムネットの生き返りなのだ。

 

 それがわかって、アグネスは夫を赦し、亡くなった我が子ハムネットは芝居の中で永遠の命を生きていることを知るのだ。

 

 

 生活者としては頼りなく、うつけ者であったシェイクスピアの芸術家としての真価が最後に表現され、「ハムレット」という戯曲の誕生秘話のような形で物語が閉じる。

 

個人的な体験を昇華させ、作品として、世の中に知らしめる、芸術家としての、シェイクスピアの偉大さが知れるのだ。

 

 第二次世界大戦後、日本から独立した韓国は、すぐさま世界の共産主義と、資本主義の対立に巻き込まれ、アメリカとソ連により、国土が二分されるに陥った。

そうした時代に済州島で起きたジェノサイド事件。三万人もの島民が殺されたという。秘密にされていたために、全貌は未だ解明されていない。

 

 緻密に構成されたシナリオ、演出で、島の悲劇を世界に知らしめている。歴史的事件をエンタメ映画に仕立てる韓国映画の特技をこの作品も踏襲している。

 

 シナリオ、演出、周到に準備され、考えられているが、少々、自己都合的に物語が進んでいって鼻白むことがあるが、訴える力は強い。

 

 縦糸として、若い母親と、6歳の娘の逃避行を置く。其処に、共産主義を支持する住民ゲリラと、政府の反共討伐隊を絡めて、ハラハラドキドキ感を醸し出しながら、島民の悲劇を映していく。

 

 山に逃れた住民ゲリラを始末するために、海辺に住民を集めるが、疑心暗鬼の政府軍は女子供も含めて住民を虐殺していく。

家も焼きつくすので、住民も山に逃れる。

 子供や老人は殺すはずはないと思って、母親は娘と義母を村に残すが、政府軍の無慈悲な集団殺戮にあって、6歳のヘセンだけが生き残る。

ヘセンは母を探しに山へ入る。村が襲われたと知って母親は仲間と離れて娘を探しに行く。

 

 政府軍は非道で暴力的で、拷問も、虐殺も平然とやってのけ悪魔のようなグループ。ゲリラも命を軽んじている。その中で二人は見つからずに巡り合えるのか。

 山には動物や山犬もいる。薄暗い、道もないような山道を食べ物もなく歩いたり、足を滑らしたり、ちょっと大衆映画的な趣向を入れすぎながら、感情移入してみてしまう。

 

 恐ろしい体験をしても、母を求めて山を登るヘヨンちゃんが切ない。母親の母性も切ないし。結局巡り合って、政府軍に巡り会わないように逃げていくのだが、蜘蛛の巣のような枝分かれした洞窟をいつの間にかろうそくなんか灯して、難行苦行で歩いていくあたりも、御都合主義で、やりすぎ感ありありなのだが、結局最後は、涙のエンディングに感激してしまう。

 

 良く出来ています。政府軍の兵士の中にも良心的な青年の懐疑心を入れたりして、悪役だけにしていない。演出、撮影の力量に感心しました。エンタメだろうと何だろうと、観客を動員し、済州島の悲劇を世間に知らしめたのだから。