生田作品はオリジナルは盛り上げられなくて、尻切れトンボになるのが常ですが、原作物はやはり素晴らしい仕上り。

 所々で原作にある、歌うようなセリフを言わせたりして、原作戯曲を熱愛しているのがよくわかります。

 

 美術品のように張り巡らされたレトリックの美しいセリフ劇を、舞台装置をダイナミックに動かして、テンポとスペクタクル化して構築して見せました。 力技でした。 時代のレトロ感が幕開きから終幕まで、幻想的なしかも、芝居がかった大仰さが蔓延する世界を楽しむことができました。

 

そもそも三島の「黒蜥蜴は」嘘っぽいのですね。あんな女盗賊なんていないし、誘拐トリックなんて笑えるし、美青年美女の館も、面白過ぎる。一歩間違えば、笑ってしまう芝居なのであります。

 

 明智や黒蜥蜴、雨宮、早苗さんたちの思いは、それぞれ勝手な自己愛から発せられる自己中心的な妄想に近い自己中心的で絡み合っていない。其処が三島流観念劇の面白さであります。

 

 なので、宝塚的には、画期的な芝居であります。こんなラブロマンスは見たことないです。生徒の皆さんは見事に三島の世界を作り上げました。

 普段口にしたこともない装飾的なセリフを見事にこなした、春乃さくらさんが凄すぎる。

それを受けている桜木さんの存在感、食われることなく主役として影りある明智小五郎が存在してました。

 

 役として、ふくらませてある雨宮の在り方。原作ではわき役なのに、自己愛強い、観念としての愛に生きる青年をじっとり湿って、しかも美しく作り上げました。しっかり主役トリオになっていて、水美さんのスター性が見事でしたし、生田先生が上手く作ったなあと、思いました。

 

 以下、私と「黒蜥蜴」について。

私は丸山(当時)明宏さんの黒蜥蜴初演を高校生の頃、渋谷の東横劇場で見ておりまして、この作品に感激して、一部セリフを真似したりしていました。映画版も見ましたね。しばし、黒蜥蜴中毒になった過去があります。

それ以前にテレビの舞台中継で水谷八重子の黒蜥蜴も見てたりして、縁が深いのです。

 

その後、春野すみれさんが花組で上演された頃に、麻実れいさんが演じて、ターコさんファンの私は見に行って比較したりしてました。

 

 そして、数年前の日生劇場で、デビットルボー演出中谷美紀さんの「黒蜥蜴」見たりして。この時「青い亀」で朝海ひかるさんが出ていたので見にいったのですが。

 

色々見ていますが、華麗さ、豪華さは、今回の宝塚版が一番ですね。何しろ人が多いし、ミュージカルだし、美しかった。本当に楽しめました。

 宝塚の底力を感じました。

 

 

 物語は1945年、ナチスドイツが降伏する時期に展開する。

デンマークに近い北ドイツにある美しい島アムルム島。12歳の少年、ナニングは、身重の母親と、弟、妹、叔母と暮らしている。

 

 敗戦寸前のドイツは、食べ物も乏しく、ナニングも近所の農家の仕事を手伝って、芋やミルクを報酬としてもらって食料の足しにしている。

 父親はナチス党員で、戦地で戦って不在。母親はゴリゴリのナチス信奉者だ。

 

 「戦争は終わる」という言葉を聞いたと、ナニングが食事の際に漏らした時、母親は反ナチス的だとして激怒する。言った人間が手伝っている農家と決めつけて、その農家を地域のナチスの事務所に密告しに行く。

 そんな母親が四月30日、ヒトラーが自殺したと聞いた時、衝撃のあまり、破水してしまう。

子どもは生まれたのだが、母親は、こんな道徳もない時代に子供を育てる意味はあるのかと、食事を拒否してしまう。

 

 ナニングは、母が言った言葉「白いパンと、バターとハチミツがあれば、食べられる」を聞いて、その三品を調達しようとして、島を駆け巡って孤軍奮闘する。母親の為に、ひたむきに健闘する姿が見どころなのだが、それによって、島に住む人々の生活の在り様が語られていく。

 

 彼が行く先々では美しい島の自然が次々に映し出される。広大な砂州、生き物がうごめく干潟、高い木がほとんどない草地。広い空を飛翔する鳥たち、。作者のいとおしむような島の描写のあれこれが胸を打つ。

 

 島はただ美しいばかりではない、村びとや子供たちが疎開者や、引揚者を疎外している島の閉鎖性も描かれる。

ナニング一家も外来者だった。美しい島での日々の生活でありながらも、全体主義体制の不穏な空気が映画全体に漂っている。

 

 結局、一家は捕虜になった父親の意向もあって、島を出ていくのだが、ラストシーンはおまけのように、夕日に輝く島を見つめる老人の姿で終わる。

 そう、長じたナニングの回想録なのだ。

 

 

 身分制社会を憎み、ナポレオンのように英雄になりたかった製材所の子せがれジュリアン。

 才知あるがゆえに、自己愛強く、膨れ上がる自己有能感に有頂天になった青年の強い上昇志向。その一方で、弱気と不安を他者への攻撃性で抑え込んでいる。

 

 社会を手玉に取るつもりで思い切った行動に出るが、コントロールできない甘さ、自身の激情にあおられて、自滅してしまう。

 スタンダールの生んだジュリアンソレルは、いつの時代にもいる、自分を誤ってしまった永遠の青年。

 

 そんなジュリアンを、侑希大弥さんは、生き生きと、しかも、いままでのように、野心に満ちた、他人を踏みつけにしてものし上がるという嫌みな意志を持った青年ではなく、「大丈夫なの、ジュリアン」と心配になってしまうような危なっかしいさを抱えた青年に作り上げました。どこにでもいるような、もろいのに突っ張った男の子で、ナイーブ青年。

 

 特に、パリへ行って、マチルドに言い寄られて、部屋へ忍びこむシーンでは、疑心暗鬼、騙されて笑いものになるのではないかと恐怖心に駆られてピストルもって出かけるところなんぞ、スリリングである同時に、微笑ましかったりする。

 下手すれば喜劇になってしまうのに、そうならないのは卓抜な演出と精緻な演技のおかげでしょう。

 

 ジュリアンソレルと言えば、その輝ける美貌、誰もが恋してしまうような美しさがなければこの物語は成立しないのだが、大弥君は、きりっとした身のこなし、危険な眼差しで女性たちはもちろん、男たちも、心穏やかにはいられない。

 

 特に、くるくる変わる口元や目元、表情演技の豊かさが見事でした。上目遣いの眼は、かっての世界の恋人アランドロンの、危険な眼差しを思い浮かべました。

 

それにしても、柴田先生の脚本の見事さ、長ーい心理小説を、テンポよく、つかみよく、登場人物をいっぱい作って、にぎやかに、色っぽく展開していきました。

 若手中心の配役、女性陣が特に良かったです。フーケの真瑠さん、コラゾフの夏希さん、存在感ありました。フィナーレで三人で横ジャンプがそろって高いのでにニッコリしてしまった。

 

 大弥君は、舞姫の馳芳次郎とか、リーフィーの大工のレオとか、ものすごく印象に残っていて、素敵な演技派だなあと、思っていました。サキュバスの妖艶な悪魔のパンチ力、ケストナーの手堅さ、梶原景時の重厚さ、演技の幅広いですね。感心します。

 

そして、びっくりのルドルフ、新人時代の大弥君に教えてあげたいですね。何年かしたらルドルフだよって。

 

 

 

 

 

 

 

 内向的で、自分を表現できない高校生、エヴァン。7歳の時両親は離婚して、母親は仕事と勉強で留守がちの経済的困難家族だ。

 学校でも無視されて、友達がいなくて孤独で辛い日々の中にいる時、彼と同様にはみ出し者の問題児、コナーが自殺してしまった。

 

 エヴァンから取り上げたレポートをポケットに入れたまま亡くなったコナー。少しも接点がなかったコナーとエヴァンなのに、息子の死を嘆く両親は、二人は親友だったと誤解する。その誤解を解かないままに二人は友だちだったと嘘をついてしまう。

 

 密かに焦がれていたゾーイはコナーの妹だったし、豪華な家で豪華な食事を振舞われ、優しく待遇してくれるるうちに、コナーの家は、自分が生きるべき本当の家庭だったのではないかのよう思えてえてくる。

 この幸せを逃がしたくない、失くしたくないと心が望んでいるうちに、求められるままに語るほら話は、全くの空想なのだが、コナーとの友情の思い出はエヴァンが夢見た友情の姿であり、実際にあった事実と思えてくるのだった。

 

 コナーの自殺は高校生にとって大きな事件で学校中が大騒動になる。あの問題児のコナーとエヴァンが親友だなんて、びっくりの大事件。学校中が大騒動になり、今まで無視されていたエバンは時の人となる。

 みんなが声をかけて来る。もう孤独で一人ぼっちの自分じゃない、かってない喜びに有頂天になる。「コナーを忘れない」プロジェクトも立ち上がりネットも巻き込んで、学校外の世界でも、彼は有名人になる。

 

 でっち上げ話なので、次第に嘘が露見してくる。学校でも、ネットでも、つじつまが合わないと誰かが言ってくる。

 一介の高校生の事件ではなく、地域社会を巻き込んでの捏造事件であり、下手をすれば犯罪だ。恋人になったゾーイとも、両親の愛情も裏切ることになる。すべてがおしまいだ。葛藤するエヴァン。追い詰められるエヴァン、葛藤の果てに、彼は嘘だったと告白する。

 

 だがしかし、芝居はバッドエンドにはしなかった。例えば、自暴自棄になって、失踪する。学校に火をつける、銃を乱射するとかで、終わりにしなかった。

 

 感動を誘いながら青年の成長物語、人生の最初のつまずきという未来志向で終わる。

この結末は「ワシントンの桜の木」の国だなあと思う。正直に言うこと、勇気を出して事実を明らかにすること。だから、すべてを失ったエヴァンでも、惨めにはしない。前を見て生きる明るいラストになっている。

 

 よくこのテーマでミュージカルに仕立て上げたと思う。脚本、演出が素晴らしい。そして、歌が難しい。ロック調であるのだが、日本語にうまく乗せるのが大変だし、心理表現が中心なので、きっちり言葉を伝えなくてはならない。皆さん歌いこなしていました。

 特に柿澤勇人さんの、縦横無碍な自由自在の歌唱力。性格障害みたいなひしゃげた肢体の前半のエヴァンから、次第に自信を持っていく後半まで、全霊を注ぎ込んだ演技はもう、万雷の拍手を浴びていました。

 

 

 

1990年代、サダムフセインが大統領のイラク。

 

 フセインは圧倒的独裁者で、一部特権階級だけで富を分け合い、庶民生活は窮乏を極める。フセインの仕掛けた戦争で、世界から経済制裁を受けて、庶民は食べるものにも事欠く生活を強いられる。

 

 地方に住むラミアは9歳の小学生、国民的英雄の大統領の誕生日にケーキを学校にもっていく係になってしまった。

両親は亡くなり、年老いた祖母と二人、葦で編んだ水上の家で暮らしている。祖母は定職もなく、その日暮らしの極貧だ。

そんなラミアにとって、ケーキを作るなんて、できるわけがない。祖母は案じた挙句、町の資産家にラミアを売ることを決意する。

 

 祖母の意図を悟ったラミアは逃走する。町に来ていた友人のサイードと共にケーキの材料を求めて町をさ迷うのだが、さ迷いのなかで、イラク社会の実像がビビッドに描かれる。

 描かれるのは、破綻した経済に由来する詐欺やごまかしや、だましで成立する商売の実態。

 ラミアもサイードも盗みを余儀なくされる。ラミアの将来を思って、他人に任せようとした祖母の行動も悲しいが、いなくなった孫を探して警察に行くと、そこでも官僚の仕事は形がい化している。

 街角に幾つも掲げてあるにこやかなフセインの肖像画が独裁的圧制を表象化する。

 

 物語に乗せられつつ、監督の抜群の映画的センスに驚く。ラミアとサイードという子供を主人公にして、当時の社会の混乱を浮き彫りにしながら、情景描写の的確さと村の自然の美しさ。音楽も素敵だ。

 小舟で学校に通う子供たち、夕暮れや夜の灯り、家の中の灯に、目を奪われる。

 

イラク出身の監督だからこそ描かれた作品である。

 

 

 主人公のソヒは14歳、父が校長を務めている朝鮮学校に通っている。母はパート勤務、弟は小学生。家計は苦しくて、洗濯機が壊れても、すぐには買えないほどだ。

 父親が学校長でも、洗濯機を買い代えられないという経済状態。朝鮮学校の給料が安いことが知れる。しかし、映画は声高には主張しない。政府の教科書無償制度から外れ、補助金も打ち切られていることも語らない。ひたすら、14歳ソヒの日常を静謐にたどっていく。

 ひいお爺さんは済州島動乱から逃れてきた。校長の父親は共和国に対しては精神的基点としている。在日朝鮮人を自分のアイデンティティとし、朝鮮学校の入学者を増やそうと奔走する毎日だ。

 

しかし、思春期のソヒは、心が揺らいでいる。家では日本語で喋り、学校では朝鮮語だ。日本人社会の中で生きる朝鮮人として複雑な思いが心の底に漂っている。日本人の中学生ともBTSを通じて友達になったけれど何か心が騒ぐ。

 

 テレビでは北朝鮮からのミサイル飛翔を流している。父親に対しては家の経済よりも学校の方が大事なのかと、母親も巻き込んでいさかいになってしまう。BTSのチケットを買いたくて父親の共和国からの勲章をネットショップに出品してしまったりする。

 部活の朝鮮舞踊では、指導の先生は、北朝鮮の同胞を励ますように踊りましょうとか言われると、なんとなく練習に熱が入らない。

 勲章売却を悔いて奔走するうちに父親は、自分の夢をあきらめて、家族の為に教師になったことを知って和解する。踊りに関しても友達に励まされて、身を入れて練習し、発表会になっていく。

 

 私的にはこの発表会シーンが腑に落ちない。

発表会で美しい民族衣装で踊る場面は盛り上がるし、ドラマティックだし、感動的だ。今までリアルに日常を辿って来たのに安易にお祭りで華麗にフィナーレというのは安易でないかと思う。

 この作品はソヒの自分は誰なのだろうという思春期の葛藤と逡巡をテーマにしているのに、なんか、民族意識に目覚めましたと、誤解を与えてしまうのではないだろうか。

  ソヒは、民族の誇りとかに目覚めたのではなく、はっきりと「自分の為に踊るのだ」という風にして欲しかった。

 

 とはいっても、一人の少女の成長物語として、そして、在日朝鮮人一家をてらいなく描いて秀逸な作品でありました。

 

 2021年 の日本版を見ていたので、ぜひ見たいと思い、スクリーンを見つめました。

 

 演出が、同じフリードマンさんなので、全く同じなのですが、アメリカでは俳優がわき役に至るまで、実に多種多様な人々がいるというのが改めての実感。肉体的に背が高い人、低い人、肌の色が様々、太った人、極端に瘦せた人、バラエティに富んでいる。立っているだけで、人生や、個性が浮き出ている。

 

 その点、日本の舞台に立つ人は、肉体的に同類で、同族みたいな感じでスッキリ、爽やかで、やはり植物感がありました。

 フランク平方元基、チャーリーウエンツ瑛士、メアリー笹本玲奈、ベス昆夏美、ガッシー朝夏まなと、ジョー今井清隆

 

 

 全体的に見て、日本版のほうが、丁寧な作りだなという感じ。俳優の演技が丁寧で、細かい感情の起伏がしっとりと伝わってくる感じ。映画の俳優さんも演技も歌も抜群で、素晴らしいのだけれど、感情表現が日本人が演じた方が心にしっくりくるのかも。

 

 俳優で一番違った感じがメアリー、映画ではすごーい中年のおばさま、太っていて、美しくない。拗らせ性格でもてないタイプなんです。笹本さんも衣装で太った感じ出してましたが、太りの規模が違うし、笹本さんは美人タイプだし。有名な女優さんらしく、上手いし、お歌も素晴らしい。

 チャーリーは、あの、ラドクリフさんで、ものすごく芸達者で、ショーストップ風のシーンがありました。だけど、むさくるしい感じの中年男風、ウエンツさんは無精ひげなしできれいでした。

ベスは昆さん、映画と違って小柄だけれど、役的には違和感なし。

 ガッシーは黒人の方が演じていましたね。朝夏さんは黒塗りしていなかったし、見た目が全く違う。

 朝夏ガッシーのほうが、繊細。映画は単なるわがままな自己中心風。

 他人を踏み台にして、上昇していくのだけれど、他人を踏みつけにする心の痛みを感じているのが朝夏ガッシーだった。

 雰囲気的に主役のフランクが、一番似ていました。平方さん初単独主演でしたし、凄ーく良かったんです。休養に入ったみたいで残念です。

 

,物語は、三人の友だち仲間の40歳の現在から20歳青春の出発点へと逆もどりしていく意表を突く展開。

 始まりの40歳は友情の破綻が描かれる。五年ごとにさかのぼっていって、ラストシーンは三人の出会いが描かれる。

泣けるんです。何事も叶うよ、ぼくら三人は無敵なんだと、希望にあふれて歌うシーン。20年後を知っているので切ないです。

 亡くなったスターでも、生存者や利害関係書が沢山いる人物の伝記物語はフィクションとして見るべきだと思う。

ヘンなこと描いたら、抗議が殺到したり、弁護士に依頼して、名誉棄損とかで訴えられる可能性大だからだ。

 

 だから、この作品でも、ダイアナロスとか、重要な人物とのエピソードが出てこないし、妹のジャネットジャクソンなんて、姿が消えている。真実のマイケルの姿だと思ってみたら、阿保である。

 フィクションとしてみたら、ものすごく面白い作品で、心から楽しめる。

 

 黒人の貧困家庭で育ったマイケル君が父親のリーダーシップでスターになるが、暴力的で、守銭奴で、支配的な父親との長い戦いの後に自由を勝ち取り、真の音楽家として、成長していく過程を見せる物語。

 

 心優しいマイケル君が父親の支配を切れないで葛藤する姿にマイケル頑張れといって、応援したくなるのは物語に取り込まれた証拠である。 巧みなドラマつくりに乗せられてしまった幸福な観客になれたわけだ。だから見終わって、心は満たされる。

 

そして、マイケル君に扮した俳優たちが、デジタル技術を駆使して素晴らしい再現度で、彼の歌やダンスを披露してくれる。

 マイケルのことをあまり知らなくっても、彼が歌った歌やダンスシーンは、最高の完成度。スリラーも、ムーンウオークも楽しめる。素敵な音楽体験ができて、幸せな時間でした。

 それにしてもマイケルジャクソンというアーティストはgiftedなんだなあと実感。音楽に疎い自分でもその天才的な独創性を知ることができて幸せでした。

 物語の内容や展開は、いわゆる、シチュエーションコメディとか、昔のブールバール劇のようなナンセンスが主体となっているのだけれど、エンターテイメントとして上出来の仕上がりで楽しめる。

 

 脚色、演出の野口幸作さんの匠の技のおかげなのだが、その演出意図を舞台上に実現させる俳優の技術も高いのだ。

 

 いつも歌舞伎を例にとるのだが、物語は荒唐無稽でも、役者や演出で圧巻の舞台になるのである。今回もそう思った。

 

野口さんの演出が見事で、テンポよくお話が連なって早い展開。

 ダンスの格好良さと、技量の高さ、俳優の芝居のうまさ、舞台美術の華やかさ、それらが相まって、楽しい作品に仕上げてある。ちょっと長かったけれどね。

 つくしと司が結ばれるか否かのハラハラドキドキ、もう一歩で破綻するという繰り返しが、手を変え品を変えして現れるのだが、少しばかり、クドくて飽きる。

 

 このギャグだらけの物語をドラマとして繋げていくには役者の演技の質にかかっている。

どんだけレッスン積んだのだろう。このタイミングと間を身に着けていくのは大変な試行錯誤を重ねたのだろうと思われる。

  

 特に詩ちづるさんの芝居の間が素晴らしい。ツッパリと弛緩の強弱のつけ方が上手い。めげないつくしさんを演じるのはテンションと肉体の強度が必要で、それを維持するのはどんだけ大変だろうと思う。センス、というか、芝居感をしっかり持っているのだろう。

 

 暁さんはひたすらカッコよいけれど、芝居の間の取り方がやはり上手で、役者魂を感じる。

 

 鳳真さんのアピール力、瑠璃花夏さんの強い芝居力、万里さんのゴージャス感、ひろ香さんのお父さん、組長さんの芸達者等々、個々の役者のテンション高い演技が沢山積みあがって、宝塚の底力を感じました。

 

 

 

 

 脚本の谷正純さんは、オリジナルはエッ?というものが多い作家ではありますが原作物の舞台化は上手ですね。

「CAPTAIN NEMO 」なんぞはトンチキ過ぎて、笑ってしまったりしましたのを思い出します。物語が作れないのでしょう。

 

 今回は素晴らしい脚本で深く心を揺り動かされました。役をいくつも作って、それぞれに見せ場を与えている。

 

 大根売りと、下女のやり取りとか落語みたいで楽しいし、おでん売りには歌まであるし、真帆屋の主人にもソロがある。

人形浄瑠璃を取り入れて、人形振りで、目を楽しませ、大夫を二人を配して歌を歌わせる。

 生徒の皆さん、場面を任されてものすごく張り切ったでしょう。庶民の群舞も扇子ひらひら美しいく、ほっぺの赤いお姉さんも楽しく歌う。

 いろんな生徒がいろんな場面もらって活躍しているからこそ、作品全体の一体感が生まれ、作品のテーマ、「人の心を斟酌する人の暖かさ」が舞台いっぱいにあふれているのでしょう。

 

 難波の商人道と人情噺を組み合わせた物語ですが、ともすれば「恩返し」という修身まがいの道徳観で作られてしまうのを、見事に覆し、人の物語、出会いの奇跡、人生における人と人の心の触れ合いの物語になっていました。

涙が次から次へとあふれ出てしまう心が揺さぶられた芝居でした。

 

 この芝居の要の人物、実は主人公であるのは寒天問屋の旦那さん、和助でしょう。

 彼は、仇討ちに遭遇してしまった。親子のうち、子供までも殺そうとするのを子を救いたいという思いから天神様に奉納するはずの「銀二貫」を仇討ちの侍にやってしまう。

 この行為が有り得ない。ふつうなら、逃げてしまう。和助は人として、このお侍の子を助けたいという心が行動に出た。この行為は神でも、仏でもなく、人間だからこそできることなのだ。神や仏は実際には手を出さないのだから。

 

 侍の子の人生を預かってしまった和助は、この子を生きていけるようにするには、商人に生まれ変わらせることだと考えた。

寒天つくりという厳しい肉体労働をやらせて根性アリと見込んだので、手元に引き取り、松吉という名を与え、商いを学ばせることにする。

 拾った子どもなのに、将来までも導いてやる和助さんは仏様の生まれ変わりでしょう。汝鳥伶さんの素晴らしい演技にため息です。

 松吉は実直な奉公人に成長し、大火にあった仕入れ先を失くして、窮地に陥る和助を機敏な行動で助ける。松吉の才知もあって新しい仕入れ先を見つけ、売り上げを伸ばしたがゆえに、銀二貫を和助は天神様に奉納することができることになった。

 

 が、しかし、和助は、これまたこの銀二貫を資金繰りに苦しむ男にやってしまうのだ。商人としてのそろばん勘定もあったろうが、懐の深さの現れでもある。

 さらに、和助は恋に逡巡する松吉に手を貸して、恋を成就させたりする。仏様では出来ない行いで、人間だからこそできるのだ。

 

 そう、この作品は人間賛歌であるのだ。苦しい時には手を差し伸べる。その心に報いてみんなが斟酌しながら助けの手を互いに差し伸べ合う。真帆さんだって、焼け跡で助けてくれた女性の娘として支えるのだ。この小さな身の回りの関係が人を幸せにするんだと、この物語は教えてくれる。

 

 

 月組の皆さん、皆んな生き生きとして江戸の庶民を生きていました。見ていて心が洗われました。

主演の稀惺かずとさんは、芝居上手、折り目正しい楷書の芝居で、若々しい松吉さんの誠実さが表現されていました。

 乙華さんも芝居うまくて、宝塚は芝居上手の娘役が溢れています。歌声もきれい。

輝咲玲央さんは、どこかおかしみが漂う演技と存在感があって、貴重な役者さん。汝鳥伶さんは、人間国宝でありますよ。