3、テスト投稿・・・第三章 サマリアびとの嘆き | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

 

第三章 サマリアびとの嘆き

 

 

 

ほんとうの名はタエブ

 

「それにしても、ぼくは〈失われた十部族〉ときくたびに気になるんだが、新約聖書に〈サマリアびと〉っていうのが、何度もでてくるね、あれはどうなんだ? 君の話聞いてると、旧イスラエル王国時代からの居残り組だったんじゃないかって気がしてきたけれどね・・・」

 

「うん、その仮定は重大なポイントなんだ。そのことを、はっきりさせないうちは、十部族の行方さがしをしたって意昧がない。・・・そこで、まず第一ばんに、ユダヤ人は、サマリァびとを〈クタ〉とよぶ習慣がある、ということ・・・」

 

「クタ?それどういう意昧?」

 

「イスラエル王国が、アッシリア帝国によって滅ぼされたときのことが、〈列王紀〉にあるだろう・・・『かくてアッシリアの王はバビロン、クタ、アワ、ハマテおよびセパルワイムから人びとをつれてきて、これをイスラエルの人びとの代わりに、サマリアの町まちにおらせたので、その人びとはサマリアを領有してその町に住んだ』(列王紀(下)17-24)」

 

「その、クタから連れてこられたというのは、どういう人たちだったんですか?」

 

「エチオピァを古くはクタといったんだ」

 

「ああ、きみが、エチオピアが十部族に縁がふかいって言ったのは、それか・・・」

 

「要するに、ユダ族の側では、イスラェル王国が滅亡したとき、十部族のひとり残らずが、アッシリアに連れていかれて、そのあとにエチオピア人が移住してきたのだから、十部族の子孫なんか、残っているはずがない、という主張だ」

 

「サマリアぴとの側では、認めないだろう?」

 

「認めるどころじゃない。・・・自分たちこそ、イスラェル十部族の正統な子孫で、純粋なモーセの教えを伝えているのはサマリァびとだけだ、と、今日でもなお主張している。だが、それだけではなくて、〈サマリアびと〉という呼びかたについても、問題があるんだ。・・・そもそもサマリアというのは、列王紀上16-24)によると、イスラェル王国に内紛があったとき、それを平定して新しく即位した王が、セメルという人のもっていた山を買い取って、そこに町をたてたから、そのセメルにちなんでサマリアとよぶことになった、と書いてある。しかも、そのサマリアという町はそのとき以来、イスラエル王国の首府になったのだが、その後、イスラエル王国は、アッシリア帝国に亡ぽされて存在しなくなったので、旧イスラエル王国の地域をサマリァとよぶことになった・・・というのが、ユダ王国側の解釈だ。ところが、サマリァびとの側ではサマリアの語源は、〈シャーマール〉だというんだ・・・〈守る〉とか、〈大切にする〉というような意味だそうだ。つまり〈サマリアびと〉とは、〈モーセの律法を正しく守る人〉という意味だ・・・と主張しているわけだ」

 

「客観的にはどっちに歩があるんだ?」

 

「両方の主張が、あまりにくいちがっているから、歴史家も手を焼いているようだ。・…:さっきも言ったとおり、捕囚直後から100年くらいの間は、どちらかというと、サマリアびとの側が、ひきあげてきたユダ族たちを苦しめる立場にあったようだが、エズラが、例の〈モーセの律法書〉を持ってきてからは、すくなくともエルサレムや、その周辺に住むサマリアびとは容赦なく〈異教徒〉というレッテルを貼られて、徹底的に虐待されることになったらしい。

・・・ユダヤ人とサマリアびととは結婚できないし日常の交際にも、いろいろむずかしい禁忌(タブー)ができた・・・」

 

「まるで、アンタッチャブル、ていう感じじゃないんですか? ユダヤ人が、サマリァびとの汲んだ井戸水をのむことさえ問題なんでしよう? ヨハネの福音書に、ありましたね」

 

「ああ、例の〈ヤコブの井戸〉の話だね、・・・イェスが通りかかってサマリァの女に水をのませてくれと言った・・・あの話は、実に意味深長なんだ。・・・あの井戸のあったところが、大昔のシケムなんだよ。ヨハネ福音書では、スカルとなっているがね」(ヨハネ4-5)

 

「なぜ、シケムでなくてスカルなんですか」

 

「そんなことは、福音書の著者に聞いてくれ。あるいは井戸のあったところだけがスカルで、シヶムは、もっと広い範囲の地域を含めた地名だったかもしれない・・・ほら、十二部族の長老たちが、エフライムの族長のヨシュアを中心に集まって、宗教連盟の契約をむすんだ場所だ(ヨシュァ記24章)。そのうえ、例のヨセフの墓もあるところ(24-32)、いや、そればかりじゃない。十部族が、ユダ王国と分裂してイスラェル王国を造ったときに最初に首府をおいたのも、このシヶムなのだ(列王紀(上)12-25)。そして、シヶムのすぐそばにはゲルジムという山がある。・・・そこには、申命記に『あなたの神、主が、あなたの行って占領する地に、あなたを導き入れられるとき、あなたはゲルジム山に祝福を置き、エバル山に呪いを置かなければならない』(11-29)と書いてあるところだ。シケムは、このゲルジム山とエバル山の間にあるんだがね、そこはまた、ヤハウェが、アブラハムの前に現われて『わたしはあなたの子孫にこの地を与えます』と言ったので、アブラハムがヤハウェのために祭壇を築いたところでもあるし(創世記12-6)、ヨセフの父親のヤコブが、ながい間住んでいたところでもあるんだ(創世記33、34章)・・・そこでサマリアびとは、『イスラエル全土で最も神聖な場所はこのシケムを見おろすゲルジムの山だ』と主張して、エルサレムに対抗する神殿をたてた。多分、それは、エズラが〈モーセの律法の書〉を持ち帰ってから、さらに100年以上たった、紀元前328年ごろだろう、といわれている。・・・もっとも、この神殿はその後、といっても紀元前128年ごろの話だが、・・・ペルシア帝国以来、ながい間、外国の属領だったユダヤが、当時のシリア王国に反旗をひるがえして、四百数十年ぶりで独立国になって、レビ族出身のハスモン家の王朝が生まれたとき、ヒルカヌス一世という、〈王と大祭司を兼ねた人物〉によって、完全に破壊されてしまった・・・」

 

「それで、ヨハネ福音書ではサマリアの女がイエスに向かって、『私たちの先祖はこの山で礼拝したのですが、あなたがたは、礼拝すぺき場所はエルサレムにあるといっています』(4-20)

と言っているわけですね」

 

「そう、イェスの時代、ゲルジム山の神殿は、ユダヤ人によって壊されたままになっていたから、『この山で礼拝したのですが・・・』と、過去形で言っているのだ」

 

「それで、そのサマリアびとは現在はどうなってる?」

 

「そうだ、それを忘れてはいけない・・・いわゆる純粋なサマリアびとと自称する人びとは、今日でも、問題のシケムとゲルジム山のそばに、ほんのわずかだけ残っている」

 

「じゃあ、やっぱり十部族の子孫は生き残っているんだな?」

 

「彼らの主張するところを100パーセント信用するならぱ、そうなるかもしれない、しかしわれわれがさがしているのは、血筋そのものよりも、むしろ教義の問題だ。つまり、彼らが、守り続けているものが、はたしてほんとうに、いわゆる〈純粋なモーセの教え〉か、どうか・・・」

 

「それはユダヤ教の教義の内容とくらべての話か?」

 

「細かに分析すると、たしかにサマリアびとの方が、今日のユダヤ教よりも、より古い形式を残しているのではないかと見られるところが、どっさりある。ことによく間題になるが、たとえばベノテコステ(初穂の祭七週祭 五旬節)はかならず日曜日でなければいげない、というような、祝祭日のきめかた。これも、当時のエルサレムの神殿でおこなわれていたのと比較して、サマリアびとの解釈のほうが、正しいのかもしれない。・・・だが、とくに劃然たるちがいは、いわゆる救世主の名前・・・名前だけじゃない、概念が、まるきりちがうんだ。

・・・ユダヤ教のほうでは例の〈油を注がれた者〉と言う言葉から生まれたメシャ(ギリシャ語訳はキリスト)に大きな期待をかけているだろう? ところがサマリアびとは絶対に〈メシヤ〉とはいわない。〈もとへ戻す人〉あるいは〈再来する者〉と言う意味で、タエブというんだ。

・・・そのうえ、ユダヤ教の救世主(メシャ)は、ユダ族のダピデの子孫から生まれることになっているが、サマリァびとの救世主(タェブ)は第二のモーセとして、サマリアびとの子孫から生まれることになっている」

 

「ということは、『イスラエル十部族から、そのなかでもエフライム族から救世主が出る』ということになるな?」

 

「たしかに、そうした大きなちがいが目につくが、逆に共通点を拾いあげることになると、現存している〈サマリアのモーセの五書〉は、捕囚後に、徹底的に改ざんされて今日の姿となったはずのいわゆるユダヤ教やキリスト教の聖典と、似ているところが多すぎるといわなければならない。もっとも言い伝えではローマ皇帝のハドリャヌスのときに、ユダヤ人の最後の反乱があって(132~5)、これのあおりで、サマリアびとの教典は全部焼き払われた、というのだから、そのとき大昔から伝えられていた、ほんものの〈サマリアのモーセの五書〉は、灰になってしまったのかもしれない。・・・だが、それより、もっと気になるのは、今日でもサマリアびとの大祭司が、アロンの子孫であることを、誇っている点だ。ただしそのアロンの直系といわれる血統は、17世紀で絶えたのだが、その後もアロンの叔父のウジェルの予孫と称する人たちが、代々、大祭司になっている(出エジプト記6-18参照)。・・・ところで、もしサマリアびとが十部族の子孫であって、モーセの教え・・・ということは、エジブト脱出以来のヨセフやヨシュアの信仰・・・を正しく伝えているのならぱ、捕囚後に創作されたといわれる『祭司はアロンの子孫にかぎる』という淀に、こだわっているのがふしぎだ」

 

「というと、よしんぱ今日のサマリアびとが、十部族の予孫であったとしても、すでに〈純粋なモーセの教えを守る者〉ではなくなっているということだな?」

 

「残念ながら、そう考えざるをえない」

 

「ユダヤ教が、なんとなく流れ込んだか、あるいは力関係で、サマリア側が妥協したか・・・しかしいずれにしても、今の段階ではエフライム族の伝統であるべきヨセフやヨシュアの信仰は、緒局、消えた、と考える以外にないのかな・・・」

 

「それを、なんとか探し出したくて、エフライム族の行方を追いかげているんだよ」

 

「トロイ発掘のシュリーマンのごとき執念だな」

博士はゆっくりと立てた膝を、両管をのばしてかかえると、おだやかにわらった。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
新しい契約をたてる日

 

「君は同じシュリーマンでも、夢想的少年時代の彼にくらぺたいんだろうが、これでも、そう行きあたりぱったりにさがしまわっているわけじゃないんだ。・・・というのはね、もしかりに、十部族の流れを汲んだ思想の持ち主があったとしたら、その人はまず第一に、エルサレムの神殿を、信仰の中心とすることに対して、なんらかの形で異議をとなえるはずだと思うんだ。・・・それから、さっきも言ったとおり、アロンの子孫でなければ祭司になれない、ということを主張するはずもない。だが、それよりも、もっと重大な条件は、もしエフライム族の秘密の伝承をうけついでいる人物がいるとしたら、サマリアびとはもちろんのこと、十部族やエフライム族を、異教徒として、口ぎたなく罵ったりして、否定するはずがない、ということだ。・・・」

 

「そういう条件にかなっている人物が、歴史上にいるのか?」

 

「旧約聖書の中でも、絶無とはいえない。たとえば、預言者のホセア・・・彼が残した言葉の中に、『エフライムよ、どうしてあなたを捨てることができようか、イスラェルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。わたしは、わたしのはげしい怒りを現わさない。わたしはふたたびエフライムを亡ぽさない(ホセア書11-8~9)』というのがある」

 

「あら、ホセア書には、エフライムを否定している言葉だって、たくさんあるでしょう?」

 

「当然さ。そういうカムフラージュが施してなかったら、聖書の正典として今日まで残っていなかった・・・なんでも『そこに、そう書いてあるから、そうなんだ』と思うくらいなら、本なんか読まないほうがいい」

 

「それにしても、よく残ったな、ユダのほうの権力者には不愉快だろう・・・」

 

「大体、預言書というのはね、エルサレムの神殿の権威をかさにきて独裁体制を貫こうとする権力者を批判する声がユダヤ地方以外の国々に亡命していた、いわゆるディァスポラ(離散の民)の間に積もりつもって、長年ひそかに発酵をつづけていったものなのだ。だから、表面では従来どおりエルサレムの神殿を讃美する言葉を並べながら、その裏に辛らつな皮肉が充満していることが多い」

 

「ホセアというのも、その一人なんだな?」

 

「ことにホセアという預言者は、イスラエル王国生まれの庶民で、彼がまだ生きているうちに、イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぽされてしまったはずだ(B.C722年)・・・」

 

「じゃあそのホセアの預言というのもほんとうは十部族が語りついでいたものかもしれないな?メソポタミヤかエチオピアに追放された人たちの間で・・・」

 

「ところがなぜか、それが100年ほどたってから、エレミァの耳に伝わってきたらしい・・・エレミアはユダ王国側の預言者なんだ」

 

「でも、エレミヤは祭司の家柄じゃないんですか?」

 

「・・・たしかに、このエレミヤ書に『ベニヤミンの地アナトテの祭司の一人であるヒルキアの子エレミヤ』と書いてあるね(1-1)しかしこの、ペニャミンのアナトテというところはソロモン王によって祭司職をうぱわれて追放されたアピアタルが、隠棲したところだ(列王紀旧2-26,27)。

ソロモン王は、自分が王位に即こうとしたときに反対の態度をとったアビアタルを憎んで、死刑にしたかったのだが、アビアタルがダビデ王時代の元勲だったので殺すわけにはいかなかった(サムエル記旧22-11~23、同胴15-24~36、20-25参照)。ところでアピアタルとは反対に、ソロモン王の即位に賛成協力した、ただ一人の祭司で、王に油を注ぐ役目をはたした功績と、このアピアタルが失脚したおかげとで、エルサレム神殿の大祭司職をその後、永久に独占できることになったのが、ザドクとその子孫たちだった(列王紀1-5~8、1-32~39)。

実は、楠囚後に完成したモーセの五書の中で、くり返して『祭司はアロンの子孫にかぎる』と言っているのは、『エルサレム神殿の大祭司になるのはアロンの子孫であり、その中でも、ザドクの子孫にかぎる』ということを、暗に宣言しているわけなのだ(エゼキェル書43-19、44-15参照)。

それだからこそ、捕囚後、例の〈モーセの律法の書〉を持ってエルサレムに帰ってきたエズラも、ザドクから六代目の子孫だった(エズラ7-1.2)。

こうしてザドクの直系は一貫して、大祭司であると同時に、ユダヤの総督にひとしい実権を握りつづげた。もつとも、シリア国王のアンチオコス・一ピファネス(B.C175-164)以後になると、昔日の面影はなくなるが、それでもなお、ザドクの子孫とそれにくみする人びとは〈サドカイびと〉とよばれて、ずっとサンヘドリン(最高法院)を牛耳っていたわけだ。それは、エルサレムが、ローマ軍によって壊滅する直前までつづいた」

 

 

 

 

 

 

 

「そこで話を戻させてもらうと、・・・エレミヤは祭司ではあっても、ザドク家の出身者ではなかった。むしろ、反主流派の一人だったわけだな」

 

「それで、エルサレムの祭司や国王はエレミヤの預言を聞こうとしなかったんですね」

 

「とにかくエルサレムの神殿や、そこで行われていた宗教儀式に対するエレミヤの批判は手厳しい。『主を拝むためにこの門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。・・・〈これは主の神殿だ〉という偽りの葉を頼みとしてはならない』(エレミヤ書7-2~4)とか、そのほか、『あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出した日に、わたしは燔祭と犠牲とについて、彼らに語ったこともなく、また命令したこともない。・・・』(7-22)・・・そしてさらにエレミヤは、こう言ってるんだ・・・『エフライムはわたしの愛する子。わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼を慕っている。わたしはかならず彼をあわれむ』(エレミヤ書31-20)」(エレミヤ書3-Nも参照)

 

「なんだ?さっきのホセアの言葉と、似てるじゃないか」

 

「そうなんだ。イスラエルの預言者ホセァの姿が消えてから、ざっと100年後に、こんどはユダ国の側から、消えた十部族たちとの和解を、堂々と口にする人間が現われたのだ」

 

「エレミヤという預言者はユダ王国がバビロニアと戦うことにも反対だったのでしょう?」

 

「旧約に出てくる預言者は熱烈な国粋主義者や主戦諭者が多かったのに、エレミヤはめずらしく、そういう狂信的な言動が国を亡ぽすもとになることを知っていた。それぱかりじゃない。彼はホセアと同じく、イスラエル族とユダ族が手を握りあえる日がくることを切望していたんだね、だからこそ彼はこうもいっている。・・・『主は言われる。見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに、新しい契約をたてる日がくる。この契約はわたしが、彼らの先祖を、その手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない』(エレミヤ書=31-31、32)・・・」

 

「それは旧約聖書のモーセの五書を、否定していることになるのかね」

 

「非常に徴妙なところなんだ。ユダヤ教徒の多くはエズラが例の〈モーセの律法の書〉を持ってエルサレムに帰ってきたときを〈新しい契約をたてる日〉と解釈する。なぜかというと、そのとき、エルサレムに住むユダヤ人全員が、新しく与えられた淀のすべてを忠実に守ることを、かたく誓って契約の書に印を押したからだ(ネヘミヤ記9-38)。つまり、エズラのときに、エレミヤが預言した〈新しい契約をたてる日〉は、成就したと解釈するわげだ」

 

「じゃあ、現在、われわれが読むモーセの五書が、新しい契約ということになるな」

 

「だが、キリスト教徒はそれに対して、キリストとよばれるイエスが現われて、神と人間の仲をとりむすんで、新しい契約のたてかたを教えてくれたときこそ、エレミヤが預言した〈新しい契約をたてる日〉だったと主張する」(コリント人への手紙11-25、ヘブル人への手紙8-6~10-25)

 

「なるほど、キリスト教の新約聖書と、ユダヤ教の旧約聖書との分岐点だな」

 

「しかしね、正確に、言うと、〈新しい契約〉という言葉はそれ以前にも、宗教改革を志す人たちが、独創的な教団を組織するときに、よく使っているんだよ。たとえば、あの〈死海写本〉で有名なクムラン宗団というのがあったろう」

 

「たしか、エッセネ派という中の一つのグルーブだったか?」

 

「エッセネ派と断定できるかどうかは問題なんだが、とにかく彼らが、キリスト教より古いことは、はっきりしている。そのクムラン宗団でも、〈新しい契約〉という言葉を使っているんだ」

 

「クムランも、エフライムのほうの流れなのか?」

 

「ところが、彼らが書き残しているものの中には〈エフライム〉という言葉を、〈クムラン宗団の敵〉の代名詞として、なんども使っている・・・」

 

「そこにもなにかドラマがあるんだな?」

 

「もともとクムラン宗団というのはさっき言ったシリア国王の、アンチオコス・エピファネスのころに、同じザドク家の中での勢力争いに敗れて、エルサレムの神殿を追われた組の残党らしいのだ。だから、自分たちこそザドク家の正統だという意味で、〈ザドクの子〉とも名乗っている・・・」

 

「双方とも〈新しい契約〉という言葉を使いながら、クムラン、エフライムはもともと相容れないか・・・じゃあキリスト教徒は?」

 

「イェスはいつも、サマリアびとに好意を持っていたんでしょう?」

 

「ところで、そのイエスという人物は実在したんだろうな?・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福音書の虚と実と

 

 

「それはなかなかの難間だな。なにしろキリスト教徒以外の者が書いたイエスという人物についての記録は、一つもないのだから・・・いや、それどころか、例の四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の著者たちが書いていることでさえ、はたしてイエスそのものの実像かどうか、その点が、はなはだ疑わしいんだ。・・・ずいぶん乱暴な言いかただと思うかもしれないが、それならば、たとえばイエスの系図の問題一つとりあげてみても、実にふしぎなんだ。・・・〈マタイによる福音書〉(1-1以下)は、『アブラハムの子であるダピデの子、イエスキリストの系図』という言葉ではじまって、アブラハムから〈キリストといわれるイエス〉までの系図が、整然と書いてあるね、ではルカはどうか・・・こちらのは順序が逆で、イエスからはじまって、アブラハムどころか、この世のはじまりのアダム、そして神にまでさかのぽる系図が書いてある。だが、そんなことはどうでもいいんだ。問題は、二つの系図に矛盾がないか、ということだ。・・・ところが、だよ、・・・アブラハムからダビデの間でも、だいぶ食いちがっているところがあるが、それはともかくとして、それどころか、ダビデから以降ヨセフの代まで、まったくの別ものなんだ(ルカによる福音書3-23~38参照)」

 

「それ、ほんとうか?!」

 

「〈マタイ〉ではダビデからソロモンとなって、ベアム、アビア、アサ・・・と、ユダ王国の歴代の王様の名が並んでいるが、〈ルカ〉のほうはダビデつぎがナタン、マタタ、メナ・・・と、ソロモンの母と同じバテシュァから生まれた、ナタンの系図になってしまう(歴代志上3-5)。したがって、〈マタイ〉と〈ルカ〉の系図を比較すると、すくなくともダビデ以後の部分ではイエスの父がヨセフであること以外には、同じところがまったくない、といってもいい」

 

「ふーん、マタイとルカのどっちが嘘なのか、あるいは両方とも、ということ以外にないな、なんといっても、一人の人物の系図なんだから、」

 

「嘘を書いたのがどっちだったにせよ、その動機を考えてみるなら、福音書を執筆する以上、『イエスはダビデの子孫である』ということを、是非とも証明する義務がある、と思ったからにちがいない」

 

「イエスはキリストである。キリストはかならずダビデの家系から出るという思想が、福音書が生まれる前の、キリスト教徒の中で、すでに定着していた、ということだろう」

 

「多分、そうだと思う。バウロも、〈ローマ人への手紙〉(1-3)に、『御子は肉によればダピデの子孫から生まれ・・・』と書いているから・・・。ところが、〈ルカ〉(20-41-44)では、イエスは、『キリストは、ダビデの子孫から生まれるのではない』という意味のことを、はっきり言っている。・・・と書いてある、といわなければ正確でないが、どうやら、〈ルカによる福音書〉の著者は、『イエスが、ダピデの子孫である』とは、思っていなかったらしい。だが、その点では〈マタイ〉の著者も、同感だったのではないだろうか?(マタイによる福音書22-41,45参照)」

 

「系図を肯定していないのなら、わざわざ福音書の冒頭に、もち出すことはいらないでしょう?」

 

「ところが、その〈イエスの系図〉の中に福音書を書いた人たちの本心が、はっきり顔を出しているんだよ・・・」

 

「イエスはメシアじゃないとでも言うのか?」

 

「そう、そうなんだよ」

 

「しかしイエスが救世主じゃなかったらキリスト教は存在しえないじゃないか」

 

「いや、『救世主じゃない』とは言ってない。・・・『イエスはタエブだ』ということを暗示したかったんだ」

 

「タエブ? ああ、さっき出てきたな」

 

「ほら、サマリアびとの救世主・・・〈もとへ戻す人〉〈再来する者〉・・・つまり、第二のモーセだ」

 

「・・・というのはユダ族のメシァに非ず、サマリアびとの救世主である、か・・・」

 

「一見、マタイとルカは、まったく違う系図を書いているが、実は一ばん大切なところで完全に一致してるんだ。・・・つまり、『イエスの父がヨセフである』というところでね」

 

「父がヨセフ? 大工だったというヨセフだろう? なぜ、それが、一ばん大切なところなんだ?」

 

「イエスと発音しているから、気がつかないかもしれないが、元来、この名前はギリシャ風につづれば Iesous で、ヘブライ語なら Yeshua つまりヨシュアだ。『YHWHは救い』とか、『YHWHの救い』とかの意味だそうだが、要するにギリシャ語の聖書では、イエスもヨシュアも区別はないんだ」

 

「まてよ?・・・『イエスはヨシュア』で、『ヨシュアの父はヨセフ』か・・・」

 

「そう・・・そして、〈父〉ということは〈先祖〉とイクオルだ」

 

「あ、!・・・イエスはエフライム族、ということなのか?」

 

「そうだったら、人間としてのイエスが、サマリアびとに共感を持つのは当然ですね、・・・旅人が強盗に襲われたとき、ユダヤ人の祭司は助けなかったのに、サマリァびとは親切に世話をした話を、隣人愛の説明にひいていたり・・・あれも〈ルカ〉だったでしょう?」(10-30~37)

 

「そういえば、君、シケムとかいう町・・・新約聖書ではスカルか?・・・あそこの井戸のところで、イエスが、サマリアの女に話をする場面、・・・さっき、あの話が意昧深長だっていったね?」

 

「イエスの伝記を語る人の多くは彼の布教はほとんどガリラヤの地方で行われたといっているね、そして、それはたしかに事実らしいのだが、福音書は、『預言者は、白分の故郷では敬われないものだ』とイエスが語った・・・とも書いてある(ヨハネ4-44、ルカ4-24)。・・・ということは、イエスは、あれほど多くの人に説敦しながら、本当に手ごたえがあったと思えたことが、めったになかったという証拠だ。ところが、〈ヨハネ〉第四章に出てくるサマリアの〈ヤコブの井戸〉での物語だけは、まったく例外で、イエスはサマリアの女と話しあった後で、食事がのどに通らないほど感動している(4-27~38)。いったい、そこで、なにが起こったのだろう? 最初は、ただ一杯の水をのませてくれと話しかけたのがきっかけで、イエスは『わたしが与える水をのむ者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が、湧きあがるであろう』という。その言葉を聞いたサマリアの女は、イエスを預言者だと思い込んで、『わたしはキリストと呼ぱれるメシヤが来られることを知っています。そのかたが来られたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせてくださるでしょう』と言う。するとイエスは『あなたと話している、このわたしが、それである』と答える。女は町へとんで行って、『私が会った人はキリストかもしれない』とみんなに告げる。福音書には、それにひきつづいて、『そこでサマリアびとたちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたい、と願ったので、イエスはそこに二日間、滞在された。そしてなお多くの人びとが、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。わたしたちが信ずるのはもう、あなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、わかったからである』・・・と書いている。ところで、この話、一見、数あるイエスの説教の中のひとコマにすぎないようだが、サマリアびとの角度から眺めると、そこには、驚くべきことが、かくされていることが、わかるのだ。たとえば一ばん最後の、『この人こそ、まことに世の救い主である』といった場合の〈救い主〉は、間遠いなくタエブだったはずだ。そしてさらに、サマリアの女が『さあ、見に来てごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかもしれません』と、みんなに告げたときの〈キリスト〉も、タエブだったにちがいない。なぜかというと、サマリアびとは約束された神の王国がくるときには、例のタエブがゲルジム山の上に降りてきて、彼らに新しい奥義をさずけてくれることを、固く信じていたのだから。・・・しかも、サマリアびとにとって非常に大切な讃歌のなかには『水はタエブの器から流れ・・・』という意味の言葉がある。おそらくサマリアの女は、イエスが、『わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧きあがるであろう』と言ったとき、すぐ、タエブが、ゲルジム山に降臨してくる光景を連想したのだろう。・・・だが、そうなるとさらに問題になるのはこのヤコブの井戸の物語は、イエス自身というよりは、〈ヨハネによる福音書〉の著者が、サマリアびとの教義をくわしく知っていなげれば、書けない話だということだ」

 

「そうすると〈ヨハネ〉の著者は、『イエスはメシヤではなくサマリアびとのタエブであった』と、胸中に思いながら、ギリシャ語のキリストという言葉を使っていた・・・ということになるのか?」

 

「〈ヨハネによる福音書〉の第一章(43以下)で、ピリポが、ナタナエルに言っている。・・・わたしたちはモーセの律法にしるしており、預言者たちがしるしていたヨゼフの子、ナザレのイエスにいま出会った・・・この場合の、〈モーセが律法にしるしている〉というのは、申命記にある、『あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞のうちから、私のような預言者を、あなたのために起こされるであろう』と言う、モーセの言葉を指しているのだが言い換えればそれは〈第二のモーセ〉であるし〈再来する者〉であるタエブを指しているはずだ」

 

「再来するのが第二のモーセだな? そのモーセはエジプト語で〈子ども〉だったな? そうすると新約聖書にやたらに出てくる『人の子』というイエスの自称ね、あれは〈モーセ〉っていう暗示だということにならないか?」

 

「面白い! そのアイデアについては、あとでゆっくり論ずる必要があるな・・・ところでヨハネの第一章にもどるけれども、ここではイエスのことを〈ナザレのイエス〉とよんでいるが〈マタイによる福音書〉(2-23)には、ヨセフが、幼子とその母とを連れて、ナザレという町に行って住んだのは、『預言者達によって彼にナザレびとといわれたであろうことが、成就するためである』と書いてある。ここに出てくる〈ナザレびと〉(Nazoraios)というのは、ナザレの人ではなくて・元来は〈守る者〉つまり儀式や密議を大切に守る人という意味らしいのだが、いわゆるクリスチャン(Xristianos-キリストに組する者)というよび名が、小アジアのアンティオキアの教会を中心とするパウロの弟子達の間で、盛んに口にされるようになるまでは(使徒行伝11-22~26)、イエスの弟子達はほとんど、ナザレびと(ナザライオス)と呼ばれていたのだ・・・(使徒行伝24-5)」

 

「そのナザレびとというのが、〈守る人〉の意昧だとすると、さっき、君が言った、サマリアの語源だとしている〈シャーマール〉と同じことにならないか? 」

博士は時折りメモを記入している大判の雑記帳を、見台よろしく曲げた膝の上にのせて、眺めながら聞く。

 

「そうなんだ。だから〈ナザレびと〉というのも、すくなくとも彼ら自身のグルーブの中では、〈モーセの津法を正しく守る人〉の煮昧をふくめているかもしれない。・・・となるとね、聖書研究家の多くがよく『四福音書の中でもとくに、イエスがキリストであることを強調しているのが〈ヨハネ〉なのだ』と言っているが、そのキリストとははたしてメシアだったのか、それともサマリアのタェブだったのか・・・」

 

「あの、『メシア訳せぱキリスト』と、はっきり書いてあったのは、〈ヨハネ〉ではなかったでしょうか?」

 

「そこがくせものなんだよ。『イエスはタエブ』という意識が強ければ強いほど、もともと『聖なる油を注がれた者』というだけの意味をもつメシアとかキリストという言葉を表面に出す必要があったんだ。なぜならば、イエスが死刑にされた理由はそこにあったに相違ない。ユダヤ人の社会ではサマリアぴとのシンパサイザーは異端者であり、〈悪霊にとりつかれた者〉だったのだから・・・(ヨハネ8-48)そういえば、それに関係すると思われるおもしろい話が、〈ヨハネ〉の第11章(45~54)に書いてある。・・・例のサンヘドリン(最高法院)で『もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう』と心配して、イエスの問題を評議したときのことだが・・・『彼らはこの日から、イエスを殺そうと相談した、そのためイエスはもはや公然とユダヤ人の間を歩かないで、そこを出て荒野に近い地方のエフライムという町に行かれ、そこに弟子たちと一緒に滞在しておられた』・・・とある。・・・余討な話になるが、新約聖書の中にエフライムという地名がでてくるのはあとにもさきにも、ここだけなんだ。元来、〈ヨハネによる福音書〉の著者は。パレスティナの地理にくわしかったらしいのだが、不思議なことに、このエフライムという町だけは、今日、はっきりとその場所をつきとめることができない。しかしもしそこが、〈エフラィムという名の町〉ではなく、エフライム族の子孫たちが、かくれ住んでいたところだったとすれば、この、〈ヨハネ〉の第二章の文章は、実に活き活きとしてくるわけだ」

 

「ふーん、イエスとエフライムの関係というのが、浮かび上がってくる感じだね・・・当然、サンヘドリンの連中はイエスを生かしておくわげにいかない・・・か」

 

「しかし福音書が書かれた当時は・・・紀元70年以降から一世紀の終わりにかけて・・・その執筆者たちは、いわゆる狂信的なキリスト教徒と、徹底してサマリアぎらいのユダヤ教徒との板ぱさみになって、自分たちが心に描いている理想通りのイエス像を、ありのままに表現することができなかった。そこでやむをえず、エフライムの族長ヨシュアの物語をにおわすことによって、その真意をほのめかそうとした」

 

「なるほど、それで、〈ヨセフの子孫ヨシュア〉と、〈ヨセフの子イエス〉とを、意識的に重ねているわけか」

 

「これから先をいちいちくどくど説明するのはやめておくが、とにかく、なぜかイエスがエジプトから帰国しなげればならなかったり(出エジブト記と比較)、荒野で40日の食断をしたり(出エジプト記24-13・18、34-28と比較)、ヨルダン川のほとりから公けの活動がはじまったり(ヨシュァ記3-7と比較)、12人の便徒をえらんだり(イスラエルの12部族)するわけだ」

 

 

 

 

 

 

「それなら、あの、イスカリオテのユダの裏切りの意昧は、どうなる? あれもヨシュァの話と関係があるのか?」

 

「説教家にしても、小説家やシナリオライターにしても、およそイエスの生涯について語ろうとする人はこの、ユダの扱いかたで苦労するらしいんだな。イエスが神の子で、ユダが裏切ることを、前から知っていたのなら、なぜ彼を12人の弟子の1人にえらんだのか? 彼が罪を犯すことを知っていたのなら、なぜ諭して止めなかったのか?・・・これは、福音書をすこしまじめに読む人なら、誰でもすぐ感じる疑間だ。だが、もっと不可解なのはあれほど、終始一貫イェスについて、ありがたずくめの物語をのべている福音書の著者たちが、自分たちの仲間の中に、イエスを裏切った者があったことを、なぜ口をそろえて吹聴することが、できたのか? ということだ。われわれの現実として考えてみたとき、すぐひっかかることだ」

 

「たしかにそこが符に落ちないな、聖書を一応読んだ印象ではユダが裏切ろうが裏切るまいが、イエスの死刑には変わりなかったとしか考えられないよ」

 

「福音書には、『預言が成就するため』ということが、しきりに出てきますよね、ユダの場合も、なにか旧約にあるケースと、関係ないんでしょうか?」

 

「そこだ、そのところをじっと見つめなげればいけない。もしイエスの生涯が、ヨシュアの物語と重なりあっているとしたらね、ヨシュァの一生だけでなく、その後のエフライム族の運命がどうなったか?・・・つまりイスラエル王国の歴史は言うまでもないが、捕囚後のサマリアびとの境遇もひっくるめて考えてみる必要がある。・・・」

 

「あ、そうか、ヨシュアの子孫・・・つまりサマリアびとを裏切った者は、ユダ族だと言うことか?」

 

「もちろんそのこともね、だが、それだけでなく、エジプト脱出以来、ヨシュアからイエスにいたる純粋のモーセ=イクナトンの教えを、異端として葬ろうとするのは誰か? それは、ユダとレビとベニヤミンの三部族だ・・・」

 

「なるほど、それをイスカリオテのユダになぞらえたか・・・となると、ユダに裏切られたイエスと、残りの11人の弟子たちは消えた十部族を象徴する効果もあるわけだな?」

 

「そこで、さっきの〈ヨハネ〉の11章にでてくる、イエスが身の危険を感じてエフライムという町にかくれた話を思い出してみるとね、新約聖書にはそこ以外にはまったくエフライムという名が出てこないが、それだけにかえって、イエスを中心にしてエフライムを復興させようとする、かくれた運動があったのではないか? と想像したくなるんだ。

なぜか、というと、使徒行伝に、イエスの死後、最初の殉教者といわれるステファノが殺されると、それにひきつづいて、まだキリスト教に転向していなかったパウロ・・・当時はサウロだね・・・が、先頭に立って、キリスト教徒の家に押し入って、男や女をひきずり出して、つぎつぎに獄に渡して、教会を荒し廻った。

 

注;紫門

バチカンで第一の聖人とされるパウロは

取税人であり、初期教会を弾圧しまくっていた

しかし教団への寄付金が金になることを知って寝返った

初期教団が全財産を寄付させたことは使徒行伝に詳しい

西洋キリスト教はパウロによる集金教団となった

シリア教会や景教やロシア正教はイエス正統派なのです

そしてイエス正統派福音書は大乗仏教、特に法華経に意訳され

日本に上陸しました

 

 

そこで『散らされて行った人たち(イエスの弟子たち)は、御言(みことば)を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。(その中の一人)ピリポはサマリアの町に下って行き、人びとにキリストを宣べはじめた。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、こぞって、彼の語ることに耳を傾けた』(8-4~6)と書いてある。

・・・要するに、イエスの信仰が、どこよりも早く爆発的に拡がりはじめたのはサマリア地方だったのだ。しかも、それは、パウロたちがおこなったような、ギリシャ語による布教ではなくて、アラム語による布教だったのだ・・・。ということは、今日われわれが、ギリシャ語やラテン語による福音書を通じてだけ理解しているイエスの教えとは、かなりちがう内容のものが、サマリア地方では語り伝えられていたのかもしれない。・・・そして、その秘密の教義が、例のアラム語によるイエスの教えを大切にする人びとの間だけに、ひそかに語りっがれて行った・・・だからこそ、その流れを汲むシリア教会の人たちは、旧イスラェル王国の地域ばかりでなく、ユダヤから、シリア地方全体を、エフライムと呼んでいたのではないだろうか?・・・」

 

「そうするとそのシリア教会が、中国に伝来したとき、シリアからバレスティナ一帯のことを、遏拂菻(Ephrim)とか拂菻(Phrim)とよんでいた、それが中国の歴史にまで残ることになった、という次第だな」

 

「もし、そうだとしたら、あの長安の石碑に刻まれてある『大秦景教』・・・つまりエフライム景敦・・・という言葉の意昧は、イエスの教えまでで止まらないんですね、ヨシュアからヤコブの子のヨセフにさかのぽって、もしかしたら、エジプトの唯一の神アトンにまで、つづいていくのでしょうか・・・」

私はほとんど独り言をつぶやきながら、降りつづいている雪の、無音の響きを五体で聞いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大秦景教流行中國碑」です。

 

 

 

 

景教と言えばアジアを伝播したキリスト教の呼称です。

 

その景教(キリスト教)が中国で流行したよという記念碑のレプリカが

 

どうして高野山にあるのでしょう?