海のない奈良に船を見に行く | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今日は、奥様は高校時代のお友達と松竹新喜劇を観覧に行く、とのことで朝からお出かけしていきました。

ということで、いつもの「ひとりでお出かけ」です。

今日のお題目は「海のない奈良に船を見に行く」です。

 

10時半に最寄駅から南海電車に乗って難波へ。

難波から近鉄電車に乗って、大和西大寺へ。

 

阿部元首相の暗殺現場付近は、事件当時は工事中でしたが、今ではきれいに整備が終わっていました。

 

大和西大寺駅に着いたところで、小雨が降りだしました。

雨にも負けず、南東方向へ歩いていきます。

大きな公園に入り、進んでいくとこんな建物が目に入ります。

 

平城宮跡「朱雀門」

 

こんな所に「船」?

ですが、ここからさらに南に行くと、これが鎮座しています。

 

「復原遣唐使船」

 

こんな所に船がありました。

この船は、平成22年の平城遷都1300年祭に際し、静岡県賀茂郡松崎町の岡村造船所で建造され、同年開館の平城京歴史館の開館と合わせて展示されていました。

平成28年に平城京歴史館は閉館し、遣唐使船の公開も中止されていましたが、平成30年の平城宮跡歴史公園朱雀門ひろばの開園とともに遣唐使船も改めて公開されています。

 

【要目】

 排水量:300トン、積載荷重:150トン

 全長:30m、全幅:9.6m

 引用:現地説明版

 

右舷から見た「復原遣唐使船」

 

この船、甲板に上がることができます。

 

船首には低い船首楼甲板があり、木製の錨が巻き上げられています。

 

船体中央付近から見た船首

 

船首に巻き上げられた木製の錨

 

同じく船尾にも低い船尾楼甲板があり、こちらには舵の頭が出ており操舵する場所となっており、また港に入る際などには舵を巻き上げる設備もあります。

 

甲板上から見た船尾

 

①舵の巻上器 ②舵の心材 ③舵柄(舵を回す棒・②の穴に差し込んで使う)

 

この船は、上記の船首楼・船尾楼とともに、甲板上には船首側から「雑居部屋」「賄い部屋」「遣唐大使の部屋」3つの構造物があります。

 

「復原遣唐使船」の横に設置されている説明版

 

これは、船型の名称から見ると、船首楼・船橋楼・船尾楼の3つがある「三島型」ならぬ「五島型」とでも呼ぶような形態です。

 

代表的な船型(引用:Wikipedia)

(Tosaka - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3617480による)

 

復元された遣唐使船は、5月2日に訪問した奈良国立博物館の「空海展」で展示されていた「弘法大師行状絵詞」にある絵などを基に建造されています(奈良国立博物館で「空海」を知る)。

 

「弘法大師行状絵詞」に書かれた遣唐使船

 

ですが、現地の案内板にはこのように記載されています。

「復原にあたって

遣唐使の資料は公式記録として残っていますが、その往復に使用した「船」に関しては殆ど資料がなく、どのくらいの大きさかを示す数字は残っていません。

大きさを推定する手掛かりとして、奈良時代の資料に約600人を4隻の船で派遣したのと記録があります。船の大きさが同じだったとすれば1隻あたり150人、航行中は何人かは起きているでしょうから、約100人が寝るために必要な面積を考えると、船の長さは25~30m、幅は長さの1/3~1/4程度として7~10mとなります。この大きさであれば、150人分の水と食料や荷物などを積むのに十分な容積でしょう。

遣唐使船として教科書に出ている絵は、大部分が「吉備大臣入唐絵詞」という絵巻物の絵ですが、この遣唐使船を描いたもっとも古い絵巻物は、最後の遣唐使派遣から400年程度後になってから描かれた絵です。その頃には宋の商人が博多に来ていましたから、宋の船を参考に描いた可能性があります。しかし、実際に唐に派遣されていた時代の船の資料はありませんから、確かな根拠もなしに見慣れた船と違う船を造るのは避けて、「吉備大臣入唐絵詞」同じに見えるような船を作ってあります。

初期の遣唐使船はともかく、奈良時代の遣唐使船は2本の帆柱に網代帆を上げていたのは間違いないでしょう。なお「続日本紀」に百済船の建造の記録がありますので、当時の百済船は優秀だったのでしょうが、それがどんな船だったのかも、残念ながらこれも資料が残っていないのです。  松木哲」

 

おっと、参考は「吉備大臣入唐絵詞」らしいです。

では、それはどんな船なのか? Wikipediaにありました。

確かに「弘法大師行状絵詞」の船と比較すると、五島型船型は同じですが上部構造物と帆柱の位置などが違いますね。

 

「吉備大臣入唐絵詞」(引用:Wikipedia)

(不明 - http://www.mfa.org/collections/object/minister-kibi-s-adventures-in-china-scroll-1-29077, 

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=32461673による)

 

ちなみに、説明版にも出てきた「網代帆」とは、多数の割り竹で編まれた帆で、次の写真のような竹で組んだ板を繋いで作られており、大陸方面で盛んに用いられた「ジャンク」船と共通する構造を持っています。

 

下から見た、たたまれた状態の網代帆

 

空海は、延暦23年(西暦804年)に藤原葛野麻呂が率いた第18回遣唐使船に乗り組み、唐へ向かいました。

唐に到着後、長安青龍寺の恵果和尚に師事しますが、そこで恵果は空海の類稀なる能力を見込んで密教の奥義を伝授します。

そして、唐に入ってからわずか1年で遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を得て、その地位を確立し、出発した2年後の元和元年(西暦806年)には密教の経典や曼荼羅など多数の文物を持ち帰り、後に真言密教を広めていくこととなります。

 

この頃の遣唐使船の航路は、「南路」と呼ばれる現・大阪の難波津を出港し、博多を経て東シナ海を渡り直接大陸の揚子江河口付近に向かうのですが、よくこんな船で大陸を目指したもだと感心します。

 

遣唐使の航路(引用:Wikipedia)

(Brionies - 投稿者自身による著作物, パブリック・ドメイン, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3401774による)

 

実際、空海が渡った第18回遣唐使では4隻で博多を出港したものの、空海の乗った第1船と最澄の乗った第2船のみが唐に達し、他の2船は難破したことから翌年に2隻を追加で派遣しています。

 

今日は、雨の止み間に水面に移る「復原遣唐使船」を見ることができました。

空が晴れていれば、もっと映えていたと思いますが…。

 

水面に移る「復原遣唐使船」

 

しかし、見るからに重心が高く貨物を積んでようやく安定しそうな船型で、こんな船で外洋に乗り出すのは勘弁願いたいと思うような代物ですね。

 

十分堪能した後、敷地の西隣にある「お好み焼き・鉄板焼き きん太 奈良二条大路店」さんで、お好み焼き・ミックスで遅めの昼食にしました。

 

「お好み焼き・鉄板焼き きん太 奈良二条大路店」さんの「お好み焼き・ミックス」

 

ここは、「平城宮跡歴史公園」の南端で、「第一次大極殿」などの復元された建物等は北端にあります。

そちらも行ってみたかったのですが、どうも1,700mを歩く必要があるようですので、次回に回すことにしました。

 

朱雀門前から見た第一次大極殿と手前を走る近鉄・観光特急「あおによし」

 

ということで、本日は「海のない奈良で船を堪能する」、有意義な一日でした。

 

右舷後部側から見た「復原遣唐使船」

 

【参考文献】

 Wikipedia および