小笠原・父島 今も残る戦没船「濱江丸」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今週はゴールデンウイーク明け。

仕事が色々と動き出し、結構目まぐるしい一週間でした。

午前中はかかりつけの医院に行き、処方箋をもらって医院の筋向かいにある薬局で薬をもらってきて…。

疲れが溜まっていたのか、久しぶりに昼寝をしてしまいました。

 

昼寝から目覚めて、ネットで画像検索をしながらツラツラ見ていたら、こんな写真が目に入りました。

クリックするとWikipediaに飛んだのですが、そこは「濱江丸(ひんこうまる)」という船のページでした。

 

「濱江丸」の機関部(引用:Wikipedia)

(Kaz Ish, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=54293943による)

 

ダイビングをする方には結構有名な船のようで、場所は小笠原諸島・父島の境浦海岸です。

今回は、この「濱江丸」を取り上げてみます。

 

「濱江丸」は、時日本の統治下にあった関東州に拠点を置く船会社の大連汽船が建造を計画した「龍江丸」級貨物船6隻のうちの1隻として、兵庫県の播磨造船所で昭和10年11月に起工され、昭和11年6月に進水、同年9月に竣工しています。

【要目】

 総トン数:5,419トン、積貨重量:7,737トン、

 垂線間長:120.4m、幅:16.16m、深さ:9.14m 

 機関:三連成レシプロ機関×1、主缶:円缶×3、推進軸:1軸

 出力:4,260馬力、最高速力:16.00ノット

 ※引用:本邦建造船要目表(1868-1945)」日本船用機関学会、

     船用機関調査研究委員会、1976年5月、海文堂、P.144-145

 

大連汽船・貨物船「濱江丸」(引用:Wikipedia)

(不明 - "Japan ship Pictorial", 1937, p.88『海と空臨時増刊 1937年度版日本船舶画報』海と空社、1937年、p.88,

 パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38399045による)

 

「濱江丸」の船体は油槽船によくみられる船尾機関型で、鉱石運搬に適した設計となっていますが、船倉上に換気用のベンチレーターが設置され、鉱石以外の通常貨物の運搬も考慮されていました。

荷役設備は、同型船のうち「龍江丸」「松江丸」「三江丸」が3基の門型デリックポストになっているのに対し、「濱江丸」は船橋前方と船体後部は単脚型のポストとなっており、船容が異なっていました。

 

また、「龍江丸」型の設計は、1TM型戦時標準船(油槽船)の設計の参考されたと言われます。

 

「濱江丸」進水記念

(引用:HP「海上自衛隊 父島基地分遣隊」)

 

就役後の「濱江丸」は、満州産の石炭の日本本土へ向けた輸送に従事しています。

「濱江丸」は大東亜戦争の開戦後も、引き続き民間船としての運用が続いていましたが、昭和18年春頃に船舶運営会に徴傭されたようで、徴傭後は大連・青島と北海道・九州などを結んだ輸送に運用されています。

 

その後、昭和19年4月に帝国海軍により一般徴傭船(雑用船)に編入されます。

昭和19年5月17日には、第3515船団に参加し千葉・館山沖からサイパン島へ向け出航し、5月25日には無事サイパン島に到着します。

さらに5月28日にはグアム島に向け移動し、翌29日にはグアム島で空襲を受けますが、航行に支障はなく6月9日にはサイパン島へ移動します。

 

この時、米国軍がサイパン島へ侵攻してくる情報を受け、6月11日に「濱江丸」は第4611船団に加入して内地へ退避すべくサイパン島を出港します。

 

サイパン島で空襲を受ける帝国海軍艦艇と日本船舶(引用:Wikipedia)

(National Archives 80-G-238705 - https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/80-G-238000/80-G-238705.html, 

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=103787939による)

 

6月12日には船団は米国海軍機動部隊の空襲を受けて壊滅状態となり、「濱江丸」も後部甲板に爆弾1発が命中し死者8名、負傷者18名を出し舵が故障してしまいます。

それでも「濱江丸」は、乗組員の懸命な努力により6月19日には缶1基を使用しての航行が可能となり、内地に向かい航行を続け6月21日には硫黄島へたどり着きます。

 

更に6月24日に母島、翌25日には父島の二見湾に碇泊し船体の修理にかかります。

しかし、7月4日に小笠原諸島に飛来した米国海軍機動部隊による空襲を受け、被弾はなかったものの沈没を防ぐため境浦海岸に擱座し、前後左右をワイヤーロープにより陸上に固定する処置を行います。

 

さらに、8月4日から5日にかけて行われた米国海軍機動部隊の空襲により、「濱江丸」は5日に魚雷の命中を受けて炎上したことから、全損・放棄されることとなりました。

 

「濱江丸」は、戦後もそのままの状態で境浦海岸に残されたままとなり、近年は戦争遺跡として小笠原村の観光スポットの一つとなっています。

 

戦後・船体が残っていた時期の「濱江丸」

(引用:HP「海上自衛隊 父島基地分遣隊」)

 

風雨にさらされた船体は、近年は風化が著しく、海面には機関部などごく一部が露出しているのみとなっています。

 

平成23年4月時点の「濱江丸」(引用:Wikipedia)

(タクナワン - 投稿者自身による著作物, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15038045による)

 

父島を含む小笠原諸島は、昭和43年6月に日本に復帰するまで米国の統治下にありました。

日本復帰後は、東京都小笠原村となり観光を主産業としています。

小笠原諸島には、「戦争の遺物」として父島を中心に多数の戦没船が存在しており、ダイビングスポットとして重要な観光資源となっています。

 

令和6年現在の「濱江丸」(引用:Google Map、加工)

 

観光資源となることに対しては、地元に暮らす方々にとっても良いことだと思います。

観光に際して、少しでもその歴史について知っていただければ、より有意義なものになると思います。

 

いつか行ってみたいと思いますが、父島へ行くには、往路は東京(竹島桟橋)からの小笠原海運の貨客船「おがさわら丸」で24時間、観光した後の復路は父島を到着3日後の出航で同じく24時間かかるので、東京往復で6日かかります。

サラリーマンには少々敷居が高いですね。

 

小笠原海運・貨客船「おがさわら丸」(引用:Wikipedia)

(Ootahara - 投稿者自身による著作物, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=56561194による)

 

【参考文献】

  Wikipedia および

 

 

 

【Web】

 HP「大日本帝國海軍特設艦船 DETA BASE」(戸田S.源五郎氏)

 

 HP「海上自衛隊 父島基地分遣隊」

https://www.mod.go.jp/msdf/cjbf/index.html

 

 HP「小笠原海運」