祖父の足跡を偲ぶ 当時の満洲国・佳木斯の街 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今日は一日雨。奥様は午後から高校の同窓会でお出かけ。

私は、家で大人しくしていましたが、夕方に息子が下宿へ帰るための切符を買うことになり、少しお出かけ。

ネットで購入できるようにしておけば良いのですが、そこは「いつもニコニコ現金払い」世代のため、JRの駅まで行って購入してきました。

 

ついでに夕食にすることにして、「丸源」さんに寄り道を。

 

丸源さんの「肉そば」

 

話は変わって、今回は船の話ではありません。

以前、祖父の軍歴について記載したことがあります(祖父の軍歴をたどる)。

 

祖父の所属連隊である歩兵第六十三連隊は、三江省鶴立県興山にありました。

 

祖父の従軍履歴・往路

 

興山に着任後、約3ヵ月で罹病のため興山分院に入院4か月間入院したのち、興山陸軍病院に転送されています。

しかし、病状が思わしくなかったのか、20日ほどでこの地区の中心地で三江省の省都であった佳木斯(ジャムス:現・中国黒竜江省佳木斯市)にあった佳木斯第1陸軍病院に転送されます。

ここで2か月ほど療養し、その後内地に送還されています。

 

この「佳木斯」について、少々調べてみようと思いネットで古書を探してみると、こんな書籍に行き当たりました。

 

「佳木斯事情 復刻版」

 

書籍の名は「佳木斯事情」で、編輯人:宮崎義友・春名幸、昭和11年12月、東文社発行のもので、1986年6月にアートランド社から復刻されたものです。

 

この中には、当時の佳木斯の状況が記載されています。

満洲歴の康徳3年(昭和11年)3月現在の人口は38,469人、うち日本人が1,657人。

出港貨物は大豆・小麦が主で、入港貨物は雑貨が6割強を占めています。

また、日本人学校には75名の児童がいました。

交通機関としては、鉄道が建設中(昭和12年には図佳線(図們-佳木斯)、昭和15年には綏佳線(綏化-佳木斯)が開通)、夏季には松花江の海運が通じており、市内には乗合自動車・馬車が運行されていました。

 

佳木斯市街図(引用:「佳木斯事情 復刻版」、口絵)

 

当時の夏季における松花江・佳木斯江岸はこんな感じでした。

冬季になると松花江は凍結するので、船運は使用できなくなります。

松花江・佳木斯江岸(引用:「佳木斯事情 復刻版」、巻頭写真)


また、いくつか古写真も入手しました。

それによると、市街地は「街」を形成していたことが分かります。

 

佳木斯・中央東大街(引用:当時の古写真)

 

佳木斯・中央西大街(引用:当時の古写真)

 

また、佳木斯は当時の三江省の省都でもありました。

 

三江省公署(引用:当時の古写真)

 

そして、街のシンボルは満州事変に際して松花江方面で戦病死者の慰霊を目的として建設された「忠霊塔」でした。

 

佳木斯忠霊塔(引用:当時の古写真)

 

これらの風景を祖父が見たかどうかは不明です。

それでも、祖父の大陸における足跡の中でも比較的長い期間滞在(入院ではありますが)していた佳木斯の街について知ることができ、少しではありますが祖父が身近になってきたように思います。

 

一度訪ねてみたい気もしますが、スパイ防止法が施行された中華人民共和国には足を踏み入れる勇気はありません。

残念ですが、当時の写真や文献で偲ぶしかありませんね、

 

【参考文献】

 「佳木斯事情 復刻版」1986年6月、アートランド社

  ※底本「佳木斯事情」編輯人:宮崎義友・春名幸、1936年12月、東文社