山口・周防大島への旅 その3終 帝国陸軍・船舶管理の拠点へ | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

前回、周防大島からの帰りのフェリーまで進んだ、周防大島への旅。

 

今回は、フェリーが柳井港に到着したところからになります。

11月3日の12時過ぎに柳井港へ到着、昼食にしようと辺りを探します。

 

JR柳井港駅の短い駅前通りに1件の食堂を発見。

 

柳井港駅前の「食堂スズヤ」さん

 

ここで昼食とし、注文したのはカツ丼。

 

「食堂スズヤ」さんのカツ丼

 

卵閉じで野菜がたっぷり。カツがほとんど見えません。

見た目には「?」な感じでしたが、このカツ丼、めっちゃ美味しかったです。

満足しました!ありがとうございました。

 

昼食を終えても、まだ12時台なのでもう1カ所くらいは回れそうです。

そして、あることをきっかけにして東へ向かうことにしました。

 

無人駅のJR柳井港駅12時50分発の岩国駅行きの普通列車に乗り、山陽本線を一路東へ。

 

JR柳井港駅

 

そして、岩国駅で広島駅行きの普通電車に乗り換え、さらに東へ向かい広島へ。

 

実は、出張の前の週からある書籍を通勤電車の中で読んでおり、厚狭へ向かう新幹線の中で読み終えたばかりでした。

その書籍は、2021年7月に講談社から出版された堀川惠子氏の「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」という書籍です。

 

「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」

 

内容は、帝国陸軍に兵站や上陸作戦を行うための船舶の開発や管理、また戦時に徴傭した民間船舶の統率・管理等を行う専門組織として設置されていた「船舶司令部」の歩み、およびこの組織の基礎を築き「船舶の神」と呼ばれた司令官の田尻昌次中将、そのあとを受け大東亜戦争に翻弄され、原爆救援の初動を担った佐伯文郎中将、また戦時中の一時期司令官として水上特攻に踏み切った鈴木宗作中将を中心に展開されるドキュメンタリーです。

 

他国では、海上軍事輸送は海軍が担当しますが、当時の大日本帝国では陸軍の兵員輸送は陸軍、海軍は護衛等で協力のはやぶさかではない、という整理がなされており、兵員輸送等に使用する船舶の管理は、基本的に帝国陸軍が行う必要がありました。

このため、帝国陸軍では世界でも珍しい「船舶司令部」なる組織を、日清戦争時から陸軍の訓示城下町となっていた広島の港である宇品に置いていました。

 

この書籍の内容に触発され、これまであまり眼中になかった「帝国陸軍の中の海軍」ともいえる船舶管理の中心となった広島市の宇品港に行ってみようと思ったのです。

 

JR広島駅に着いた後、広島電鉄の5号線・比治山下経由の広島港行路面電車に乗車します。

 

広島駅電停に侵入する1000形電車

 

広島駅電停から電車に乗り、一度「宇品二丁目」電停で下車します。

宇品港(現・広島港)に行く前に、寄り道として向かったのは「広島市郷土資料館」。

 

「広島市郷土資料館」

 

この建物は、帝国陸軍の糧秣支廠(缶詰工場)として建造されたもので、内部はすっかり改装されていますが、外壁・屋根は当時のまま残されており、原爆の被害に遭った数少ない建物のひとつとして広島市の重要有形文化財に指定されています。

 

「旧陸軍糧秣支廠建物」の説明版

 

資料館の展示物を一通り見て回った後、再び「宇品二丁目」電停から「元宇品口」電停へ向け路面電車に乗ります。

広島の路面電車は次々来るので、あまり待つことなく便利ですね。

 

「元宇品口」電停からは、フェリー乗場には向かわず、帝国陸軍の桟橋のあった旧宇品港方面へ向かいます。

 

広島港

 

ここから、港の東端まで遊歩道になっているので、歩いていきます。

 

東端の桟橋には海上保安庁の巡視艇がいました。

 

海上保安庁の桟橋

測量船「くるしま(HS-27)」(左)と巡視艇「あきかぜ(CL-185)」

 

そしてこの桟橋への通路の陸側が、今では「六管桟橋」と呼ばれる旧陸軍桟橋です。

 

写真手前右側が「六管桟橋」

中央が「パラダイスの塔(広島港築港100周年記念モニュメント)」

 

「六管桟橋」の説明版には次のように書かれています。

『明治22年に築港された宇品港は、日清・日露戦争を契機に、昭和20年まで主に旧陸軍の軍用港として使用されてきました。その中心的役割を果たしたのが、明治35年に軍用桟橋として建設されたこの六管桟橋です。

 この桟橋は、戦争中は多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国を迎え、広島の歴史を見守ってきた貴重な証言者です。また、築港当時の唯一の施設であり、歴史的、建築的にも高い価値があります。

 戦後は、海上保安庁の船舶の係留に使用されてきましたが、1万トンバースの増設に伴い、護岸としてその姿を残しています。

 宇品港の名称が改められて広島港と呼ばれるようになってからも、ずっとその歴史を刻んできたこの桟橋は、広島の歴史そのものです。

 桟橋の石積みを公園の護岸として保存し、一部を展示しています』

 

「六管桟橋」の説明版

 

またこの周辺は「宇品波止場公園」と呼ばれていますが、公園内にはこんな碑もありました。

 

陸軍桟橋跡記念碑

 

そして、ここから「海岸通り」と呼ばれる大通りを陸側に渡ると「宇品中央公園」があり、このにもこんな碑があります。

 

「旧蹟 陸軍運輸部船舶司令部」の碑

 

この場所が帝国陸軍の船舶司令部が置かれていた場所でした。

そして「暁の宇品」の冒頭に記載されていた「宇品凱旋館 建設記念碑」もありました。

 

「宇品凱旋館 建設記念碑」

 

「宇品凱旋館」は、船舶司令部の中核的な建物として建造され、昭和15年11月に全館が完成したコンクリート3階建で、昭和45年に老巧化により解体されています。

 

「宇品凱旋館」

(引用:「宇品港 広島の海の玄関の物語」2018年2月、広島市郷土資料館、P.67)

 

この碑は、「船舶の神」と呼ばれた田尻昌次中将が、越権行為を厭わぬ渾身の内容を記載した意見具申を提出後、司令部の建物で発生した謎の不審火により司令官を諭旨免職される前月の皇歴2600年(昭和15年)2月21日となっています。

著者の堀川氏は、この碑の記載内容から田尻中将と船舶司令部の物語を紐解いていきます。

 

ここで、日が傾いてきたことから路面電車に乗り広島駅へ、そして新幹線で帰途に着きました。

当然、帰りはこうなります。

 

新幹線車内での一人飲み

 

私はこれまで帝国陸軍にはあまり興味がなかったのですが、「暁の宇品」から「帝国陸軍の船舶の物語」と、この旅の前のブログ「戦争最前線での「漁業」任務・近海鰹漁船「盛徳丸」」の底本とした中村隆一郎著「常民の戦争と海」で取り上げられた、帝国陸軍に徴傭された漁船の物語などを通じ、またその拠点であった「宇品」を訪れたことで、興味が沸いてきました。

また、時折帝国陸軍の話も取り上げてみたいです。

 

昭和20年8月の宇品港周辺

赤囲みが帝国陸軍船舶司令部、青囲みが陸軍桟橋

船舶司令部の北側から右上に延びるのが、鉄道省宇品線(昭和61年10月廃止)

(引用:HP「地図・空中写真検索サービス」国土地理院/USA-SM20-1091:トリミング)


ということで、当初は周防大島への旅でしたが、途中で広島・宇品を加えた旅を終了します。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

 

【参考文献】

Wikipedia および 

 

 

平成29年度広島市郷土資料館特別展「宇品港 広島の海の玄関の物語」

 2018年2月、広島市郷土資料館

 

【Web】

 HP「地図・空中写真検索サービス」国土地理院