先日からある書籍を読んでいました。
出版当時は和歌山県の高校教師をされていた中村隆一郎氏の著作「常民の戦争と海」という書籍で、1993年8月に東方出版から刊行されたものです。
「常民の戦争と海」
副題に「聞書 徴用された小型木造船」とあり、大東亜戦争中に様々な形で徴傭され、フィリピン、蘭印および南洋方面へ向かった和歌山県の漁船の経歴や、その状況について丹念な調査を基に記載されているものです。
この中で「漁撈隊」という存在を初めて知りました。
戦場において食糧調達のために漁を専門に行うために、帝国陸軍に徴傭された漁船で編成されニューギニア方面へ派遣された隊が「漁撈隊」と呼ばれたようです。
「漁撈隊」は、何度か編成されたようですが、この書籍には第2次隊として送り込まれた和歌山県田辺市芳養浦の総トン数20トン、乗組員15名ほどの沿岸漁業用の鰹漁船「盛徳丸」のことが書かれています。
戦前の20トンクラス近海漁船(鯖釣り漁船)の外形図
(引用:「戦う日本漁船」大内建二、2011年10月、光人社、P.200-201)
徴傭時の乗組員であった川口増吉氏からの聞書によると、「盛徳丸」は昭和18年暮れに徴傭の連絡があり、当時帝国陸軍の船舶司令部のあった広島・宇品港に向かっています。
宇品港では全国各地から漁船が集められており、「お前たちは本来の仕事すなわち漁師の本領を発揮しつつこの聖戦に直接参加する。南方で魚を取りそれを兵隊の食糧にするのである」というありがたい訓話を受けたのち、年が変わり昭和19年に入ってから船団を組んでニューギニアへ向け宇品港を出港しました。
「漁撈隊」に配属されたのは沿岸漁業用の小型漁船のため、太平洋を縦断するような航海を想定しておらず、困難な航海を半年続け何とか到着したのは、ニューギニアではなく現インドネシアのセレベス島でした。
この時、先発した第一次漁撈隊船団はすでに全滅しており、第三次漁撈隊船団は目的地に向かう途中のフィリピン海域で大半が撃沈されてしまったそうです。
セレベス島(現・スラウェシ島)の位置(引用:Google Map:加工)
セレベスに到着した「盛徳丸」は、メナドの南側でシビ縄漁(シビは東北・和歌山方面を主に九州方面でもマグロ類全般を言い、マグロ漁法でシビ縄という全長数キロもの長さになる、はえ縄を流し行う漁)を1ヵ月ほど行います。
しかし、メナドの基地への爆撃が始まると軍から南下するように言われ、軍の高官40名と無線機を積んで7隻の船団でセレベス島の西側を南下していきます。
しかし途中空襲で5隻が失われ、「盛徳丸」と東北から徴傭された漁船の2隻のみが南端のマカッサルの近くまでたどり着きます。
ところが、ここで「北にはまだ兵隊がたくさん残っている。北が包囲されたら自活していけるようにモミ、カボチャの種、北に残してきた三機の飛行機のガソリン12本を持っていけ」と言われてしまいます。
そして、乗組員を若手の6名に絞って北に向かい1週間ほど進んだところで、遠くに敵機が見えたためや山陰に船を隠したものの、今度は山側から敵機が現れ爆撃を受けてしまいます。
「盛徳丸」は積んでいたガソリンに引火、船員達は船から飛び降りたものの船は爆発・四散してしまいます。
乗組員たちは陸を南下し、40日ほどかけてなんとかマカッサルまでたどり着き、終戦までそれぞれが軍から仕事を割り振られ陸上での任務を行う中で終戦を迎えます。
この「盛徳丸」は、その船員の方々が戦争から生還されたことからこのような記録が残っていますが、第三次漁撈隊船団のように目的地にたどり着く前に撃沈されてしまったり、外洋での航行に耐えられず遭難し乗組員の全員が犠牲となった場合、その最期の記録すら残っていない漁船も多数あると思われます。
戦前の沿岸漁業用小型漁船
(引用:「戦う日本漁船」大内建二、2011年10月、光人社、P.35)
また、「漁撈隊」として最前線で漁をしなければならないほど糧秣輸送は困難を極め、さらにはこれらの船も海上トラックとして兵士や物資輸送に駆り出されるほど、帝国陸海軍の兵站は崩壊していたことが如実に現れている状況が見て取れます。
このような最前線における「漁業」のために徴傭された事実について、今では全くと言っていいほど知られていないと思います。
私も今回初めて知った事実として、取り上げておきたいと思いました。
大東亜戦争において喪われた漁船は1,595隻と言われていますが、帝国陸軍では徴傭した小型船の記録が残っていない例も多々あり、実態が判明しないまま忘れ去られようとしています。
昭和13年6月・安慶攻略へ向かう部隊に従う漁船群
(「常民の戦争と海」中村隆一郎、1993年8月、東方出版、P.10)
【参考文献】