100年少し前のパンデミック・巡洋艦「矢矧」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

新型コロナも発症から4日目となり、体調も回復しました。

それでも、外に出ることができず、一日家の中でじっとしているのも辛いですね。

 

ところで、一昨日に三菱重工長崎造船所で建造中の護衛艦「やはぎ(FFM-5)」が進水しました。

「やはぎ」は「もがみ(FFM-1)」型護衛艦の5番艦で、令和3年6月に起工されており、令和5年12月に就役する予定です。

【要目】

 基準排水量:3,300トン、満載排水量:約5,500トン、

 全長:133m、幅:16.3m、吃水:4.8m

 機関:ガスタービン機関×1、ディーゼル機関×2(CODAG)、

 推進軸:2軸、乗員:約90名

 出力:70,000馬力、、速力:30ノット以上

 兵装:127mm単装砲×1、17式SSM4連装発射機×2、

     VLS16セル(07式アスロックSUM、後日装備)、

     シーRAM近接防御SAM11連装発射機×1、

     3連装短魚雷発射管×2、掃海具一式、

     簡易型機雷敷設装置一式

 搭載機:SH60J/Kヘリコプター×1

 ※引用:世界の艦船増刊「海上自衛隊2022-2023」No.976、

       2022年7月、海人社、P.44

 

 

進水した護衛艦「やはぎ(FFM-5)」

(引用:海上自衛隊Twitter)

 

先代の「やはぎ」は、大東亜戦争において戦艦「大和」とともに沖縄に向け出撃し撃沈された二等巡洋艦「矢矧(二代目)」ですね。

 

二等巡洋艦「矢矧(二代目)」(引用:Wikipedia)

(Imperial Japanese Navy official photograph per naval achives kept at museum - Mikasa Memorial Museum, Yokosuka, Japan, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2414434による)

 

 

二等巡洋艦「矢矧」については、以前ブログで取り上げていますので、リンクを張っておきます。

昭和20年4月7日・戦艦「大和」とともに戦没した巡洋艦「矢矧」

 

そして初代も二等巡洋艦で「筑摩(初代)」型の3番艦でした。

初代「矢矧」は、長崎の三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で明治43年6月に起工され、明治44年10月に進水、明治45年7月に竣工しています。

【要目】

 常備排水量:5,000トン、垂線間長:134.1m、幅:14.2m、平均喫水:5.1m

 主機:パーソンズ式直結蒸気タービン機関×2、推進軸:4軸

 主缶:イ号艦本式缶(重油・石炭混焼)×16、乗員数:414名

 出力:22,500馬力、速力:16.0ノット

 兵装:15cm45口径短装砲×8、8cm40口径単装砲×4、

      45cm水上魚雷発射管×3

 装甲:水線:89mm、甲板:57mm

 ※引用:世界の艦船「日本巡洋艦史」増刊第32集、

       No.441、1991年9月、海人社、P.60

 

二等巡洋艦「矢矧(初代)」(引用:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=908966)

 

「筑摩」型は速力の向上を目指し、帝国海軍の巡洋艦として初めて蒸気タービン機関を搭載しています。また、「矢矧」と川崎造船所で建造された2番艦「平戸」は、ともに帝国海軍では初めて民間で建造された巡洋艦となりました。

 

「矢矧」は第一次世界大戦において、南洋諸島占領作戦に参加し、さらに南シナ海、インド洋、スルー海での作戦に従事しています。

大正7年10月に「矢矧」は二等巡洋艦「千歳」との交代するため、豪州・シドニーを出航して艦隊司令部のあったシンガポールに11月9日に入港します。

この年は世界的にスペイン風邪が流行しており、他の艦艇にも被害者が出ていましたが、「千歳」の到着まで時間があったことから、シンガポール市街を前に乗組員を艦内に閉じ込めておくのは士気に影響すると判断した艦長は、乗組員の半舷上陸を許可しました。

 

大正7年11月30日にシンガポール出航した「矢矧」艦内はスペイン風邪が蔓延し、12月5日にフィリピン・マニラに入港した時には、乗組員が上下甲板の至る所に倒れてうめいているという状態となり、乗組員(便乗者含む)のうち442名が発症、183名が入院し48名が殉職しています。

 

このスペイン風邪による惨禍を悼み、大正10年1月に英国墓地サンピドロ、マガチに墓碑銘が刻まれた「在馬尼剌軍艦矢矧病没者墓碑」が建設され、納骨式が行われています。

 

在馬尼剌軍艦矢矧病没者墓碑

(引用:HPアジア歴史資料センター:Ref:C10080416900:「軍艦矢矧流行性感冒に関する報告」)

 

また、呉の旧海軍墓地には「軍艦矢矧殉職者之碑」が建立されています。

 

呉市・旧海軍墓地の「軍艦矢矧殉職者之碑」

 

「矢矧」は大正12年からおもに大陸水域の警備活動に従事しますが、老巧により昭和15年4月に除籍され「廃艦第十二号」と仮称 、呉海兵団の練習船として使用され、昭和18年には広島・大竹に回航し海軍潜水学校で使用されその場で終戦を迎えています。

そして、昭和22年1月から7月にかけて、山口の笠戸ドックで解体されました。

 

百年と少し前のウィルス感染症であるスペイン風邪では、この「矢矧」でパンデミックが起きていたほか、国内では集団生活をしなければならない帝国陸軍の兵舎や大相撲の部屋などからパンデミックが起きたことから国内での蔓延が始まったとしている資料もあり、「相撲風邪」とも呼ばれていたと言います。

 

新型コロナ感染の拡大が始まった時期に、「矢矧」のことが一部のメディアに取り上げられていたのは記憶にあったのですが、今回自分が感染したことから、改めてネットで調べてみました。

 

身を持って体験した感じでは「特に体力の落ちている方は重症化するかも」でした。インフルエンザもそうですが。

みなさんも、新型コロナの感染にはくれぐれも気を付けください。

 

二等巡洋艦「矢矧(初代)

(引用:「日本軍艦写真集2600年版」1940年7月、海軍研究社、P.44)

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 

 

 ※参考文献は「1991年9月号増刊」の旧版

 

 「日本軍艦写真集2600年版」1940年7月、海軍研究社

 

【Web】

 Twitter「海上自衛隊公式」

 HP「アジア歴史資料センター」

 HP「国会図書館デジタルコレクション」