昭和20年4月7日・戦艦「大和」とともに戦没した巡洋艦「矢矧」 | 艦艇・船舶つれづれ

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三日後の4月7日は戦艦「大和」の沈没した日になります。第二艦隊旗艦の戦艦「大和」と、二等巡洋艦「矢矧」を旗艦とした第二水雷戦隊の駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」は、沖縄への水上特攻を敢行するため、昭和20年4月6日に山口・徳山沖の集合地点から出撃します。

そして翌7日に艦隊は米国機動部隊の猛攻を受け、旗艦「大和」、巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」「浜風」「朝霜」「霞」が沈没し作戦は中止されます。

今回はこの海戦に参加し失われた二等巡洋艦「矢矧」を取り上げます。

 

帝国海軍では、水雷戦隊旗艦は大正年間における「八八艦隊計画」によって計画・建造された、いわゆる「5,500トン型」二等巡洋艦が務めてきました。

しかし、昭和10年代になると「5,500トン型」は旧式化し、大型・重武装化した駆逐艦を統率するには力不足となってきます。

 

「5,500トン型(長良型)」二等巡洋艦「阿武隈」(出典:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1614952

 

このため、帝国海軍では昭和14年度の第四次海軍軍備充実計画(通称マル4計画)において、新型の二等巡洋艦6隻の建造を計画、このうち4隻は水雷戦隊旗艦用とされます。この4隻が後に「阿賀野」型として登場する二等巡洋艦4隻(「阿賀野」「能代」「矢矧」「酒匂」)です。

このうち「矢矧」は3番艦として、昭和16年11月に佐世保海軍工廠で起工、昭和18年12月に竣工します。

「阿賀野」型は、水雷戦隊旗艦として水雷兵装は充実していましたが、主砲は巡洋戦艦「金剛」型に副砲として採用された15.2cm単装砲をベースに連装化したもので、砲弾の揚弾・装填の補助に人力を必要とする古い形式であり、高角砲は新型の8cm連装砲を採用したものの2基のみで故障も多い問題を抱えた物でした。

竣工時にはすでに航空戦が主体となり、水雷戦重視の「阿賀野型」はいささか時代遅れの艦と言わざるを得ない不運の艦でした。

【要目(新造時・阿賀野)】

 基準排水量:6,652トン、垂線間長162.0m、幅:15.2m、平均吃水:5.6m

 機関:艦本式オール・ギヤードタービン機関×4、主缶:ロ号艦本式缶(重油専焼)×6、推進軸:4軸

 出力:100,000馬力、速力:35.0ノット、乗員数:726名

 兵装:15cm50口径連装砲×3、8cm65口径連装高角砲×2、25mm3連装機銃×2

     61cm4連装魚雷発射管×2、水上偵察機×2、射出機×1

 ※出典:世界の艦船「日本巡洋艦史」増刊第32集、No.441、1991年9月、海人社、P124

 

二等巡洋艦「矢矧」(出典:Wikipedia)

(Imperial Japanese Navy official photograph per naval achives kept at museum - Mikasa Memorial Museum, Yokosuka, Japan, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2414434による)

 

「矢矧」は、竣工早々の昭和19年2月には、現・インドネシアのリンガ泊地の哨戒および訓練のためシンガポールへ進出します。

昭和19年6月には第十戦隊の旗艦として、第一機動艦隊に所属しマリアナ沖海戦に参加します。「矢矧」は第十戦隊の駆逐艦と共に、海戦で潜水艦の雷撃により沈没した航空母艦「翔鶴」および「大鳳」の乗組員の救助に当たり、無傷のまま呉に帰投します。

続いて翌7月には多くの戦艦、巡洋艦、駆逐艦と共に呉を出航しンガ泊地に戻り南洋で行動します。

 

昭和19年10月に発動された「捷一号作戦」では栗田艦隊に所属し参加、シブヤン海に進出した際に米軍機の攻撃により左舷及び艦首へ至近弾を、後部兵員室に小型爆弾の命中を受けます。特に艦首の至近弾では右舷艦首に直径大きな破孔ができ、破孔が広がることから速力を30ノット以下に制限せざるを得なくなります。

それでも「矢矧」は残存艦と共にサマール沖へ進出し、米海軍の護衛空母群に向け突入します。しかし、大きな戦果を挙げることはできず、逆に米海軍の駆逐艦による機銃掃射を艦橋に受け被害を受けた他、魚雷発射管1門が使用不能となる被害を受けます。

その後、栗田艦隊は反転し戦場からの離脱を図りますが、その際にも米軍機の空襲を受け至近弾により魚雷発射管室で火災が発生する被害を受けます。

 

昭和19年11には本土へ帰還・修理することとなり、佐世保に回航し修理を受けた後に呉に移動します。その後は内海での待機が続く中で昭和20年1月には第二水雷戦隊の旗艦となります。

昭和20年4月に「天一号作戦(沖縄水上特攻作戦)」に第二水雷戦隊が参加することとなり、「矢矧」以下所属の駆逐艦は戦艦「大和」と共に徳山沖に集結します。

 

昭和20年4月6日に徳山沖から出撃し、翌7日の12時32分から始まった米海軍機動部隊の空襲では「矢矧」は「大和」に次ぐ大型艦であったことから、集中して狙われます。

第一波攻撃で魚雷2本が命中し航行不能となり、「大和」を含む本隊から落伍します。航行不能となった「矢矧」は格好の標的となり、多数の魚雷や爆弾の直撃、至近弾で損傷が拡大します。

 

米海軍機動部隊の攻撃を受ける二等巡洋艦「矢矧」(出典:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1340466

 

航行不能となった「矢矧」から第二水雷戦隊司令部を移乗させるため駆逐艦「磯風」が横付けしますが、米海軍機動部隊の第二波攻撃が始まり、今度は「磯風」が攻撃を受け航行不能となってしまいます。

 

米海軍機動部隊の第二波攻撃を受け沈没寸前の二等巡洋艦「矢矧」(出典:Wikipedia)

(USGov-Military-Navy - http://www.warship.get.net.pl/Japonia/Cruisers/CL_1942_Agano_class/_Yahagi_photos.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=365149による)

 

一等駆逐艦「磯風」(出典:Wikipedia)

(Shizuo Fukui - Kure Maritime Museum, Japanese Naval Warship Photo Album: Destroyers, edited by Kazushige Todaka, p. 99; also published in Shizuo Fukui, Nihon No Gunkan: Shashinshu, published 1970, p.200, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5810643による)
 

「矢矧」は最終的に合計魚雷6~7本・爆弾10~12発を受け満身創痍となり14時05分頃に海中に没します。この戦闘により、「矢矧」の乗組員446名が戦死、133名が負傷するという犠牲がありました。

 

なお、第二水雷戦隊は「初霜」に旗艦を移し、残存した駆逐艦「雪風」「冬月」「初霜」「凉月」と共に佐世保に帰投し、第二水雷戦隊は解隊されます。

 

ちなみに、「矢矧」には先代があります。「5,500トン型」二等巡洋艦より少し前、「防護巡洋艦」という船体構造を持った最後のグループである二等巡洋艦「筑摩」型の二番艦として明治43年6月に三菱長崎造船所で起工され、明治45年7月に竣工しています。

【要目(新造時・筑摩)】

 常備排水量:5,000トン、垂線間長134.1m、幅:14.2m、平均吃水:5.1m

 機関:カーチス式直結タービン機関×2(「矢矧」はパーソンズ式直結タービン機関×2)、

 主缶:イ号艦本式缶(重油;石炭混焼)×16、推進軸:2軸(「矢矧」は4軸)

 出力:22,500馬力、速力:26.0ノット、乗員数:414名

 兵装:15cm45口径単装砲×8、8cm40口径単砲×4、45cm魚雷発射管×3

 ※出典:世界の艦船「日本巡洋艦史」増刊第32集、No.441、1991年9月、海人社、P60

 

二等巡洋艦「矢矧(初代)」(出典:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=908966

 

「筑摩」型は帝国海軍の巡洋艦として初めてタービン機関を採用し、「筑摩」「平戸」がカーチス式、「矢矧」がパーソンズ式を搭載し、比較されたと言われます。

 

第一次世界大戦では、当時独国領であった南洋諸島の占領作戦に参加し、さらに南シナ海、インド洋、スルー海での作戦などに従事しています。

大正12年からは第一線を「5,500トン型」巡洋艦に譲り、中国大陸方面の警備活動に従事します。

昭和15年4月にに除籍され「廃艦第十二号」仮称を付与のうえ 呉海兵団の練習船として用いられ、昭和18年には広島・大竹に回航され、海軍潜水学校で使用されます。

終戦時も大竹に残存していましたが、昭和22年1月から7月にかけて山口・笠戸ドックで解体されすがたを消します。

こうしてみると、二代目「矢矧」の沈没より後に解体されたことになりますね。

 

戦後、海上自衛隊には「やはぎ」の名を引き継いだ艦艇は存在しませんが、海上保安庁の巡視船に「やはぎ」が存在します。

昭和29年度計画で建造された改350トン型巡視船の「てしお」が波や波浪による動揺が大きいことから、昭和30年度計画で性能改善を図った改350トン型巡視船として計画・建造された7隻のネームシップが

「やはぎ(PS-54)」で、新潟鐵工所で建造され昭和31年7月に竣工しています。

【要目】

 総トン数:316トン、常備排水量:377トン、船質:鋼、全長:50.3m、最大幅:7.3m、深さ:4.1m

 機関:ディーゼル×2、推進軸:2軸、出力:1,400馬力、速力:15.5ノット、乗員数:44名

 兵装:20mm単装機銃×1

 ※出典:世界の艦船「海上保安庁全船艇史」増刊第62集、No.613、2003年7月、海人社、P74

 

巡視船「やはぎ(PS-54)」

(出典:世界の艦船「海上保安庁全船艇史」増刊第62集、No.613、2003年7月、海人社、P74)

 

「やはぎ(PS-54)」型はその後の350トン型巡視船の原型となりました。昭和43年11月にはPMに変更(PM-54)され、昭和57年1月に改役されるまで26年間現役で働きました。

 

「天一号作戦」では、戦艦「大和」の存在が大きくあまり話題に上ることのない「矢矧」について知って欲しいと思い、海戦から75年を経たこの時期に合わせて取り上げてみました。