二等巡洋艦「龍田」の艦内神社 奈良・三郷町の「龍田大社」 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

先日、大阪・千早赤阪村の建水分神社へ参拝したことを取り上げましたが、この日はせっかく外出したので一か所で帰宅する訳はなく、もう一か所回っています。

 

千早赤阪村から羽曳野市・柏原市を経てJR関西本線(大和路線)と併走し大和川を渡り、奈良県生駒郡三郷町へ。

ここには二等巡洋艦「龍田」の艦内神社として分祀された「龍田大社」があります。

 

「龍田大社」境内入口の大鳥居

 

綺麗に整備された境内で、この時は一部工事中の部分もありました。「龍田大社」の石柱も新しいようです。

 

「龍田大社」の拝殿

 

拝殿の奥には、3つの末社(本殿に向かって右)、2つの摂社(本殿に向かって左)があり、その奥に本殿が2棟並んでいます。

 

「龍田大社」の末社(右)、摂社(右)と本殿(中央奥)

 

そして、拝殿の左奥にはさらに末社が3社あります。

 

向かって右の末社「白龍神社」

 

中央の末社「龍田恵比須神社」

 

向かって左の末社「三宝恵比須神社」

 

参道に戻り、拝殿に向かって左側には「神楽殿」があります。これは最近になって旧拝殿を修理・移築したもののようです。

 

「神楽殿」

 

さらに神楽殿の奥には末社の「下照神社」と小さな池があります。

 

末社「下照神社」

 

「下照神社」と「神楽殿」を結ぶ通路には「忠魂頌徳碑」なる忠魂碑が建立されています。

 

「忠魂頌徳碑」

 

「下照神社」と「神楽殿」の間の通路脇には大砲と砲弾が置かれています。これらは、日露戦争の戦利品のようです。

 

「十珊七加農砲 三十五口径」

 

30.5cm砲弾(奥)と20cm砲弾(手前)

 

さらにその近くには、ようやく二等巡洋艦「龍田」と関係のあるものが。

 

「大日本海軍軽巡洋艦龍田慰霊顕彰碑」の木柱

 

それでは、この「慰霊顕彰碑」に書かれている二等巡洋艦「龍田」を取り上げてみます。

二等巡洋艦「龍田」は、大正4年に成立した八四艦隊案により計画された3,500トン型巡洋艦として計画された「天龍」型巡洋艦の2番艦でした。

「龍田」は大正6年7月に佐世保海軍工廠で起工され、大正8年3月に竣工します。

【要目】

 基準排水量:3,230トン、常備排水量:3,948トン、全長:142.85m、垂線間長:134.11m、

 水線幅:12.34m、公試吃水:3.96m

 機関:ブラウン・カーチス式オール・ギヤード・タービン×3、

 主缶:ロ号艦本式(重油専焼)×8・(重油石炭混焼)×2、推進軸:3軸

 出力:51,000馬力、速力:33.0ノット、乗員数:332名

 兵装:14cm50口径単装砲×4、8cm40口径単装高角砲×1、53cm3連装魚雷発射管×2、

     1号機雷×48

 装甲:水線64mm、甲板:16mm

  ※出典:「昭和造船史 第1巻」日本造船学会編、1977年10月、原書房、P.782~783

  装甲・兵装「世界の艦船別冊 日本巡洋艦史」No.441、増刊第32集、1991年9月、海人社、P.96

 

二等巡洋艦「龍田」(引用:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=913023)

 

「天龍」型巡洋艦は、それまでの防護巡洋艦と異なり舷側で傾斜させた水平装甲と石炭庫の防御では無く舷側装甲を装備し、蒸気タービン機関と重油専焼ボイラーを搭載した新世代の巡洋艦として設計されました。

その艦型は、当時の「江風」型一等駆逐艦を拡大した形であり、水雷戦隊旗艦となる大型駆逐艦とも言えるものでした。

 

「龍田」は竣工後、第一水艦隊第一水雷戦隊に編入され、大正9年8月にはシベリア方面へ進出しています。

その後は、青島・揚子江など大陸方面へ度々進出しますが、5,500トン型の二等巡洋艦の整備が進むと、昭和10年からは「天龍」とコンビを組むようになります。また、この頃に魚雷発射管を移動式からその場で旋回する形に改修しています。

また、昭和13年12月から昭和15年11月にかけて行われた改修では、羅針艦橋天蓋を固定化しています。

 

昭和16年5月には南洋方面へ進出し、大東亜戦争の開戦は現・マーシャル諸島のクェゼリン環礁で迎え、南洋方面のカビエン・スルミ・ラエ・サラモア・ブーゲンビル等の攻略作戦に参加しています。

 

昭和16年夏・トラック島付近で行動中の「龍田」(手前)と「天龍」(奥)

(引用:「写真 日本の軍艦 第8巻 軽巡1」1990年3月、光人社、P.24)

 

昭和17年7月からは南洋の輸送船団護衛に従事し、昭和18年1月に内地に帰投します。

 

昭和18年3月からは瀬戸内海方面で訓練に従事するようになりますが、10月から11月にかけて南洋方面への輸送船団護衛にも就いています。

昭和19年3月には輸送物件を積載し木更津からサイパンへ向け出港しますが、昭和19年3月13日に八丈島南西40浬地点で米海軍潜水艦「サンドラス(SS-381)」の雷撃を受け、魚雷1本が「龍田」の右舷に命中、後部機械室と罐室が破壊されたうえ、老巧化した船体の浸水が止まらず沈没していきました。

 

なお、この二等巡洋艦「龍田」は2代目で、以前当ブログで取りあげましたが、初代は通報艦(のち砲艦)でした。また、戦後は海上保安庁の巡視船「たつた(PS-52)」がその名を引き継いでいます。

通報艦「龍田」から潜水艦母艇「長浦」へ

 

通報艦「龍田」

(引用:「幕末・明治の日本海軍」中村勉・阿部安雄編、2010年10月、KKベストセラーズ、P70)

 

巡視船「たつた(PS-52)」

 (引用:世界の艦船「海上保安庁全船艇史」増刊第62集、No.613、2003年7月、海人社、P72)

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 

 

 

 

 

 

【Web】

HP「風神 龍田大社」