通報艦「龍田」から潜水艦母艇「長浦」へ | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

先日、通報艦「龍田」に曾祖父様が乗艦されていた方からコメントを頂きました。よって、今回は「龍田」について取り上げてみましょう。

まず、「通報艦」という類別ですが、明治31年から大正元年の間に用いられていた類別で、「宮古」を取り上げた際にも書きましたが、明治の中頃までは無線などの通信手段が発達しておらず、戦隊の非戦闘側を並走し、旗艦が掲げた旗信号を戦隊の各艦に伝える任務を負っていたもの、となるそうです。

このため、巡洋艦から見れば小型で兵装は少なく、戦隊の旗艦となる戦艦よりは高速な設計となっています。

 

「龍田」は日清戦争を目前とした明治24年の計画で、英国のアームストロング社に発注されニューカッスルのエルジェック工場で建造、明治27年7月に竣工します。

【要目(新造時)】

 常備排水量:868トン、垂線間長73.15m、最大幅:8.38m、平均吃水:2.90m

 機関:直立式3気筒三連成レシプロ機関×2、推進軸:2軸、缶:円缶×4

 出力:5,500馬力、速力:21.0ノット、乗員数:107名

 兵装:12cm40口径単装砲×2、47mm単装重連速射砲×4、45cm連装魚雷発射管×2、

     45cm単装魚雷発射管×1

 ※出典:世界の艦船「日本海軍特務艦船史」増刊第47集、No.522、1997年3月、海人社、P83

 

軍艦「龍田」(出典:Wikipedia)

 

「龍田」は艦の大きさの割に水雷(魚雷)兵装が多数装備されており、当初「水雷砲艦」と呼ばれていました。完成後の「龍田」は、英国から日本への回航途中に勃発した日清戦争の影響で、明治27年8月に寄港した英領アデン(現・イエメン)で中立国の英国によってに抑留されてしまいます。交渉の結果翌28年1月にアデンを出港、3月に横須賀に到着しますが、翌月には日清戦争は終結したため、戦闘に参加することはできませんでした。この教訓から帝国海軍では艦艇の国産化に取り組むこととなります。

 

明治31年3月に軍艦の類別が定められたことにより「龍田」は「通報艦」とされます。

明治33年には「義和団の乱」の鎮圧に出動し、明治35年から翌36年にかけて缶を円缶から水管缶に換装し、煙突が3本となり艦姿が大きく変わります。

 

缶換装後の通報艦「龍田」

(出典:「幕末・明治の日本海軍」中村勉・阿部安雄編、2010年10月、KKベストセラーズ、P70)

 

日露戦争では第一艦隊第一戦隊所属艦として、旅順攻略作戦、日本海海戦に参戦します。明治37年5月に触雷・沈没した戦艦「初瀬」「八島」の救援作業に当たり、その帰途に旅順港外の光禄島南東岸で座礁してしまいます。離礁後横須賀海軍工廠で8月まで修理が行われます。

大正元年8月に「通報艦」の廃止に伴い「一等砲艦」に類別を変更された後、大正5年4月に除籍され、呉港湾部に保管されます。ところが大正6年度の海軍部内編成の際に、それまで呉に集中配備されていた潜水艇隊のうち1隊を横須賀へ転籍させることとなり、潜水艇母船が新しく必要となったことから、「龍田」に白羽の矢が立ち、同年12月に「雑役船」に再度編入され「潜水艇母船」に指定するとともに船名を「長浦丸」と改称されます。翌大正6年1月に「長浦丸」は呉から横須賀へ回航のうえ改修工事を受け、4月から第二潜水隊の母船となります。

「潜水艇母船」とは、後の「潜水母艦」と同じような役割をする船で、当時ようやく実用に耐えるようになってきた「潜水艇」(潜水艦の前身)の母船として、潜水艇への各種補給、乗組員の休養などを行う任務に当たっていました。

 

潜水艇が徐々に大きくなるにつれ、「潜水艦」と改称するとともに「潜水艇母船」も「雑役船」から大正9年7月に「特務艇」に昇格し「潜水艦母艇」と称されるようになります。これに伴い艇名も「丸」が取れて「長浦」と改称されます。

大正末期になると潜水艦の性能は飛躍的に向上し行動中に潜水艦母艇を伴う必要がなくなり、またそれまでの小型旧式潜水艦は戦力として計算されることなく係留されたままとなったことから「潜水艦母艇」の必要性が低下します。そして、任務を全うした「長浦」は大正15年3月に再度除籍され、4月に売却され生涯を閉じます。

 

ちなみに「龍田」の名は大正8年3月に竣工した二等巡洋艦「天龍」型2番艦に引き継がれます。

二等巡洋艦「龍田」(出典:Wikipedia)

 

戦後の海上自衛隊には引き継がれていませんが、海上保安庁の巡視船に「たつた」を名乗った船があります。

昭和28年度に計画され、翌29年7月に呉造船で竣工した巡視船「たつた(PS-51)」で、日本国が連合軍の占領から独立を回復した後に、初めて自主的な設計を行い建造した巡視船です。

昭和43年11月にPM-52へ変更された後、昭和55年8月に解役されるまで、26年間使用されました。

【要目】

 総トン数:257トン、船質:鋼

 全長51.8m、最大幅:6.6m、深さ:3.4m

 機関:ディーゼル×2、推進軸:2軸

 出力:1,500馬力、速力:35ノット

 兵装:40mm単装機銃×1

 ※出典:世界の艦船「海上保安庁全船艇史」増刊第62集、No.613、2003年7月、海人社、P72

 

巡視船「たつた(PS-52)」

 ※出典:世界の艦船「海上保安庁全船艇史」増刊第62集、No.613、2003年7月、海人社、P72

 

「長浦」も名を踏襲した雑役船が存在します。昭和15年10月に播磨造船所で竣工した800瓲型級難船兼曳船で、大東亜戦争開戦後はトラック方面防備部に所属しラバウルを基地として損傷艦船の救難救援活動に活躍しますが、昭和19年2月にラバウルからパラオに向かう途中に米駆逐艦の砲撃により沈没します。

【要目(雄島型)】

 排水量:812トン、全長53.5m、幅:9.5m、吃水:3.3m

 機関:レシプロ機関×2、出力:2,200馬力、速力:15.3ノット

 兵装:25mm単装機銃×2、爆雷×6

 ※出典:「JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR」第二復員局、昭和22年2月、P136 

 

雑役船「長浦」

(出典:「JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR」第二復員局、昭和22年2月、P136 )

 

通報艦「龍田」については、いろいろ調べてみたのですが、

・日清戦争直後に「最新鋭」の時期を迎えていること

・日露戦争時には艦型が小さく大規模な海戦で主力となれなかったこと

・雑役船に対する記録は極端にすくないこと

・大東亜戦争以前に廃艦となっていること

などのため、手持ちの資料ではなかなか詳しいことがわかりませんでした。通報艦・一等砲艦時代のことはWikipediaが、潜水艇母船以降については、

「海軍 第一一巻」昭和56年8月、「海軍」編集委員会、誠文図書(第四章特務艇)

に書かれているものが比較的詳しいと言えます。この書籍は発行部数もあるようで、比較的大きな図書館であれば所蔵されていると思います。

また、「長浦」時代の写真も探してみましたが、残念ながら見つけることができませんでした。

 

今後、さらに資料を発見した場合には、このブログに追記していきたいと思います。