栄光のニューヨーク・ライナーから特設艦船となった「能代丸」 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今回は、先日コメントを頂いた「能代丸」について調べてみました。

「能代丸」は、日本郵船がそれまでニューヨーク航路に充てていた対馬丸などの「T型貨物船」から船質改善のために投入された「N型貨物船」(「長良丸」「高田丸」「那古丸」「能代丸」「鳴門丸」「野島丸」の6隻)の4番船として、三菱長崎造船所で昭和8年12月に起工、昭和9年11月に竣工しました。

当時のニューヨーク航路では、往路は神戸・フィリピン・香港・基隆・上海・天津に回航しフィリピンの砂糖・マンガン・ヤシ油、日本の生糸・雑貨を積み込んで、大阪・神戸・横浜など国内各地からロサンゼルス、バルボア(パナマ)を経てニューヨークへ、往路は米国から鋼材・綿・雑貨などを積み込んで、往路と逆の航路で運行されていました。N型貨物船の投入により、それまで横浜-ニューヨーク間を36日を要したものが28日に短縮され、日本郵船のニューヨーク航路は一新されました。

 

【要目】

 総トン数:7,184トン、垂線間長137.05m、幅:19.00m、深さ:10.50m

 機関:スルザー式ディーゼル機関×1、推進軸:1軸

 出力:6,700馬力、速力:18.531ノット、船客定員:4名

※出典:「七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念写真集」1985年10月、日本郵船((株))、P85

 

日本郵船 貨物船「能代丸」(出典:Wikipedia)

 

就役後一貫してニューヨーク航路に就いていた「能代丸」ですが、日米関係の悪化に伴い海軍に徴傭され昭和16年7月に「特設水上機母艦」に入籍されます。なお、同時期に特設掃海艇に同名の「能代丸」が在籍したことから本船は海軍内で「能代川丸」と改名されます。

昭和16年7月1ヶ月かけて横須賀海軍工廠で特設艦としての艤装工事が行われましたが、特設水上機母艦として使用されることはなく8月20日付けで除籍されます。そして翌9月に今度は「特設巡洋艦」として再度入籍することとなります。この時特設掃海艇の「能代丸」は海軍内で「第二号能代丸」と改名されたため、本船は「能代丸」の名称に戻されます。

艤装工事の終了後は横須賀警備戦隊の旗艦とされ、昭和17年4月からは新編成の第二海上護衛隊に属して輸送船護衛に従事します。しかし、大東亜戦争では「特設巡洋艦」が活躍する場は少なく、昭和17年8月には「特別運送船」に変更され、10月に再度運送船としての艤装工事を受けます。

 

【兵装要目(特設巡洋艦時)】

 15cm単装砲×4、8cm単装高角砲×1、7.7mm単装機銃×2、水上機×2

 ※出典:「福井静夫著作集 日本特設艦船物語」2001年4月、阿部安雄、戸高一成編、光人社、P.50

 

特設巡洋艦「能代丸」(艦形図)

(出典:「日本海軍艦艇図面集2」1990年11月、モデルアート社、P.71)

 

「特設運送船」となった「能代丸」は、昭和17年11月に内地を出港し、サイパン島(現・アメリカ・北マリアナ諸島自治連邦区)・テニアン島(現・アメリカ・北マリアナ諸島自治連邦区)、トラック島(現・チューク諸島、ミクロネシア連邦)を経由してラバウル(現・パプアニューギニア)に進出します。ラバウルでは昭和18年1月16日に米軍の空襲を受け、4番船倉に被弾します。応急修理のあとラバウルからコロンバンガラ島(現・ソロモン諸島)への輸送を行い、トラックに向けて出港した翌日の3月13日に米潜水艦「グレイバック」から魚雷攻撃を受け、うち1本が右舷五番船倉付近に命中し損傷を受けます。

損傷した「能代丸」は、トラックで応急修理ののち横須賀に帰投、本格修理を受けます。

 

横須賀での修理を終えた「能代丸」は門司に回航された後、8月10日に大型優秀船20隻が航空母艦「大鷹」を中心とした艦艇の護衛を受けたヒ71船団の1隻として伊万里湾を出港、台湾の馬公を経て蘭印(現・インドネシア)の油田を目指します。

 

航空母艦「大鷹」(出典:Wikipedia)

 

しかし、8月18日夜から19日の未明にかけて船団は米潜水艦の攻撃を繰り返し受け、航空母艦「大鷹」、海軍徴傭船「帝亜丸」が撃沈されます。そして「能代丸」も二番船倉左舷側に魚雷を受け損傷、相前後して海軍徴傭船「阿波丸」の船首にも魚雷が命中します。損傷により4ノット程度の速力しか出せなくなった能代丸は海防艦「択捉」の護衛を受けながら接岸航路を取り、フィリピン・ルソン島沿岸の泊地に立ち寄りながら南下を続け、8月24日にようやくフィリピン・マニラに到着します。

 

海軍徴傭船「帝亜丸」(出典:Wikipedia)

 

海防艦「択捉」(出典:Wikipedia)

 

なお、「ヒ71船団」は米潜水艦の波状攻撃により航空母艦「大鷹」をはじめ、帝国海軍の給油艦「速吸」、陸軍特殊船「玉津丸」、特設輸送船(油槽船)「帝洋丸」、海軍徴傭船「帝亜丸」、海防艦「佐渡」・「松輪」・「日振」が沈没し、「玉津丸」に乗船していた帝国陸軍の第26師団主力など4,820名のうち約99%にあたる4,755名が戦死、「帝亜丸」でもシンガポール行きの陸軍補充要員ら5,478名のうち、一般船客32名を含む2,369名が亡くなる大被害を受けることとなります

 

沈没直前の給油艦「速吸」(出典:Wikipedia)

 

海防艦「松輪」(出典:Wikipedia)

「能代丸」はマニラ到着後に応急修理を行い日本本土行きの船団に加わるのを待っていましたが、9月21日、米機動部隊の艦載機群がマニラを空襲します。「能代丸」は艦橋付近に至近弾を、艦橋部に命中弾受け、さらに別の一弾が短艇甲板を貫通して機関室で爆発し火災を発生します。火災は弾薬や油類のある区画に広がったため、総員退船が命じられ乗組員が脱出、夜に入って大爆発を起こします。火災は消えることなく続き船体中央部をほぼ全焼、船体外板も甚だしく損傷します。そして、9月24日に水深12メートルの海底へ艦尾から沈没していきました。沈没地点はマニラ港南防波堤南灯台沖1,800mの場所(北緯14度33分01秒、東経120度57分05秒)とされています。

 

マニラ湾に沈む「能代丸」(出典:fold3.com)

 

昭和20年2月のマニラ湾沖・多数の船舶が着底している(出典:fold3.com)

 

今回の「能代丸」についてはWikipediaによるところが大きいですが、国立公文書館・アジア歴史資料センターのHPで下記の情報が得られます。

  • Ref.C08030671300『自昭和十九年六月一日至昭和十九年六月三十日 能代丸戦時日誌』
  • Ref.C08030671300『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 能代丸戦時日誌』
  • Ref.C08030671300『能代丸戦闘詳報第三号』
  • Ref.C08030671400『(能代丸)戦時日誌 自昭和十九年九月一日至同三十日』
「栄光のニューヨーク・ライナー」と呼ばれた貨物船は戦雲急を告げるに当たり特設艦艇として戦闘艦となり、さらに特設運送船となった後は再三に渡り損傷するも復活してきた「能代丸」ですが、フィリピン・マニラ湾沖で最期を迎えました。
このような昭和に入ってから建造された高性能の「優秀船」は、大東亜戦争中にそのほとんどを喪失しました。8月15日にも書きましたが、徴傭船舶で戦没された船員の方々へ哀悼の意を表するとともに、その状態から戦後速やかに立ち直った日本商船隊に対する人々の努力には、深く頭の下がる思いです。