前回、通報艦から一等砲艦、そして雑役船(潜水艇母船)、特務艦(潜水艦母艇)と変遷をした「龍田・長浦」を取り上げましたが、その際に同時期に雑役船から潜水艦母艇に類別された艇が他にもあること、そして非常にマイナーな艇であることが判り、本日あちこちで調べてみました。さすがに超マイナーな艇のため、データも写真もなかなかありません。判明した部分のみになりますが、取り上げてみましょう。
「歴山」(れきざん)
艇名は、ヨーロッパの男子名「アレキサンダー(アレクサンドル)」に漢字を当てた(亜歴山)もので、捕獲時の船名「アレクサンドル」から採られている。なお、明治27年に崩御したロシア・ロマノフ王朝のロシア皇帝は「アレクサンドル三世」ですね。
ロシア皇帝「アレクサンドル三世」(出典:Wikipedia)
「歴山」は、捕鯨船付属の貨物運送船「アレクサンドル」(総トン数261トン)で、明治37年2月10日午前2時、長崎県対馬の厳原港に停泊中に帝国海軍第十七水雷艇隊に拿捕されています。同年7月10日に「歴山丸」と仮命名されます。この時、船齢は6年であったようです。
拿捕に対して所有者の抗議を受けたものの、明治38年6月には棄却され、所有権が大日本帝国側に移ります。そして明治38年7月に佐世保鎮守府所属の雑役船「歴山丸」として正式に類別されます。
さらに明治39年6月には横須賀鎮守府へ所属が変わり、同年10月には第一潜水艇隊の水雷母艦「韓崎」付属の潜水艇母船とされます。
さらに明治42年4月には母艦を呉鎮守府所属の水雷母艦「豊橋」に変更されることとなり、「歴山丸」の本籍も呉鎮守府へ変更、呉で運用されます。
大正9年7月に艦艇類別の変更により特務艇(潜水艦母艇)に昇格し「歴山」と改称されます。大正11年には同7年に爆沈した戦艦「河内」の缶を改造し装備したようです
長年潜水隊の付属として運用された「歴山」も、寄る年波には勝てず昭和2年12月に除籍され、同4年1月に売却され生涯を閉じます。
「椅子山」(いすざん)
艇名は中国東北部の遼東半島・旅順北方の水師営(日露戦争において帝国陸軍・乃木希典大将とロシア軍旅順要塞司令官・ステッセルの停戦条約に関する会見が行われた場所)に向かう街道の西側にある高地の名から採られたもので、現地には案子山(あんしざん・テーブルの意味)、椅子山の二つの高地がならんでいます。この高地は日清戦争・日露戦争共に戦場となった場所であったことから、艇名に採用されたようです。
旅順街道より椅子山案子山を望む
(出典:日露戦役旅順口要塞写真帖、明治38年8月、国立国会図書館オンライン書誌ID:000000481866)
「椅子山」は日露戦争において、大連で捕獲されたロシアの客船(排水量350トン、大連~旅順間を運航)であった(曳船であったとの説もあり)で、明治39年7月に雑役船「椅子山」とされたようです。
明治41年3月に南満州鉄道へ無償貸与され、同年10月まで運用されされた後返却され、佐世保海軍工務部の所属となった後、明治44年4月に潜水艇母船として運用されることとなり、所属も呉鎮守府に変更、水雷母艦「豊橋」の付属とされます。
さらに、大正9年7月に艦艇類別の変更により特務艇(潜水艦母艇)に昇格し「椅子山」と改称されます。
ただ、「椅子山」は雑役船時代から老巧化が進んでいたようで、主に呉在泊の潜水艦への給電補機として使用されていたようで、特務艇となった以降も特に修繕されることもなく係留されたまま運用されていました。そして、除籍は「歴山」よりも早く、大正11年4月でした。
「硯海」(けんかい)
「硯海」とは本州と九州を分ける関門海峡の雅名で、「硯海」は建造当時に「門司水雷団水雷敷設隊」に所属が予定されていたため、至近にある関門海峡から艇名が採られたと思われます。
関門海峡(出典:Wikipedia)
「硯海」は明治34年6月に竣工した320噸曳船「硯海丸」で、竣工後は呉海軍要港部に所属していましたが、明治36年8月に佐世保海軍要港部へ所属替えされましたが、明治41年には呉に返却されています。
明治42年6月には水雷母艦「豊橋」に潜水隊母艇として一時貸し出しが行われたこともあり、明治44年4月には正式に水雷母艦「豊橋」所属の潜水艇母船とされます。
「硯海丸」も他の潜水艇母船と同様に、大正9年7月に艦艇類別の変更により特務艇(潜水艦母艇)に昇格し「硯海」と改称され、同年9月には潜水学校の練習船に指定されます。
大正11年には缶が換装されましたが、昭和2年12月に「歴山」とともに除籍され、同4年1月に「歴山」と同じ業者に売却されています。
これらの潜水艦母艇については、「長浦」と同様に資料が非常に乏しく艦姿すら分かりません。
少しずつ調べて明らかにできれば、と思います。