日本で最後に竣工した巡洋艦「酒匂」・敗戦国の悲哀 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

前回は二等巡洋艦「能代」を取り上げました。以前には同型艦「矢矧」も取り上げています(昭和20年4月7日・戦艦「大和」とともに戦没した巡洋艦「矢矧」)。

 

今回は、続いて「阿賀野」型の巡洋艦を取り上げてみます。帝国海軍の最期に竣工した巡洋艦であり、日本最後の「巡洋艦」となった二等巡洋艦「酒匂」にしてみたいと思います。

 

歌川広重の東海道五十三次・「小田原 酒匂川」(引用:Wikipedia)

(歌川広重 - The Fifty-three Stations of the Tokaido, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3206245による)

 

「酒匂」は、「能代」の時にも書いたように、「5,500トン型」二等巡洋艦に代わる水雷戦隊旗艦を担う艦として、通称マル四計画により建造されました。

昭和17年11月に佐世保海軍工廠で起工され、昭和19年11月に竣工しますが、竣工時にはすでに帝国海軍は艦隊行動ができ状況ではありませんでした。

【要目(新造時の「阿賀野」)】

 基準排水量:6,652トン、垂線間長:162.0m、幅:15.2m、吃水:5.6m

 機関:艦本式オール・ギヤードタービン×4、主缶:ロ号艦本式(重油専焼)×6、推進軸:4軸

 出力:100,000馬力、速力:35.0ノット、乗員数:726名

 兵装:15cm50口径連装砲×3、8cm45口径連装高角砲×2、25㎜3連装機銃×10、

     25㎜単装機銃×18、61cm4魚雷発射管×2、水上偵察機×2、射出機×1

 ※引用:世界の艦船「日本巡洋艦史」増刊第32集、No.441、19921年9月、海人社、P.124

   25㎜機銃の装備数は、竣工時の「酒匂」の数値

 

二等巡洋艦「酒匂」(引用:Wikipedia)

(Imperial Japanese Navy official photograph per naval achives kept at museum - Mikasa Memorial Museum, Yokosuka, Japan, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2418133による)

 

「酒匂」は竣工すると佐世保から呉に回航され、連合艦隊附属の第十一水雷戦隊の旗艦となります。ただし、この水雷戦隊は艦隊決戦に対応するものではなく、「松」型駆逐艦や「秋月」型駆逐艦などの新造駆逐艦の訓練を目的に編制されたものでした。

 

昭和20年3月、戦艦「大和」を中心とする残存の主力艦艇で沖縄に突入する「天一号作戦」が発動されると、「酒匂」は同型艦「矢矧」と共に作戦に加わることとなりました。

ところが、直前になって「酒匂」は作戦から外され、呉や山口・上関の八島で駆逐隊の訓練に従事します。

 

昭和20年4月には第二艦隊に編入され、その後連合艦隊第十一戦隊に編入されます。

この頃になると、呉を含む主要な港湾部には機雷投下と空襲の危険が増してきたことから、呉に残る行動可能な艦艇の一部は根拠地を移すことになり、5月になると「酒匂」は舞鶴に移動します。

 

しかし、舞鶴にも機雷投下が始まったことから、「酒匂」を含む第十一水雷戦隊は軍港内の停留を避け、石川・七尾湾への移動が検討されます。

6月なると機雷が投下されていない福井・小浜湾に移動しますが、ここでも機雷投下が始まったこと、また燃料が窮迫して組織的な艦隊運用は困難になったことから、7月には第十一水雷戦隊は解隊され「酒匂」は舞鶴鎮守府部隊に編入、旧第十一水雷戦隊の各艦は舞鶴に回航され、「酒匂」は特別警備艦に指定されます。

 

舞鶴に戻った「酒匂」は、空襲の標的となる港内を避けて舞鶴市佐波賀の海岸に係留固定され、対空兵装を陸揚げし甲板上に樹木を立てるなど入念な擬装が行なわれ、「酒匂」はこの状態で無傷のまま終戦を迎えます。

 

舞鶴・佐波賀に接岸し擬装された「酒匂」(引用:Wikipedia)※赤丸が「酒匂」(引用:Wikipedia)

(米国戦略爆撃調査団 - http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4002582 国立国会図書館デジタルコレクション(米国国立公文書館所蔵、インターネット公開著作権保護期間満了), CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=65191985による)

 

昭和20年12月に「酒匂」は特別輸送艦に指定され、釜山・南洋諸島・ニューギニア・台湾などからの復員輸送に当たります。この時、主砲は砲塔を残して撤去されるなど武装は撤去され、甲板に居住区やトイレが増設されます。

乗組員も不足していたことから、予科練出身で軍艦での勤務経験のない者も乗組み運行されました。

 

昭和20年10月の「酒匂」

(引用:「雑誌 世界の艦船」No.499、1995年8月、海人社、P.40)

 

昭和21年2月に「酒匂」は特別輸送艦の指定を解除され、ビキニ環礁における核実験「クロスロード作戦」の標的艦として、戦艦「長門」とともに横須賀で米国海軍に引き渡されます。

 

回航に当たって日本海軍乗員による操縦指導が東京湾で行われましたが、その際の意思疎通不足により主蒸気管が閉鎖されないまま巡航タービンのクラッチが切られたため、無負荷となった巡航タービンは規定回転数を超えて暴走、タービン1基が破損し3軸運転となってしまいます。

 

昭和21年・横須賀で米国海軍に引き渡された「酒匂」

※艦首に星条旗が揚がっている

(引用:「丸スペシャル 軽巡阿賀野型・大淀」No.5、1976年3月、潮書房、P.49)

 

昭和21年7月1日、 ビキニ環礁で行われたクロスロード作戦にともなう核実験(A実験・空中爆発)において、「酒匂」は原爆投下の目標艦とされた米海軍戦艦「ネバダ」から約600mの地点に配置されていました。

原爆の投下時には爆心地点がずれたことから、「酒匂」のほぼ真上で「原子爆弾」が爆発しことから、爆風により艦橋より後方の構造物は破壊され、艦尾部分は24時間近く炎上します。

艦尾にも亀裂が生じて浸水がはじまり、7月2日浅瀬への曳航作業中に左舷へ傾斜し始め。艦尾から沈没していき、ビキニ環礁内の水深60mの海底に着底しました。

 

核実験により艦後部の上部構造物が押しつぶされた「酒匂」

(引用:「丸スペシャル 軽巡阿賀野型・大淀」No.5、1976年3月、潮書房、P.51)

 

「クロスロード作戦」では、帝国海軍の戦艦「長門」、二等巡洋艦「酒匂」だけでなく、独国海軍の巡洋艦「プリンツ・オイゲン」も使用されており、敗戦国の艦艇も破壊されることを前提として使用した実験でした。

 

独国海軍・重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」(引用:Wikipedia、一部加工)

(U.S. Navy - Official U.S. Navy photo 80-G-627445 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2376204による)

 

「酒匂」の最期は、戦勝国から蹂躙させる敗戦国の姿と重なり、悲哀を感じさせます。

なお、「酒匂」の名は海上自衛隊の艦艇、および海上保安庁の船艇には引き継がれておらず、今後建造される海上自衛隊の「30FFM」4番艦以降への採用に期待したいですね。

 

【参考文献】

Wikipedia および