二等巡洋艦・初代「能代」の履歴 | 艦艇・船舶つれづれ

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前々回のブログで、6月22日に進水式が挙行された新造護衛艦「のしろ(FFM-3)」を取り上げました。

 

護衛艦「のしろ(FFM-3)」の進水式

(引用:「防衛庁 海上自衛隊」公式ツイッター)

 

その際には時間がなく、初代「能代」の写真のみを上げていたので、改めて初代「能代」について取り上げてみます。

 

二等巡洋艦「能代」は、旧式化していた「5,500トン型」二等巡洋艦が担ってきた魚雷戦の主役である水雷戦隊の旗艦を担う艦として、昭和14年度の第四次海軍軍備充実計画(通称マル4計画)により建造が計画された、二等巡洋艦(「阿賀野」型)4隻の1艦です。

「能代」は「阿賀野」型の2番艦として、昭和16年9月に横須賀海軍工廠で起工され、昭和18年6月に竣工しています。

【要目(新造時の「阿賀野」)】

 基準排水量:6,652トン、垂線間長:162.0m、幅:15.2m、吃水:5.6m

 機関:艦本式オール・ギヤードタービン×4、主缶:ロ号艦本式(重油専焼)×6、推進軸:4軸

 出力:100,000馬力、速力:35.0ノット、乗員数:726名

 兵装:15cm50口径連装砲×3、8cm45口径連装高角砲×2、25㎜3連装機銃×2、

 61cm4魚雷発射管×2、水上偵察機×2、射出機×1

 ※引用:世界の艦船「日本巡洋艦史」増刊第32集、No.441、1991年9月、海人社、P.124

 

二等巡洋艦「能代」(引用:Wikipedia)

(Imperial Japanese Navy official photograph per naval achives kept at museum - Mikasa Memorial Museum, Yokosuka, Japan, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2418077による)

 

水雷戦隊を構成する一等駆逐艦の大型化により、旗艦となる「阿賀野」型も、それまでの5,500トン型巡洋艦と比較し、排水量で約1,500トン・約3割ほど大型化しています。

主砲も「5,500トン型」の14cm単装砲×7から15cm連装砲×3と大型化しましたが、この砲は明治45年に竣工した巡洋戦艦「金剛」の副砲として採用されたものを改設計したもので、高角砲の不足を補うために対空戦闘を考慮し仰角を55度としていましたが、砲弾を1発発射するごとに砲身を7度に戻してから手動で装填しなければならず、機能的には前時代的なものでした。

 

また、高角砲も新型の65口径8cm連装高角砲を採用しましたが、こちらはしばしば故障が発生し、用兵側から改善を要求する声が出るほどでした。

 

「阿賀野」型二等巡洋艦「矢矧」の中央部・灰色の部分が65口径8cm連装高角砲

(引用:「写真・日本の軍艦 第9巻・軽巡2」1990年4月、光人社、P.115)

 

「能代」は竣工後の昭和18年8月、その建造目的であった第二水雷戦隊旗艦となり呉を出撃、トラック泊地に進出し、連合艦隊・機動部隊各艦と共に中部太平洋諸島で作戦行動を行っています。

 

昭和18年11月には「能代」率いる第二水雷戦隊はラバウルに進出しますが、米海軍機動部隊の空襲を受けトラック泊地に後退、その後はトラック泊地を起点としてクェゼリン環礁やブラウン環礁で行動します。

 

昭和18年12月末には、戊三号輸送部隊第二部隊の一隻としてトラックから現パプアニューギニアのカビエンへの輸送に当たりますが、昭和19年1月1日のカビエンへの揚陸完了後に米海軍機動部隊の空襲を受け、至近弾5発と第二砲塔右舷側に直撃弾1発を被弾し、火薬庫等に浸水する被害を受けます。

損傷した「能代」はトラック泊地に帰投し、工作艦「明石」による応急修理を受けています。

 

昭和19年1月1日・カビエンで空襲を受ける「能代」

(引用:「写真・太平洋戦争 第3巻」1989年2月、光人社、P.257)

 

昭和19年1月には横須賀へ帰投し損傷個所の修理と整備を受けます。

施工完了後の昭和19年3月に横須賀を出発しダバオへ進出、その後は現・インドネシアのリンガ泊地や現・フィリピンのタウイタウイ泊地等で行動しています。

 

昭和19年6月19日から20日にかけて行われた「マリアナ沖海戦」では、旗艦「能代」率いる第二水雷戦隊は前衛部隊の一翼を担い出撃しますが、特に被害などは無く終了後は呉に帰投します。

 

昭和19年7月に再度リンガ泊地へ進出し、10月18日には「捷一号作戦」発動に伴い栗田健男中将率いる第一遊撃部隊第一部隊として出撃します。

 

昭和19年10月25日、第一遊撃部隊は護衛空母からなる米海軍機動部隊を追撃し「サマール島沖海戦」が行なわれます。

「能代」は、午後に行われた米軍機の空襲により、左舷後部重油タンクに破孔が生じたことで浸水し、左舷外軸の推進器が使用不能となり速力は32ノットに低下します。

 

サマール沖海戦で米軍機の空襲を受ける第一遊撃部隊

赤丸の囲み内が二等巡洋艦「能代」

(U.S. Navy photo 80-G-272550, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=382981による)

 

翌10月26日には、午前中に米軍機の空襲を受け爆弾1発が「能代」の高角砲弾薬供給所に命中、火災が発生しますが、消火に成功します。

しかし、雷撃機の襲撃に対処中戦艦「大和」を狙った魚雷1本が「能代」の左舷中央に命中し、第1・第3缶室が浸水、16-26度傾斜し航行不能となります。

 

魚雷の投棄・重量物の移動などにより傾斜を8度まで回復させ曳航に向けた作業が行なわれますが、再度米軍機が来襲した際には、戦場に取り残され洋上に停止している「能代」は集中攻撃を受けることとなります。

この攻撃により、二番主砲塔右舷附近に魚雷1本が命中した「能代」は、艦首から沈下をはじめ11時13分に沈没し姿を消します。

 

海上自衛隊には、「のしろ」の名を冠した先代の護衛艦が存在します。

昭和42年度から昭和46年度までの5年間での防衛力整備計画である「第3次防衛力整備計画」で計画された地方隊配備兵力の更新充実のために建造された「ちくご(DE-215)」型の最終艦である11番艦として建造が計画されました。

「のしろ(DE-225)」は、昭和51年1月に三井造船玉野事業所で起工され、昭和52年6月に就役しています。

【要目】

 基準排水量:1,500トン、満載排水量:1,900トン、全長:93.0m、幅:10.8m、深さ:7.0m、吃水:3.6m

 機関:ディーゼル機関×4、推進軸:2軸、

 出力:16,000力、速力:24ノット、乗員:160名

 兵装:76mm連装砲×1、40mm連装機銃×1、アスロックSUM8蓮発射機×1、

     3連装短魚雷発射管×2

 ※引用:世界の艦船「海上自衛隊全艦艇史」増刊第66集、No.630、2004年8月、海人社、P.108

 

護衛艦「のしろ(DE-225)」

(「丸スペシャル 護衛艦ちくご型」No.63、1982年5月、潮書房、P.68)

 

「のしろ(DE-225)」は、就役に伴い横須賀地方隊に所属します。昭和54年7月には定係港が大湊へ変更され、昭和57年3月には大湊地方隊へ転籍します。

 

昭和60年3月には呉地方隊へ転籍し、定係港が呉に変更され、平成15年3月に除籍されるまで、541,589浬・地球を約25週分の航行を行い、除籍されています。

 

護衛艦「ちくご(DE-225)」(左)と同型艦「よしの(DE-223)」(右)(引用:Wikipedia)

(Yokohama1998 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=32259067による)

 

初代「能代」は大東亜戦争直前に起工され、竣工した時には当初の計画であった艦隊決戦での「水雷戦隊」による夜戦が行なわる状況ではなく、機動部隊による航空決戦と輸送作戦への投入に終始し、最後の艦隊決戦である「レイテ沖海戦」においても航空機による攻撃で沈没していきました。

 

これに対し、大東亜戦争中に米国では艦隊決戦の兵力として戦艦を10隻就役させ、真珠湾攻撃で着底した戦艦も大半を修繕し復帰させています。

さらに、戦闘の主役が変わったと見るや、大型の航空母艦である「エセックス」型を16隻、小型の「インディペンデンス」型9隻、簡易な護衛空母を70隻以上就役させ、すべてにカタパルトを装備し有力な戦力として順次投入し、帝国海軍を圧倒していきます。

 

この圧倒的な国力の差こそ、開戦時の連合艦隊司令長官・山本五十六氏ほかの開戦反対派の懸念事項であり、敗戦の大きな要因のひとつであると思います。

 

米海軍・護衛空母「ボーグ(CVE-9)」(引用:Wikipedia)

(U.S. Navy - U.S. Navy photo [1] from Navsource.org, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1287950による)

 

【参考文献】

Wikipedia および

 

 ※実際には、1991年9月号増刊の旧版