新造通報艦「千島」・日本到着から一週間での喪失 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

暮れも押し迫ったようですが、コロナ禍のおかげで仕事が忙しい!それも、前向きな仕事ではないので、気が重い…。この週末も2日連続の休日出勤で、全く年末な感じがしません。休日のブログ更新もできずじまいでした。

 

本日もあまり時間がないので、経歴の短い艦を取り上げようとツラツラ考えました。

そこで思い当たったのが通報艦「千島」でしたので、取り上げてみたいと思います。

 

通報艦「千島」は、明治20年6月に帝国海軍のお雇い外国人として来日していたフランスの海軍技官であるエミール・ベルタンにより建造が計画され、明治23年1月にフランスのサン・ナゼール造船所で起工され、明治25年4月に竣工しています。

【要目】

 常備排水量:700トン、垂線間長:71.0m、幅:7.8m、平均吃水:2.9m

 主機:直立3段膨張レシプロ蒸気機関、推進軸:2軸、主缶:石炭専焼缶

 出力:5,000馬力、速力:22.0ノット、乗員数:99名

 兵装:5.7cm単装速射砲×5、魚雷発射管×4

 ※出典:世界の艦船「日本海軍特務艦船史」増刊第154集、No.890、2018年12月、海人社、P.127

   およびWikipedia

 

通報艦「千島」(引用:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=373084)

 

通報艦は、無線通信技術などの情報伝達手段が発達していなかった時代に、艦と艦との間や地上との間での情報の伝達を主目的とする小型の軍艦で、高速力を要求される艦種ですが、「千島」は試運転において当初の予定速力22ノットに対し19ノットという結果となってしまったことから、改善のために引渡しが1年ほど遅れています。

 

そして、明治25年4月16日に日本へ向け出港し、エジプトのアレクサンドリア、スエズ運河、シンガポールを経由して、明治25年11月24日に長崎に到着します。

 

明治25年 11月28日、「千島」は長崎から神戸に向けて出港しますが、11月30日の午前5時前に愛媛県

愛媛県興居島沖で、神戸から出港したイギリス・P&O社所属の商船ラベンナ(Ravenna)に衝突され沈没してしまいます。「千島」の沈没は、乗組員90名のうち74名が犠牲となる大事故でした。

 

「千島」の沈没事故は、横浜の英国領事裁判所に提訴され日本側の実質勝訴だったが、上海の英国高等領事裁判所での第2審では敗訴してしまいます。これにより国際問題と化し、国内においても帝国議会で政争の具となりました。

後にイギリス枢密院に上訴して差し戻し判決が出されたため、最終的にイギリス政府の意向で明治28年9月に和解しています。

 

この通報艦「千島」は、以前「巡洋艦「畝傍」の謎」でも書きましたが、フランスで建造され日本に回航中に行方不明となった巡洋艦「畝傍」の資金回収のために建造した艦でしたが、「千島」も艦隊に加わることなく沈没してしまうという、不幸の連鎖となってしまいました。

 

現在も、東京・港区の青山霊園に巡洋艦「畝傍」の慰霊碑の傍らに「千島」の砲が祀られています。

 

青山霊園の巡洋艦「畝傍」慰霊碑(左)と通報艦「千島」の砲(右)

(Kakidai - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18586424による)

 

異国で建造された新鋭軍艦が、ようやく日本に到着した直後に事故で沈没してしまうというのは、国民には大きく落胆する出来事であったと思います。

こんな薄幸の軍艦が、さらに薄幸な軍艦の「消失」を受けて建造されたものであったというのも、何か因縁めいていますね。