巡洋艦「畝傍」の謎 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今回は、帝国海軍艦艇にもかかわらず、帝国海軍の手に入らなかった軍艦の話です。SF小説が好きな方はピンときているかもしれません。その艦名は「畝傍(うねび)」と言います。

 「畝傍」は奈良県橿原市にある、天香久山、耳成山と合わせて「大和三山」と呼ばれる畝傍山から艦名が採られています。

 「畝傍」は清国との決戦に備えて、英国製の巡洋艦「浪速」「高千穂」と同時期に仏国に発注された巡洋艦で、いわゆる「防護巡洋艦」というカテゴリに入ります。

 明治17年5月に仏国のフォルジ・エ・チャンチュー社で起工され、明治19年10月に竣工します。同時期の英国製巡洋艦が帆走設備を廃したのに対し、仏国製の「畝傍」は3檣バーク型という帆走設備を持った艦で、「浪速」型とはかなり性格の異なるものとなっています。

【要目】

 垂線間長:98.0m、幅:13.1m、平均喫水:5.7m

 常備排水量:3,615トン、機関:斜動式2気筒連成レシプロ機関×2、缶:円缶×9、推進軸:2軸

 馬力:5,500HP、速力:18.5ノット、乗員:約400名

 兵装:24cm35口径単装砲×4、15cm35口径単装砲×7、57mm径単装砲×2、25mm4連装機砲×10

     11mm10単装機砲×4、36cm魚雷発射管×4

 ※出典:世界の艦船別冊「日本巡洋艦史」No.441、1991年9月、海人社、P38

 

j巡洋艦「畝傍」(出典:Wikipedia)

 

完成した「畝傍」は明治19年10月18日に仏国人艦長の指揮の下、日本側回航員と共に造船所が雇用した仏国人70名余りによって回航が開始されます。そして12月3日に最終寄港地であるシンガポールから横浜港を目指して出港します。

シンガポール~横浜間は10日間の航海を予定していましたが、12月下旬になっても横浜に現れないことから、帝国海軍が装甲艦「扶桑」や軍艦「海門」を使って捜索活動を行います。さらには諸外国船にも協力を得て捜索するものの、何も手掛かりを得ることができず、帝国海軍は明治20年10月19日に正式に亡失を認定します。

当時は無線通信が発達しておらず、海上からの連絡手段がなかったこともあり、「畝傍」はどのような状況にあったのか、「畝傍」側から発信する手段がなかったことも捜索活動が難航する一因でもありました。

「畝傍」の回航には保険が掛けられていたため、この保険金により英国で建造されたのが、このブログ「軍艦 「千代田」」の回で取り上げた巡洋艦「千代田」です。

 

巡洋艦「千代田」(出典:Wikipedia)

 

また、「畝傍」と同型艦として横須賀海軍工廠で建造される予定であった巡洋艦「秋津洲」は、英国式の設計に改めて建造されることとなります。

仏国としては、資金回収のため通報艦「千島」を建造しますが、明治25年11月に「千島」も日本への回航直後に瀬戸内海で英国商船に衝突され沈没してしまい、仏国製の軍艦の悲劇が続きます。

 

通報艦「千島」(出典:Wikipedia)

 

「畝傍」の亡失は、それまで仏国から設計技師士官エミール・ベルタンを招くなど、仏国式の軍艦整備を推進してきた帝国海軍が、英国式の軍艦整備に舵を切るきっかけとなった出来事となりました。

 

「畝傍」の沈没の原因は謎のままですが、当時の仏国製軍艦の特徴として「タンブル・ホーム」と呼ばれる船体横断面の形が上方で内曲がりになっている艦形を採用していますが、甲板面積が狭いため容量確保のために上部構造物を高くしなければならなくなります。結果として船全体の重心位置が高くなることで、波浪等による横揺れからの復元性が不足してしまう傾向にありました。

さらに帝国海軍からの要求により船型に対して重武装を搭載したことにより、さらに船の重心位置が高く

なり、荒天による波浪に弱い艦であったといえます。

このことから、シンガポールから横浜への回航中、東シナ海上の荒天に巻き込まれ転覆・沈没した、というのが有力な説です。

 

捜索活動で全く何も発見されなかったことから、当時は「畝傍は南洋の無人島に漂着して修理している」、「畝傍は海賊船として活動している」、「畝傍は清国海軍に撃沈された」など、様々な憶測が流れました。また、小説の題材に用いられることもあり、冒頭で書いたようにSF小説が好きな方には知られていると思います。

戦艦「大和」や「武蔵」が海底で発見されたように、いつの日か「畝傍」が発見された際にはこの謎が解けるかもしれませんが、どこに沈んでいるか見当もつかないので、その日は来ないかもしれませんね。