特設輸送船として撃沈されるも 戦後甦った捕鯨母船「第三図南丸」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今日から年末年始の休暇を取ることができました。

久しぶりの休日で、一日ぼーっとしてしまいました。少々もったいないですね。

 

本日は、大東亜戦争期の捕鯨母船について取り上げてみたいと思います。

 

戦前の日本水産では、昭和10年代に大型の捕鯨母船を2隻建造しています。その2隻は「第二図南丸」と「第三図南丸」と名付けられました。

このうち「第三図南丸」は、大阪鉄工所(後の日立造船桜島工場)で昭和12年5月に起工され、昭和13年9月に竣工しています。

【要目】

 総トン数:19,209トン、全長:163.0m、幅:22.5m、深さ:17.3m 

 機関:三段膨張式レシプロ機関×2、主缶:円缶×6

 最高出力:8,200馬力、最高速力:14.1ノット

 ※「本邦建造船要目表(1868~1945)」1976年5月、日本船用機関学会・船用機関調査研究委員会、

  海文堂、P.158-159

 

日本水産・捕鯨母船「第三図南丸」(引用:Wikipedia)

(不明 - Australian War Memorial ID Number 303445, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6600084による)

 

「第三図南丸」は、有事にはその巨体を油槽船として使用することを計画した帝国海軍による後押しを受け、優秀船の建造助成制度である「船舶改善助成施設」の適用により建造されました。


「第三図南丸」は、竣工後ただちに南氷洋へ出漁、閑散期には北米からの石油輸送に当たりました。

米国との戦争が近づく昭和16年11月、帝国海軍は「第三図南丸」を当初の目論み通りに特設運送船として徴用します。

昭和16年11月25日に横須賀を出港、12月8日の大東亜戦争開戦時には現・ベトナムのカムラン湾に到着し、英領ボルネオ攻略に参加します。

この作戦中の12月23日に、「第三図南丸」はオランダ潜水艦「K14」の雷撃を受け中破します。損傷したものの航行は可能であったことから、修理のため一旦内地へ帰還します。

 

この修理で石油輸送船の専用船に改装され、内地と南洋基地の間の軍事輸送に従事しますが、昭和18年7月24日にトラック島西方で米国潜水艦「ティノサ(SS-283)」の雷撃を受け、魚雷12本が命中してしまいます。

ところが、魚雷の信管不良から爆発したのは2本のみで、不発魚雷4本が刺さったままの状態でトラック泊地に入港し、港内で修理を受けることとなります。

 

米国海軍潜水艦「ティノサ(SS-283)」(引用:Wikipedia)

(不明 - 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2581640による)

 

一時は損害の大きさから、海に浮かぶ重油タンクとしてトラック島で使用されるようになります。この時、船体に魚雷が突き刺さったままであったことから「花魁(おいらん)船」と呼ばれていたようです。

 

それでも、トラック島で工作艦「明石」による長期の修理を行ったことで、昭和18年11月には再び「船」として復帰することとなります。

そして、修理中の昭和19年2月17日に米軍のトラック大空襲に遭遇し被弾炎上、11月19日の午前2時10分に沈没していきました。

 

戦後、南極海での捕鯨を再開した日本水産が高性能な捕鯨母船を必要としたことから「第三図南丸」の再就役が可能かどうかの調査が行われ、浮揚・修理が可能と判断されます。

日本水産は昭和25年にGHQから引揚許可を受け、播磨造船所に引揚を依頼します。これを受けた播磨造船所は救難隊167名を現地に派遣し浮揚作業に着手します。

 

浮揚作業中の「第三図南丸」

(引用:日本水産HP「100年の歩み」)

 

 

 

浮揚後・曳航される「第三図南丸」(引用:JMUアムテックHP「アムテック資料室」)

 

昭和26年3月には浮揚に成功、同社の相生工場で修理を行い昭和26年10月には修理が完了し「図南丸」と改名のうえ不死鳥の如く復活を果たします。

 

再就役した「図南丸」(引用:JMUアムテックHP「アムテック資料室」)

 

「図南丸」は、再就役後すぐに南氷洋へ出漁し、その後も戦前・戦後を通じ18回に及ぶ南氷洋捕鯨船団に参加します。

その後も「図南丸」は捕鯨により戦後日本の食糧供給に大きく貢献しますが、昭和46年3月に広島・江田島で解体され生涯を閉じました。

 

戦前は捕鯨母船として南氷洋で、また油槽船として北米航路で活躍、戦中は海軍の特設輸送船としてその巨体を持って活躍し一度は撃沈されたものの、戦後に浮揚・復活し戦後の食糧事情改善に大きく貢献した「第三図南丸」のち「図南丸」。

 

今では捕鯨は「悪」とされてしまいましたが、島国ニッポンの食文化としての「捕鯨」の華やかりし頃の記憶は忘れてはならないと思います。

 

なお、現在でも捕鯨母船として共同船舶が「日進丸(三代目)」が運用されており、令和元年7月の商業捕鯨再開後は沖合水域での母船式捕鯨の母船として運用されています。

 

共同船舶・捕鯨母船「日進丸」(引用:共同船舶HP、ニュース)

 

 

明日の大晦日は、これまでできなかった大掃除などのため、ブログを書くことができないと思います。できれば、来年もご愛顧いただければ、と思います。

本年も、ニッチな内容のブログに訪問頂きまして、ありがとうございました!

令和3年は皆様に良い年となりますよう、祈念いたしまして本年の書き収めといたします。