贋作モノローグ -6ページ目

妙な日曜日

いろいろあって妙な日曜日になってしまった。

それはホットパンツの隙間から見える
足と足のつなぎ目を
マルイのセールで買った帽子(3500円)でそっと隠すような

でも、その帽子のてっぺんには穴があいているような

すべての青空を手にいれてしまったような

アリに齧られるような

妙な

感じ。

生理用ナプキンのようなもの(特に多い昼用)に吸収されていくわたしの感情。
包んで捨てます。

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桃色画報的な。

携帯を変えた。
なぜかというと、前の携帯の、裏側の、電池を覆うカバーが、どこかへ逝ってしまったから。
しばらく電池むき出しのまま使っていたのだけれど
さすがに、手が、熱くなり、親指の皮が剥けたりと、リアルに危険を感じたため、
買い替える決断。

初めての、ピンクの携帯。




母親に、
「歳をとると派手ないろの物を持ちたがるようになるのよね」と言われた。
がびーん。

いやしかし、わたしの中のピンクは
「桃色画報」的な桃色であって、
失われる若さを補うための刺し色ではないのよ。ちがうのよ。ふん。



すっかり忘れてしまいました(駄文)

独身最後のサシ飲みとなってしまった。
K保さんは来月結婚する。
「最後」であるのはちょっぴり寂しいが
彼女の決断は、嬉しい。むっふん。

彼女と出会った代ゼミのそばのお店で、てんやわんやの飲み食いをする。

コーヒーを飲んで帰ろうかと、代々木から新宿にかけて
うろちょろうろちょろ喫茶店を探したけれど
11時なのにどこもかしこも閉まっている。
スタバまで閉まっている。
金曜の夜の新宿なのに、オカシイ。絶対オカシイ。あり得ない。
と、酔っぱらいは街をさまよう。

最終的に駅の地下で缶コーヒーを立ち飲みするところで落ち着く。

過ぎ行く人を眺めながら
猥談交じりのはげしく阿呆な話をする。

あんまりにも人の行き来が多くて、
この人たちがいずれ全部死ぬのかと思うと
なんだか私もさっさと死んでもいい気分にすらなった。
死ぬ事は大げさなことじゃないのだなあと。


先日、同級生から、生後間もない赤ちゃんの写真が送られてきた。
同級生の赤ちゃんってのはリアルだ。生々しい。

私の子宮は自分の血を吐き出すだけで精一杯。
ましてやそこから人間が飛び出るなんて、
ずっとずっと先のことにしか思えない。
産む事より自分が死ぬ事の方がよほど現実的に思える。

K保さんも、きっと子供を産むだろうなあ、そう遠くない将来に。
彼女はどのくらいそのことを実感しているのだろうか。

哀しいことに、わたしは、
何かを産んで育てる現実より
でっかい地震がきて即死する現実の方が
鮮明に予感できる。
というのは
どうも
わたしの何かがうまく機能していないせいなのか
それとも
現実をすばやくキャッチして察知しているわりと普通のことなのか
もはやよぐわがんね。

まあでも
好きな人でもできたら
ちょっとは変わったりするのかな。
その人との未来を想像したりして。K保さん、どうなんすか?

しかし、
好きって気持ちってどんなんだったけ?
思い出せないよ~思い出せないよ~♩ 
と、悲嘆しながら、椎名林檎「やっつけ仕事」のメロディーがどこからともなくやってくる。


KO

中学三年生のとき
完全にノックアウトされて
鳥肌がたって
人生には音楽しか無いって
意味不明な衝動に駆られた

その訳は
ラジオでPortisheadのglory Boxを聴いたから

以後
女性ボーカルとストリングスの組み合わせに無条件に反応する

ここに原点があったかと
今更気付く

give me a reason to love you

マリアンヌとルコント。

パトリスルコントの「僕の大切な友達」を観てきました。
あんまおもしろくねえって評判を聞いていたけども
それでも私はファンなので、
「やっぱ好きだなあ」と思ってしまう。

思えばルコント作品を初めて観たのは
恥ずかしながら「橋の上の娘」。
しかも、友達の友達が持っていたDVD(日本語字幕すらなし・・・)で
暑い夏の夜、イタリアで、
暇つぶしがてら自分のパソコンの小さな画面でぼけーっと観たのが最初。

とにかく、下のユーチューブのシーンのバックでかかっている
マリアンヌフェイスフルの曲が気に入って
血眼でCDを探した記憶がある。


彼の作品の美しいシーンは
断片的に脳みそに焼き付いている。
映画ごとに。

今、ぱっと思い出すのは、「僕の大切な友達」の最後の空の淡い水色と
「歓楽通り」の、マリオンが鮮やかな緑の中でくつろぐ姿。かしら。

ローラギブソン。

Laura gibsonただいまのお気に入り。
ゴンチチがDJやってるラジオ番組で紹介されていたのだけれど、
あまりにピンとき過ぎて即アマゾンで購入してしまった彼女のCD。
ときどきびっくりするくらいMUMな感じが入る。
誰かかぶってるんじゃないのか?

私はストリングスが入る女性ヴォーカル曲にはめっぽう弱い。


雨は降っていないのに、空が光って
雷が遠くで鳴っている。
それをなんとなく聞きながら
同時に彼女の音楽を聴く。

愛猫がしっぽをぱたぱたさせて
一緒に横たわる。

生暖かい風。

ああ、しあわせ。

育みたくて、夏 〜Jマート〜

伸びてきた伸びてきた。
Jマートで園芸用のネットを購入。
あとは伸びて絡んで咲かせて欲しい。

自転車で15分くらいのところにあるJマート。
来月閉店するらしい。
すごく悲しい匂いがするJマート。
イタリアの郊外の、いけてない、物悲しい、スーパーと、
匂いと温度が同じような感じだった。
レジ打ちのおばさんも何かが共通するものがある。

Jマート。
ああ、Jマート。
侘しいJマート。
さようなら閉店間近のJマート。
ありがとうJマート。

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ベッドに沈む5秒前

暑さと疲れと眠気でもはや意味が不明な夜。
クーラーが私から水分を奪う。カラカラ。

イライラして食器に当たったら
弟に叱られた。

「ひとり日和」という小説を読んだが
よさがよくわからなかった。
去年の芥川賞。
おじさんたちが読むと、若い女の子の心情が新鮮に映る話だったりするのだろうか。
私には、新しさも何もなく、ふわふわ透明な感じがして、ちっとも何にもコない。

読み応えのあるもの。
噛み応えのあるもの。
手触りのあるもの。

飢える。

足の裏の角質に触れても
感覚がなくて
自分の足のくせに
誰の何を触っているのかわからなくて怖い。

体が疲れると脳みその妙な部分が冴えてくる。

メールをくれないあの人。
つれないワ。
寂しいワ。

calmati tesoro


腹を立てるべきことと、放っておくべきことの
境界線を悩む。

なぜだか、誰かの身に降り掛かった腹立たしい事に関しては
素直に「むかつく!!!」「なんてひどいんだ!!!」って思えるのに
自分の身に降り掛かると
まず、怒るべきことなのか、どうなのか、妙に冷静に考えてしまうから
結局なんなのかわかんなくなっちゃうこと多い。

まあでも、表に出すか出さないかは別として
直感的に「こんにゃろう」って思ったことは
それはそれで大事にしてもいいのかも。
理想ではいつだって仏のような心でいたいんだけど、
必ずしもそれが正しい気もしない。

そんなこんなで
誰かの勝手な行動に
ブレーキかけずに素直に「No」と、言ってみる、
感情を表してみる試みをしてみたのだが

結局あんまりいい気持ちにはならないな。


・・・・・・・ああ、しかし、想像力に欠けた鈍い人が多いものだ。
ときたま、怒りよりもびっくりする方が大きい。

そういうものに鈍感になりたい気もするが
自分を顧みることのできる程度に敏感さを残しておきたい。

複雑なおとめごころ。


必死トールカプッチョ

新しい仕事が始まり通勤ルートが変わると
不慣れのせいで朝がとても忙しい。
今朝は朝ご飯を新宿の駅の中のドトールで。

実に久しぶりにカプチーノを注文した。
外でカプチーノを飲むのはいつ以来だろうか。

空腹が手助けしたこともあり、シナモンの香りとお砂糖の甘さで、
脳みそが幸せ汁で満タンになった。ほわんほわん。

カプチーノってこんなに美味しかったっけか。

幸せカプチーノを飲みながら、ぼけーっと、忙しなく早足で抜ける人々を眺めていたら
ふと、イタリアで出会ったルーマニア人の女の子のことを思い出した。

彼女とはその昔、イタリアの語学学校でクラスが同じになったのだが
英語も堪能で、イタリア語もとても上手く、
金髪の美人さんで
クラスの中でもよく目立つ子だった。

休み時間、毎日毎日クラスの子たちとカフェでお茶をしたのだが、
その子はいつも「un Capuccio」ってカプチーノを注文してた。
イタリア語でももちろん普通にCapuccino(カプッチーノ)と呼ぶのだけれど
稀にカプッチョと呼ぶ人がいる。
なんだかえらく現地の人っぽい。
日本酒じゃなく「ポン酒」って呼ぶ感じ?

ルーマニアの彼女が、外国人ながら、堂々と、カフェでそう頼む姿は、
ちょっとばかり「私、イタリア人ぽいでしょ?」って、粋がってる感じもした。

彼女は真夏でも首にスカーフを巻いていた。
首にある大きな傷を隠す為に。
それから、彼女は結婚していると言っていた。
30も歳の離れたイタリア人と。
それを公表したとき、クラスメイトが引いていたのを
彼女は瞬時に察知してか、
動じないふりをするような感じで
歳の差結婚の素晴らしさを懸命に皆に説得していた。

生きてく事に必死な感じが、あまりにリアルに伝わって、
ぎょっとしたのを覚えている。

ただ、今日ぼんやりしながら思ったけど
今はあまり、あの「必死さ」に違和感がない。
なんつーか、むしろ当たり前のことのようにも思える。
それは、私が、あの頃より、今の方が、生活に必死だからかもしれぬ。