あなたはOKなだけではない。あなたは完璧だ
- ビレッシュの質問:Osho, あなたは、いつも私のインスピレーションの源でありつづけています。あなたは、たとえ私が行く先々でまるでのけ者 にされたように感じることがあっても、それでも自分のことをやりつづけ、仕事で妥協してはいけない、と勇気づけてくれます。私は、不適格者(ミスフィッ ト)でありつづけてもOKなのだということを、あなたに言ってもらいたいのです。
OSHO:
これはビレッシユからに違いない。ビレッシュ、あなたはOKなだけではない。あなたは完璧だ。
私のまわりに集まっている人びとはみな、腐りきった社会の不適格者(ミスフィット)たちだ。知性にあふれた人は、すでに死んでいる社会、時代遅れの社会、 信仰体系に基づいた迷信を信じている社会のミスフィットになって当然だ。適格者になれるのは、知恵遅れの人たちだけだ。あなたが知恵遅れでないのは、運が いい。
私にフィットする人はみな、ほかのどこでも必ずミスフィットになる。私は生涯、自分の家族のなかで、宗教のなかで、国のなかで、ミスフィットでありつづけ てきたし、これまでずっとそれを楽しんできた。というのも、ミスフィットであることは、ひとりの個人であることだからだ。既存の確立された秩序に合わせる ことは、自分の個としてのありようを失うことだ。
そして、それがあなたの世界全体だ。妥協し、自分の個としてのありようを失うやいなや、あなたはすべてを失っている。自殺したのだ。世界に合わせている人たちは、自分を破滅させた人たちだ。
たしかに、それには勇気、自由への途方もない強い感覚が必要だ。さもなければ、全世界を向こうに回して独りで立てない。だが、全世界を向こうに回して立つ ことは、この上ない大いなる喜びの始まりだ。一度もミスフィットであったことのない者たちには理解できない喜びであり、至福だ。
人間の歴史に残る大人物たちはみな、その社会のミスフィットだった。人間の幸福とこの世の美に貢献した人びとはみな、ミスフィットだった。ミスフィットで あることは、途方もなく貴重な資質だ。どんな点でも、けっして妥協してはいけない。妥協そのものが、あなたの破滅の始まりだ。
私は、頑固でなければならない、と言っているのではない。もし、なにかが正しいと見たら、それにそって行くがいい。だが、あることが正しくないとわかるや いなや、たとえ全世界がそれは正しいと感じていても、あなたにとっては正しくない。そうなったら、自分の立場に固執するがいい??それがあなたにスタミ ナ、強さ、ある種のまとまりを与えてくれる。つづく
どのようにハグするのですか?
その正しいやり方
(ビレッシュによる説明)
あなたは、足を肩幅に広げて立たなくてはならない、そして膝を軽く曲げる。もし骨盤を固めて
いたら、感じることができないだろう。あなたにハグの仕方を教える一番いい方法は、ハグにならないやり方を教えることだ。これが、長い年月から体験したこ
とだ。例えば怖がっている人は、他の人に、感じさせないようにする。なぜかというと、もしその人が感じてしまったら、その人はあなたにも感じさせてしまう
だろうから。
またあなたは、相手の背中を押しつぶすような勢いでハグして、その人を萎えさせる。そして、
相手の骨盤のあたりに触れないハグというのもある。そこにははっきりと何かが欠けている。あるいは、こういう不具の人たちもいる。「私の背骨を支えてくだ
さい、私には力がないのです」
本当のハグは、まるで手袋をはめた手のようなものだ。そこにはなんの緊張もなく、あなた方は 共に呼吸し、いっしょにいて楽しんでいる。それは悦びとなりうるはずのものだ。悦びが声を放つ。悦びを感じたら、あなたはこんな風に言うだろう。「美味し い、素敵、すごい、すごい、あぁ」悦びが声をたてる。それが、私たちがあなたから欲しいものだ。
最初に、次に、そして・・・のステップ
ナンバー1
あなたは愛される必要があります。それはあなたの所に最初に来なくてはなりません。小さな赤ちゃんは、愛を得るために踊ることはできません。それは無力で す。あなたは、最初に愛を必要とします。それが私達に家族がいる理由です。そして彼らはあなたにそれを与えることができます。
ナンバー2
あなたは愛を返す必要があります。
ナンバー3
愛を受け取り、愛を与え、愛を受け取り、愛を与える、そのプロセスはあなたに自己愛(セルフ・ラブ)を与えます。自己破壊ではなく、自己嫌悪ではなく、自 己愛です。あなたは愛らしい人、愛することができる人になります。それらは、三つの感情的な必要性です。もちろん、あなたは自動車や、他の全ての、外側の 物を必要とします。しかし、それらの感情的な必要性が満たされないなら、あなたは完全な人間にはなりません。
一部の人達は、いつも受け取る必要がありま す。それから後で、多分彼ら は与えるために来ます。
一部の人達は与えることが好きで、そして彼らは受け取りたくありません。受け取る、与える、与える、受け取ることのバランスは、あ なたに自己愛(セルフ・ラブ)を与えます。それが、私達がハグするように、デートするように、実験してみるようにあなたを励ます理由です。
そして、あなた は、愛されること、愛を与えること、そして自己愛を感じることの、これらの基本的な感情的必要性を満たすことができます。やがて、ある日、あなたは立ちあ がって言うことができるでしょう。
「私は愛らしい!私が彼の地上にいて、神は幸運だ!」と。ビレッシュ
あなたは愛される必要があります。それはあなたの所に最初に来なくてはなりません。小さな赤ちゃんは、愛を得るために踊ることはできません。それは無力で す。あなたは、最初に愛を必要とします。それが私達に家族がいる理由です。そして彼らはあなたにそれを与えることができます。
ナンバー2
あなたは愛を返す必要があります。
ナンバー3
愛を受け取り、愛を与え、愛を受け取り、愛を与える、そのプロセスはあなたに自己愛(セルフ・ラブ)を与えます。自己破壊ではなく、自己嫌悪ではなく、自 己愛です。あなたは愛らしい人、愛することができる人になります。それらは、三つの感情的な必要性です。もちろん、あなたは自動車や、他の全ての、外側の 物を必要とします。しかし、それらの感情的な必要性が満たされないなら、あなたは完全な人間にはなりません。
一部の人達は、いつも受け取る必要がありま す。それから後で、多分彼ら は与えるために来ます。
一部の人達は与えることが好きで、そして彼らは受け取りたくありません。受け取る、与える、与える、受け取ることのバランスは、あ なたに自己愛(セルフ・ラブ)を与えます。それが、私達がハグするように、デートするように、実験してみるようにあなたを励ます理由です。
そして、あなた は、愛されること、愛を与えること、そして自己愛を感じることの、これらの基本的な感情的必要性を満たすことができます。やがて、ある日、あなたは立ちあ がって言うことができるでしょう。
「私は愛らしい!私が彼の地上にいて、神は幸運だ!」と。ビレッシュ
愛を受け取り与えることの重要さ その1
その
4つの基本的な感情があります。恐れ、怒り、痛み、そして愛(の必要性)です。これらはまた「サバイバルの感情」とも呼ばれます。怒り-痛み-愛の必要性。恐れと怒り(「否定的な」感情)は、愛の否定の時経験される、感情的痛みに対する反応です。
ビレッシュは、否定性に巻き込まれないことの重要性を強調します。むしろ、満たされない必要性-愛への直接の近道です。(セッションの中で)否定性を表現 することによって、愛が起こるためのスペースが作られます。人が、愛を受け取ること(最初の必要性)と、愛を与えること(2番目の必要性)を学ぶ時、彼は 自己愛(セルフ・ラブ)を経験するでしょう。一部の人達は権利を持っています。彼らが育った時、彼らは自分の感情について決して何も問題がありませんでし た。なぜなら彼らの家族がそれ全てを奨励していたからです。普通、家族はあなたの感情について幸福ではありません。だから彼らはそれをとめ、そして、あな たは、サバイバルの感情に関して自分を再教育するためにこのような学校に来なくてはなりません。
健康な人間は、彼がそうすると決めるどんな瞬間にも、彼の怒り、彼の痛み、彼の恐れとそして彼の愛を感じることができます。人々は一般的に、彼らの感情に 触れません。彼らはいつも表層にいます。感情的であることは、良いように見えません。それは弱さの証拠です。もしあなたが怒りを表現するなら、あなたは受 け入れられません。
もしあなたが傷ついたというなら、人々は狼狽します。あなたが「私はあなたを愛している」という時、人々はさらにもっと狼狽します。あなたが恐れ、怒り、 痛み、そして愛を切り離す時、あなたがすることができることの全ては役割です。あなたは敵になります。そして、再び基本を学ばなければなりません。あなた は、恐れていて、それをトータルに経験することは問題がないことを経験しなければなりません。
もしあなたがあなたの恐れの中にトータルに入るなら、あなたは恐らく怒りと激怒を経験します。怒りと激怒を感じることは問題がありません。もしあなたが トータルにそれに入っていくなら、いつでもあなたは痛みに行き着きます。もしあなたがトータルにあなたの痛みであるなら、あなたはいつもあなたの基本的な 必要性に行き着きます。:愛です。食べ物、睡眠、空気、住みかのような外側の必要性があり、そして感情的必要性があります。あなたはこれらの必要性を、人 として感情的に生き残るために満たさなければなりません。もし赤ちゃんが撫でられ、愛されなければ、彼はトータルな人になりません。つづく
怒り-痛み-愛の必要性

4つの基本的な感情があります。恐れ、怒り、痛み、そして愛(の必要性)です。これらはまた「サバイバルの感情」とも呼ばれます。怒り-痛み-愛の必要性。恐れと怒り(「否定的な」感情)は、愛の否定の時経験される、感情的痛みに対する反応です。
ビレッシュは、否定性に巻き込まれないことの重要性を強調します。むしろ、満たされない必要性-愛への直接の近道です。(セッションの中で)否定性を表現 することによって、愛が起こるためのスペースが作られます。人が、愛を受け取ること(最初の必要性)と、愛を与えること(2番目の必要性)を学ぶ時、彼は 自己愛(セルフ・ラブ)を経験するでしょう。一部の人達は権利を持っています。彼らが育った時、彼らは自分の感情について決して何も問題がありませんでし た。なぜなら彼らの家族がそれ全てを奨励していたからです。普通、家族はあなたの感情について幸福ではありません。だから彼らはそれをとめ、そして、あな たは、サバイバルの感情に関して自分を再教育するためにこのような学校に来なくてはなりません。
健康な人間は、彼がそうすると決めるどんな瞬間にも、彼の怒り、彼の痛み、彼の恐れとそして彼の愛を感じることができます。人々は一般的に、彼らの感情に 触れません。彼らはいつも表層にいます。感情的であることは、良いように見えません。それは弱さの証拠です。もしあなたが怒りを表現するなら、あなたは受 け入れられません。
もしあなたが傷ついたというなら、人々は狼狽します。あなたが「私はあなたを愛している」という時、人々はさらにもっと狼狽します。あなたが恐れ、怒り、 痛み、そして愛を切り離す時、あなたがすることができることの全ては役割です。あなたは敵になります。そして、再び基本を学ばなければなりません。あなた は、恐れていて、それをトータルに経験することは問題がないことを経験しなければなりません。
もしあなたがあなたの恐れの中にトータルに入るなら、あなたは恐らく怒りと激怒を経験します。怒りと激怒を感じることは問題がありません。もしあなたが トータルにそれに入っていくなら、いつでもあなたは痛みに行き着きます。もしあなたがトータルにあなたの痛みであるなら、あなたはいつもあなたの基本的な 必要性に行き着きます。:愛です。食べ物、睡眠、空気、住みかのような外側の必要性があり、そして感情的必要性があります。あなたはこれらの必要性を、人 として感情的に生き残るために満たさなければなりません。もし赤ちゃんが撫でられ、愛されなければ、彼はトータルな人になりません。つづく
抱き締めることはハートのやり方だ
質問:OSHO、抱きしめることはなぜ、こんなにも信じられないほどに効果のある治療手段なのでしょうか? 追伸。私は明晰性とウィット(機知)と分析がその方法だと思っていました。けれどもそんなものは抱き締めることに比べれば、みんながらくたです。
人は必要とされることが必要なのだ。それは人間のもっとも根本的な必要のひとつだ。他人に関心を持たれなければ、人は死に始める。自分が誰かに、少なくとも誰かにとっては大切なのだと感じるのでなければ、全生命は無意味なものになる。
だからこそ、愛は存在する最大のセラピー(治療)なのだ。世界がセラピーを必要としているのは、世界が愛を見失っているからだ。本当に愛に満ちている世界には、どんなセラピーも必要ないだろう。愛で充分だ、充分以上だ。
抱き締めるということは愛の、温かさの、心遣いの身振りに過ぎない。他人から流れて来る温かさの感じだけで、あなたの中にあるたくさんの病を溶かす。氷のような冷たいエゴを溶かす。あなたを再び子供にする。
今では心理学者達は、子供は抱き締められキスされなければ何らかの栄養を欠くことになる、という事実によく気がついている。ちょうど肉体が食べ物を必要とするのと同じように、魂には愛が必要なのだ。
あらゆる肉体的必要と肉体的快適さを子供に与えても、もし抱き締めることをしなければ子供は健全には育たない。彼はどこか内側の深いところで淋しく、世話をしてもらえず、見離されて、無視されたままでいることになる。
彼は面倒は見てもらったが、母親としての世話を受けなかったのだ。子供はたとえ他のものは全て与えられても、抱き締められないでいると、この世から後退し始める・・・死ぬことさえあり得る・・・ということが観察されている。
肉体に関する限りあらゆる配慮がなされているのだが、愛がその子を包んでいない。彼は孤立し、存在と切り離されたのだ。
愛は私達をつなぐもの、愛こそが私達の根だ。ちょうどあなたが呼吸するのと同じように・・・肉体にとってそれは絶対的に不可欠だ、呼吸を止めれば生きてはいられない・・・それと全く同じ意味で、愛は内なる呼吸、魂は愛することによって生きている。
分析にその代わりは出来ない。機知も、明晰性も、知識も、学問もその代わりにはならない。セラピーについて知るべきことを全て知っても、熟練者になっても、愛のアートを知らなければ、あなたはセラピーという奇跡のほんのうわべに留まっている。
あなたが患者を、苦しんでいる者をかわいそうだと感じ始めた瞬間・・・100人の患者の内90人は、基本的には愛されて来なかったがゆえに苦しんでいるのだ。
もしあなたが患者は愛を求めているのだと感じ始め、そしてもしあなたがその必要を満たすことが出来れば、患者の状態にはほとんど魔術的な変化が起こる・・・。
ジグムント・フロイトはひどく愛を恐れていた。彼は自分自身が抑圧して来た愛を恐れていたのだ。彼は自分が何らかの感情的もつれや、深い感情的関わりに巻き込まれるのが恐かった。
彼は外側にいたかった、誰かと深く関わりたくはなかった、その人の内面の一部になりたくなかった。深みにはまることなく、科学的観察者として超然として、関わることなく、冷静に、遠く離れていたかった。
それは科学ではない、また決して科学になることもない!それはアートだ。そして論理よりは、はるかに愛に近いものだ。そして本物の精神分析家は、深く患者の内面に立ち入ることを避けはしない・・・彼は危険を冒す。
それは危険なものだ。荒海に乗り出して行くようなものだ。自分が溺れるかもしれない・・・結局、あなたも人間なのだから!あなたは何かの面倒に、もめ事に巻き込まれるかもしれない。自分自身に何か問題を作り出してしまうかもしれない。だがその危険は冒されなければならない。
だから私はウィルヘルム・ライヒをとても愛しているのだ。彼こそは患者に巻き込まれるということによって、精神分析というものをすっかり変貌させた男だ。
彼は診療台を捨てた。あのよそよそしく超然とした態度を捨てた。彼はジグムント・フロイトよりはるかに偉大な革命家だ。ジグムント・フロイトは伝統的なままだった。彼は本当に自分自身の抑圧を恐れていた。
もしあなたが自分自身の抑圧を恐れていなければ、あなたは途方もない助けになることが出来る。
もしあなたが自分自身の無意識を恐れていなければ、もしあなたが多少なりとも自分の問題を解決していれば、あなたは患者の世界に巻き込まれ、ただの観察者ではなく、患者の関係者になることによって、非常な助けになることが出来る。
だが実際は、精神分析家達は自分自身の問題を、それもときには患者自身よりも大きいような問題を抱えているのだから、ジグムント・フロイトの恐怖は理解出来る。
私に関する限り、私はこれについてははっきりと断言しておきたい。人は本当に覚醒しない限り、光明を得ない限り、本当の真正のセラピストにはなれない、と。ブッダ(覚者)だけが本物のセラピストになれる。
というのも彼はもう自分の問題を持っていないからだ。彼は患者に融合し、溶け込むことが出来る。実際には彼にとっては、患者はもはや患者などでは全くない。
それこそが患者とそのセラピストの間にある関係と、弟子とそのマスターとの間にある関係の違いだ。弟子は患者ではない。弟子は愛する人、愛される人だ。
マスターはたんなる観察者ではない。彼は関係者になっている。彼らはそれぞれの個別のアイデンティティ(自己同一性)をなくしている。彼らは一体になっている。そして、その一体性が助けになるのだ。
抱き締めるということは、この一体性の身振りに過ぎない・・・身振りでするのだが助けになるのだ。
プレム・アミダ、あなたの言う通りだよ。あなたはこう尋ねている・・・「抱き締めることはなぜ、こんなにも信じられないほどに効果のある治療手段なのでしょうか?」
その通りだ、しかもそれは身振りに過ぎない。もしそれが本物なら・・・身振りだけでなく、あなたのハートもその中に込められているなら・・・それは魔術的手段になり得る。それは奇跡になり得るのだ。それは全状況を即座に変容させることが出来る。
それについて2,3のことを理解しておかなければならない。1つは、子供が死んで人は思春期に至り、それからその思春期が死んで青年になり、それからその青年が死んで中年になり、以後同じようなことが続く、というような考えは誤りだということだ。
子供は決して死なない・・・何ひとつ決して死なない。子供は他の経験に包まれてそこにいる、常にそこにいる・・・思春期に包まれてはいるが、それから青年に包まれ、それから中年に、それから老年に包まれてはいるが・・・子供は常にそこにいる。
人はちょうど玉ねぎのようなものだ。皮の上にまた皮がかぶさっている。だがその皮を1枚むけば、その内側にもっと新鮮な皮が現れる。むき続ければもっともっと新鮮な皮が現れる。
人についても同じことだ。その人の内側に深く入り込んで行けば、いつでも純真無垢な子供が現れる・・・そしてその純真無垢な子供と接触することは治療上のことなのだ。抱き締めることは、その子供との直接的な接触を可能にする。
もしあなたが誰かを温かく、愛を込めて抱き締めれば、それがたんなる無力な身振りではなく、意味のある心のこもった真実のものなら、もしあなたのハートがそこに流れているなら、たちまちあなたはその子供と、その純真無垢な子供と接触することが出来る。
そしてたとえ一瞬であっても、その純真無垢な子供が表面に顔を出せば、そこには大変な違いが生じる。なぜならその子供の純真さは、常に健康で完全無欠だからだ。それは決して壊され得ない。
あなたはかつてどんな破壊も及んだことのない、その人の内奥の核に達したのだ、その処女の核に達したのだ。そしてその処女の核を再び生命に脈動させることが出来さえすれば、それで充分だ。あなたはセラピーの過程をスタートさせたのだ、その引き金を引いたのだ・・・
あなたがある人を愛しているなら、言葉で表現するだけでは足りない。言葉だけでは充分ではない。何かもっと実質的なものが必要だ。言葉は抽象に過ぎないからだ。
あなたは何かをしなくてはならない!手を取りなさい、その人を抱き締めなさい、その人にキスしなさい、その人を抱擁しなさい。それは2人に役立つだろう。
もし2人が抱き締め合って溶け合うことが出来れば、あなた方は2人とも再び若々しく、より溌剌と、より生き生きとなるだろう。そしてそれこそがセラピーの過程の全てだ。
プレム・アミダ、分析はマインド(頭)のやり方だ。抱き締めることはハートのやり方だ。マインドこそ全ての病の原因、ハートこそ全てのヒーリングの源泉だ。
OSHO:The Wild Geese And The Water (1981,2,14) (日本語版、ラジニーシ・ニューズレター、84号)より
人は必要とされることが必要なのだ。それは人間のもっとも根本的な必要のひとつだ。他人に関心を持たれなければ、人は死に始める。自分が誰かに、少なくとも誰かにとっては大切なのだと感じるのでなければ、全生命は無意味なものになる。
だからこそ、愛は存在する最大のセラピー(治療)なのだ。世界がセラピーを必要としているのは、世界が愛を見失っているからだ。本当に愛に満ちている世界には、どんなセラピーも必要ないだろう。愛で充分だ、充分以上だ。
抱き締めるということは愛の、温かさの、心遣いの身振りに過ぎない。他人から流れて来る温かさの感じだけで、あなたの中にあるたくさんの病を溶かす。氷のような冷たいエゴを溶かす。あなたを再び子供にする。
今では心理学者達は、子供は抱き締められキスされなければ何らかの栄養を欠くことになる、という事実によく気がついている。ちょうど肉体が食べ物を必要とするのと同じように、魂には愛が必要なのだ。
あらゆる肉体的必要と肉体的快適さを子供に与えても、もし抱き締めることをしなければ子供は健全には育たない。彼はどこか内側の深いところで淋しく、世話をしてもらえず、見離されて、無視されたままでいることになる。
彼は面倒は見てもらったが、母親としての世話を受けなかったのだ。子供はたとえ他のものは全て与えられても、抱き締められないでいると、この世から後退し始める・・・死ぬことさえあり得る・・・ということが観察されている。
肉体に関する限りあらゆる配慮がなされているのだが、愛がその子を包んでいない。彼は孤立し、存在と切り離されたのだ。
愛は私達をつなぐもの、愛こそが私達の根だ。ちょうどあなたが呼吸するのと同じように・・・肉体にとってそれは絶対的に不可欠だ、呼吸を止めれば生きてはいられない・・・それと全く同じ意味で、愛は内なる呼吸、魂は愛することによって生きている。
分析にその代わりは出来ない。機知も、明晰性も、知識も、学問もその代わりにはならない。セラピーについて知るべきことを全て知っても、熟練者になっても、愛のアートを知らなければ、あなたはセラピーという奇跡のほんのうわべに留まっている。
あなたが患者を、苦しんでいる者をかわいそうだと感じ始めた瞬間・・・100人の患者の内90人は、基本的には愛されて来なかったがゆえに苦しんでいるのだ。
もしあなたが患者は愛を求めているのだと感じ始め、そしてもしあなたがその必要を満たすことが出来れば、患者の状態にはほとんど魔術的な変化が起こる・・・。
ジグムント・フロイトはひどく愛を恐れていた。彼は自分自身が抑圧して来た愛を恐れていたのだ。彼は自分が何らかの感情的もつれや、深い感情的関わりに巻き込まれるのが恐かった。
彼は外側にいたかった、誰かと深く関わりたくはなかった、その人の内面の一部になりたくなかった。深みにはまることなく、科学的観察者として超然として、関わることなく、冷静に、遠く離れていたかった。
それは科学ではない、また決して科学になることもない!それはアートだ。そして論理よりは、はるかに愛に近いものだ。そして本物の精神分析家は、深く患者の内面に立ち入ることを避けはしない・・・彼は危険を冒す。
それは危険なものだ。荒海に乗り出して行くようなものだ。自分が溺れるかもしれない・・・結局、あなたも人間なのだから!あなたは何かの面倒に、もめ事に巻き込まれるかもしれない。自分自身に何か問題を作り出してしまうかもしれない。だがその危険は冒されなければならない。
だから私はウィルヘルム・ライヒをとても愛しているのだ。彼こそは患者に巻き込まれるということによって、精神分析というものをすっかり変貌させた男だ。
彼は診療台を捨てた。あのよそよそしく超然とした態度を捨てた。彼はジグムント・フロイトよりはるかに偉大な革命家だ。ジグムント・フロイトは伝統的なままだった。彼は本当に自分自身の抑圧を恐れていた。
もしあなたが自分自身の抑圧を恐れていなければ、あなたは途方もない助けになることが出来る。
もしあなたが自分自身の無意識を恐れていなければ、もしあなたが多少なりとも自分の問題を解決していれば、あなたは患者の世界に巻き込まれ、ただの観察者ではなく、患者の関係者になることによって、非常な助けになることが出来る。
だが実際は、精神分析家達は自分自身の問題を、それもときには患者自身よりも大きいような問題を抱えているのだから、ジグムント・フロイトの恐怖は理解出来る。
私に関する限り、私はこれについてははっきりと断言しておきたい。人は本当に覚醒しない限り、光明を得ない限り、本当の真正のセラピストにはなれない、と。ブッダ(覚者)だけが本物のセラピストになれる。
というのも彼はもう自分の問題を持っていないからだ。彼は患者に融合し、溶け込むことが出来る。実際には彼にとっては、患者はもはや患者などでは全くない。
それこそが患者とそのセラピストの間にある関係と、弟子とそのマスターとの間にある関係の違いだ。弟子は患者ではない。弟子は愛する人、愛される人だ。
マスターはたんなる観察者ではない。彼は関係者になっている。彼らはそれぞれの個別のアイデンティティ(自己同一性)をなくしている。彼らは一体になっている。そして、その一体性が助けになるのだ。
抱き締めるということは、この一体性の身振りに過ぎない・・・身振りでするのだが助けになるのだ。
プレム・アミダ、あなたの言う通りだよ。あなたはこう尋ねている・・・「抱き締めることはなぜ、こんなにも信じられないほどに効果のある治療手段なのでしょうか?」
その通りだ、しかもそれは身振りに過ぎない。もしそれが本物なら・・・身振りだけでなく、あなたのハートもその中に込められているなら・・・それは魔術的手段になり得る。それは奇跡になり得るのだ。それは全状況を即座に変容させることが出来る。
それについて2,3のことを理解しておかなければならない。1つは、子供が死んで人は思春期に至り、それからその思春期が死んで青年になり、それからその青年が死んで中年になり、以後同じようなことが続く、というような考えは誤りだということだ。
子供は決して死なない・・・何ひとつ決して死なない。子供は他の経験に包まれてそこにいる、常にそこにいる・・・思春期に包まれてはいるが、それから青年に包まれ、それから中年に、それから老年に包まれてはいるが・・・子供は常にそこにいる。
人はちょうど玉ねぎのようなものだ。皮の上にまた皮がかぶさっている。だがその皮を1枚むけば、その内側にもっと新鮮な皮が現れる。むき続ければもっともっと新鮮な皮が現れる。
人についても同じことだ。その人の内側に深く入り込んで行けば、いつでも純真無垢な子供が現れる・・・そしてその純真無垢な子供と接触することは治療上のことなのだ。抱き締めることは、その子供との直接的な接触を可能にする。
もしあなたが誰かを温かく、愛を込めて抱き締めれば、それがたんなる無力な身振りではなく、意味のある心のこもった真実のものなら、もしあなたのハートがそこに流れているなら、たちまちあなたはその子供と、その純真無垢な子供と接触することが出来る。
そしてたとえ一瞬であっても、その純真無垢な子供が表面に顔を出せば、そこには大変な違いが生じる。なぜならその子供の純真さは、常に健康で完全無欠だからだ。それは決して壊され得ない。
あなたはかつてどんな破壊も及んだことのない、その人の内奥の核に達したのだ、その処女の核に達したのだ。そしてその処女の核を再び生命に脈動させることが出来さえすれば、それで充分だ。あなたはセラピーの過程をスタートさせたのだ、その引き金を引いたのだ・・・
あなたがある人を愛しているなら、言葉で表現するだけでは足りない。言葉だけでは充分ではない。何かもっと実質的なものが必要だ。言葉は抽象に過ぎないからだ。
あなたは何かをしなくてはならない!手を取りなさい、その人を抱き締めなさい、その人にキスしなさい、その人を抱擁しなさい。それは2人に役立つだろう。
もし2人が抱き締め合って溶け合うことが出来れば、あなた方は2人とも再び若々しく、より溌剌と、より生き生きとなるだろう。そしてそれこそがセラピーの過程の全てだ。
プレム・アミダ、分析はマインド(頭)のやり方だ。抱き締めることはハートのやり方だ。マインドこそ全ての病の原因、ハートこそ全てのヒーリングの源泉だ。
OSHO:The Wild Geese And The Water (1981,2,14) (日本語版、ラジニーシ・ニューズレター、84号)より