OSHOヒューマニバーシティ・ジャパン -5ページ目

私は、どこでもたえずミスフィットとして生きてきた


ビレッシュが精神病院で働いていた時に、OSHOに質問した時の答えです。



だから、いいかね、けっして妥協してはいけない、どんな犠牲を払っても。たとえ自分の命を犠牲にしても、妥協してはいけない。妥協した人は、骨抜きにされ た人だ。自分の個としてのありよう、そして自由のために死ぬ人は、喜びをもって死ぬ。存在の祝福すべてが、その人のものだ。

私は、どこでもたえずミスフィットとして生きてきた。そして、それを徹頭徹尾、余すところなく、楽しんできた。まさに自分自身であることは、ひじょうにす ばらしい旅だ。あなたは自分の実存、自分の潜在能力を発見しつづける。そして、ある日、この発見があなたを、自分の実存の究極の開花へと導く。その究極の 開花を、私は光明(エンライントンメント)と呼んでいる。あなたは光を放つようになる。

この世に光明を得る人がほとんどいなくなったのはなぜだろう? 私は、この問いを何度も何度もたずねられた。理由はひじょうに単純だ。彼らはその生涯、あ えてミスフィットでありつづけ、非難され、不名誉にあまんじ、拒絶されようとしなかったからだ。ごくわずかな人びとしか個人でなく、ごくわずかな人びとし か自分の実存の究極の爆発に至らなかったのは、そのためだ。始めた人たちはいた、が、彼らはまさに自分自身であることの危険を目のあたりにして、結局は妥 協したのだ。

私は、なににもけっして妥協しなかった。それは途方もない助けになった。厄介なことではあった。誰もが私に反対し、誰もが私を非難していたが、それは独り であるための途方もない勇気を私に与えてくれた。私は、自分が苦しまなければならなかったことはすべて、どんな不平も言わずにその苦しみを通り抜けた。私 は自らそれを選んだのだ。だが、その火が、私の実存をさらに、さらに純化した。

だから、どのような点でも妥協してはいけない。というのも、その妥協点があなたを弱くするからだ。あなたは自分の個としてのありようを失ってしまう。だが、エゴイスティックなってはいけない。謙虚であるがいい。エゴイストになりたければ、遅かれ早かれ妥協するしかない。

だから、妥協はなしだ、結果はどうあろうとも。結果として死がやって来ようと、あなたは死を踊りながら迎えることができる。死を踊りながら迎えることがで きるのは、個人だけだ。死などないことを、死はひとつの形から別の形への変容でしかないことを知っているのは、個人だけだからだ。そして、もし彼らが全面 的に咲いたら、光明を得たら、自分たちは永遠の実存であり、不滅だということを、完全に、途方もないくつろぎのうちに知る。全宇宙が彼らのものだ。彼らは つねにここにありつづけてきた。彼らは今ここにある。そして、永遠にここにある。彼らは存在の固有の一部だ。死は問題外だ。そして、これこそまさに、生が あなたを導いてゆくところでなければならない。不死の体験へと。


Osho, From Death to Deathlessness

Heaven - Veeresh (Music for Meditation, Celebrat

Veeresh - Open Your Heart

Veeresh - Angel

どこかで拒絶された人は誰でも、ここでは喜んで迎え入れられる

(前回の続きから)
私のサニヤシンはみな、世界のミスフィットたちだ……。だが、ミスフィットであることは、エゴイストであるという意味ではない。もしあなたがエゴイストで あれば、いずれは妥協する。なんらかの人の集まり、なんらかの社会、なんらかの国を見出し、それが自分がもっとエゴイスティックになる助けになれば、あな たはすぐにその社会に合わせる。ほんとうのミスフィットは謙虚な人だ。誰もその人を取り込めないのは、そのためだ。その人が自由なのは、エゴから解放され ているからだ。

どこかで拒絶された人は誰でも、ここでは喜んで迎え入れられる。
というのも、知性、個人としてのありようをもった人しか拒絶されない、というのが私の理解 だからだ。従順な人、個人としてのありようをもたず、表現の自由をもたず、なににもけっしてノーと言わない人たちは、いつでもイエスと言う用意ができてい る、自分の意志に背いてまで。世間で尊敬されるのは、こうした人たちだ。その彼らが大統領になり、首相になり、ありとあらゆる意味で尊敬されているが、そ の理由は単純だ。彼らは自殺しているからだ。彼らはもはや生きていない。化石化しているだけだ。

ここでは、人びとが生きている。生きている人を、ある特定のパターンに適合させることなどできるかね? 個人はみなユニークだ。それに、なぜ他人のひな型 に合わさなければならないのかね? この世の惨めさすべてを簡単に言い表わすことができる。誰もが、その人本来のあるべき姿を見出だすことなど気にもして いない他人によって切り詰められ、型にはめられ、整えられている。彼らは存在にチャンスを与えない。

子どもが生まれるまさにその瞬間から、彼らはその子をだめにし始める。もちろん、あらゆる善意でもって。それを意識してやる親はいない、が、その親も同じように条件づけられてきた。親は自分の子どもにも同じことをくり返す。ほかにはなにも知らないのだ。

言うことを聞かない子どもは、たえず非難されている。従順な子どもは、その一方で、たえず褒められる。だが、従順な子どもが、創造性の次元で世界的に有名 になったことなど、聞いたことがあるかね? 従順な子どもがなにかでノーベル賞を受賞したなど、聞いたことがあるかね??文学、平和、科学? 従順な子ど もは一般の群衆になるだけだ。存在に付けたされたものはすべて、言うことを聞かなかった者たちが付けたしたのだ。

ジャン・ポール・サルトル、今世紀のもっとも重要な人物のひとりは、ノーベル賞を辞退した。その理由を聞かれて、彼はこう言った。「ノーベル賞を受ける と、ある意味で妥協することになる。自分では認めていない社会から、ある意味で尊敬を受けることになる。おそらくノーベル賞で、私は弱くなるだろう」

「彼らは私のことをとても尊敬している??その彼らが信じているあらゆるものに対して、闘いつづけることなどできるだろうか。彼らの神に対して、彼らの道 徳に対して、彼らの政治に対して」彼は言った、「ノーベル賞を受けることは自分を売ることだ。そんなことは私にはできない」彼はまったく正しかった。つづく