私は、どこでもたえずミスフィットとして生きてきた
ビレッシュが精神病院で働いていた時に、OSHOに質問した時の答えです。
だから、いいかね、けっして妥協してはいけない、どんな犠牲を払っても。たとえ自分の命を犠牲にしても、妥協してはいけない。妥協した人は、骨抜きにされ た人だ。自分の個としてのありよう、そして自由のために死ぬ人は、喜びをもって死ぬ。存在の祝福すべてが、その人のものだ。
私は、どこでもたえずミスフィットとして生きてきた。そして、それを徹頭徹尾、余すところなく、楽しんできた。まさに自分自身であることは、ひじょうにす ばらしい旅だ。あなたは自分の実存、自分の潜在能力を発見しつづける。そして、ある日、この発見があなたを、自分の実存の究極の開花へと導く。その究極の 開花を、私は光明(エンライントンメント)と呼んでいる。あなたは光を放つようになる。
この世に光明を得る人がほとんどいなくなったのはなぜだろう? 私は、この問いを何度も何度もたずねられた。理由はひじょうに単純だ。彼らはその生涯、あ えてミスフィットでありつづけ、非難され、不名誉にあまんじ、拒絶されようとしなかったからだ。ごくわずかな人びとしか個人でなく、ごくわずかな人びとし か自分の実存の究極の爆発に至らなかったのは、そのためだ。始めた人たちはいた、が、彼らはまさに自分自身であることの危険を目のあたりにして、結局は妥 協したのだ。
私は、なににもけっして妥協しなかった。それは途方もない助けになった。厄介なことではあった。誰もが私に反対し、誰もが私を非難していたが、それは独り であるための途方もない勇気を私に与えてくれた。私は、自分が苦しまなければならなかったことはすべて、どんな不平も言わずにその苦しみを通り抜けた。私 は自らそれを選んだのだ。だが、その火が、私の実存をさらに、さらに純化した。
だから、どのような点でも妥協してはいけない。というのも、その妥協点があなたを弱くするからだ。あなたは自分の個としてのありようを失ってしまう。だが、エゴイスティックなってはいけない。謙虚であるがいい。エゴイストになりたければ、遅かれ早かれ妥協するしかない。
だから、妥協はなしだ、結果はどうあろうとも。結果として死がやって来ようと、あなたは死を踊りながら迎えることができる。死を踊りながら迎えることがで きるのは、個人だけだ。死などないことを、死はひとつの形から別の形への変容でしかないことを知っているのは、個人だけだからだ。そして、もし彼らが全面 的に咲いたら、光明を得たら、自分たちは永遠の実存であり、不滅だということを、完全に、途方もないくつろぎのうちに知る。全宇宙が彼らのものだ。彼らは つねにここにありつづけてきた。彼らは今ここにある。そして、永遠にここにある。彼らは存在の固有の一部だ。死は問題外だ。そして、これこそまさに、生が あなたを導いてゆくところでなければならない。不死の体験へと。
Osho, From Death to Deathlessness