思いつきで適当なことを言うな
ホテルは一般客の宿泊も会場貸しも反社のチェックなんてやっていないよ。適当なことを言うなよ。だからタレント政治家は信用できないのだ。帝国ホテルやリッツ・カールトンなどの高級ホテルであれば、もしかすれば話しは別かもしれないが、普通の一般的なホテルは、一々反社のチェックなどはしていないはずだ。警察からそのような指導もされていないであろうし、大体、年末の忘年会などの繁忙期にそのような手間の掛かることが出来る訳がない。その手間だけで宿泊費や借り賃が何割増しにもなるはずである。何で私がそのように断言できるかと言えば、昨年、一昨年と私は幹事ではなかったが、高校時代の同級生で幹事役の人間と一緒に同窓会の会場探しに現場まで付き添ったり、話しを聞く機会も何度となくあったからだ。反社のチェックが必要ということであれば我々も何らかの方法でチェックされていたはずだが、そのような気配は全然なかったし、耳に挟むこともなかった。高校時代の同窓会という名目であるからフリーパスだというのであれば、同窓会を建前にしてヤクザが何らかの催しや宴会をすることも可能であるからその説明は成り立たないはずだ。とは言っても、もちろん正確に調べて言っているわけではないが、私は政治家でもタレントでもないし、世間に対して影響力のある立場でコメントしている訳ではない。TVに出ているような人間や元政治家が正確に調べてもいないことをわかったような顔で権威的に解説して、一般人の理解や印象をミスリードさせることこそが大いに問題であると言えよう。
宮迫らが参加して問題になっている詐欺グループの忘年会の会場を貸したホテルが、反社のチェックをしていたのかどうか、仮にしていたとすればどのようなチェックをして、どのような理由で見落とされることになったのかということについては、マスコミがちょっと取材をすればただちにわかることではないか。そういう基本的な作業をしないで、どうして、ホテルは反社のチェックをしていたはずで、ホテルですらわからなかったのだから宮迫たち一介の芸人にわかる訳がなかったなどという理屈が成り立つのか。それは単なる誤魔化しの屁理屈ではないのか。調べてはいないが、恐らくは私の推測の方が正しいであろう。宮迫らが参加した忘年会会場のホテルなり貸主は反社のチェックをしていなかったであろうし、またそうするような警察の行政指導も少なくともその当時にはなかったはずである。反論があるならそのホテルとやらを取材して事実を元に(簡単にわかる事実なのであるから)述べていただきたいものだ。
誤解があるといけないので断っておくが、私は芸能界やタレントが憎くて、あるいは恨みの感情を持って、必要以上に追い込んでやろうなどと考えているわけではない。タレントの処遇などはどうでもいいことである。しかしそういうタレント的な問題を取り巻く、政治やマスコミを含めて表の権力の堕落、詭弁、ごまかしが許せないのだ。2・26事件で蹶起した青年将校たちの気持ちもわからないではない。
社会の変化と滞留
一昔前は芸能界や興行の世界は当たり前のように暴力団やヤクザとつながっていたと懐古的に指摘する論調が見られるが、それは確かにその通りであろうが、さて今の時代にどう考えるべきなのであろうか。人それぞれに考えはあるであろうが、私は個人的には善悪の問題ではないと思う。昔は良くて今は悪い(生き難い)、或いはその反対などと単純に決めつけられるようなものではないであろう。時代が違うなどと言ってしまえばそれまでのことであるが、なぜかはよくわからないが、時代の経過と共に、10年、20年、30年と10年単位ぐらいで社会の全体的な在り様は変化していくのである。良くなったと言えば良くなったのであろうし、ヤクザのようにある特定の人々にとっては生き難くなったということである。それは反社の問題だけではなくて身近なところでは“煙草”も同じであろう。ユーチューブで昔の動画を見ているとたとえば三島由紀夫は、大学の教室(おそらくは東大)で学生相手に保守思想の講演を壇上で煙草をプカプカと吸いながら行っているのである。今では考えられない光景である。教室内に煙がもうもうと充満していて、そのような動画を見ていると日米安保や保守思想なんてどうでもよいから、窓を開けて換気しろよと言いたくなる。同様に石原裕次郎が何かの歌番組で煙草を吸いながらスタジオ内で歌っている動画も見た記憶がある。三島にしても石原にしても当時はそのような真似が粋であると思われていたのかどうかはわからないが、今の時代に見るとかなりの違和感や抵抗感がある。煙草は元々、専売公社によって国家的に管理されてきたもので、大麻などとは違って合法であることは今も変わらないが、ある時期から急に悪者扱いされてしまって、市民権は大きく低下し、喫煙者は家庭内でも屋外でも居場所がなくなっている。ヤクザなどの反社と同じである。その変遷が果たして本当に正しいのかそれとも間違っているのかという観点からの議論も当然、あってしかるべきだとは思われるが、ただ確定的なことは時計の針を逆向きに回すように昔の世相に戻ることは現実的には有り得ないであろうということである。公的な場所やTVの収録などで出演者が煙草を吸いながら、講演をしたり、歌うことが許されるようなある種の大らかさや自由が復活することは、たとえどのような議論や意見があるにせよないであろうし、同様に暴力団員が代紋の威勢を誇示させながら肩で風を切るように繁華街を練り歩くような時代に逆戻りすることも有り得ないであろう。そのような例はいくらでもある。たとえば性犯罪一つを取って見ても、30年くらい以前であれば日本の電車は痴漢の常習者にとってみれば、痴漢天国とでも言うか「やり放題」であったのかも知れない。通勤ラッシュアワーの時間帯に1つの車両に異常に乗客を詰め込んで他の乗客と身体が密着しているのが当たり前の状態なのだから、手が女性の身体を触ったとしても不可抗力として何とでも言い訳が利いたのだと想像される。私には経験がないのでよくは知らないが。女性も明らかに痴漢されているという確信があっても、そのような時代には声を上げて抗議することが実質的には許されていなかったと言えよう。しかし今の時代は正反対である。仮に100に1つの冤罪であったとしても女性に痴漢を訴えられてしまえば男にとっては万事休すである。どうしようもないので、基本的には男が痴漢に間違えられないように自己防御する必要性が生じているということだ。レイプ犯罪も同じである。30年前なら恐らくは女性が勇気を振り絞って、レイプの被害を警察に告発したとしても、被害者である女性側がその性行為が合意でなかったことを証明できなければ、容疑者の男性は捜査されなかったり、不起訴になるケースが多かったのではなかろうか。今の時代はそうではない。女性がレイプの被害を警察に届け出て、相手側の男性が一旦、逮捕され取り調べを受けることとなれば徹底的に追及されて自白をせざるを得ない心理状態に追い込まれることであろう。仮に無罪であったとしても、無罪を証明することはよほどの幸運に恵まれなければ至難の業である。その男性が時の総理大臣と仲のよいジャーナリストなどであれば話しは別であろうが。普通は裁判所が一旦、発布を認めた逮捕状が、直前になって執行が取り止めになるようなことなど有り得ないことだ。
ともかくも何が言いたいのかと言えば、反社の処遇やたばこのような嗜好品だけではなくて、犯罪全般の取り締まりやプライバシーの取り扱いなどもそうであろうし、女性の地位向上や差別撤廃も含めて、世の中は美空ひばりの歌ではないが、川の流れのように不可逆的に変化していくということだ。それが正しいか間違っているかと言えば、その「行き過ぎ」が社会に弊害をもたらしているのではないかという視座の考えはあるし、それはそれで非常に大切なことであるといえようが、それでも川の流れを逆行させたり、止めることは不可能である。そういう大前提で私が強調したいことは、そういう変化の相を基点にして見た時に、マスコミや芸能界においてだけは何かしら異世界のように澱んでいるように見えるということだ。どうしてマスコミや芸能界だけが、いつまでも特別扱いされなければならないのか、特別扱いする必要性があるのかということだ。それはマスコミや芸能界の世界が、反社の世界とではなくて「表の政治権力」と深く密着しているからではないのか。今回の参議院選挙でもいつものように泡沫的な芸能人が立候補させられているが、マスコミの情報操作と芸能界の知名度を日本の政治は活用することしか考えていないから、そういうことにもなるし、また今回のように芸能界と反社の交流の事実が表沙汰になっても、くだらないタレント政治の側からそのような構図を温存させようとする擁護の意見が出てくるのである。そして政界もそのためにこそ幼稚なタレント政治を必要とするループ構造が固定化されていると見做されるものである。頭の悪い連中相手に力説していると疲れるわ。
百円の恋と百円以下のお笑いタレント
百円の恋か。何年前だったか、大阪梅田の映画館で確か園子温監督の『冷たい熱帯魚』を見に行っていた時だと思うが、映画『百円の恋』のポスターかチラシを見て気にはなっていたのである。私ぐらいになると(もちろん冗談だが)、ポスターなどを一瞥するだけで直感的にいい映画、見るべき映画というものはわかるとまでは断言できなくとも、何か伝わってくるものはあるのだ。それで結局、映画館では見れずに、ヤフーのレンタル(ポスレン)でDVDを借りて見ようと思ってマイリストに登録はしていたのだが、ずっと貸し出し中の状態になっていて一向に借りれないのであった。それも数週間とか数ヶ月というレベルではない。私の知る範囲内においては貸し出し中の状態が、1~2年、或いはそれ以上続いていたのではなかろうか。凄い人気だなと漠然と思っていた。見てはいなかったので何とも言えなかったが、カルト的に人気のある作品なのかも知れないと考えてもいた。それが数日前のことであるが、久しぶりにポスレンの画面を見ていると『百円の恋』が貸し出し可能の状態になっていたので、他の作品と一緒にレンタルの注文を入れ、届いたのを早速、鑑賞したのである。
感想を一言で言えば、いい映画であった。主演女優の安藤サクラの演技が素晴らしかった。数年間も貸し出し状態になっているのが納得できた。内容を簡単に紹介する。安藤サクラが演じる女性(一子)は32歳にもなるのにひきこもりのニートで、日々だらしのない生活をしていた。離婚して子供を連れて実家に戻ってきた妹と派手な喧嘩をしたりでついに両親も手に負えなくなり、家を出て安アパートを借り一人暮らしを始めなければならなくなったのである。それまでは実家の弁当屋の手伝いをたまにする程度だったのだが、百円均一のコンビニで働き始めることになる。百円の恋というタイトルが疑問であったのだが、百均の店で一子が働いていて、その一子の恋が描かれている映画で百円の恋とは味わいのあるネーミングである。一子は近くのボクシングジムのプロボクサーの男と出会い、一緒に住み始めることとなる。その男を演じているのが、先日、マッサージ嬢の強姦容疑で逮捕された新井浩文である。なるほど、そういうことかと、合点がいった。何年間も貸し出し中であった超人気作品が急に借りられるようになったのは、貸し出しの規制されている訳ではないのに事件の影響で多くの人が見ることを敬遠するようになったからである。世間というものは非常に分かりやすいというか、純朴な反応を示すものだなと映画の面白さ、素晴らしさとは別に興味深く感じたものである。私なら反対に(私が捻くれているだけなのかも知れないが)、何かの犯罪で捕まるような役者がどういう演技をするものか興味が大きくなるのであるが。しかし率直に言って、新井浩文の演技には気持ち悪さが感じられた。気持ち悪いなどと言えば、単なる悪口にしか聞こえないかも知れないが、何を考えているのかわからない不気味さが漂っているのである。その存在感なり雰囲気を演技力で意識的に作りだしているのであれば、優れた俳優であると認めざるを得ないが、今回のような事件があれば「地」のようにも見えてくるのである。いや、恐らくは地であろう。結果論と言われればそれまでであるが。ともかくも世間の反応とすれば、地に見えてしまうので途端に見ることを拒絶してしまっているのであろうと推察される。そのように考えれば新井浩文の復帰は、困難であるという以上に不可能であるようにも思える。それに比べれば覚せい剤で捕まったピエール瀧は何だかとてもクリーンだ。汚れの落ちた便器のように。
安藤サクラの演技は突出している。一子はボクシングジムから覗き見る光景と男に触発されるようにボクシングを始めることとなり、顔付きや体型が映画の進行と共に変化していく。ボクシングの試合の場面での安藤サクラの演技は凄すぎて笑ってしまった。ボクシングで戦うことの苦しさや壮絶さをこれほどリアルに演じられる俳優は、男であっても他にいるであろうか。あのような白目を剥いて倒れている顔は演技で作れるものであろうか。そして見終った後にはなぜか幸福感に包まれるのだ。曲名は知らないが、痛い、痛いを連呼するエンディングの曲がまた良い。生きることはボクシングで殴られるように、痛い、痛い、痛いのだ。安藤サクラは、盗撮魔と新興宗教の妙な映画である『愛のむきだし』の時から只者ではない雰囲気があった。そして最近見た『万引き家族』では、演技にただならぬ成熟と深みが増してきたようにも感じられた。万引き家族の映画で意外であったのは、松岡茉優という女優がとても心に残る良い演技をしていたことだ。美人なだけの十把一絡げ的な女性タレントの一人としか見ていなかったので、そうでないことが驚きであった。
ともかくも私は芸能界やタレントを一括りにして馬鹿にするつもりはない。いいものは素直にいいと思うし、本当に才能のある人間には敬意を表するものでもある。しかし今のお笑いタレントについて言えば、何も無理をしてお笑いタレントの地位を引き上げる必要性はないのではないのか。別にお笑いを差別したり蔑視するつもりはない。日本にチャップリンやバスターキートンのような世界的な喜劇役者が現れて欲しいとは思うが、今の日本にはどうでもいいような下らないお笑いタレントが多過ぎるのだと思う。需要と供給のバランスが取れていない過剰供給の状態なので、これでは反社と結びつくのは社会学的な必然なのではなかろうか。それからお笑いタレントが文化人のように政治的な発言を繰り返すこともどうかとは思う。もちろんお笑いタレントにも表現の自由はあるので思う所を率直に述べることは間違いではないであろうが、知名度や露出性の高さゆえに批判やバッシングを浴びることもあるであろうが、反対にまるで模範解答のように一人歩きすることもあるであろう。果たして多くの国民はお笑いタレントに文化人としての発言を期待しているのであろうかと疑問に思うことが多い。そのような芸能界の風土に染まったタレント政治家の阿りや屁理屈などは論外である。