朝日新聞の存在価値について
朝日新聞は目を逸らさずに事実に向き合うべきである。韓国で開催際される野球のU‐18W杯に参加する高校・日本代表のチームウェアに、日韓関係を配慮してJAPANや日の丸を入っていない無地のポロシャツに変更したということである。さすがに試合中で着るユニフォームから日の丸を外すことはないであろうが、移動中のウエアであろうと批判が多く集まるのは当然のことである。日の丸関連の話題は、本来は朝日新聞の専売特許とでもいうべきものであるはずなのに、こういう形で日の丸が自粛されると社としてコメントが出せないのであろうか。下手に関わると火の粉が自分の方に飛んできそうな問題には、一切沈黙してスルーすべしという社是なり報道規律が、朝日新聞社にはあるのであろうか。あいちトリエンナーレの中止や慰安婦像の問題では、あれほど熱心に一面を割いてまで解説、主張していたのとは対照的である。朝日新聞だけではなかろうが、毎日新聞などの左派系の報道は、事実をありのままに報道して、その賛否を国民に問うのではなくて、事実を政治的に利用することしか考えていないから自然とそのような姿勢になるのである。都合の悪いことは、そういう出来事がなかったかのように無視する、スルーする。自社に都合の良い出来事はとことん追求して、自分たちが報道の拠り所にしているイデオロギーが正しいことを証明しようとする。要するに左派的なイデオロギーが揺らいでしまう可能性のある話題は、朝日新聞的には報道する価値がないということである。そういう報道が社会の公器と言えるのであろうか。本当にそのような新聞が日本に必要なのか。
日の丸、JAPANのロゴが入ったウエアを着用させないという高野連の判断については、子供たちの安全に責任を持つ立場からその心情はわからないことではない。しかしアルピニストの野口健さんも言っていたように、そこまでの配慮して、そのような危険性が危惧される大会に参加させる意味があるのであろうか。プロではないのである。高校生が対象のアマチュアスポーツは、青少年の健全な育成ということが目的ではないのか。日の丸が刺激となって危害を加えられることを心配しなければならない場所に、無理をしてまで連れて行く必要性があるのか。そもそもそのような国は、スポーツの国際大会を開催する資格がないのである。政治的な対立があったとしても、自国にくる選手や応援の人間が遭遇する可能性のある、あらゆる危険から断固として守る責任が開催国にはあるものである。日の丸やJAPANのロゴが、危害を与える正当性の根拠となるような国には行くべきではないし、スポーツを通じた交流など不要である。そもそも参加する高校生が韓国に行くことを不安がっているのであるから、勝利への気概であるとかモチベーション以前の問題ではないのか。日本の政治や報道は、何の罪もない純粋にスポーツに打ち込んでいるだけの子供たちにこのような不安感を与える韓国の政治に毅然として抗議しなければならないはずである。そのような根本的な問題から目を逸らし続けて、日韓の対話の必要性を訴え続ける朝日新聞社に一体、何の存在価値があるというのであろうか。
政権末期の韓国の動き
いつものパターンである。韓国は政権末期に近づくと、検察が動き始めて政治の不正や汚職の捜査という口実で、機能不全の袋小路に陥った政治の流れを、一旦、リセットしようとする動きが生じる。韓国の検察組織がそのような役割を担わなければならない理由は、文大統領が徴用工問題で主張するような三権分立であるとか、或いは検察が政治の上位に位置付けられているということではない。基本的に韓国の政治は民主主義というよりも一部の支配者層による専制政治である。そしてその専制政治の頂点に大統領が君臨している。つまり韓国は、民主主義的な大衆の民意によるコントロールが全く利かない政治体質なのである。支持率が何パーセントあるなどというような数字にはほとんど意味がない。北朝鮮で仮に政治への世論調査が実施された場合のことを考えれば、その理由はわかることであろう。文大統領が北朝鮮との統一を模索しているように、韓国は自由主義という様式の西側陣営に属してはいるが、本質的には専制社会主義とでもいうべき政治体質であって、北朝鮮とは血による民族性と同様の政治的親和性があるのだと考えられる。よって戦後の韓国は、と言うよりも日本の統治下から離れて独立を果たした以降の韓国の歩みは、かなり無理をして自由主義的な国家運営をしてきたのだと見られる。その背景には当然、アメリカの存在があって北朝鮮の核の脅威や軍事境界線を南下して侵攻してくる動きに、韓国だけでは抑止力を保つことができなかったからである。返還の話しはあるようだが、有事の際の軍事統制権は未だにアメリカが握っている。韓国は中国や北朝鮮のような社会主義体制との類似性や親和性と決別することなく、欧米の資本主義的価値観、軍事的な抑止力と双方に政治の足場を置いて、これまで国家運営をしてきたものである。それはまるでイソップ寓話に出てくる蝙蝠のような話しで、獣の前では自分は哺乳類であると主張し、鳥であることが有利である場面では鳥の仲間であることを強調するような国であると言える。しかしその生き方には当然、無理がある。なぜなら必然的にそのような都合のよい言い分を繰り返す国は、どちらの陣営からも信用されなくなっていくであろうし、国家運営そのものが綱渡り的で、国家としての根本的な土台や中心がいつまで経っても定まらないからである。韓国の政治が一貫して反日政治に依存し、反日だけではなく経済的な日本への依存体質からも離れられない要因はそういうところにあると考えられる。日本を批判し続けて、謝罪を要求する政治姿勢で国家としての脆弱性や道理性の無さを国内的に見えなくさせているものである。だから韓国は平然と嘘をついたり、約束を反故にするようなことを延々と繰り返しながら日本を敵視する政治手法から離れられないものである。朝日や毎日が主張するような、「対話」の問題ではないのだ。朝日新聞などは物事の本質を言葉の外面性でごまかしているだけのことである。ともかくも韓国のそのような蝙蝠的な、両義的ごまかし様式とでもいうべき国家運営は、反日や対日依存だけで永遠に持ち堪えられるものではなく、ついに臨界点を超えようとしているのだと考えられる。文大統領は、韓国の本性としての北朝鮮や中国への親和性を選び取らなければならないように歴史的な時間軸の中で命じられているようにも見える。それは蝙蝠であることを止めるということだ。GSOMIAの破棄はその現れであろう。側近の娘の不正入学など何の関係もない。裏口入学程度のことで韓国の検察が政権打倒につながるような動きを見せる訳がない。韓国の検察は、そのような政治の暴走に危機感を持っていて、歯止めを掛けようとしているのだと考えられる。文大統領が失脚すれば、政治の動きは一旦リセットされるので取り敢えずは現状の流れを中断させようと企図しているはずである。つまり韓国国内にも対立の構図は存在するということだ。GSOMIAの破棄は、即座にアメリカとの連携の必要性を否定するものではないであろうが、比重的に立ち位置の重心を中国や北朝鮮の方向に移したと言えるであろう。それと同時にアメリカの要請に逆らうことで、日本を間接的に牽制してホワイト国除外を取り消しさせる取引材料にしようと考えていることは明らかである。韓国の政治は常にそのように一つの選択や決定で多重のメリットを得ようとするので、無理が大きくて自転車操業的なのである。日本はそのような韓国の混乱に巻き込まれることなく、粛々と自国の政治を貫くことだけを考えるべきだ。朝日や毎日の論調は常に韓国の混乱に日本の政治を向き合わせることで、日本の主体性を喪失させることしか考えていないのであるから徹底して無視すべきである。
報道の政治性に責任は伴わないのか
言論の自由は尊重されなければならない。それは自由主義国家にとっては、当然のことだ。しかし日本の問題とは何なのであろうか。漸くにして私の認識は、日本の言論の病巣が、その輪郭を水面下から浮かび上がらせるように一つの像を結び始めてきた。簡単なことではあるが、日本の新聞やTVなどのいわゆる公共性が高くて、影響力の強い報道機関の政治的な主張や世論誘導が、言論の自由を濫用するばかりで、その結果責任については、我関せずで無視し続ける状態が戦後、ずっと継続されていることではなかろうか。日本の報道とは、本質的には国民に客観的な真実を伝えることではなくて、まるでゴミを路上に投げ捨てるような「その場限り」の政治的な主張なのである。一時的にでもゴミを出すであれば、出した人間がそのゴミを拾うなり、処分しなければならないはずだ。しかし日本の報道機関は、特に左派系の朝日新聞や毎日新聞などは、その回収という責任をまったく果たしていない。そのせいで日本はそれらの報道機関が無責任にまき散らしたゴミの言論に国民全体が埋め尽くされて窒息しそうな状況に陥っている。これでは日本国民はゴミ屋敷の住人と同じはないか。主張や意見を公共性の高い報道機関が述べるのであれば、ゴミを路上にぶちまけるような無責任さは許されないもののはずである。そしてその弊害が、韓国の日本に対するほとんど無茶苦茶と言えるような嘘八百や、一方的で理性を欠いた批判などの反日暴走を応援しているという以上に、積極的に作り出しているとさえ言えるであろう。しかし、あろうことか日本ではそのような報道が公共性の高い、いわゆる国民の利益になる社会の木鐸として保護されているのである。報道機関が自分たちは木鐸だと考えているのであるから、国民がこれまで意義を唱えてこなかったせいでもあるが、基本的にはやりたい放題の状態である。たとえば例を一つ上げれば、慰安婦問題でも朝日新聞は虚偽証言に基づいた国家権力による強制連行があったなどといい加減な主張をしておきながら、そのおかげで世界中各地に設置される慰安婦像が増えているにも関わらず、毛ほどの責任を感じているようには見えない。少しでも責任を感じているのであれば、報道を通じて収束させるように韓国に自制を促すなり、世論を醸成させようとするはずである。日本の新聞は日本人だけが見ているのではなくて、韓国も注視しているのであるから、当然、反発や批判はあるにせよ出来ないことではないはずである。ところが言論機関として自社の記事や報道が、政治や世論、国際社会にどの程度の影響力を及ぼしているのかと言う視点の検証や総括を持ち得ない朝日新聞は、ゴミを撒き散らすように、報道と言うよりも政治運動に近いような主張を今も継続させている。これでは朝日や毎日の報道姿勢は、今、大問題になっている車の煽り運転と同じである。一時に比べれば煽りの車間距離、つまりは韓国寄りの論調は、多少遠慮気味になってきていることが、文面の言葉遣いから読み取れるが、基本的には何も変わっていないし、放置されたゴミのように何も思ってはいない。その証拠に、あいちトリエンナーレに出展された慰安婦像に関しては未だに対話の必要性であるとか表現の自由を守ることの重要性を訴える記事を掲載している。慰安婦像は朝日新聞がこれまで数十年間に亘って韓国の政治と日本の世論を操作してきたことの「作品」でもあるという事実をまったく無視しているものである。そしてそのようなゴミ芥が積もり積もって、ついにはGSOMIAの破棄に見られるようにアジア地域における安全保障上の問題にまで至っているものである。さすがにその韓国の決定については、朝日新聞も少しは批判をしていたが今更、真っ当なことを言っても手遅れである。そもそも反日政治のためには全てが正当化されるという韓国の精神構造を、日本を代表するように肯定、支持してきたのは朝日や毎日ではないのか。韓国がどのような愚策を決定して、世界に悪影響を及ぼしたところで、常に悪くて謝罪しなければならない立場は日本なのであろう。そういう韓国政治と世論を日本のマスコミが共同作業として作り上げているのであるから、近視眼的、打算的な計算で、都合よくごまかしたり、沈黙でスルーするなと言いたい。ともかくも我々まっとうな感覚の日本人は、韓国の政治を批判し続けていかなければならない。ここで重要なことは、間違っても韓国人を批判してはならないということだ。韓国人は韓国の政治に従わざるを得ないような状態に置かれているだけである。韓国の政治が酷過ぎるのである。韓国人の性質や国民性を批判したところで、差別やレイシズムなどと朝日新聞に正義の味方であるかの主導権と根拠を付与するだけのことである。朝日や毎日は、巧妙にその機会を捉えて世論を誘導し、劣勢を挽回することしか考えていないからその手に乗ってはダメである。正に差別の問題は朝日新聞などの商売道具とでも言うべき手法なのだ。辛辣すぎる意見だと眉をひそめる人もいるであろうが、そうではないと言いたい。そうではないのだ。主婦の感覚ではないが、1年365日、世論というものを毎日、料理の材料のように相手にしていると、善悪の問題ではなくて自然とそうなっていくものである。なぜならその料理をまずいとか、毒だと言うものがほとんど誰もいないからである。日本人は何でも有り難がって為政者や一部の支配者に都合の良い正義や物の見方、考え方を飲み込み過ぎなのである。そういう風にして我々日本人は日々、少量の毒素を体内に吸収させられて、日本全体が毒されてしまっているのだと言えよう。韓国政治を批判する際には、日本の左派言論をセットにして批判する必要性があることをよく肝に銘ずるべきである。