龍のひげのブログ -21ページ目

死者の視点と生者の生活

死者の視点ということについて、前回の記事内容を補足的に説明した方がよいように思われる。言うまでもないことだが、私はどこかの山奥に籠って、浮世離れした仙人のような日々を過ごしている訳ではない。都会の中で仕事をして、経済活動に参加し、金儲けをしたり、金を消費したりしている。日々、洗濯だとか、買い物や、仕事の支払い、事務処理などに追われて一日をあっという間に終えている。ゆっくりと本を読む間もないが、できるだけ読書をする時間は確保するようにしている。それから仕事の合間にFXをしたりもしている。そういうことを言えば、前回、私が私と世界との関係性について、この世界から果実をもぎ取るように何かを得ようと考えてはいない、積極的、実存的に世界と関わろうとしていないという以上にある意味ではもう既に死んでいて、自分の中核に存在するものは死者の視点であると述べたことと矛盾しているではないかと思われるかも知れない。FXで利益を追求することは現実から果実をもぎ取る試みなのではないかと。確かにその部分のみで見れば矛盾していると言えるであろう。しかし屁理屈や言い訳のように思われるかも知れないが、仕事をしたり、FXをするようなことは、その他の日常の雑事も含めて全ては、生活の範疇に属することである。この世に肉体を持って生きている限り、生活から逃れることは出来ない。そして何よりも肝心なことは、人生において「生活」するということは、決して死者の視点ではあり得ないというか、成り立たないということである。死者の視点でぼんやりと夢見るように現実を眺めているならば、間違いなく生活は破綻してしまうものである。生活とは、絶対に生者の視点でなければならないものだ。それならば哲学的な問いかけになるのかも知れないが、人生とは生活のために存在するのかということである。私は日々、生活していて、生活に追われているとも言えるが、自分と言う人間の本性なり本体は、生活者だとは考えていない。毎日、忙しくて本当はぼんやりなどしていられないのであるが、それでも生活している自分自身とその環境である世界をぼんやりと傍観する死者の視点と言うべきものがある。そしてその死者の視点こそが、本当の自分であるように私は感じているということだ。別に私は精神的に分裂している訳ではない。十分に統合していると私は自覚している。生活している私は、確かに実存的にも社会的にも生きているのであるが、ある意味においては仮初めの私である。仮初めの生活者である私を死者の視点で認識するもう一人の私が存在する。その俯瞰の構図で言えば、生活者とは単に生活に勤しんでいるだけで何も見えていないし、何もわかっていないのである。木の葉が川に落ちて流れるように無力な存在に過ぎない。

そこで前回に述べた武士道の話しになるが、武士もまた生活する者である。しかし生活するだけの存在ではないと自負、自認する者でもある。映画『必死剣 鳥刺し』を見て感じたことだが、豊川悦司の演技にはそういう武士の、上方から自分自身を見つめる視線のようなものがあって、それが武士としての凛とした佇まいであるとか品格を表現しているように思えたのだが、一流の役者はそういうことが自然とわかっているのだなと感心したのであった。武士道における精神性とは、死を織り込んだ視点で自分の存在を俯瞰し、認識するところにあるのではなかろうか。そしてそこに道が生じる。しかし人生において死生を問わず、生活を離れた別の視点を持つには、それを持てるだけの最低限のゆとりや余裕が必要であることも事実である。『必死剣 鳥刺し』は江戸時代の武士を描いたものであったが、江戸時代は平和で安定していたので、武士は豊かでなくとも権力に翻弄されても武士道を追求することが出来たのであろう。それが戦国時代であれば、日々、戦乱の殺し合いの中に日常生活があったので、自分を俯瞰して再認識する別の視点など持てるはずがない。または江戸の世ではあっても、武士ではない農民は過酷な年貢の取り立てに苦しむばかりで、そういう生活から離れた視点を持つことなど想像だに出来なかったことであろう。要するに時代や身分を問わず、余裕やゆとりがないほどに目の前の現実や生活に閉じ込められる度合いが大きくなるということである。そしてそうなるほどに人間は物事の道理や正邪から離れて、力の論理に従わざるを得ないなってくるものである。正しいことが正しい、間違っていることが間違っていると言えなくなってくる。人間がどんどんと卑しくなって、力や金のある者に媚びへつらって取り立ててもらうことしか考えられなくなってくる。江戸時代のように武士が切腹を覚悟で殿様に諫言したり、農民が百姓一揆を起こして鎮圧され首謀者が晒し首になるようなことは、今の時代にはあり得ない。確かに今は身分制度もないし、社会全体も安定していて平和ではあるが、人々が目の前の現実や生活に囚われる度合いが増してきているのではなかろうか。そしてそうなるほどに支配者、為政者にとっては都合がよいのは事実である。はっきりと言い切ってしまえば批判や反発があるかも知れないが、単なる生活者は全体を見極める精神を持ち得ていないので、目の前の現実しか見ていないから、情報操作や10万円ほどの支給金でいくらでもコントロールが可能だということである。本来、人間の精神とは自分の存在に向き合うことによって世界の真実に目を見開いていく機能や役割があると思うのだが、そうはさせないように人間を現実や生活の牢獄に権力者は閉じ込めようとしていることは私に言わせれば疑いようがないことだ。コロナの現実も間違いなくその流れの中にある。

(吉川 玲)

武士道精神を日本人は見直すべきだ

年が明けても、何も変わることはない。私がこの現実世界に未だ存在しているという事実も含めて。この2か月ほど世界がどのように変化していくのかを見定めるために頭を整理しようとして沈黙を保ってきた。コロナに関しては思うこと、言いたいことはたくさんある。しかし私が何かを主張することにおいての基本的なスタンスは、どう考えてもそれが尤もらしい見方であり、そうとしか考えられないものであるにも関わらず、何らかの事情や社会的な状況で、誰もそうだと指摘したり、意見を述べることが許されないような事態において、仕方がないから私がいやいやというか渋々、これは本当はこういうことなのではないのか、皆が黙っているのは、黙らされているのは正しい世界の在り方ではないと縷々、説明するという消極的な姿勢であって、別に私はその行為によって不特定多数の他者から支持を得ようとか、賛同者を増やしたいなどとは全く思っていないものである。それが私と世界との関係性なのであって、一般的には中々理解されにくいことかも知れないが私はこの世界から果実をもぎ取るように何かを得ようと考えているのではなくて、ただ夢を見るようにぼんやりと眺めているだけなのである。積極的に、実存的に世界と関わろうとしていないという以上に、ある意味ではもう既に死んでいるとでも言うのか、肉体的に生きてはいても私と言う存在の中核に存在するものは死者の視点なのである。それが果たして正しいのか、間違っているのか、健全なのか不健全なのかはともかくとして、だからこそ見えてくるものがあり、それが生きる者の生存に役立つのではないかと考えている自分がいるということである。誤解のないように言っておくが、私のこの精神性は仏教の教えだとかスピリチュアルなどとは何の関係もないもので、日々、現実の現実性を追求していく中で自然と養われてきた諦観のようなものだと考えている。言い換えれば、今のこの世界は、生きてはいても死者の目と頭で理解しようと努めなければならないほどに生き難く、また理解し難いものであるといえるであろう。たくさんの金を儲けようとか、多くの人に支持されたいと願ったり、社会的な評価を得ようと努力することは当然間違ったことではないし、生きる上での原動力であることも事実であるが、それだけだと、それで勝ち組と負け組に分かれるゲーム性が世界の全てであるならば、生きると言うことは盲目の闇の中に囚われているのであって、そのゲームのシステムなりルールの流れの中に川に浮かぶ木の葉のように飲み込まれているだけだと言えるのではないのかということである。コロナの現実というものも世界を押し流そうとして組み込まれてゆく新しい世界への計画というかプログラムのように私には見える。私にどう見えるかはどうでもいいことかも知れないが、ただ一つ確かなことは世界を操作する権力を有する者にとっては、見えない人間がたくさん存在する世界の方が操作しやすいので、見えない闇のシステムに絶えず人類を押し込めようと画策するということである。政治の要諦とは、日本の政治なども明らかにその部類であるが、マスコミの報道も含めてそれが全てであると言っても過言ではないほどであろう。だからこそ、自分を正当化するために言うのではないが、生きてはいてもどこかで死んでいなければならないのだ。これは特に日本の武士道に通ずるものがあると思われる。最近、DVDで豊川悦司主演の映画『必死剣 鶏刺し』を見て、その演技の素晴らしさに感動したが、絶体絶命の瀕死の状態で、命と引き換えに出し得る武士の一刺しというものがあるということだ。決して死を美化するわけではない。死んでしまえば何もない。武士道とは死の境地を織り込んだ生き方なのだと思われる。今、この時代にこのようなことを言っても誰にも相手されないことはわかっているが、日本人は今こそ武士道精神に立ち返れとは言わないが、その価値を見直す必要性があると言えよう。それにしても『必死剣 鶏刺し』はいい映画だった。吉川晃司も池脇千鶴もとてもいい演技をしていて心に沁みた。刀に斬られて真っ赤に噴き出す血を美しいと思ったのはこの映画が初めてである。

話しは変わるが毎年、大晦日は紅白は何十年も見ていなくて、格闘技をTV観戦している。こんな私ではあるが、格闘技が好きなのである。それでライジンについて言いたいことがある。これもコロナとは全然、次元が違いことだが、誰も言わないのであれば、仕方がないので私が言わなければならないのかなということだが、ライジンの榊原社長はもっと選手を大切に扱わなければいけない。選手は、選手の立場では言えないであろう。では選手以外の格闘技に関わる人はどうして言わないのであろうか。これも私に言わせれば、日本人が武士道精神を失って、儲けや注目度ばかりを追求している結果である。こんなことを続けていれば、日本に本当の格闘技ファンは増えないであろうし、格闘技の社会的地位も向上しないであろう。別に私は朝倉兄弟のファンでもないし、彼らの心情を代弁するつもりもないが、一日に二試合もさせるのはちょっと無茶である。朝倉海は準決勝で右手を骨折していて、痛み止めの注射を何本か打って決勝に臨んだということだが、選手寿命を考えれば本来は決勝は棄権すべきところであるが、さすがにメインイベントで登場するあの場面ではその選択はあり得ないであろう。拳を壊しても良いと決意して出場した海の心意気は立派なのかも知れないが、興業の在り方としては間違っていると私は思う。それは選手の武士道精神として称賛されることではなくて、単に興業における選手の健康を無視した金儲けのやり方の問題ではないのか。運営やシステムの問題を選手個人の武士道精神にすり替えて注目の対象にしてはならない。兄の未来の試合についても言えることだが、勝ったから良いというものではなくて、3週間ぐらいで11kgも減量させて、計量の前日に水抜きで一日で5kgも落とさせるような事態は、今回の大会だけではないが運営側にあまりにも計画性と選手の健康への配慮がなさすぎることが明らかである。シバターの試合もそうだが、20kgも体重差のある久保優太にMMAルールで対戦させるのは運営側に選手に対する敬意や大会そのものへの品位の意識が欠落していることの現れでしかないのではないのか。ライト級タイトルマッチのホベルト・サトシ・ソウザ選手が試合後にマイクを持って、榊原社長にベラトールの選手と対戦したいと訴えていたが、内情はよくはわからないが、あれだけ強ければ今の日本国内に対戦相手はいないので活躍の舞台を海外に移したいと考えることは当然である。未来と対戦したクレベル・コイケ選手も契約のことでライジンと最近までこじれていたということだが、ライジンの選手に対する全体的な扱いから考えて、日本に住んでいるボンサイ柔術の選手を外国人労働者のように見做しているのではないかと思えて腹が立ってくるものである。どういう経緯で榊原氏がライジンの社長になったのかは知らないが、適任者は他にもいるのではないかと言いたい。ともかくも年始に際して思うことは多々ある。誰かが言うのであれば基本的に私は何も言うつもりはない。誰も言わないのであれば、止むを得ず、私が私なりの武士道精神で、そして死者の視点で、何ごとかを言わなければならない個人的な必要性に迫られる。それだけのことだ。

(吉川 玲)

この奇妙な世界で

やってるな。やっているだろう。やりたい放題だな。

皆さんは、おかしいとは思わないだろうか。日本国内のコロナ新規感染者数が、どういう訳か自民党総裁選以降、急激に減少してきて、その流れで間もなく衆議院選挙を迎えようとしている。日本の政治やマスコミは、いわゆる陰謀論というものを権威主義的に馬鹿にすることによって大衆を近づけないようにし、絶えずごみのように排除しようと画策するものであるが、私から見れば、日本は世界の潮流やディープステートの計画に巻き込まれて、その実態を否定せざるを得ない立場に追い込まれているのではなくて、日本自体がもうすでに主体的に、立派な陰謀国家である。前回同様に一応はフィクションとして述べるが、そんなことはどうでもよい。なぜならこの世の現実の全てはフィクション(虚構)である。偶然や自然発生などということはあり得ない。全ては計画され、予定され、意図的に作られている。そういうフィクションをノンフィクションとして全体的に見做す共通意識によって政治的に統制されているのだ。だからわざわざフィクションと断ることは無意味である。私はノンフィクションのフィクション性を述べているだけで、世界をそのような姿に有らしめているものは政府や権力だけではなくて、実はそれに同意する人類の意識でもあるということだ。だから結局はフィクションかノンフィクションかということではなくて、その筋書きが支配する舞台に参加するかどうかという個人的な選択における気持ちの問題である。私は見えているからそこに参加しようという気持ちにはならない。或いは人生とは参加することに意味があるのかも知れないが、それでも私は拒否する。しかしよく考えれば、私だけが見えているのではなくて、本当は全ての人間に見えているのかも知れない。人間とは自らが同意した筋書きの中で無残に死んでいく生き物なのであろう。よって私のように社会全体の無条件に同意すべき筋書きを拒否する人間は、ある意味では定義上、人間ではないのである。人間とは一体、何なのだろうか。人間とは何なのかがわからなければ、人間でないことの悲しみや苦しみも理解できないであろう。私は人間ではない。私の中の非人間性が、私を孤独の淵に、社会の辺境へと追いやる。ハロウインなどと言っても今更、何かに化ける必要もない。なぜなら私は人間に化けて、この星に生まれてきているからだ。悲しい。人間でない者が、人間に混じって、人間として生きることは悲しみでしかない。私のような者には悪魔が見える。しかしそうは言っても、私のように人間でない人間がさほど特別な人間でないこともわかっている。人間でない人間は実はたくさん存在する。よって本当は私は孤独ではない。世界中に多くの仲間がいるのだから。日本国内にも表には出てこないだけで、私のような種類の人間が多く存在するであろう。日本はそういう国なのだ。アメリカにもヨーロッパにも無数の仲間が存在する。自分で言うのも何だが、本当はそういう世界の悪魔性を見抜く人間でない人間こそが、真に人間的なのである。だからそういう種類の人間が団結して心を一つに合わせれば、全ての人間がより一層に人間的になって地球はもっと住みやすい生存環境に変化していくのかも知れない。世界の筋書きを書き換えられる可能性があるということだ。それは死ぬ可能性のあるワクチンを何の罪もない、判断能力の薄い子供や若者たちに打たせる必要性はないということだ。ところでアメリカは分かり難い国である。陰謀国家であることは確かであるが、正義や善と全く無縁ということもないようである。トランプ元大統領は在任中にコロナのワクチン製造を指示したことは事実だが、それは大統領としての立場上、当然のことであって一方でそのワクチンの真の目的を知っていたかどうかは定かではないが、子供や若者にはワクチンを打たせるべきではないとはっきりと主張し、全ての人々に強制すべきではないとも言っている。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm38973969

つまりはトランプ氏は、恐らくは善人なのである。アメリカはそういう善人を一旦は大統領に選ぶだけの自由のキャパシティを持っている国だということである。ところが前回の大統領選挙で敗北したが、トランプ氏が主張していた通り、不正選挙の可能性が高いと思われる。ノンフィクションとすればあまりにもタイミングやストーリーが、出来過ぎている。不自然だ。基本的にアメリカは建前上は、選挙の自由や正義を最大限に重要視する国なので、不正は考え難いのであるが、今回だけは特別だったのであろう。トランプ氏は計画に邪魔だったので、不正で失脚させられたとものだと考えられる。そしてバイデン氏が選任されたが、バイデン大統領のワクチン政策は強固に強制的である。基本的に接種しない自由を認めていないので、拒否する者は職場から解雇され、生活できない状態に追いやられる。ワクチンを批判する情報も厳しく監視され、全体主義的に警告や削除が行われている。その一方でバイデン大統領本人やグーグルの幹部は、なんとワクチンを接種せずに、WHOが有効性を認めていないはずのイベルメクチンで予防しているという情報があるが、恐らくは事実なのであろう。

http://takahata521.livedoor.blog/archives/10627961.html

日本は、もはやきわめて分かりやすい国である。国家として保持すべき正義や信念を完全に喪失してしまっている。政治やマスコミが、心や魂を悪魔に委ねきっていて、そこに何の悔悟の念も感じていないように見える。自分さえ良ければよいのである。陰謀論だと馬鹿にしながら、陰謀的な操作を平気で行っている。検査数を減らしているのか、数字自体を改ざんしているのかはわからないが、今のコロナ新規感染者数は明らかに選挙モードであろう。ひとまずの平穏無事で、国民の不安感情が軽減された状態は、現下の自民党体制が選択されるに適した政治環境であると言えるであろう。ということで今回の総選挙は自民党が勝つのであろう。自民党も自民党以外も日本の政治手法は同じであるので結局は同じなのだが。ここまで政治と報道で意図的に都合よく、国民を騙して日本の現実を作り上げることに何の意味があるのであろうか。自民党総裁選から総選挙への流れとコロナの感染者数の減少は、どう見ても自然ではあり得ない。これが日本なのである。そもそも新しい総理大臣は河野氏がなる予定だったはずである。国民の人気が高いということになっていた。ワクチンを推進する大臣に就任して(そんな職種の大臣が存在すること自体がおかしいことであるが)、自らワクチンを打つ国民へのアピールは、言ってみれば総理大臣の座を獲得するための見返りとしての意味を持っていたはずである。そのワクチンが実は偽物で、本当は密かにイベルメクチンを飲んでいたとまで言うつもりはない。アメリカはともかく日本ではそこまでの誤魔化しは難しいであろう。日本の政治家は、我々国民が考えている以上に総理大臣になりたいという願望が強いのである。総理大臣になれるのであれば、その代償として寿命が大幅に縮まっても構わないと思っているのだと想像される。よく言えば日本の政治史に名を残すことに命を懸けているとも言えるのであろうが、国民や国のためにしていることではなくて、結局は悪魔やアメリカに魂を売っているだけのことである。ところが河野氏は魂の安売りであまりにも強引なワクチン推進を行い、国民の不信と怒りを買ってしまった。このままで河野氏を総理大臣にしては衆議院選挙に勝てないと、恐らくは二階氏あたりが絵を描いたのであろうが、女性候補二人を立てることで票を分散させて、当初の筋書きであった河野総理大臣の路線を変更することになった。ただし高市氏は本気で女性初の総理大臣になる野望を強く持っているのだと思われる。なぜかと言えば、立候補を表明してまもなくこれ見よがしに、国会議員では珍しくワクチンの2回目接種が終了しましたとアピールしていたからだ。野田氏は本気で勝てるとは思っていなかったであろうし、恐らくはワクチンも打てはいないであろう。菅前総理もワクチンを打っている。何が言いたいかと言えば、日本の政治権力の枠内においては自身がワクチンを接種するということは、コロナの感染予防というよりも、アメリカに媚を売ったり、総理の座を射止めるための政治的な道具でしかないということなのである。だからその目のない国会議員たちは全員ではないが、ほとんどがワクチン接種から逃げているはずである。菅氏は総理に就任してから打っているが、あの人は苦労人で総理大臣になることが自身の政治キャリアのゴールのような政治家であった。総理大臣になった時点でフルマラソンを完走し、走り終えた老人ランナーのようなものである。総理になってから政治的な成果を期待することは、そもそもフルマラソンを走り終えたばかりの年寄りに(確かにそれだけでも凄いことではあるが)、もう一度フルマラソンのスタート地点に立たせて再度、走らせようとするもので土台、無理だったのだと思われる。同じ年寄りでもアメリカのトランプ氏やバイデン氏とは気力も体力も比べ物にならないぐらいの差があると考えられる。要するに菅氏は総理大臣になった時点で人生の目標点に到達してしまっているので、もういつ死んでも本望だと考えていたとしてもおかしくはないということだ。ワクチンを拒否するブラジルの大統領とは、日本的政治の精神性とか、死生観とか、政治環境の特殊性などにおいて色々と違いがあるということだろう。因みに岸田総理は存在感の薄さが功を奏して、たなぼたで総理大臣になったということで、ワクチンを打たなければならない必要性から免除されていると推測される。ともかくもその一方で選挙期間中だけは一時的休戦のようにコロナを収束させ、自民党を勝たせて、また落ち着いたころには第六派発生で、ワクチンを打て打ての大合唱が始まるのは目に見えている。自主的に買ったのか、買わされたのかはわからないが、もうすでにファイザーと1.2億人分の契約を済ませているので、いずれはそれを何としてでも消費しなければならないので、そういう筋書きにならざるを得ないことは誰しも理解できることであろう。もうすでにその予兆は現れている。コロナの感染者数が日本では不思議なことにこれほど少なくなっているが、どさくさに紛れたようにワクチンそのものへの警戒感を薄れさせようとしているのであろうが、季節性インフルエンザのワクチンを打てだの、子宮頸がんのHPVワクチンを再開させる動きが活発化してきているかと思えば、挙句の果てに5歳から11歳の子供相手にコロナワクチンを接種させるための悪魔的な協議を既にファイザーが日本政府と進めているということである。無茶苦茶じゃないか。あなたは無茶苦茶だとは思わないか。それからついでに言えば、厚労省も政府も今や平気で嘘をつく。嘘は悪いことではなかったのか。モデルナのワクチンに金属片が流入していた件で、厚労省はその結果報告において何らかのステンレスの機材から剝離したものであるということであったが、それはどう考えても嘘だとしか思えないものである。当初、その金属片は磁石に反応していたと報道されていた。そこに嘘があるとは考えられない。そこで嘘をつく理由がないからだ。しかしステンレスは磁石に反応しないはずである。またステンレスの機材の一部がワクチンに混ざるほどの微細な剥離をするようなことは常識的には考えられないことである。大衆は政府や役人が重々しく発表することは信じなければならないと思い込んでいるようであるが、そういうものではないはずである。結構な頻度で、幼稚で誰もが少し考えればおかしいとわかるような嘘をついているものである。嘘をつかざるを得ない状況下にあるとも言えるけれど、嘘の可能性が高いことには何ら変わりはない。

お笑いタレントが反社との交流で金をもらっていたのに、もらっていなかったと嘘をついてTVから追放されることは正しいことなのか、どうかよくわからないが、政府や厚労省が国民全体の命に関わることで本当のことを言っているのかどうかわからない、嘘の可能性があるということは比べ物にならないほどの大問題ではないのだろうか。嘘ではないとしても国民が知るべき政府にとって都合の悪い否定的な情報が、意図的に歪められたり、隠蔽されるというようなレベルで言えば、ほぼ毎日のように日常的に行われていることである。日本は、いや世界全体はそういう風にして回っているのである。選挙を前にして、もはや選挙などどうでもよいが、日本の国民はそういう危機的な現状について心から憂うるべきである。分からない人には何を言っても同じであろうが、分かるべき人にはよく分かっていただきたいと思う。

(吉川 玲)