龍のひげのブログ -20ページ目

ユーチューブが生み出すビッグマネーと混乱

ユーチューブの問題は、結局は目立った者勝ちになってしまって、それによって生じた混乱を収束させる術や結着をつける基準がないということであろう。ライジンにおけるシバターのやらせ騒動もまさにその通りのパターンで、いくら周りがモラルに反しているとか、真剣勝負をしている他の選手たちや団体に迷惑を掛けている行為だと批判したところで、当人にそういう気持ちがまるでなくて、むしろ自分のパフォーマンスによって注目度を高めることになっているのだから、業界に利益をもたらしているなどと平然と反論されれば、確かにその主張にも一理あると認めざるを得なくなる。では何が問題なのであろうか。いやこの問題のセンターピンはどこにあると考えるべきなのかということだ。シバターの人間性であるとか、モラルの欠如はセンターピンではない。朝倉未来は自らのユーチューブ動画で、自分がライジンの榊原社長にシバターを大会に出場させることを推薦した以前の経緯を申し訳なく思うと謝罪の言葉を述べつつ、シバターのことを「屑」だと批判していた。確かにシバターは屑なのかも知れないが、屑かどうかという問題ではないであろう。シバターは他の選手やライジンの関係者、多くの視聴者にとっては屑なのであろうが、シバターの家族からすれば多くの人から屑だと罵られてもお金を稼いできてくれる有難い存在であり、良き夫であり、良き父親であるとも言える。もちろん家族までもが今回の件で世間から白い目で見られたり、悪口を言われるようであればそうはならないが、恐らくは別に犯罪者でもないのだから、そこまでのことでもないであろうと考えられる。要するにシバターが屑か否かは単なる視点の問題であって、センターピンになり得ることではないということだ。そうではなくて問題の本質は、本来選手が考えるべきことは、いい試合をして観客や視聴者を喜ばせるということと、当然、試合に勝利するということである。選手はその点にだけ集中してそれ以外のことには関与したり、介入すべきではないのである。大会の注目度を高め、少しでも多くの視聴率を獲得することはライジンが考えるべきことである。ライジンが選手の健康を守るとともに、大会を成功させ、総合格闘技の人気をより一層に普及させていく責任と使命があると言える。ところが今の時代の出場選手たちは、選手であると同時にユーチューバーでもあるので、自分たちがプロモーターであり主催者であるかのようなビジネス感覚で大会に臨んでいるのであろう。自分の領分でないことをユーチューブの動画を作る感覚で自分の領分だと勘違いしてしまっているのだ。そこに問題のセンターピンがあるのだと考えられる。一方でライジン側がこの問題に対して、正式にコメントを出せない状態であることも選手と運営者側との立場や責任を区分する境界線が不明瞭になっていることが原因なのではないかと想像される。ユーチューバーは独立自営業者であり、たくさんの人に見られるほど収入が高まるシステムの中でどのような動画を作ればよいのかを常に模索している者である。自分の人気や認知度を、企業案件などで生かすことをも考えているので、世間からのイメージの良し悪しも当然に重要な要素であり、普通は何らかの理由で炎上する事態になると即座に謝罪したり、謹慎して収束を図ろうとするものである。しかし今回のシバターのように確信的に久保選手をだまして勝利をもぎ取るようなことをしても、それはエンターテインメント的に価値があって利益を生んでいるなどと開き直られることになるのならば、それはその人の人間性やモラルの問題であると言うよりは、そこにルールやどう処置すべきかという基準がないことが問題だと思われる。シバターの擁護をするつもりはないが、シバターの動画を見ていると普段は常識人であり悪人のようには見えない。しかしここぞという時にやることは世間一般のモラルや常識を突き抜けていてある意味ではプロなのであろう。今回の一連の経緯を見ていても久保選手との対戦が決まってから、実力差があり過ぎて、障害が残るような怪我をする可能性があるから辞退したいなどとさんざん吹聴しておいて、恐らくはその時点から作戦は開始されていたのであろうが、大晦日の試合前の土壇場で久保選手に八百長を持ちかけた。コレコレの動画も見たがその時の音声では、シバターは久保選手に対してライジンのマッチメイキングを担当している笹原という人物にも話しを通してあって、笹原氏は契約を完了した後ならそういうやらせの話しを久保選手としても良いというような意味合いのことを言っていた。もちろんその部分に関してもシバターが嘘をついている可能性はあるが、本当であるならばライジン側が八百長を了承していたということになるので、シバターと久保選手双方に責任があるというよりは、シバターとライジンが手を組んで、久保選手に八百長を迫ったという構図になる。そうであれば一介の選手が主催者側が了承していることを断りにくいのは当然であって、久保選手の責任の度合いは変わってくることとなりむしろ被害者であるとも言える。もちろん久保選手はその時点でライジンにことの真偽の確認を取るべきであったが、選手の立場で大会運営者に不正の事実を認めさせることは言い難いであろうし、何よりもシバターに試合をキャンセルされると久保選手は周りに迷惑をかけることとなり金銭的な損害も生じるということになる。その事情はライジンの笹原氏も同じであろうから、その話しが本当であるならば、シバターの提案は笹原氏や久保選手の土壇場で試合の穴を開けたくないという心理を巧妙に利用したものであり、プロの手口であると言える。しかし仮にそうであるならば、シバターが笹原氏について言っていたことが嘘でないならば、久保選手よりも当然に笹原氏の責任の方が重大であるはずである。大会の運営者とすれば選手からの八百長提案など絶対に認めてはならないものである。その点に関してはルールや役割以前の問題だが、先にも言った通りに選手と運営者側の境界線がなくなっているので、ぐだぐだになっていたのではなかろうか。そうであればライジンの体質の問題である。朝倉未来は動画の中で、この問題で久保選手のことを負けたから音声を公開するのはダサいとして厳しく批判していたが、ダサいかダサくないかという問題ではないであろう。私は別に未来のファンでもアンチでもないが、未来はコレコレの音声公開の動画を見ていて笹原氏の件についても知っているはずなのに、そのことについて触れていなかったことについてはどうなのかと思う。もちろん未来は選手の立場で何の責任もないものであり、動画で強調していた通りライジンに八百長が存在しないということも八百長がないことは試合を見ればわかるはずだということもその通りであると思うが、未来であれば笹原氏に電話をして聞くぐらいのことは出来るのではなかろうか。未来は自身が主催するブレイキングダウンという大会でシバターと対戦したみなみかわ選手にわざわざ連絡を取って、シバターから八百長の話しはなかったかということを確認しているのだから、笹原氏についてはスルーすることは私の目にはそちらの方がダサいようにも感じられる。繰り返すが未来個人にはこの問題の責任はないし、批判するつもりもない。しかし冒頭にも述べた通り、ユーチューブ全体の在り方というのか、そのビジネスモデルにおける社会との関わり方には問題があるようにも感じられる。それはやはりユーチューブにおける広告収入が既存のメディアを凌駕するほどに急激に大きく成長してきたことから、社会にきちんとしたルールや取り締まる枠組みがなくて、犯罪行為でさえなければ結局は目立った者勝ちであるとの暴走を許さざるを得ない現状にあるような気がする。未来が榊原社長にシバターの参加を推薦したことも今回のような事態は想像できなかったとは言え格闘技の実力よりも存在感のエンターテインメント性を優先したことであろうし、先だっての1千万円企画で弱い者いじめのように見られて批判を浴びたことも問題の根にあるものは同じではないのか。誰が悪いとか、誰を処罰すべきだということではない。要するに私が言いたいことは、モラルだとか価値観がどうのと言ったところで何の解決にもならないということである。誰もがそれぞれのモラルや価値観に従って生きている。屑には屑のモラルがあるし、詐欺師には詐欺師の価値観がある。それはシバターやへずまりゅうであっても同じことである。屑と言えば屑なのかも知れないが、屑も突き抜けてしまえば、そこには確かに従来の価値観の転覆があって面白いのである。それをあっぱれだと喝采する声や需要が一部にあることも理解はできる。ウーバーイーツの大した稼ぎにならない仕事などしないで、地元にも戻らず、東京でホームレス生活をしながら動画を撮り続けるへずまりゅうは突き抜けていて、まさにあっぱれだ。面白い。しかしそれは自分とは無関係であるから無責任にそう思えるのであるし、自分が迷惑を被る立場になれば許せなく感じるであろう。人間は身勝手な生き物である。またそれを様々な規制やルールで縛ってしまうことは魅力や面白みがなくなり、表現の自由への束縛であるという意見もその通りである。意見や価値観は人の数だけ存在する。だから一口ではどうすればよいのかと簡単には言えないことである。しかしシバターの騒動のように、社会全体へ与える混乱があるのであれば当人のモラルや価値観を離れて、しかるべき立場の人間の説明責任が生じることは当然である。そこは避けては通れない視点ではないのかということだ。またそれがないから混乱が深まるのである。

(吉川 玲)

変化しない日本と変化する世界が生み出す新たな現実

センターピンのピンとは、ボーリングで先頭に立っているピンであると同時に、カメラレンズの焦点を意味するピントのピンであるとも私は勝手に考えている。よって意図的にセンターピンの中心位置から横に外された政治の政治性や、それによってもたらされる社会的な状況、世相、言論、国民の生活というものは、効率的、相乗効果的にストライクを生み出すものではなくて、ガーターかせいぜい2~3本のピンを倒す程度のものであると同時に、ピンボケした映像のようなものでもあると言えよう。それが世界の特に日本の現実なのである。平和ボケしているだけではなく、我々はピンボケしていて焦点の定まらない現実の映像を日々、見せられながら生きている。20年以上も経済が0成長であることも国民生活のレベルが向上しないことも当然なのだ。国家全体がピンボケしている現実の中で様々な進歩や成長、改善が果たせないことは絶対的な必然である。しかしそれによって政治は政治の責任から守られていると言える。全てはぼやかされ、曖昧になり一体、何が悪くて、何が原因なのかもわからなくなり、運命のように目の前の現実を受け入れざるを得ないということだ。TVで時事問題の解説や議論を見ていて、違和感を感じることはないであろうか。その分野の専門家や大学の教授、精神科医など発言に権威性があるような人物が登場して尤もらしいことを言うのであるが、共通していることは対象のセンターピンに当てないように用心深く用意された発言であるように感じられるということと、結局そういう意見や論調が流れ行き、落ち着くべきところは、報道機関であるマスコミやスポンサーである大企業、そして政治などの既得権益が損なわれないような現状維持でしかないということなのだ。日本全体の経済成長が見込めない現状にあっては、力学的に既得権益層の現状維持圧力が強まるがゆえに、本来は中立であるべきTVの報道内容や出演者の政治発言のピントのずれや歪みも比例して大きくなってくるのだと考えられる。資本主義社会だから仕方ないというべきものではないはずである。TVや新聞は様々な問題を多角的な視点で論じているような体裁を保ってはいるが、結局、社会全体の構図とすればマスコミや大企業、政治体制の既得権益が大きく損なわれないように、ピントが外れていて歪んだ均衡を守ろうとしているだけなのである。そしてそのしわ寄せは当然、弱者である庶民が被ることとなる。増加する児童虐待や弱いものいじめなども直接的ではないかも知れないが、そのような社会的強者が押し付けて固定化させているずれや歪みが、末端の生活の中で構造化されて結晶化しているだけなのである。簡単に言ってしまえばそれが日本の洗脳の全体像である。しかしTVや政治の演説を見聞きしているだけでは、その論理の内部に取り込まれているだけで、自分が洗脳されているという自覚を持つことができない。対立の構図も意図的に作られた内部構造である。右翼も左翼も、保守も革新もそういう対立の図式は実はセンターピンではないということだ。センターピンはそういう対立自体が常に何者かによってコントロールされ利用されているという認識にある。世界全体で拡大して俯瞰すれば、戦後の冷戦体制も同じである。資本主義と共産主義の対立の構図も自然発生というよりは実は計画的に作られたものである。それを牛耳っているのがディープステイトであるなどと言えば話しが込み入ってくるのでこれ以上に踏み込むのはやめておくが、ともかくも今や世界は一元化の支配体制に向かい始めていることは確かなように感じられる。これは日本国内だけの現象ではないのかも知れないが、若者は既存の権威であるTVや新聞からどんどんと離れて、ほとんど見なくなってきているようである。知性的にというよりも、本能的に若者の方がピントのずれたものを忌避する能力が高いからであるように感じられる。ではそれで若者がTVの代わりに見ているものは何かといえば、ユーチューブである。ところが人気が高いユーチューブのコンテンツがどのようなものかと言えば、別に大したことはやっていないのである。内容的に社会性や生産性があるものであるとか、映像の質が高いというようのものではなくて、どうでもいいようなどっきり企画であったり、くだらない検証動画が人気を集めて再生回数や登録者数を増やしていて、トップユーチューバーは広告収入や影響力の経済効果によって億万長者になっている。それが正しいとか、間違っているという価値判断を私はするつもりはない。しかし時代の一つの現象として見れば、政治と深く結びついている記者クラブに加盟しているTVが放送する映像や情報が作り上げて押し付けてくる現実よりも、今の時代の大衆はたとえ中身がなくてくだらないものであっても、直接的な政治権力の影響下にないユーチューブの動画の方が皮膚感覚的にピントが合っていて、鮮明でクリアな現実に見えるがゆえに時間を割く価値を認めているのではなかろうかと考えられる。そしてそこにユーチューブが生み出す莫大な金が社会に新たな格差と富の偏在を生み出していることも今の時代特有の現象であると言えるであろう。しかしそうはいってもユーチューブの動画内容も親会社のグーグルによって監視、検閲されていて社会的に不適格なものとして判断されれば、バンされることになっているようなので、要するに直接的でドメスティックな政治臭や管理体制が薄らいで見え難くいなっているだけで、ここにおいても世界の支配体制が一元化に向かって流れている過渡的な動きがあると見れるのかも知れない。日本の既得権益の構図は変化しないが世界は全体的に変化している。そういう視点で見れば、様々なことがつながって見えてくることであろう。我々はその世界の変化の背後にあるものがどういう性質のものであるのかを慎重に見極める努力を惜しまないようにしなければならない。

(吉川 玲)

ライジンが守るべき価値について

一つの事象や問題に対して多角的に見る視点は複数、存在しているゆえに、その対象の価値や意味も見る人の視点によってたくさんあるのであろうが、何よりも肝心なことはその核心や本質となるべき点は、見る人の視点や視座とは無関係に存在しているということと、それを死者の視点と呼ぶかどうかはともかくも、俯瞰の視点によってしか得られないものであるということだ。言い換えれば、同一平面上の同じ目の高さで見ていても意見や価値観の対立を生むばかりで、その事象の核心や本質は見えてはこない。哲学的で小難しく思われるかも知れないが、そんなに難しい話しではない。わかりやすく具体的な例で説明すればこういうことになる。

昨年末、大晦日のライジンの大会においてシバターの久保選手に対するやらせ提案の是非が様々な議論の対象になっている。人によってはシバターの提案をエンターテインメント性や一つの戦術として擁護する意見もある。ではライジンの価値や本質はどういうところにあるのかということである。近年、総合格闘技の人気が高まってきているように見受けられるがその魅力は一体何なのであろうか。秒速で億の金を稼ぐ投資家、与沢翼氏の言葉を借りれば、私はその言葉を気に入っているの使わせてもらうが、総合格闘技の興行としての絶対に外してはならない「センターピン」は何なのかということでもある。言うまでもないことだが、それは真剣勝負が生み出す緊張感や迫力であろう。エンターテインメント性やリング外の戦術、煽りのような類は、見る人によっては面白いと思うものかも知れないが、それらは決してセンターピンにはなり得ない性質のものである。センターピンにさえ当たれば、あとは雪崩式に全て倒れていく。エンターテインメントや煽りはボーリングのピンで言えば最後列の両サイドに立っているような位置づけであろう。もちろん真剣勝負の魅力を伝える競技は総合格闘技だけではない。野球やサッカーであれ、相撲や柔道であっても全ては真剣勝負であるが、総合格闘技は真剣勝負の醍醐味を最も鮮烈に観客や視聴者に訴求する力を持っている。そしてそのような真剣勝負の魅力が大衆に切実に要望される社会的な土壌というものもある。それは政治を含めて世の中の全体が、やらせや八百長みたいなものばかりで何を信じて生きて行けばよいのかわからないということである。アメリカの大統領選挙ですら本当なのかインチキなのかよくわからない。というよりも恐らくはインチキであろうが、だからこそ、そういう世相であるがゆえに総合格闘技の真剣勝負に社会的な価値と需要があるということである。興行としての格闘技の意義はともかくも、ここにおいて重要な認識は、TVや新聞は国民に事のセンターピンの在りかを伝えるものではないということである。センターからずれたサイドの位置に国民の意識や理解を誘導し、固定化しようとする。その理由は、言わなくともわかるであろうが、国民がセンターの本質に目覚めてしまえば、政治の様々な嘘やごまかしが通じなくなり、搾取や支配が難しくなるからである。同様に世の中には色々な視点から一つの問題に対してあれやこれやと意見を述べ立てて、収入を得たり、社会的な地位を確立させている人がたくさん存在するが、そういう人々も国民がセンターピンを掌握してしまうと仕事を失ったり、注目を集めることができなくなってしまうであろう。そういうことである。民主主義だからとか価値観が多様化しているからと言っても、物事のセンターピンがたくさんあるわけではない。その在りかは不変であり、常に一つしかないということである。一つの物質を見る視点は複数あっても、物質そのものの重心はただ一点であることを知ることが重要であろう。そういうことを多くの人がわかっていないというか、わからないように仕向けられているので、特に日本はどうでもよいようなくだらない議論や報道ばかりで、生活も経済も政治もそれらの実態や中身は何一つとして改善していきようがないということなのだと考えられる。日本の経済が20年以上に亘って0成長だということは異常なことである。

話しをシバターのやらせ問題に戻すと、総合格闘技のセンターピンが真剣勝負の魅力であるならば、団体はその価値を何よりも守り、ゆるがせにしてはならないはずであって、隅の7番ピンや10番ピンに相当するようなエンターテインメント性が、センターに位置する真剣勝負の価値を打ち消したり、消滅させるようなことは本末転倒で絶対に許してはならないことのはずである。しかしこの問題に対するライジンの対応は遅いし、鈍い。その理由は恐らくはライジンが正統的な真剣勝負とエンターテインメントとしての客寄せ、視聴率アップのようなことを長年、混在させてやってきているので、代表者の榊原社長自身が何がライジンのセンターで、何を守らなければならないのかという軸がわからなくなってきているのではないかと想像される。ユーチューバーのシバターの試合だからやらせが許されるというものではないはずだ。ユーチューブの企画であれば、洒落やネタで済むのであろうが、大晦日のライジンは日本の全国民が全ての試合は真剣勝負だと思って見ているのである。また榊原社長ご当人は真剣勝負の価値を軽視するようなことはないと否定するであろうが、本当にその軸がしっかりとしているのであれば、見世物的に体重差の大きな試合を組んだり、開催日の僅か数日前にどたばたと対戦のカードを決定したり、選手の怪我や疲弊のリスクを無視して1日に2試合も強行するようなことはないと私は思うのだが。それらは真剣勝負というよりも真剣勝負を売物にしたある種のエンターテインメント興行であると言える。そうであればシバターだけの問題ではないように感じられる。むしろライジンの体質に問題があると言えるのではないのか。いずれにせよ試合前のやらせ提案など真剣に見ている者を馬鹿にしているとしかいえないものだ。何がエンターテインメントだ。ライジンが今後、世界に通用するような正統的な格闘技大会へと改革していくためには私は代表者を交代させる必要性があると考える。

(吉川 玲)