龍のひげのブログ -18ページ目

ウクライナ危機に見る日本の安全保障の問題について

ウクライナで起こっていることは、日本でも起こり得るという認識を持つ必要がある。桜が咲いて、暖かくなってきたからといって、いつまでも平和ボケしている場合ではない。今更ではあるが、日本の安全保障の有り方について、政治家に任せていても堂々巡りのプロレス的なパフォーマンス討論から離れられないようなので、国民レベルで危機感を共有して、政治に影響を与えていかなければ、いざその時が来れば全ては手遅れになってしまうであろう。先ずNATOに加盟していないウクライナとは違って、日本には日米安保という強力な軍事同盟が存在するので、他国が日本国内に侵攻してくることはないし、仮に侵攻してくる事態になったとしても米軍が本国から派兵されて守ってくれるであろうという楽観論が趨勢になっているのであれば、それは間違っていると言わなければならない。確かに平時であれば米軍の抑止力が防御壁となって、いきなりロシアや中国が日本に侵攻してくることはあり得ないであろうが、今後もしロシアとウクライナの戦争が拡大して第三次世界大戦に発展していけば、平和ボケの無防備な日本は侵攻、占領されて、日本列島そのものを太平洋側からの攻撃や米軍のロシアや中国への侵入を防ぐための防御壁になされることはあり得ると言う以上に地政学的にそうならざるを得ないと見做すべきであろう。仮にそうなった場合、日本はウクライナと同じ惨状に陥るであろう。その時の状況にもよるので一概には言えないが、日米安保などと言っても、アメリカが侵略された日本を守るために軍隊を出動させるかどうかは、アメリカが決定することである。核戦争になる恐れが高いとして直接的な戦闘が回避される可能性が高いことは否定できない。日本は日米安保に基づいて米軍の出動を要請することは出来るであろうが、要請しようが懇願しようが、アメリカがNOと言えばNOなのである。重要なことなので繰り返すが、それはアメリカが決定することであって、その判断に日本政府は1ミリも1グラムも関与できないということなのだ。それは日米地位協定の不平等さを見ても明らかなことであって、日本はアメリカと対等ではないのである。対等でないどころか隷属しているだけなので、言ってみれば奴隷が迫害を受けて殺されそうになった時に所有者である主人のご厚意による救済を期待するしかないといったことと何一つとして違いはないということだ。今のアメリカはかつてのベトナム戦争のような泥沼の地上戦を非常に嫌がる。戦争と言っても遠距離からのミサイル攻撃であるとか空爆に限定した「綺麗な」戦法を採用する。言うまでもないことだが地上戦になると総合的に軍事力が勝っていても、多数の兵士が死ぬことになるし、莫大な戦費の蕩尽や国民の厭戦ムードなどで国力が疲弊したり、国内の政治批判の声が大きくなる。それはロシアとウクライナの戦争を見てもわかることで、戦死者の数で言えば軍事力が圧倒しているはずのロシアの方が上回っていると言われているし、本当かどうかはわからないがロシアの1日の戦費が2兆円だとも言われている。そういう戦争を日米安保条約があると言っても、アメリカが日本のために命や金を惜しまずにしてくれると考えることが適切であるのかということだ。結局、日本が有事に陥ればウクライナと同様に自力で戦わざるを得ないこととなるであろう。アメリカは日本に武器と情報を供与するだけということになりかねない。日本の自衛隊が本気になれば、(本気になるとは考え難いが)、それなりの戦闘能力を発揮するのかも知れないが、言うまでもなく日本には憲法9条の縛りが存在する。戦争放棄の条項があり、自衛のための最低限の武力行使は認められているが、基本的には専守防衛で他を攻撃してはいけないことになっている。さてウクライナのような状態で敵国を攻撃しないで自国を防衛できると本気で考える人間が一人でもいるのであろうか。ウクライナも自国を防衛し、ロシアの軍隊を国外へ押し返し、停戦にするために武力を行使しているものであるが、それが正に戦争状態なのであって、戦意や攻撃こそが防衛になっているのである。日本の共産党の議員に聞きたいが、日本がウクライナのような状態になった時に、今この状況下で砲弾を発射することが果たして合憲か、違憲かを一々国会で審議して決定したり、評価するとでも言うのであろうか。共産党はウクライナの状況と日本の憲法9条を混同して議論するなと主張しているようだが、どう考えても無理で、不可能なことを規定する憲法の条文を世界の情勢の変化に関わらず原理主義的に守り続けることに何の意義と価値があると言うのか。仮に今後、日本がウクライナのような危機的な状況に陥って、憲法9条が日本の平和と安全に寄与しないだけではなくて、阻害要因にしかならない、或いは日本国民の命を守れない原因になったとして安全保障の在り方を根本的に見直さなければならないこととなった時には、戦後、長年憲法9条の護憲を主張し続けてきた共産党やマスコミは当然、その結果の責任を追及され、負わなければならないことを深く肝に銘じていただきたいと思う。社会的に影響力の大きい政党や言論機関の活動に対して、特に多数の国民の生命が関わるようなことの国家理念で間違っていたと認めざるを得ない時には、責任を問われ処罰されることは当然であると言えよう。核兵器についても言及しなければならない。ウクライナは1994年のブダペスト覚書において核兵器をロシアに返還したにも関わらず、約束していたはずの安全保障が得られなかったことから、核兵器を保持していれば侵攻はされなかったはずであり、日本も核兵器を持つことの議論が必要ではないかという論争が巻き起こった。私の個人的な感想で言えば、確かに日本が核兵器を持てるのであれば、持つに越したことはないであろうが、憲法9条の平和主義理念に支配されている風潮の中で現実的な議論になるのかと言えば甚だ疑問である。今まで議論することすら許されなかったタブーの議題が政治的な議論の俎上に上がることに意義があるというのであればその通りなのかも知れないが、結局は日本的な議論のための議論に終始するだけで、意義があったとしても何の効力も生じないものになることは明らかであろう。はっきり言って100年後はともかくも、この10年や20年の間にどのような議論がなされようとも日本が独自で核兵器を所有することはほぼ100%不可能であろう。「表向きは」である。それがどういう意味かと言えば、実際に核兵器を所有していなくとも、対外的に日本は表向きにはそういうことにしているが、本当は持っているかも知れないし、持っていてもおかしくはないと思われるのであれば、それなりの抑止力にはなるということである。ポーカーで言うところのブラフであるが、「正直者は馬鹿を見る」との諺は国際社会における日本の安全保障についてまさに当てはまることではなかろうか。日本が非核三原則の順守を対外的に主張する一方で、秘密裏に核兵器を研究したり、完成品ではない途中段階まで作り上げてどこかに隠しておくようなことはあってしかるべきであり、いやこれを言うとふざけた都市伝説のようになってしまうが、実際にその可能性もあるような気がしないでもない。アメリカ政府がエリア51で宇宙人と共同でUFOを作っているというようなレベルの話しであるが。いずれにせよ日本の政治の根本的な問題は、対外的にそういう諜報的な戦略なり、独立国家としての機密というものが極めて希薄で、マスコミと結託して国民を誑かせたり、国家に都合のよい情報を信じ込ませたり、だます方向性にしかモチベーションが作動していないということなのである。その根源がどこから来ているのかと言えば、今更、指摘するまでもないことであるが、戦後の日本の民主主義とは戦勝国であるアメリカが、アメリカに都合の良い民主主義的な政治体制を日本に植え付け、監視して作られたものであって本当の民主主義ではないということにある。日本の安全保障の問題も言論統制なり誘導も全てはそこを淵源として形成されているということだ。しかしそれならば全てはアメリカが悪いのか、日本の問題はアメリカが悪であることが原因なのかと言えばそういうことではないと考えられる。適切なたとえかどうかはわからないが、親が子供を育てるように、アメリカは日本に民主主義という子供を産み落とし育ててきたのである。それに対して感謝の念を持つべきかどうかはどうでもよいことだが、子供は幼児のころは親の言いなりで親の言うことが全て正しいと信じ切っている。またそういう絶対的な主従関係の下で身の安全が庇護されている。ところが子供も大きくなってくると自分の頭で考える能力や社会性が芽生えてきて、親の言うことが必ずしも正しいものではないことがわかってくる。そうなると子供が親を一人の人間として客観的に評価するようになってきて、親を覚めた目で見るようになったり、全面的に服従しないで批判するようになったりもする。そういう精神的な段階を経過しながら段々と子供は一人の自立した人間へと成長していくものであるが、日本の民主主義は、何十年経っても生まれたばかりの可愛らしい赤ん坊のままで成長がストップしてしまっているのである。少年どころか幼児にすらなり得ていない。まるで奇形である。赤ん坊が自分の頭で物事を考えたり、判断できる訳がないのである。それでは何でこういうことになったのか、親であるアメリカが日本の民主主義を成長させないように抑圧していることが原因なのかと言えば、そういう面もないことはないであろうが、本質的にはそうではないと思われる。この点がなかなか理解されにくいことなのであるが、日本の民主主義の健全な成長を妨害している者とは実は、日本の管理者的な立場である政治やマスコミなのである。日本の民主主義が未熟で、赤ん坊のように無垢である方が、日本を管理する者たちにとっては何よりも自己保身につながるし、操作や搾取がしやすいからである。WGIPによって終戦直後の日本人に戦争への罪悪感を植え付けることは、戦後統治をするGHQの占領政策にとっては重要で、ある意味では当然のこととも言えるが、戦後80年近く経過してもその精神が存続し続けて、日本の安全保障の妨げになっていることは、アメリカの国内的な要請であるのではなくて、日本の政治や言論がそういう構図を必要としているからそうなっているというだけのことなのである。日本の共産党の憲法護持の主張もそういう枠組みのからくりの内部に永遠に閉じ込められることに自党のレゾンデートルを見出しているだけでそれが正しいか、有効か、理想的かという問題ではないのである。共産党だけでなく、立憲民主党であっても自民党であっても論調に多少の毛色の違いがあるだけで、同じ枠組みの中に存在すると言う点では同じ穴の狢なのだ。安倍元総理が戦後レジームからの脱却などと言っていたが、あれはそういうことを言えば票が入ることがわかっているから言っていただけのことで、詐欺的とでも言うか、一口で言えば日本の政治は何の成長もない自己保身と、欺瞞の自己増殖だけでどうしようもない腐敗の極みにあると言えよう。アメリカという国は、いやアメリカ以外のどの国であろうと同様であろうが、日本の政治にもうそろそろ成年になれとか、少なくとも少年になってもよい時期だなどとお人好しな忠告をしてはくれない。その国の精神年齢に合わせた対応をして、その関係性を自国に有利に利用しようとするだけである。また奴隷は奴隷に生まれついた訳ではない。奴隷の地位に甘んじて、奴隷のように振舞い続けるから、奴隷であること以外に自己の存在意義が見出せなくなって本物の奴隷になってしまうのだと考えられる。日本人は私は元々優秀な民族であると私は信じている。その優秀な民族である日本人に相応しい政治体制と民主主義をそれこそ命がけで追及していかなければもうどうにもならないであろう。日本の本当の敵は外部にあるのではなくて、内部に存在するのである。その洞察と認識が出発点だ。

(吉川 玲)

戦争のない世界

戦争が始まってしまってから20日ほど経過した。我々が報道で目にする戦争の姿は、凡その戦死者数と爆撃された市街地の断片的な映像のみで、戦死した兵士や犠牲になった一般市民の遺体を見ることはない。それでという訳ではないが、閲覧注意の某エログロサイトで戦死した兵士の画像を見ていたが、何とも言い難い日常生活を放棄したくなるような無気力な気分に陥った。人間の肉体とは近代化した兵器の前にはいとも簡単に破壊されるのだなと。ライフル銃で頭を撃ち抜かれると人間の顔は、西瓜のように破裂して跡形もなくなってしまうのか。かつての日本でもそういう悲惨な光景は多く見られたのであろうが、20歳前後のまだあどけなさの残る兵士の死体画像を見ていると、やはりこの地球上の人類の在り方の何かが間違っているという思いが強くなる。何が間違っているのであろうか。誰も本当は殺し合いなどしたくはないはずである。生命を奪われ、破壊された一個の純粋な肉体には、西と東の区別もなければ、自由主義と共産主義の政治体制の痕跡もない。そこにあるのは死ぬ必要のない生命が、戦争と言う一大イベントのために無残に絶たれたという無慈悲で冷酷な現実だけである。それではなんと言うべきか。戦争反対、STOP THE WARと唱え続けば良いのか。戦争反対と言って戦争がなくなるのであれば、何の苦労もない。そうではないであろう。戦争反対のシュプレヒコールに反対するものではないが、我々が生きているこの物質世界においては、反対したり、否定したり、恐怖の感情を抱いた対象がどういう訳か不思議とある時に、抑圧から解放されるが如く出現するのである。よって市民が戦争反対を声高に唱え続けるほどに、戦争の危機は当たり前のように消滅しないで継続されるだけではなくて、ある意味では突発的に戦争を発生させたり、拡大させる機運を醸成しているのだと見ることも出来るのであろう。そのメカニズムとはどういうものなのであろうか。戦争反対を唱えないでどうすればこの地上から戦争をなくすことが出来るのであろうか。私は、想像することだと思う。何を想像するのかといえば、戦争のない世界をだ。ジョン・レノンが作ったイマジンという曲のメッセージは、想像しさえすれば魔法のようにそのような現実が出現するということではないと思う。それでは戦争反対と唱えて戦争がなくなることを期待するのと同じであろう。そうではなくて戦争のない世界を想像してみれば、人々はそんな世界は想像できないことに気付くことになるのだと思う。その時に初めて、何で戦争のない世界が想像できないのか、つまりは何で戦争がこの世に存在するのかということの本当の意味を思考する扉を開くことになるのだということなのであろう。つまりは戦争反対のスローガンは、戦争の意味を知ることへの思考停止の働きしか持ち得ていないから、結果的に戦争の現実を強化させているということである。ジョン・レノンは、世界から戦争をなくすためには、戦争の意味を知りましょうと、そしてそのためには国境や天国の、つまりは思想のない世界を想像することによって、何が悲惨な現実を作っているのかを人々が自分の頭で考え、それまでの管理化された思考様式から解放されることのみによって道が開かれるのだと人々を導いたために、危険視されて殺されたのである。戦争のない世界を想像すれば、自ずとわかるであろう。戦争とは状況が生み出した偶然の産物なのではなくて、必要性によって作られた必然的なイベントなのである。必要性が特定の状況を作り上げているということも出来る。端的に言えば、戦争は戦争を必要としている人々によって意図的に作られているのである。これはマスコミが力説する軽薄な陰謀論などではなくて事実そうなのだ。たとえば今回の戦争で、戦争のない世界を想像してみれば、NATOの東方拡大がロシアにとって脅威だというのであれば、ロシアもNATOに加盟させればよいではないか。そうすればロシアもEUの西側諸国も脅威が消滅して、戦争の起こり様がないではないか。ソ連が消滅した時点で冷静構造が終結してNATOに対立するワルシャワ条約機構も解散しているので問題はないはずだ。しかし実際にはそうなると困る勢力が地球上には存在しているということだ。そういう勢力は世界の対立と戦争の構造に依存し、維持させようと企てているものである。はっきりと言えばその勢力とはユダヤ系の国際金融資本である。西側諸国はその支配下にあって彼らの戦争の必要性に巻き込まれて、一つのシナリオの下に動かされている。プーチンは世界統一政府を目論むグローバリストの国際金融資本勢力の傀儡になることを拒否し、対立し続けてきたことが、今回の戦争の根本的な要因である。この戦争の目的はプーチンを失脚させるためのものである。だからマスコミは盛んに「プーチンの戦争」であると強調し、また精神状態がおかしくなっているなどと指摘しているのであろう。何も私はロシアやプーチンが正しくて、善であるなどと言っているのではない。西と東に善と悪に振り分ける思考が戦争を作り出しているのではないか。善悪ではなくて人々はもっと戦争がどのようにして発生するのかということをよく考えるべきだと思う。マスコミが述べていることはそのように考えて欲しいことを並べ立てているだけなのだから。今の時代は日本が戦争をしていた80年前とはちがって世界各国が技術や経済で緊密に結びつき過ぎているので国レベルで見れば戦争をして特になるようなことは何一つとしてないし、自由主義であっても共産主義でも思想上の対立軸が戦争の要因になることもあり得ないのである。戦争の目的ははっきり言えば、国家を超越した国際金融資本勢力の金儲けである。ロシアにしても一つのシナリオに従って戦争せざるを得ない状況に追い込まれただけで、莫大な戦費を費やしてSWIFTから排除され、国際的に孤立し、経済制裁を受けることの損失から見れば、ウクライナの領土の一部または全部を得たとしてもまったく割に合わないはずである。ロシアも本当は戦争など望んでいなかったであろうことは間違いないことと思われる。それがどういうわけか知らぬ間に核兵器が使用されることが危惧されるような危険極まりない状態にまでになっている。ウクライナはこう言っては何だが最初から見捨てられていたのだ。ロシアが侵攻して戦争状態になってから第三次世界大戦を回避するためにアメリカやヨーロッパ諸国が派兵しないという理屈はもっともだが、2月24日の侵攻前にウクライナの国境沿いに10万人もの軍隊をロシアが配備した時点で、本来であれば、西側がロシアの侵攻を望んでいなかったのであれば、NATOはウクライナに軍を派兵してロシアとの均衡状態を作っていたはずである。それを全くしないで今にもロシアが攻め込むような煽り立てるような報道ばかりが流されていたことがそもそも不自然であろう。こういう風にして戦争状態は作り上げられるのかということがよくわかる。1941年の日本海軍による真珠湾攻撃も恐らくは同様にそうせざるを得ない状況に追いやられた結果だったのであろう。巧妙といえばきわめて巧妙である。地球上から戦争をなくすためには、はっきりと認めななければならないことがある。それは誰一人として、そして世界中のどの国家も本当は戦争を望んでいないということである。超国家的に戦争を起こさせて、世界から人口を減らしたり、金儲けをし、世界統一政府の実現を企てる一部の勢力が確かに存在するということだ。世界中の人間がその事実を理解できた時に初めて、戦争のない世界が想像できるのである。

(吉川 玲)

戦争は起こるのか

それで結局、戦争は起こるのであろうか。いやその前にそもそも戦争は、どちらが望んでいるのか。どちらと言うのはロシアか、アメリカなどの西側諸国かということだ。戦争というものが予定調和的に流れ着く一大イベントであるならば、その質問は意味をなさないが、また本当はどちらも望んでなどいないということが絶対的な前提とされなければならないのであれば愚問ということになろうが、そのナンセンスと愚かさの狭間で、戦争は起こらない時には決して起こらないが、起こる時にはシナリオという断崖に咲く水仙の花びらの輪郭を壊さないでそっとなぞるように、慎重にためらいがちに、そして不可避的に起こるのであろうと思う。今回のロシアとウクライナの紛争で言えば、ロシア側がアメリカやヨーロッパNATO加盟国との戦争を望んでいるのではないことは確かであろう。ロシアやプーチンの肩を持つつもりはないが、一地域の紛争に過ぎないものをロシアの脅威を盛んに煽り立てて、戦争突入状態を既成事実化させ、本格的な戦争へのシナリオを着実に歩んでいるのは西側諸国であるように見える。というよりも戦争と言うものは、歴史的にそういう風にして何度も起こってきたことであり、今また同じことが繰り返されようとしているのではないのか。マスコミの論調というものは、繊細な花びらをじっと観察するように見極める必要がある。日本もまた西側諸国の一員であるので何気なく見ていたのでは、まるでもう戦争の火ぶたは切られたのと同然であり、その原因はロシアの行動にあるように感じられる。しかし本当にそうであろうか。それが中立的な見方であると言えるのであろうか。FXをしている人にはわかるであろうが、報道が戦争、戦争と言う割には、現時点の23日では、たとえばドル円の相場はまだ115円台を維持していてさほどリスクオフには進んでいない。相場はまだ本格的な戦争状態に突入することに対しては懐疑的に見ているような動きを示している。いつものようにマスコミの報道だけが先走って国民の不安心理を増大させようとしているように見える。ウクライナ東部の親ロシア派地域であるドネツク州とルガンスク州をロシアが一方的に独立承認して、ロシアの軍隊を駐留させることは、確かに表面的に見ればロシアのウクライナへの侵攻であると言えるのかも知れないが、ウクライナ内部が反ロシアと親ロシアに分かれて対立していて、これまでに多数の死傷者が出る軍事衝突が発生しているのであれば、親ロシアの地域は独立してロシア陣営に組み入れられる方が、その地域の均衡と安定は保たれて、より大きな戦争に発展しない要因になるということは言えないであろうか。西側諸国がそれを理由にロシアに宣戦布告をしないのであればということであるが。元々ウクライナはソ連の一部地域だったので、ロシアの共産主義体制が善か悪かという見方以前に、国民感情としてロシアに郷愁を抱いている人々が一定数存在するであろうことは当然であり、それが東部地域のドネツク州やルガンスク州であるならばその地域はロシア側陣営か領土に復帰することの方が自然であり、また平和的だとは言えないであろうか。私にはそのように感じられる。その二州の独立承認に関しては私はプーチンは正しい決定をしたように思える。それを口実にしてアメリカや西側諸国がロシアに戦争を仕掛けるのであれば、それはそもそものシナリオに沿ったものなのであろうということだ。ならば、どうしてそんなに戦争を必要とするのか。何のために必要なのか。戦争が武力による国家間の政治的対立の解消、解決ではなく、単に、純粋に世界を一時的に不安定にさせて破壊するために存在する手段であるならば、疫病のコロナも同じであろう。戦争発生の危機と終息しないコロナの関連性も考察される必要性がある。どのように感じるかはその人次第であろうが、少なくとも世界はTVや新聞の解説や解釈に沿うように動いていないことは確かである。

(吉川 玲)