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「新渡戸氏が残したことば」

前の五千円札の顔であった新渡戸稲造

(にとべいなぞう)氏は、

「われ太平洋橋の橋とならん」という言葉が

有名で、日本初の本格の国際人といっても

よいと思います。


「知識よりも見識、学問よりも人格を尊び、

人材よりは人物の養成を」

つまり、


「知っている事柄よりも物事に対する考え方、
学んで知っていることよりもその人の性格を

尊重し、才能よりその人の品格の養成を」

という哲学。


彼がこのことばを発したのは、50代後半

だったそうです。

ぼく自身が50代後半になったときには、
このことばの意味に得心し、
自信を持って発することができるように

なっていたいと思います。


「Visionary」、
見聞きする現象によってのみ右往左往

しない、

「先見の明がある人」、「洞察力がある人」に

あこがれるのです。


「日本の新生」

15年前の1995年に、ある上場企業の創業者が

ぼくにポツリとおっしゃった。

「日本経済はこれからも落ち続ける。

二度と回復することはないと思う。」


「では、どこの国が成長して豊かになるんですか?」


「起業家精神がある人々が増えている国。

起業家が実際に続々と生まれている国。

起業家が増える国は繁栄し、減る国が没落

するのは歴史の法則だ。」


「その国はどこでしょう」


「中国だろう。中国は20年後に世界一の経済

大国になっているかもしれない。」


「それでは、日本は20年後(2015年)には、

どうなっているんですか。」


「日本はアジア各国の中で中所得、中福祉の

国になっているだろう。
銀座の高級品店の主要顧客は中国人や韓国人に

代わっているだろう。

日本人は他のアジアの国に出稼ぎに

行っているだろう。
当然、国内最大の社会問題は【失業問題】に

なっているだろう。」


1995年時点では、この予想は本当に衝撃的だった。


「では、日本が20年後に没落しないようにするために、
今我々ができることは何ですか。」


「その答えはシンプルだ。

起業する人々が増えれば問題ないのだから、
起業を奨励する教育を小学生から普及させることだ。

そうして風土を変えていく。勤めている人より、
起業家が社会的に尊敬される国に変えていくしか

方法はないと思うよ。」


日本は、15年前と変わらず、起業家が勤めている

人より尊敬される国にはなっていないが、

中国は15年前から変化し、起業家が勤めている人

より尊敬される国に今はなっている。


自分は今何に取り組めば、日本の新生に貢献

できるのだろうか。

再考しないといけない。



「価値ある愚直さ」

アレルギー研究者として世界的権威の
石坂氏の最終稿
(日経新聞「私の履歴書」2005年3/31付 )
が、たまたま出てきた。


その最後の部分を以下に引用してみる。


「我々が研究者として成功した最も大きな

理由は、我々が愚直だったことにある。

私は英語で嘘をつくことができないので、

嘘をつくことを忘れてしまった。

<中略>

幸いにして正直であることは科学者に

とって最も大切な資質であったし、

愚直は多民族社会である米国で自分の

信念を通すために最も重要なことであった。

おそらく、我々くらい米国でいろいろの人と

心を通わすことができた日本人は

めずらしいだろう。

我々の人生はおもしろい人生であった。」           


この言葉に、あらためて、感動した。

「愚直」の反対語は「狡猾」である。

今このとき、我々が日本のリーダーに

求めているのは
「愚直な」メッセージだと思う。



「日本復活の苗床」

先週、実際の友人が夢に出てきた。


彼は、日本で永住権を取得している

スリランカ人で仏教徒だ。


彼は、滔々と語った。

「日本人は優秀だ。日本は必ず数年で

復活するよ」


「日本は今、閉塞感に覆われているように

見える。
その原因は外国にはない、原因は
日本人にある。
だから、日本人自身がその閉塞感を取り払えば、
閉塞感はなくなる。」


「今日本に必要な人物は、勇敢に、敏速に、

企画し、行動する、そういう日本人だ。
決意を持って困難に立ち向かうリーダーの日本人だ」


「日本を復活させるためにしなくてはならないことは、
すでにはっきりしているよ。
そのための方策は、日本人自身によって研究され、
もう議論し尽くされている。
あとは、リーダーの日本人が実行するのみだよ」


すごい夢だった。


たしかに、
日本が持つ、他の国にはない、
最高、最大の資産は、「日本人」である。


日本を本気で復活させたいと考えている、
智恵と勇気と実行力を備えている、
世界のリーダーに匹敵する日本人が
日本のビジネス界に多くいることは知っている。


それらの心あるリーダーたちが活躍の場を

与えられたとき、日本は変わるとも確信する。


釈尊(ブッダ)は、「内在の仏性」を自覚したとき、
必要な智恵と力が湧き出ると教えた。


日本に内在している優秀なリーダーたちを

日本人が自覚したとき、
そして、それらのリーダーたちが表舞台に

上がったとき、日本は回復期に入るのだろう。


以上

「アジアの窓口になる戦略」

「なぜ、この国は儲からなくなったのか?」
という新刊を読んだ。


その最終章は

「生き残りたいなら、アジアをまとめている

フリを見せよ」。


「アメリカはアジアの窓口を求めている」


「アメリカにとっては、アジアという異質の

文化にビジネスチャンスを見出すにあたり、


その面倒を見てくれさえすれば、
窓口は日本人でも韓国人でも台湾人でも

香港人でもシンガポール人でも

誰でもかまわないのだ」


「グローバルな市場で商機を獲得するには、

アジアにビジネスのネットワークを
作っておけば相当な強みになる」


とあった。


外国から日本へ投資する場合、その窓口として

選ばれる都市は東京だろう。

日本からEUへ投資する場合、
その窓口として選ばれる国は英国かスイスか

フランスか。


アメリカやEUや中東からアジアへ投資する場合、

その窓口として選ばれる国はどの国か。


その窓口として選好されてきたシンガポールは、
2008年にアジアで1位(1人当たりのGDP)に

登りつめた。


アジアの窓口になる戦略が必要だ。



「小学生向けのキャリア教育」

先週は、沖縄・宮古島で
小学生向けのキャリア教育について、

講演させていただいた。


沖縄県の失業率は、全国平均の約2倍が

続いている08年度現在の完全失業率は7.4%、
30歳未満のそれは12.9%であった。


この状況への危機感から、
「みんなでグッジョブ運動」を県内で今展開している
http://www.goodjob-okinawa.info/page/450.html )。


1979年 英国はサッチャーを首相に選んだ。
失業率が沖縄のさらに2倍に至り、
社会不安がピークになった英国病の末期に、
当時のとくに産業界のエスタブリッシュメントが
「労働者階級の女性」を首相に就けた。


どんな国でも自治体でも、高い失業率は

社会の安心と安全にマイナスに働き、
失業率が低くなれば社会の安心と安全に

プラスに働く。


サッチャーが第一に行ったことは外国資本の

導入、第二には小学生~社会人までの一貫した

キャリア(職業)教育の導入だった。


小学校高学年の子どもが,将来仕事に就く

(自活を始める)時期を楽しみにするような
社会に変えなければならない。

それが我々今生きている大人の責任だ。


ぼくができることは、
小学生からのキャリア教育の普及に

努めることだと、感じた。


「日本はアジアに生きる国_最終回」

直後、
日本の親に電話し、留学プロジェクトは

頓挫したことを伝えた。


「これで肩の荷は下りた。遊びに行こう!」
(13歳の頭の切り替えは早いものです・笑)。


その後の滞在で、
二つの出来事が印象に残っている。


一つは、バスケットボールしている

現地中学生を見つけて、
飛び込みで仲間に入れてもらいプレーをしたこと。


その翌日、ジャッキーチェンの映画(広東語)
を一緒に観に行ったこと。


もう一つは、チャイナタウンで老婦人に

現地少年と思われて声をかけられたこと。


「この重い荷物を自分のマンションの

部屋まで運んでくれないか?」
と頼まれ、その北京語をぼくが聞き取る

ことができ、

「いいですよ!」と北京語で返答できて、
実際に運ぶ体験ができたこと。


その後、シンガポールへは、
旅行、立ち寄り、出張で20回は訪問した。

ぼくにとって、シンガポールは第二の祖国だ。


大学生になったときに、
ぼくの北京語の家庭教師だったラオさん
とシンガポールで再会した。


その際の二人の会話は、北京語ではなく、

英語半分、日本語半分となった。
興味深かった。


2007年、アジアの一人当たりGDP一位は、
日本からシンガポールへと移った。


2010年、アジアのGDP一位は、
日本から中国へと移った。


もう日本はアジアで別格ではない。

これからの10年間、日本自身がアジア化して
真の共存共栄を目指すかどうかが、
アジアが持続的発展ができるかどうかを

決めるだろう。



「覚悟とアーティスト」

一昨日は大切な友人に誘われて、

食事会に伺った。


参加者のお一人は、一世を風靡した

超人気バンドのメンバーだった方だった。


「自分は、ミュージシャンからアーティストに変わる」
と、おっしゃった。


ミュージシャンは職業上のスキル、テクニックの

範疇にあり、アーティストは職業という規範を

超越した自己表現ができる人。


では、そうなるためには、何が必要か。


潜在能力が引き出されて、開花している

状態が必要。


その状態は、どういうときに生まれるのか。


「覚悟」のうえ、何かに「無我夢中」になった末、
自分の作品が自然と生み出されるのだろう。


その作品に人々は強い感動を覚えるのだろう。

「日本はアジアに生きる国_PART10」

◇あらすじ:
ぼくは、13歳のとき(1981年)、親のアドバイスで、
シンガポールにおける自身の留学先(学校)を
単身で探しにきていた。


タクシーを拾って、教育に向かった。
到着して、苦労の末、留学の窓口まで行き着いた。


「シンガポールの学校に留学したいが、

どうしたらよいか?」
と、尋ねた。


窓口の女性はニコニコしているだけで、

何も答えない。


何度か繰り返すと、「あなたは日本人ですか?」
と聞かれたので、「そうです」と答えた。


その後、奥に行って誰かと相談している風で、
2人で戻ってきた。


今度は、2人がゆっくりと、しかも熱心に

ぼくに話しかけたが、ぼくには2人が何を

話しているか、全く理解できなかった。


ぼくから英和辞典を差し出して、英和辞典を

通してのコミュニケーションが始まった。


「あなたは英語が話せないし、聞き

取れないので、シンガポールの学校に

留学することは不可能です。

外国人が英語を学ぶための学校なら

紹介できます」
と、宣告された。


<続く>



「日本はアジアに生きる国_PART9」

ぼくは、13歳のとき(1981年)、父親のアドバイスで、
シンガポールにおける自身の留学先(学校)を
単身で探しにきていた。


チャイニーズYMCAにチェックインした直後、
ロビーにいると、アフリカ人の船乗りに

声をかけられた。

シンガポールは、アジア有数の中継港で、
途上国の船乗りがここに宿泊していた。


日本とはどんな国なのかを身振り、手振りで

一所懸命説明した。

みんな酒を飲んでいて、「日本人と会えて

うれしい!」
と言って、ぼくにキスをしたり、抱きしめたりした。

同性から初めてされるキスと抱擁が
アフリカ人からとは、人生とは本当に

予測不可能なものだ。


ベッドに入った。

そのとたん、ベッドのウラに潜んでいた
蚊の大群が攻め始めた。

「安い宿だからしようがない」とあきらめて、
闘いながら、一夜を過ごした。


翌朝、タクシーを拾って、教育省(日本の

文部科学省)に向かった。