長い物には巻かれろという言葉がある。権力や権威の前で、正義や正論というものがいかに無力であるかということである。別に社会正義が云々ということではなく、絶対的な力の前に、自分の中の正義を貫くことがいかに難しいかということである。本書の主人公は大国に挟まれどうしようもない状況の中で、自国の民のために自らの正義を貫こうとするのである。人間として大変あこがれる生き方である。文庫だと4巻もあるが決して長く感じない。

最初にTBSのドラマを見て、中々面白かったので、原作を読んでみることにした。結論からいうとドラマのほうが面白かった。あえて主人公二人の心理描写を徹底的に排除するというスタイルが、私にしてみると物足りなくもあり、よく分からなくもあった。もしかしたら、これはドラマの解釈に引きずられてしまっているかもしれないし、私の想像力が貧困であるためかもしれない。ただ、小説の醍醐味とは、登場人物名心理描写ではないのだろうか?行動を羅列されても何となく拍子抜けしてしまう。
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話題の書が文庫化されたので早速読んでみた。確かにスピード感があって、面白かった。ただフランス~イギリス間を移動するのに、都合よく大富豪が出てきて自家用ジェットで一つ飛びという展開には、正直何だかなと感じた。これはキリスト教の歴史に精通しているとまた別の楽しみ方があったのかもしれない。ただ、知識がなくても暗号解読や、犯人推理など十分に楽しめた。読みやすいので一度読んでみても損はないと思う。
病後に辺見庸が何を語るのか。そのことに私は大変注目していた。その内容は私の想像をはるかに上回り、戦慄さえ覚えた。本書の中で、辺見庸は自分は自殺を否定しないが、自分は江藤淳のように「自ら処決して形骸を断ずる」とは決して書かないだろうと述べている。この言葉にこそ、辺見庸の生き様が表れている。また、彼は麻痺をもつことによって見えてきたものについてものべている。残りの人生を旅などをしながら穏やかに生きる道を捨て、戦い続ける宣言をした辺見庸の言葉に、我々は心して耳を傾けなければならない。ただ、その辺見庸でさえたった二人で寄り添い歩く盲目の老夫婦に嫉妬を感じたとは、人間とは何と弱々しく、ちっぽけな存在なのだろうか。だからこそ、辺見庸の弱さを含んだ強さに私は魅了され続けるのかもしれない。
博多からの帰社時約3時間の時間に読む本を駅の本屋で探していた時に手に取ったのが本書。そこには宮城谷作品はどれを読んでもそれなりに面白だろうという信頼感がある。彼の書く主人公は皆魅力的である。そこには、人間が目指す一つの理想がある。ただ、その中でも今回の作品は取り上げた人物が地味だったと思う。晋の文公(重耳)の部下の部下の話なのだからそれも致し方ないかもしれない。しかも「重耳」という作品を別に書いているのだから余計と小物感は否めない。ただ、もちろん宮城谷氏の書く介子推も魅力的な人物であったことに変りはない。
ベストセラーはあまり読まないようにしている。この本が最近売れているのは知っていたが、本書を手に取ったのは別な動機からである。先日芥川賞を読むために、文藝春秋を購入したのだが、その中に、藤原正彦氏の「愚かなり、市場原理信奉者」という文章があり、その考え方に共感する部分があった。そこで思い出したのが本書である。それならば1度読んでみようということになったのである。読み終わって、なるほどこれは多くの日本人に好まれる内容であると思った。いま多くの人がまるでアメリカの属国であるかのような日本に少なからず嫌気がさしている。また政府がどんなに否定しようとも露骨になってきた格差に不公平感を抱きつつある。抱きつつあるとは、中々表立って不公平を主張できないのが今の世の中である。表向きは格差とは努力の差ということになっているからである。ただそうではないのは皆が気づき始めている。富める者の声ばかりが大きくなり、貧しき者の声はますますかぼそくなっている。そこに、大切なのは武士道だ、もののあわれだと来るわけである。皆が喜んで読むのも当然である。だがしかし、なぜか物足りない。非常に表層的な気がするのである。まるで文藝春秋の文章を薄めて引き伸ばしただけのような気がするのである。私ごとき凡人が偉そうなことを言わせてもらえば新自由主義に対抗できるような思想にまでは昇華できていないというのが率直な感想である。
伊丹万作氏の「戦争責任の問題」というエッセイをもとに1冊の本を作ろうと思った編集者の心意気にまずは感服した。ただ、このテーマから佐高信という人選は少しずれているのではないかと感じた。佐高氏は信念をもったぶれない評論家だと思う。しかし、だからこそ、迷いであったり人間的な弱さが彼の発言や書くものからは感じられない。伊丹氏のエッセイの肝は、本当に騙す者と騙される者はきっちり分けられるのか、お互いが補完しあって存在しているのではないかということだ。その意味で、本書の半分以上が、だまされるという部分だけをとりあげ、中坊氏など、多くの人が本質を見誤り過大に評価してしまった人物や事柄を論じ合っているのは、せっかくの趣旨が微妙にずれていて大変残念である。そんななかでは、魚住氏が自分の中の組織に同調してしまったり、しり込みしてしまったりする弱さについて語っている部分が一番興味深く、この人は信じられると感じた。物事を誰かのせいにしたり、組織のせいにしたりするのは簡単である。しかしいつもそうやって逃げてばかりいたら、結局は私というものはどこにも存在しなくなってしまう。
芥川賞が発表されるたびに、受賞作を読んでみようと試みる。しかし、いつからかそれは私にとって非常に辛い作業になってしまった。最近は一つの作品を読み終えることもままならない。何故だか知らないが、最近の作品は読み進めるうちに不快になるものが多い。奇をてらっただけの胸糞悪いものばかりだ。しかし、今回の作品は最後まで読むことができた。また心地よい気分にさせてくれた。選評の中で何人か実際の職業を見事に書いていると評していたが、作家という人はよほど世の中のことを知らないのかと可笑しかった。読みやすい作品で好感を持ったが、全体的な感想としては宮本輝氏が選評で述べている通り、あまりにも小品すぎた。(ちなみに本作は文藝春秋で読んだ)
![世界と僕たちの、未来のために 森達也対談集 / 森達也/著 綿井健陽/[ほか述]](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimg.7andy.jp%2Fbks%2Fimages%2Fi6%2F31658376.jpg)
森達也氏は、「A」という作品を撮ったことにより今の地位を得たと言っても過言ではない。「A」がなければ彼は今とは違った人生を生きていたことだろう。だが、彼自身がこの対談集中で繰り返し述べている通り、彼は使命感や社会正義のためにあの作品を撮り出したわけではない。むしろ成り行きで仕方なくスタートしたのがあの作品なのである。ただ、彼と他の人が違ったのが、彼は自分の違和感に正直だったということだ。だから青の作品は生まれ、今の森達也がある。僕が森達也氏を信頼できるのは、彼が迷う人間だからだ。決して、彼は何かを断定しようとはしない。それはある程度売れてきた今日に置いても変らない。彼はいつも迷っている。映像の中でも、書くものの中でも。でも、だからこそこの人の言うことは信じてもいいんじゃないかという気にさせてくれる。自分の弱さを自覚し、それでも自分の中の違和感ときちんと向き合える人こそが、一見頼りなさそうに見えて、最も強い人間なのだと思う。弱いこと、情けないことは悪いことではないと思う。最後の最後にそこから逃げ出さずに踏みとどまれるのだとしたら。