兵法孫子 戦わずして勝つ / 大橋武夫/著


昔から孫子の兵法は気になっていた。これは入門書のようなものだが、最後に全文が掲載されているので都合がよかった。色々なところで話題に上る孫子の兵法だが、通読して、要は2つのことが大事なのだという結論にいたった。その二つとは、相手(敵)のことを良く知ることと、事前準備を万全にすることである。やはり成功の法則などないということだろう。同時並行で「ドキュメント戦艦大和」を読んでいるのだが、これを読むと孫子の理論との乖離に唖然とする。戦争の是非もさることながら、これでは負けて当たり前だと思った。



しりあがり寿氏の作品ということで期待していたが、正直たいした内容ではなかった。くずして斜めから見るのが彼のスタイルなのだが、崩しすぎてどうでもいい内容になってしまっていた。往復書簡で私が傑作であると思うのは「二つの戦後から」竹田青嗣/加藤典洋:著 である。せっかく往復書簡にするなら、様々なテーマをそれこそ全身全霊をかけてぶつけ合って欲しい。基本的にはどうでもいい内容ばかりだったが、1つ気になったくだりがあった。ベトナム戦争のときアメリカの兵士たちが訓練で恐怖を克服したという話で、普通の人間は突然ジャングルで敵と向かい合ったとき、銃の引き金を引くのをためらうのだそうだ。だとすればこの世から戦争がなくなる日がいつかやってくるかもしれない。そんな夢みたいなことをふと思った。

学生のころ「天皇の戦争責任」という本を読む中で出てきたのが、本書だ。その当時から気になっていてこのたび偶然目にとまった。今はそうでもないがかつて竹田青嗣氏に傾倒していた時期があった。何が良かったのか良く分からないが、とにかく著作が出ると購入し、講演会に行ったりもした。「天皇の戦争責任」とは、その竹田氏を進行役に、加藤典洋氏と橋爪大三郎氏が天皇の責任について論じ合うものだ。500ページを超える大作のため、改めて読み直すことも憚られるが、その中で加藤氏が引用したはずだ。「天皇の戦争責任」のなかで加藤氏は、昭和天皇には自国の戦争の死者に対する道義的責任があると主張しており、それを補完するために本書を引用したと記憶している。本書では、天皇が戦後人間宣言をしたことは天皇という神に命をささげた者たちへの裏切りであると述べられている。今となっては想像もできないことだが、かつて天皇は神だったのである。天皇の責任について今の視点で論じることに意味はない。その当時の社会情勢の中で論じて戦争責任があったのか、なかったのか残念ながら私には分かりかねる。

遡る形で、3部作を読み進めてきた。辺見庸の怒りに触れることは、大変な苦痛を伴う。右に倣えで、全てなし崩し的に受け入れてしまっている私にとっては、辺見庸の言葉は突き刺さる。有事法制やイラク戦争に対する怒りは我々庶民にはどこか遠いような気がしてしまう。しかし、これは我々自身の問題である。我々の無関心が政府の暴走を生んだのだ。辺見庸のスタンスでもっとも私が好きなのは、彼が一人称で語るからだ。自らが傷つかない安全な場所から、無責任な発言を繰り返す人間ばかりの世の中でいかに稀有な存在であるか。

辺見庸を読み漁っている。それこそ貪るように読んでいる。辺見庸は抗う。何にも依拠せず、個人として徹底的に抗う。自身で述べている通り、それは世の中のためでもなんでもなく自分自身が納得できないからだ。ここが辺見庸の作家たるゆえんであり、したり顔の評論家との決定的な違いである。だからこそ私は彼に強く惹かれるのだ。同時代に何を発言したかが問われる。後の世でこそ辺見庸は評価されると思う。内心では反対しながら、諦めなのか、恐れなのかそれを口にしないで、後からさもわかっていたかのように振舞うという辺見庸の最も嫌う人間に、自らも陥ってしまっているのではないかという恐怖が私を襲う。はたして辺見庸を読んでいること(支持していること)は免罪符となりえるのだろうか?


昔、辺見さんの講演会を聞きに言ったことがある。その講演会の冒頭で、石原都知事が外務省が都の提供した食料を北朝鮮に送っていたことに抗議したことを取り上げ、ほんの少しの食料、しかも賞味期限切れの乾パンさえ送らせないことに悪意さえ感じると語っていたのを鮮明に覚えている。この作品は前作二作とあわせて抵抗三部作と言われているそうだ。辺見さんを見ていると作家とは本来かくあるべきだと思えてくる。右とか左とか関係なく、時代の暗部ををえぐりだし、問題提起をし続けることこそが作家の本来の役割ではないかと思う。我々は、さしたる経験も深さも備わっていない、若者の表層だけをこねくりまわした文章が読みたいわけでもなく、権力に媚びへつらった薄っぺらな意見を聞きたいわけでもない。金石範が解説で、世界の、時代の緊張をを正面から受け止め立ち向かっているからこそ、行きつくところへいったのかと、胸を刺して来る痛みをおぼえたと書いている。これはあまりにもセンチメンタルな考えと思えるが、辺見さんが癌で年内に手術を行うという記事を目にし、私も同じような感覚に陥ってしまった。まさに金石範が同じく解説の中で述べている通り、世に作家は辺見庸一人ではあるまいに。




森さんの書くものは「ラストエンペラー」にしろ「下山事件」にしろ最初に提示された仮定が結局のところ正しかったのか、はたまた間違っていたのかわからないまま終わってしまう場合が多い。そして最後に「世の中はそんなに単純ではない」という決めぜりふとともに何でも単純化したがる現代社会に警告を鳴らして終わるのである。今回も予想通りその流れだった。何かの媒体で自身も似たようなことをのべていたが、結局森さんは様々な被写体を通じての自分自身を描き続けているのだとおもう。だから重視されるのは取材を通じての自らの葛藤や心の揺れであり、被写体は生きていようが、死んでいようがどちらでも支障がない。むしろ自分にスポットをあてるのだから故人の方が都合がよいだろう。森達也がもっと有名になったなら後世では、この方法が森スタイルとして市民権を得ているかもしれない。どちらにしろ森達也の作品は、読み手が森達也そのものに興味がないと成立しない。そういう意味では森さんが本を出し続けられているということは、社会の側にもまだ森的な主張を受け入れる度量が残っていることになる。少し安心する。


満足できる人生とは何なのか?これが、この物語の大きな主題になっているような気がする。老ボクサー役のモーガンフリーマンの言い分も確かにある。しかし、この物語の本当に訴えたかったのは、やはり家族の愛なのだと思う。これは家族の愛から見捨てられた、男と女の物語だ。最終的に男が女を安楽死させるという道を選んだのも、自分だけは彼女を見捨てられないという想いからだろう。見ている者として、愛の表現として安楽死をさせてあげることが正しいのか否かといった思いはある。しかし、男が神に任せることができなかった気持ちはすんなり受け入れることができた。悔いの残らない人生とは何か?たぶん答えは、人それぞれだ。不幸なのは、チャンピオンになれないことではなく、それが見つけられないことだ。


これは、黒潮に流され37日間海上を漂流し、奇跡的に生還した武智さんの物語である。奇跡的な生還と聞くと人はその間にどれだけ劇的なドラマがあったのかと期待してしまう。また、37日間も彷徨って奇跡的に生還した人なのだから、悟りの境地にでも達しているのではないかと思ってしまう。しかし、実際に読むと目の前に起こることを実に淡々と受け入れている。もちろん、天候が激変したり、飲料水がなくなったりと色々なドラマはある。しかし、武智さんはそういった出来事を実に冷静に受け入れている。読む側としては拍子抜けしてしまうほどである。ただ、だからこそ生きるということの素晴らしさを感じさせてくれる。これは武智さんが漂流中一度も生をあきらめなかったからだろう。よく人は生きることに悩む。中には自らの命を自ら終わらせてしまう人もいる。しかし、武智さんの体験を読むと、人間は生かされているという思いを強くする。だとしたらどう生きるかを悩んでも、生きること自体を拒否するなんてことは許されないはずだ。

本書、けっこう売れているらしい。私はいったいどんな人々がこの本を手にとっているのかが興味がある。この本を読んで読者はどんな気持ちになるのだろうか?共感か安心かはたまた危機感か。ただ、一つ思うのは、本書の指摘どおりゆっくりではあるが、格差が拡大し固定されつつあるということだ。今のところ、食べられない程困窮している人がそんなにたくさんいるわけでもなく、格差は個人の努力不足から生まれていると考える風潮がある。しかし、もう少ししたら格差が固定されて努力しても自らの階層から抜け出せない時代がやってくるかもしれない。本書で興味深かったのは、人間の階層を決定的にするのは、コミュニケーション能力であるという指摘だ。コミュニケーションがうまくできないから何事もうまくいかず、最終的には意欲をも失ってしまうというのだ。そしてコミュニケーション能力とは幼少時代の教育や家庭環境によって培われるというのだ。語学もコミュニケーションとして考えれば、なるほどこの指摘は的を得ているとも思われる。こう考えると幼少時に家庭環境によりコミュニケーション能力取得のための適切な教育を受けられなかった人が相当のハンデを負うのは間違いない。人生が生まれる前からある程度決まってしまっているというのは到底受け入れることができない。しかし、人によりスタートに差がついているのもまた事実ではないだろうか。これを乗り越えるのは相当の努力がいる。我々は自由競争社会というものを取り違えて、とんでもない階層社会を生み出してしまわないようにしなければいけない。