送還日記 映画『送還日記』公式パンフレット

映画「送還日記」の解説本のような位置づけだ。映画を観ていなくてもそれなりに楽しめる内容になっている。撮影者自身の内面の葛藤や迷いをさらけ出すだけである程度評価されるということは、葛藤をさらけ出すことがいかに難しいことの裏返しなのだろう。内面の葛藤をさらけ出すことを何が難しくしているのだろうか。それはプライドなのか、恥なのか、はたまた勇気がないのか。もしかしたら、葛藤が起きないほど、世界は単純明快になってしまっているのかもしれない。でも、そんな分かりやすい世界ならご免こうむりたい。


アカルイミライ 特別版

黒沢清の作品は分かりにくいものが多い。その中では、本作は比較的見やすかった。ただ、やはり一筋縄ではいかない。全体のメッセージよりも個別の部分で興味深いところがいくつかあった。一つは、家族の描き方。現代の家族はここまで崩壊しているのであろうか。ただ、最近の子が親を殺す事件の多発を目の当たりにしているとそれを否定できない。そしてラスト、現代を象徴するような無気力の若者の集団が道に落ちていたダンボールの空箱を蹴飛ばしながら歩いているバックに「アカルイミライ」というタイトルが出て終わるのである。強烈なアイロニーである。未来は本当に明るいのだろうか?それとも暗いのだろうか?

御社の営業がダメな理由 / 藤本篤志/著


マネージャーではない営業の一兵卒が読むと、読み終わった後にため息が出てしまうような内容だ。なぜなら多くの人は無意識的にではあっても時間を無駄にしているので、もっと徹底した管理をすればチームの成績は向上するという内容だからだ。その方法とは、日報などのペーパーでの管理をやめ、そのかわり1日30分程度1日の活動内容と状況を対面により確認し、的確なアドバイスをし、クロージングにはなるべく同行するというものだ。本書の指摘の通り、上司への報告というものは多かれ少なかれ皆、ごまかしており、本当は見込みが薄くても検討中と報告したりする。しかし、30分もみっちり聞かれたら、ごまかしがきかなくなってくるだろう。必然的に今まで以上に必死に訪問活動をしなければいけなくなる。確かにその通りなのだが、無意識的にさぼっていた時間までしゃかりきになれとは何とも酷な話である。一時は成績が上がると思うが、長い目で見たら、精神がおかしくなるんじゃないかと甘いことを言ってみたりする。


高を括っていた。せいぜい会場の半分も埋まればいいだろうと思っていた。人一倍期待しているくせに、同時にどこか諦めてもいた。しかし、会場につくと開演前から長蛇の列ができていた。1100名の会場が一杯になり、別の会場でモニターを見ていた人もいたらしく全部で1500名くらいいたかもしれない。何を求めて彼ら彼女らは集まったのだろうか。脳出血で倒れ実現出来なかったか講演を果たそうと麻痺の残る身体でやってきた辺見氏の気迫を前にして、たぶん当初の目論見は崩れ去ったのではないか。それほどの力が彼の言葉にはあった。彼は戦時中、中国であった人体実験の話しをした。手術台へ向かうことを拒絶する若者を取り囲み、嫌がる背中を押すエリート医師達のことを。安心させるような言葉を耳元で囁き、ぺろっと舌を出す女性看護士のことを。そこにある罪なき罪のことを。人間としての恥を。
こうしたルーティーンの中にこそ恥、罪があると。

同時に、彼は自分がその輪の中の一人であったらどうかと想像することを強いる。

しかし辺見氏自身も自分がその場にいたら背中を押してしまったかもしれないという。

これは比喩であって比喩ではない。今我々が実際に直面していることだ。

だからかこそ、境界を越えなければならないと彼は言う。おかしいことをおかしいと言わなければいけないと。ニヒリズムから脱却しなければならないと。行儀よくしているだけではいけない、時には言葉を荒げなければならないと。一人一人が小指から血の一滴でも流さなければならないと。方法は何でもよい、連帯なんてする必要ない、最小単位である一人でいいんだと。自分は命の続く限り書き続けると。

今ほど実力行使が必要な時代はない。声を発しなければなし崩し的に物事が決まっていってしまう。私もまた、意識して境界を越えなければならない。そう強く感じさせてくれた。

追伸:私が以前から感じていた朝日新聞の言葉は〇〇というジャーナリスト宣言の胡散臭さ、恥ずかしさについて辺見氏も同じ意見だったのでうれしかった。

「麻原死刑」でOKか? / 野田正彰/[ほか述]

ちょうど本書を読んでいる時に、山口県光市の事件の最高裁判決が死刑を避ける正当な理由はないという理由で差し戻されるという事柄があった。被害者の遺族の方は事件発生当初からマスコミを通じて、死刑を訴え続けており、その声が、裁判所を動かしたという側面は否定できないだろう。被害者感情というか世論により判決内容が左右されるというのはよいことなのか否か。私は、もちろん被害者遺族の方の感情は考慮されなければならないと思うが、それに便乗して大騒ぎする世論には左右されるべきではないと思う。本村さんの過去の発言、そして今なお死刑を求め続けけいる想いを聞いていると、彼の覚悟を感じる。彼は、加害者の死に関わることを認識し、その上で覚悟を持って語っている。しかし、マスコミをはじめ、まわりで騒いでいる人々にはその死刑という殺人のプロセスに関わっているという覚悟が一切ない。共感しているふりをしているだけなのである。本書の中で河野氏が、私は恨まないことにしている、恨むという不幸を重ねたくないと述べている。こちらの考えのほうが、自然なような気がする。怒り、恨みを持ち続けるほうがエネルギーを使うし辛い。本当に、我々はその不自然な方に共感できているのか、共感できるというのは偽善ではないのか。そもそも、所詮はただの人間である裁判官に、同じ人を裁けるのであろうか。だとすればせめてルールを遵守して欲しい。今問題なのは、裁判所が世論におもねって判決を左右させていることではないか。本書の主張もここにつきると思う。


小沢一郎政権奪取論 90年代の証言 / 小沢一郎/[著] 五百旗頭真/編 伊藤元重/編 薬師寺克行/編



自民党を出た後の小沢氏にずっと注目してきた。もう少し踏み込んで言うなら期待し続けてきた。それは彼が数少ない理念を語れる人間であると感じるからだ。しかし、自民党を出てからずっと、彼のそばから人が離れ続けてきた。そういった状況を見ると、やはり彼に何らかの人間的欠陥があるのではないかと思えてしまう。本書は、人間小沢一郎を知るのに、とても興味深い。インタビューアーの一人である、五百旗頭氏があとがきで実にうまく本書をまとめてくれている。我侭であるとか、自分勝手であるとか小沢氏は色々と批判されるが、これは五百旗頭氏も指摘しているが、彼が極端なシャイであることが原因の一つだと考えられる。小沢氏がもう一度表舞台で輝くためには、これも五百旗頭氏が指摘している通り、成熟した小沢一郎であるかどうかということに尽きるとおもう。そして私は、それがこの国のためになると信じている。

俺たちのR25時代

もうまもなく終わる。僕の25が。えらいことだ。こんなに何も考えてなくていいのだろうか?日々の忙しさを言い訳に完全に流されている。そういう人ばかり選ばれてるからだろうが、登場する全員が少なくとも25までには自分のやりたいことの方向性くらいは見出している。苦労を厭わないのも、必死になれるのもその道が自分のやりたいことに繋がっていると信じられるからだろう。君の歩む道に間違った道はないと偉人は言うが、自分の歩む道が自分の望む未来につながっていると信じるのはなかなか難しい。R25というフリーペーパーは昨年の夏神奈川の実家に帰った時に、面白いものがあると弟に教えられて初めて目にした。このクオリティで無料とはリクルートも凄いものを作るなと感心したのを覚えている。しかし、こうしてまとまったものを読んでみると、何だか物足りないのである。やはり面白いと感じたのは、あれが無料だったからかもしれない。600円は少々高い。

死海のほとり

ダヴィンチコードが一部の国と地域で抗議活動にあっているという。どうやらイエスに子どもがいること、言い換えれば人間であるということが気にくわないらしい。だとすれば、ここに書かれるイエス像を彼らはどう思うのだろうか。遠藤氏はイエスを何も出来ない、駄目な弱い人間として描いている。病気も治せなければ、奇跡も起こせない。病気の人間や、孤独な人間に寄り添うことしかできない。遠藤氏の提示する神とは、どんな時もただただ自らのそばに寄り添っているだけの存在なのである。だがしかし、イエスは弱さも狡さも全てを許容してくれる。神とは愛であり許しなのだ。とはいっても我々は神に過剰な期待をしてしまう。最後の最後まで寄り添って許してもらうだけでは、満足できないし救われないのである。奇跡を期待してしまう。弱さも狡さも肯定されるとすれば、我々はいかにして自分を律すればいいのだろうか。弱くてもいいと言ってもらえることはある種の救いかもしれないが、そこに安住してしまうのは自らにとっていいことなのかは定かではない。確かに神は私のそばにも寄り添っているのかもしれない。しかし、少なくとも私にとってはそれは救いにはならない。

ブロークン・フラワーズ

(C)2005 Dead Flowers,Inc.


会社の代休を利用して平日に観にいったのだが、映画の名前を告げると1,300円といわれ、少し違和感を感じながら代金を払い、席についてから半券を確かめると学生と書いてあった。どうやらまだまだ大学生でもいけるらしい。観た人により評価が分かれる映画だと思う。私はというと、コメディと呼んでもいいのではないかと思うほど、ユーモアに富んでいて面白かった。しかし、ただ面白いだけでなく切なさもある。20年という歳月が人をどうかえるのか、映画の中では20年前の姿は出てきてはいない、ただ当時は同じような境遇であったはずの女性たちが、その後全く違う人生を歩んでいる。当たり前のことではあるが、不思議だ。どの人生が幸せなのか、観ていても判断がつかなかった。それだけ幸福になるのは難しい。面白くてやがて悲しき映画だった。

                              


新私たちはどのような時代に生きているのか 1999から2003へ / 辺見庸/著 高橋哲哉/著

少し古い本だが、ここで語られている事柄は現代日本にそのまま繋がる問題ばかりだ。辺見庸はこの国の何に危機感を持ち続けているのか、私なりに言葉にしてみると、今、この国で個人の内面の自由の領域が侵されようとしているということだと思う。考えてみると、これは最も恐ろしい問題であり、全ての人間に関わる重大な問題であると思う。しかし、我々は中々そこに気がつかない。それは権力の側が巧妙に隠しているからでもあり、我々が思考を停止し、考えることを怠っているからかもしれない。辺見庸一人に、それを押し付けておいてよいのだろうか、ボロボロになるまで。