「わたしは本当はどうしたい?」
その視点をわがままっていうひともいるけれど
本当にそうなのかなぁ?
じぶんの中にある「本当はどうしたい?」を無視してると
行き場をうしなった「がまんの粒子」が本人のきづかぬうちに毛穴からでてくるよ
出てるだけならいいけどさ
そのがまんのつぶつぶは
ときにやっかいごとを運んできたりもする。
冷静にながめてみればそのつぶつぶがもたらすものは
じぶんだけでなく誰もしあわせにしないことのほうが
多かったりもする。
そんなもん出すくらいなら
かわりに安心の粒子だしまくったほうがおとくよね
( 前回の家族のおせわの合間にひといき*心とからだをゆるめるじかんもそうだったけど)
今回も森の切り株にこしかけて考えてみた🌳
そのためにできること。
その1
じぶんの心におしこめた本当の声(想いみぬふりせずに
ことあるごとに目の前に取り出してすっきり整理整頓するを習慣にする。
じぶんの心より相手に合わせてみてもどう思われるかがきになっていれば
めぐりめぐって結局どこかで辻褄合わせの出来ごとはやってくるし
どこかのタイミングでかならず
自分の本当の心を見なければ逃げきれないような現実はやってくる。
目を耳をふさげばふさぐほど
それは雪だるま式に大きくなって現れる。
そんなら「今ここ」でじぶんの心の声(本当の想い)を整理して
「私は本当はどうしたい?」の素直な想いを自分にも相手にもまっすぐに伝えてみようと試みることは
健全であってきっと最短最速の近道。
いうはやすしではあるけれど。
できうるかぎりでそうしてみようてするだけできっと何かがうごきだす。
いつだかどこでだか
はっきりとは覚えてないんだけど
旅先で目にとまったカレンダーに書いてあった
「”遠慮”はだれもひとりも得しない。」
はじめはこのことばに全くピンとこなかった。
心配性な資質からくる「じぶんを安全地帯に置きたいがための遠慮(がまん)の粒子」を
毛穴から大気汚染のごとくにだしていたであろうサイタはね
無意識にもまわりまでをもまきこみながら「遠慮はだれもしあわせにしない」をながいこと体現してきたようにおもう。
何度も何度もこの事実に向き合わざるを得ない出来事に直面して
それでも反発心からか手放せずにぎりしめていた。
すべてがとはいえないまでも
「自分の想いをごまかさない」
に、しかとはらをくくったとき
それまでどうしようともどうにもならなかったことが前に大きく進んだんだ。
みつめるばしょは
じぶんの外側じゃなくてこころのなか。
そりゃーさ、どう思われるかはきにならないといえばうそだけど
それがどんなにこわくとも
自分の心の迷走状態にふりまわされつづけるくらいなら
「いまここ」で軌道修正して本当の声を伝えちゃったほうがはげしい回り道をいくよりやっぱりずっといいとおもう。
しずかに冷静にまっすぐに。
となりにそっとおくように。
つたえてみたならふしぎとね
自分も相手も笑顔になれるんだ。
そうはいっても
遠慮しちゃうというどこかのだれかと、過去のじぶんへ。
相手につたえなくとも
「本当はどうしたい?」を何度でも自分の心にといかけながら
今日も合間にひと呼吸してね
きょうもきのうより。
今がさっきより。
ほっとするひととき積み重なることで
みんなとみんなの大切なひとの周りが
「大丈夫」でつつまれますように。