最近私の周囲に集ってくるのは
創価学会の中の同和部落の人間達がその中心のようです。
この地域の周辺の心無い人間たちと協力しては
磁界まで作り上げてのハイテク攻撃のようです。
ひどい時は一日中激しい電磁波に見舞われて
私は足から脳まで体感できる電気的刺激と熱に
精神的物理的にやられることにもなります。
多くの加害者達が私の周囲から去ったその中で
いつまでも延々と加害行為を私達夫婦に対して実行している
そして脳機能障害、意識障害が
彼らの私達夫婦に対して実行している行為です。
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ここ一ヶ月
私のブログのアクセス数がどんどんと落ちているようです。
それが工作絡みであろうことも想像できますが
その手法があまりにも稚拙なのです。
ブログ更新をやめた状態でしばらくぶりに覗いても
アクセス数は今の倍以上あります。
一切の更新なくて数ヶ月放置していてもです。
しかし頑張って記事を更新し続けると書くほど
どんどんとアクセス数が減っていく。
こんなことがあるのですね(苦笑)
それほどまでに私に記事を書こうとする
意識を持たせたくないのが
この社会のサイレンスの傀儡たちのようです。
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宗教と宇宙の法則の違いとは一体何なのか?
そんな質問を受けました。
少し触れてみたいと思います。
宗教と宇宙の法則の共通は
それが人間の生きるすべを語っているということです。
私達にとって生きるにあたっての指針として
存在するものであり、
私達はそれを実践することで
神や仏を意識することになります。
では両者の違いとは一体何でしょうか。
宗教とは宇宙の法則の一部に人間が自分の価値観をも付け加えて
作り上げたものであり、その時代の価値観が
個々の宗教の指導者によって付け加えられたものだと言えます。
それは絶対的なものでは無いことは
宗教と言われるものが多種多様な価値観と主張をしていることを
理解すれば解るはずです。
更には私達の学ぶべきすべてを語っているものでもありません。
それは普遍的絶対的なものではなくて
相対的恣意的に作り上げられたものとも言えます。
一方宇宙の法則は、この宇宙空間が出来上がった時には
既に存在していたものであり、人間がどうあるべきかの指針を
示すものであるということ。
目に見えなくてもそれは存在していて
確実に私達に影響をもたらしているものです。
地球社会の中で私たちが体験する物理現象は
宇宙の法則の中の惑星内部の現象を司る
摂理によるものと理解することができますが、
その宇宙の法則の中で人間に対して与えられた摂理が
アダムスキーが”生命の科学”と呼んだ内容です。
そして宗教は得てして神よりも身近な存在として
指導者や人間を崇拝しがちですが、
宇宙の法則は神こそを唯一絶対的な存在として、
その存在が作り上げた目に見えない戒律を実践して、
被造物とされて作られた時に期待されたその生き方を
実行するための指針と言えるものです。
語った人間が美化されたり神聖化されるものではありません。
更に宗教は経典を与えられて
それは全てが正しいから理解しなさいと
見聞するものですが、
宇宙の法則は体験と実行の中で
一つ一つ学んで身につけていくものでもあります。
つまり知識を詰め込んでそれを知ることで
満足するようなものではなくて
確実に学びながら知恵として意識し
実践することを期待されるものだと言うことです。
私は宇宙の法則を学ぶにあたり
知識として必要なのは、その法則の骨格であり
枠組みであると考えています。
つまりジグゾーパズルの外枠を知ることで
その内部に当てはまる正しい断片(真理)を選択することも出来るようになるという事です。。
私は生命の科学と講座という形でこれを伝えているわけで
それを知識として宇宙の法則の全体像を理解したら
あとは自らの見聞と体験、そして閃きや印象によって
パズルの断片を埋め込んでいき、
正しいと確信したことを実践し
心にもその価値観を刻み込んで行く作業が大切なのです。
そして更に宗教と宇宙の法則の違いは
宗教はその価値観で他人を量り裁き
時には争いや戦いの原因にもなりますが
宇宙の法則はその価値観で他人を量り裁くためのものではなく
あくまで自らが進化を果たすための指針であるということ。
そしてその生き方を実践すれば
確実に分裂や戦いを好まず、平和や奉仕を意識するようになります。
それは他人や組織に強いられることなしにです。
宇宙の法則の内容は時には感覚器官で意識できて
更には理屈で論理的に思考すれば意識できるものもありますが
その多くは道徳という形で例えば儒教や神道という形で
私たちは既に学んでいます。
その残りは思考して理論的に認識するものではなくて
私達の心と魂が改善されることで閃いたり
印象として感じたりするものでもあります。
理屈で考える事でたどり着ける解答もありますが、
思考すればするほど泥沼にはまるような場合が多いと思います。
それは思考するのではなくて
感じ取らねばならないものだからです。
私は以前には、聖書解釈や宇宙の法則を記事で書いている最中も
頻繁に閃きや印象を受け止めていました。
それは私の思考というよりは
私が解らずそれを知りたいと願ったところ
その解答が私に送られてきたということです。
「求めなさい、そうすれば与えられるでしょう」
という状態です。
それをくれたのが天使達なのか
四次元の神の意識なのかは不明です。
しかし一旦基礎的な事を理解すれば
その残りはこのような手段でしか私達は回答を得ることもできません。
神がこの世を創造した時に同時に作り上げた
私達が見たことも聞いたこともないものが
この四次元空間には知識として
大量に散乱しているからです。
目に見えないことを信じる事が出来るものは幸いだと
イエスキリストは語りましたが
まさにこの事だと言えます。
私達が理解しているよりもはるかに多くの法則や秩序が
この四次元空間には存在している、
そしてその多くは視覚聴覚味覚嗅覚では認識できず、
原因と結果の法則、波動の法則の如く
体感して意識して語られるに過ぎないと言うこと。
そしてその殆どを私達は未だ認識できていないのです。
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同じ科学力であっても使用する人間の意識のレベルで
その用途も大きく変わるのが医学であり電磁波技術。
宇宙の法則やスペースブラザーズの主張と
似て非なる主張が精神サイトでも利用されるようになって来ました。
私が以前から触れている宇宙人情報を伝えているサイトや
某精神サイトが私の主張である宇宙の法則と類似する内容を
一部取り上げてはミスリードを始めたように思えます。
部分的には宇宙の法則やブラザーズと同じ事を触れていいるのですが
しっかりと地球の法則へと誘導する毒が混じっています。
宇宙の法則の中にはオカルトや神秘的なものは存在してはいません。
霊界も否定されますし、アセンションも出ては来ません。
いつも言うように天国も地獄も存在してはいません。
タイムトラベルも同様です。
出てくるのは元素の空間としての三次元と
その現象の原因となっているエネルギー空間の四次元であり
現実の三次元空間はとても単純なのです。
私達は今まで目で認識できないものや
視覚と聴覚の間において矛盾する現象などに恐怖や神秘を覚え
(音は聞こえるが目に見えないなど)
それを全て正しく理解・認識することが出来ず
神秘・オカルトとして取り扱ってきてしまったと言う経緯があります。
それは私達人間の知識の足りなさ、そして理解力の不足、
更にはハイテク技術の隠された使用のために、
誤って作り上げてしまった神秘現象に過ぎないのです。
(錯覚であり、真理ではない)
全ての現象や結果はその原因が説明できるものとして存在していますし
まったくその因を説明できないまま存在するものは無いのです。
私達が見えないけれど認識しなければならないのは”神の意識”と
神が用意していている各種法則の裏の仕組みだけです。
(諸摂理)
私達は、事実だと思い込まされている、実は誤った情報を
私達の心から完全に排除するためにも
生命の科学を学び宇宙の法則を知り
それを実践しなければなりません。
今回(今現在の闇政府の一連の動き)も
地球の法則が宇宙の法則を押しのけて
今後の地球の行方を決定付けてしまうのか、
それとも覚醒した多くの人間によって
今度は大きな意識の変貌が地球規模で
もたらされることになるのか。。
それは神のみぞ知る。。
と言うことでしょうか。
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前回の続きからです。
アダムスキーの著書からの引用からです。
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心が楽しい状態を保とうとするのならば、
いつかはこうした勝手な意見を捨てなければなりません。
世の中のあらゆるトラブルはこのようにして作られてきました。
そしてトラブルが大きくなってくると、
人々は目的をもって万物を創造した”全包容的な意識”である
神の手にそれをゆだねようとします。
人々はこの”偉大なる英知”が
状況を修正しようとしてくれることを望みます。
しかし多くの例でその修正法がしめされても
人々はそれに応じようとはしません。
最初に過失をおかした心によって
その修正法が理解されていないために
それが受け入れられないからです。
そして時として心は抵抗の態度を取り
不活発な状態となって何もしません。
修正によって学び取ろうという決意を持つ代わりに
責任を逃れようとします。
神は自ら助けるものを助けると言われてきましたが
そのように、望ましくない結果を修正し、報いを得るためには
個人も何かをなさねばなりません。
センスマインドの自尊心は苦難に満ちた過程を見出すかもしれませんが
感覚を持つ人間は体験によって学ばなければなりません。
そしてこれを成すためには本人は感覚器同士が互いに尊敬しあうように
訓練しなければなりません。
現在そうであるように、それらは互いに尊敬感を持たず
そのために人は自己の存在に尊敬感を持ちません。
そこで人は何かの感覚器官を楽しませてくれる人々以外の他人に対して
尊敬感を持たないのです。
センスマインドが自ら訓練をせず、自身を意識(精神)に支配させないならば
其の状態は過去と同様に今後も続くでしょう。
家族が幸福であろうとするならば
家族の各人は自分が尊敬されたいのと同様に
家族の各人をも尊敬しなければなりません。
そして指導者である両親を信頼する必要があります。
感覚器官についても同様です。
それらは人間と言う世帯を作りあげている
家族のようなものです。
従って各感覚器官を元の正しい状態に戻すのは
容易ではないでしょう。
しかし、我々が天国のような生活をすごそうとすれば
右のことが達成されなければなりません。
生きるための理由を学び、これを理解する以外に方法はありません。
ここまでです。
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日々多くの過ちを犯している人間であっても
其の過ちを過ちであると認識できなければ当然反省する機会もありません。
それ以前に、私達は自分の失敗や罪を反省するのではなくて
責任逃れする傾向があるとアダムスキーは触れています。
私達の心は心地良い事こそが好きなのですし
エゴの意識は自分が可愛いと言う意識そのものでもあります。
自尊心なるものはその最たるものだと思いますし
私達は其の自尊心を傷つける事をとても嫌うようです。
何かを為した時にその行為が自分のエゴは心地良いかも知れませんが
結果的には正しくないような事もあります。
もしも其の行為をした後に冷静になって、
「自分は正しくない行為をしたのではないか」と
気がついて魂の意識を使う事が出来れば
そこで反省すると言う行為が生まれるはずです。
しかし”心”は自分が可愛くて仕方がありませんし
とてもプライドが高いのですから
自分の間違いを容易には認める事が出来ないようです。
そんな時にはそれを責任転嫁する事で
自らの罪や失敗を正当化しようとするのだと思います。
それが心にとって一番心地良いのでしょう。。
たとえ話をして見ます。
会社の中でお茶をお盆に載せて歩いていた時に
お盆のために視界がさえぎられ、
通路に置いてあった、他人のかばんに足を取られ
転んでお盆をぶちまけたとします。
当然湯飲み茶碗は割れますし
結果、机にお茶を飛ばしたり周辺の人間には
迷惑をかける事にもなるでしょう。
この時に心が自尊心を前面に押し出したとしたら
お盆をひっくり返した人間は
「こんなところにカバンを置かないで」と
通路にカバンを置いていた人間を責め立てるかもしれません。
それは自分が失敗してしまった行為を
自分のエゴが其のプライドの可愛さゆえに
カバンを置いた人間に全ての責任を擦り付ける意識だと思います。
カバンを通路に置く人間もいけないのですが
不注意でそれに足を引っ掛けた人間も良くない。
”魂”で考えればそういう事になると思います。
でもエゴの暴走している人間は
決してそうは考える事はないのです。
「自分は悪くない。悪いのはカバンを置いた人間である」
「自分は悪くない。悪いのは勝手につまづいた人間である」
とです。
カバンを置いていた人間が全面的に
「自分の所為である」と譲れば問題はありませんが
もしも
「前をしっかり注意していないお前も悪いだろう」
と正論でコメントすると
その後争いになることも目に見えています。
アダムスキーはそんな事の積み重ねが
この社会をトラブルだらけにしているのだと触れているのです。
一方私達は自らは何も変わる事の無いまま
心地良い事、自分にとって都合の良い事を望みます。
時には自ら何の努力もせずに神頼みをする事もあります。
しかしアダムスキーが触れているように
自分が何も変わる事なく、努力する事無くして
報酬だけを受け止める事は出来ないわけです。
エゴである心を源泉とする意識が願い求める事柄は、
宇宙意識、神の意識に乗っ取ったものではないからです。
宇宙意識の欠片も持たずに
神にエゴに基づいた願い事をしても
神が其の願いを聞いてくれる事があると思いますか?
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アダムスキーは各感覚器官はそれぞれが
エゴを主張すると話しています。
例えば目の前に私達が理解していない科学力を使用して
夜道に人間の立体映像が写されたとします。
それが、目の前を歩いている映像であれば
目はそこに人の存在を認識する事になります。
しかし耳の方は其の存在を認識できません。
歩いているはずの人間の足音が
聞こえてこないからです。
ここで両者は争い
心に混乱を引き起こす事になるわけです。
目の方は人間を認識しているのに
耳の方はそれが認識できない。
其の両方の感覚を受けている脳は
混乱するに至ります。
そしてそれはそのまま不安や恐怖心に繋がる事になるかもしれません。
それは私達の心の価値観として作り上げたものの中には
存在していない体験だからです。
更にそのような心(各種感覚器)では説明の出来ない事柄は
全てオカルトや神秘現象とされてしまうことになります。
例えば視覚には見えて音が聞こえないその原因が
立体ホログラフ映像であったり、
聴覚には聞こえて視覚では認識できないその音は
パラメトリックスピーカーの応用による
音飛ばしだったりする事もあるでしょう。
前回の記事で取り上げたように
好きと嫌いの意識にしても各感覚器官は異なります。
納豆の匂いは嫌いだけど食べる事は好きだと言う人もいます。
これは嗅覚が嫌う現象を味覚は好んでいると言うことになります。
そして味覚の好きという意識が、嗅覚の嫌いと言う意識を超えているから
その人は納豆を食べる事が出来るわけです。
食べ続けていると
嫌いだった匂いも慣れてくるから不思議ですが
もしかしたら納豆なる存在を無自覚のうちに
魂を利用して正しく評価するようになったからかもしれません。
人間を見る時も同様に各感覚器官は好きと嫌いを持っているはずです。
そしてそれらの暴走を認めると
私達には沢山嫌いな物、嫌いな人間が出来上がる事になりますし
一方私達に心地良さを感じさせてくれる物ばかりを求め、
心地よい体験ばかりを求め、
それこそが好ましいと考えるようになる状態にも繋がって行きます。
全ての人間が心を使用しながら
このような行為を続けているのが今の地球社会であり
心の価値観の暴走が敵を作り上げ、
この社会に混乱を齎しているのだと思います。
好きなもの同士、似た価値観の者同士が
仲間として集い、嫌いな人間達、
価値観の異なる人間達との間に分裂を引き起こし
その分裂が酷くなるとそこには戦いが起こることになる。
これを繰り返しているのが地球社会の国家であり
宗教であり、民族であり、企業であり、イデオロギーだと言うことです。
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心と魂の併用という作業は
同時に心の修正を伴う物のようです。
単に原因と結果を見つめるだけでなく、
原因を変える事で結果を変化させるだけでなく、
心を魂と並行して見つめる事で、
行動の基準が無自覚のうちに魂=神の意識になるように
近づけていく事が大切なのだと思います。
しかし今まで遣りたい方題していた私達のエゴを
魂の意識(神の意識)に近づけなさいと言っても
このエゴなる意識は私達が生まれて来た時からの
環境や体験に基づいて培われたものですから
容易に変更する事は出来ないと思います。
でも変えようという意識がなければ、それは永遠に変わる事もないわけで
私達のエゴは既存の地球環境に適応している内は
増長し続ける事になるはずです。
でもそこで魂の存在を意識して
今まで心を使用して100の暴走をしていたのを
80まで減らす事が出来れば。。
そしてそんな意識を持つ事が出来れば、
私達地球社会の人間の心は少しずつでも変わっていくのかもしれません。
そしてこのような意識を持つ事が
私達が宇宙の真理に覚醒するためには
不可欠だと思います。
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私達は天国と言う言葉に惹かれ、
出来るものならそこに生きたいと願って居るはずです。
なぜに天国なるものに惹かれるのかといえば
そこが自分達にとって心地良い世界であると
考えているからではないでしょうか。
それが本当はどんな世界であるかは
私が触れているとおりです。
では私達は一体どんな世界を心地良いと感じるのか?
問題はそこだと思います。
私達はこの社会の中で
感覚器の持つエゴの意識に捉われて
其の中で心が心地良いと思っている事を喜んで実行しています。
心が望んでいるのは、したい事をすること
楽しい事をすること、心地良い経験をする事です。
(視覚聴覚味覚嗅覚が快感を感じる行為も同様です)
そして心が楽しいと感じる事が宇宙的意識と重なればよいのですが
間違いなく私達が楽しいと感じる事の中心は
地球独自の価値観に基づいていると思います。
楽しい事は他人と仲良く語りあう事ではなくて、
個人の財産の増幅かもしれませんし、
心地良いのは、自然を眺めている時ではなくて
敵を倒した時や、性的快楽を感じているときかもしれません。
その様な行為にばかり心地良さを感じて要るとしたら
私達が求めているはずの天国が其の通りに存在していて
もしも其の世界に入る事が出来ても
其の天国を楽しいとか心地よいと感じる事はないはずです。
何故ならば其の場所は地球よりも遥かに神の意識に則って
生きなければならない社会ですし
宇宙意識に満たされた社会であり
地球上の価値観に捉われた私達がそのままの意識で暮らす分には
決して心地良い世界ではないはずだからです。
そして、地球の価値観に捉われ過ぎてしまった場合は
私達の魂もそんな場所へは行きたいとも思わないのではないでしょうか。
つまり地球の法則に捉われたままの人間は
本当の天国に行ったとしたら
そこを刺激の無い息の詰まるような空間に
感じるかも知れないということです。
周りはお釈迦様やイエスキリストのような人間ばかり。
そんな空間を心地よく感じることが出来る人間は
地球社会に違和感を感じ続けているような人間だけだと思います。
その事に気がつけば私達が望むであろう事は二つです。
少しでも長くこの自分のエゴの満たされる空間に
居続けていたいと望むか、
天国なる存在を意識して、そこで暮らす事が
幸せであると感じるように心を変える事です。
いずれかの選択しかないと思います。
宇宙の法則に従うのかどうかの選択肢は、
永遠の命を求めるのかどうかと言う選択肢でもあり。
そして地球的な価値観を求め続けるのかどうかと言うのが
もう一つの選択肢となると思います。
宇宙の法則を受け入れず地球の法則にしがみつく人間たちは、
刺激が大好きで、心の想いを満たすことばかりが好きで
心はエゴと欲にまみれているはずですから
地球のこの環境こそが彼らの理想社会なのだと思います。
弱肉強食で一攫千金で、個人主義でエゴだらけのこの空間がです。
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私は天国なる空間が霊界ではなくて、
金星や土星のような私達よりも遥かに意識の高い人間達が
暮らしている空間であると認識しています。
そして天国の概念も元々は彼らが私達の祖先に対して
天を指差して示した場所であろう事も想像できます。
地べたを這っている人間にとっては
天空高く存在する惑星はまさに天の国だからです。
(ブラザーズが地球社会の天国地獄の概念は
元々が自分達が宇宙の法則を地球の人間に理解させるために
作り上げた概念であると話しています。そして天国のモデルは金星であり
地獄のモデルは地球社会の人間が暑い空間であると信じられていた水星だそうです)
そこに住んでいる人間達は皆が
イエスキリストやお釈迦様のごとき精神性の高い人間であることも理解しています。
そして尚且つそんな社会に暮らしてみたいと思っています。
病気もなく、犯罪も無く、戦争も無ければ、争いごともない。
食べることに困ることもなく、お金もなく
誰もが平等で平和な空間です。
かといって退屈かと言うと彼らには学ぶべきことが沢山あり
常にさまざまな経験を繰り返していますし宇宙旅行にも出かけています。
地球上の生活のように、生きるためだけに働き、
働くために生きるのではなくて
彼らには経験をして精神を進化させるという
大きな目的もあります。
しかも彼らは寿命だって数百年あります。
更には死ぬたびに記憶を持ったままで転生を繰り返し、
其のたびに脳も進化を続けるのです。
未知能力だって開花しますし
私にしてみれば羨ましい事だらけです。
ただ、其の場所に行くためには私達は
地球内部での転生を終わらせなければいけません。
記憶を失いながらの転生をです。
しかも其の回数が15回になるまえに
私達は宇宙の法則に従ってこの社会から卒業しなければならないのです。
天国に関してもう一つ言えば
私達が宇宙の法則を意識して暮らすようになれば
自然とこの社会も変わっていくはずです。
勿論地球の権力者が皆そろってそれを妨害するのであれば
話は別ですが。。
そして私達の意識が変わっていくことにより
この社会に実現される社会は
天国に限りなく近いものとなると思います。
天国はこの社会の中でも
本当は実現可能な世界なのです。
ただ、心を持って暴走している人間が
それを望まないからそれを実現することができないだけ。
そしてそんな人間が大量に存在していて
裏で手を繋いで真理の拡散を妨害しているという実態もあります。
彼らはこの社会を天国にしたくはないのだと思います。
その意味では魂の導きに従って生きている他の惑星の人間達を
私達は天使と呼んだのですから
心のエゴに従って生きている地球社会の人間は
悪魔として象徴する事も出来るわけです。
私達地球社会の人間こそが
彼ら天使達から見れば悪魔だと言うこと。
そしてもっと言えば
私たち人間は誰もが神の意識と悪魔の意識を持っている
存在であると言うこともできます。
そのどちらを実践しようとしているかが問題なのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第二講義 VOL2
私達が如何に感覚器官に依存して生きているかと言う事に関して
誰もがその自覚はないと思います。
見えて当たり前、聞こえて当たり前。
私達はその感覚を当たり前だと感じて其の状態に
慣れ親しんでいるからです。
勿論、以前の私もその事を自覚していませんでした。
しかし大学時代に自分の意識を再認識させられる体験を
した事があります。
それは一切光の届かない”真の暗闇”の体験でした。
高速道路の高架橋の真下に長い側道があって
私は夜にそこを歩くという経験をした事があります。
その場所は長いトンネル状態になっている事もあり
道の真ん中にまで到達すると光は一切届かない状態でした。
つまり真っ暗闇で一切の光が視覚で感じる事が
できない状態になるのです。
その時私が感じたのは恐怖でした。
恐怖と言っても暗くてお化けが出そうで怖いというものではなくて、
真っ暗闇の中、一切視覚を感じる事が出来ない状態に、
心が不安でたまらなくなったのです。
それまで当たり前に使用していた視覚が一切使用できなくなり
そのために訳の判らない不安に陥り、
その上で体がふわふわとまるで平衡感覚を失ったような状態になり
そして地面に足がついていないような感覚を感じる事になりました。
その頃から怖いもの知らずだった私が其の時怖いと感じたのは
暗闇やそこに潜む危険ではなくて
単に普段、正常に使用できている感覚を失ってしまった事に対する
不安によるものだったようです。
近年で言えば私は聴覚に関しても不安を感じた事があります。
数年前に靖国神社に出かけた時に
夏の暑い中で無理して厚着でいたために熱中症のような感覚に陥り
聴覚が突然くぐもりだした時です。
(これも周辺にハイテク利用者が存在し
その影響であろうことも理解しています。
ノートパソコンまで持ち込んでいました
多くのミュージシャンが聴覚をやられていますが
その原因もハイテク被害だと認識しています)
その時は流石に涼しい場所に移動し
最後にはその場を後にして速攻で家に帰る事になりました。
(電車に逃げ込んで数分すると漸く聴覚が回復したというオチです。)
しばらく続いた聴覚の違和感に
底知れぬ不安を感じた事を覚えています。
この事は私が無自覚のうちに感覚器官が使用できる事を
当たり前だと認識していたためと理解する事が出来ます。
おそらく私達は誰もが通常そのように、
無自覚の内に心が司る感覚器官に依存して生きているのです。
見えないものに導かれている人間であれば、
聞こえないものを聞いている人間であれば、
おそらくは私のような不安を感じる事にもならなかったのだと思います。
しかし私達は通常それができません。
結果、日々生活している中で
心が司る感覚器官に激しく依存して生きていると言う実態があります。
私達はまずその事を自覚する必要があるのです。
感じようと勤めるのではなく、ひたすら受身で波動を受け続けている。
因を感じるのではなくて、現象から現象へと目を向けて暮らしている。
誰もがそんな生き方を続けています。
原因と結果として表現すれば
私達は結果ばかりに目を捉われていて、其の原因を
追求しようとはしていない事になります。
しかもその結果にしても色眼鏡を持って
心の価値観を持って見つめている。
それが私達の実態なのです。
私達は三次元と四次元を同時に体験している存在です。
只、結果としての現象を受け止めるだけではなくて
そしてそれを色眼鏡で見つめるのではなくて
持つべき意識を持って先入観や好き嫌いなしに
正しく見つめなければならない。
其の上で其の因なるものを感じてこそ
この社会を100%生きていることになるのです。
私達は目に見えるものと目に見えないものを
同時に感じ取らねばならないと言う事です。
今の私達は人生の半分しか生きてはいない。
アダムスキーの語った其の言葉が意味するのはまさにそのこと。
私達はイエスキリストの語った”死人”でいてはいけない。
その事を意識して暮らし続けて欲しいです。
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第二講義 VOL3
アダムスキーは、私達は本来、四つの感覚器官を
それぞれを調和させて暮らさなければならないと言う話をしてました。
それが一体どのような状態を指し示しているのか考えて見ます。
生命の科学の中で書かれていたように
外部の現象として花を例にしてみると、
その花の色と匂いに対して視覚と嗅覚はどのように反応するかという
事を考えれば判り易いかと思います。
花屋のそばを通った時に、
私達の視覚が美しいと感じた花を買おうとして近寄ると
今度はそこから自分にとって好ましくない匂いがしたとします。
その時にその花を買うか買わないかは
おそらくは視覚と嗅覚の好みのどちらを優先したかによって
決定されることになるはずです。
匂いは我慢できるし、その視覚的な魅力を優先しようと考えた方は
それを買う事になるでしょうし、
匂いを嫌いと判断した方は、其の見た目の魅力を割り引いて
買うのを控える事になるでしょう。
これは視覚と嗅覚がそれぞれ好きと嫌いを持っているがために
私達の行動がそれに左右される事を示しています。
つまり私達の価値観や行動は、
感覚器官に大きく依存していると言う事です。
私は以前にこの事を”納豆”を例に説明しました。
納豆というのは一つの結果であり現象といえます。
私達は感覚器官を持ってその現象を
如何に受け止めているのを考えて見ます。
例えば納豆は見た目は糸を引いていてグロテスクです。
腐った豆ですし、視覚的には美しいものではありません。
更にかき混ぜればネチャネチャとした音を立てます。
そして匂いは言うまでもなくアンモニア臭でとても強烈なものです。
目や鼻や耳の好き嫌いに従えば
目で見て嫌い、音を嫌い、
鼻で匂いを嗅いで嫌うという事にもなりかねません。
その証拠に多くの人間が納豆を嫌っていますし
関西では納豆を食べる習慣も少ないと聞きます。
中にはその納豆を食べた事さえない方もいるはずです。
私達の感覚器官は本来はお互いを並行して使用する事で
現象、そして結果を正しく認識する事が求められています。
しかし私達は通常その感覚器官を持って
この納豆の例の様に好きと嫌いを作り上げているのです。
そのために食べる事なく納豆を嫌いだと判断し
口にしない方もいるはずです。
これは一種の先入観や独自の価値観、偏見が
私達に現象を正しく認識させていない事を意味します。
恐らくは私達の中には食べず嫌いをする人間もいる事でしょう。
しかしその中にも、思い切って納豆を口の中に放り込めば
そんなにまずくはないと判断したり、
美味しく食べれると判断する方も出てくるに違いありません。
その方は納豆を味覚を持って味わう事を体験していませんし、
納豆を偏見をもって見つめていた事に気がつくのです。
ここからも伺えるのは私達は通常
四つの感覚器官を正しく利用していないと言う事です。
現象の一面を偏見や独自の価値観を持って見つめているだけで
実際にはそれが正しく理解されてはいない。
現象や存在を正しく理解しようと勤めるのなら
私達は四つの感覚器官を正しく使用して
物事を好き嫌いで判断するのではなくて
対象物を正しく理解する事が求められているのです。
感覚器官を使用するのは現象面ですが、
もしもここで目には見えないものをも理解しようと勤めるのなら
例えば目の前の現象としての納豆を製造する過程をも
思考する事もできます。
わらに茹でた大豆を入れて保つと
納豆菌がわらで繁殖してそれが豆を発酵させる。
例えばそんな過程を私達は想像する事もできます。
四つの感覚器官をまずは正しく使用することで
現象を曇りめがねではなくて
正確に理解する事がここでは何よりも重要ですが
私達は更に一歩進んで、
その因なるものをしっかりと認識するように努力する。
その結果、私達は目に見えるものと目に見えないものを同時に
認識する事になるのです。
ついでに触れておけば
その納豆に関して四つの感覚器官で認識できないものとして
納豆の断面、更にはその成分、栄養などもあげられます。
更には現象としての納豆が時にはしなびたり
白い粉を吹いていくような生命活動をも認識する事もできます。
そのようなものまで理解しようと勤めることで
私達の納豆への理解は更に深まる事になります。
私達は納豆を通じてそれに付随する生命をも
感じる事が出来るのです。
少しばかり庶民的な例えですが、感覚器官を
好きと嫌いを作り上げるためではなくて
現象を理解するために利用する事を
無意識で実行できるような癖をつける事が私達の進化にとって
大切だと、アダムスキーも語っていたのだと思います。
私達が原因と結果をみつめるためにも
先ずは結果としての現象を正しく認識する必要がある。
そのためには現象を認識する心を支える
感覚器官を鍛える必要がありますし、
それらが正しく機能するように改善する必要があるという事です。
私達が通常感じている外部からの刺激が
実は私達の心の価値観によって歪められ私達の中で再現されていると言う事に気がついて
それを如何に正しく再現するか、
そしてそのためには何が必要なのかと言う事を
私たちはここで学んだことになります。
私達の受け止めている現象と言うものを認識するのは
私達の心の先入観だけではいけないと言う事を
私達は理解して心の改善を実行して行きましょう。
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
P.S.
少なくとも今の精神レベルの私達が
引っ越していったとしても
天国(金星や土星)の暮らしは心地良いものにはならないと
アダムスキーも触れていました。
転生し地球での記憶を元に幼少期から教育を受けることで
初めてその社会に馴染む事になると言うことだと思います。
今現在の人生を最高の意識で送れる場所があるとすれば
それは今の地球よりは進化しているけれども、
価値概念が然程かけ離れていない社会と言う事になると思います。
(例えばアダムスキーによれば一番精神レベルが地球に近いという
火星のような星とか(地底社会ですが))
本当であればこの地球社会がそっくりそのまま
全ての面で改善され続け、
既存の価値観を変化させながらも
人々がその中に楽しみを感じる事の出来る社会発展が続けば
今の私達は一番心地良いと感じる事ができるのだと思います。
日本の高度成長期からバブル直前にかけての時のような状況は
それに似ている物があると思います。
勿論、お金中心社会や暴飲暴食時代をもたらしたような
負の面を除いての話です。
そしてもしも地球が1960年代に宇宙時代に突入していれば
必ず今頃は同様の満足感を世界中の人間が
享受することが出来ていたと思うのです。
戦争産業から宇宙産業への転換が出来てさえいればの話です。
しかし現実には地球の生活環境は悪化するばかりで
それと並行して人間の心も荒んでっています。。
ここにきて更なる経済的な危機が世界に蔓延しそうな気配ですが
勿論あれだって経済を握っている人間達が誘導している
世界的な経済危機の兆候だと思います。
つまりこの地球社会の中の多くの人間の精神状態は
進化しているどころか確実に退化させられているのです。
日本の中を見ていればとりわけ其の事が良く判ると思います。
人間同士が交流していた社会が
今ではお金とエゴと個人主義の世界へと変貌しました。
それに追従するようにドイツや中国までもが
資本主義の悪しき影響を受けるにいたり
今や世界中にサイレンスグループの悪影響を
受けていない先進国は存在しないと思います。
これでは全ての事実を認識したとしても
天国に行きたいなどと考えることなく
この社会で繰り返し生まれたいと考えるようになる人間も
増える事でしょう。
そんな人間達には宇宙の法則は不要もしくは邪魔なのです。
そして真理を拡散しないためにも
新興宗教を乱立させているのもサイレンスグループの仕業だと
私は想像しています。
宗教は人為的な価値観を多く含むものであり
ましてそこにお金儲けの意識でも入ることになれば
それはもはや宗教とは呼べるものではないと思います。
元々の宗教を宗教と意識せず
イエスキリスト風真理、お釈迦様風真理
孔子風真理、マホメット風真理、モーセ風真理と理解すれば
それぞれは真理を別の人間が時代背景と
歴史背景を異とした状態で語ったものであり
その大元は宇宙の法則という
絶対的な真理であるということを理解できるのではないでしょうか。。