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今現在、練馬区早宮の私のアパート周辺には練馬近辺から
創価学会信者が私に電磁波を仕掛けにやってきているようです。
表札さえ出ていない家があるのですがその家の中や
私のアパートの真下の部屋の中に
その連中たちは入り込んできます。
語りかけの人間によれば、この連中は、
私達夫婦へ一日中危険な電磁波を飛ばしそれを身体で回転させ続け
排泄妨害をした上で
脳への機能障害を図ろうと画策しているようです。
回転体としての胃腸のコアは
高い位置ほど脳へ強い影響を与えることが出来るからです、
2015年6月25日
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早宮1丁目周辺の土屋と柳川そして私のアパートの301号室
更にはそれに協力している朝鮮総連の人間達が
私に執拗に暗示をかけようと彼らが”想気上げ”と呼んでいる手段で
脳へと介入をし続けています。
胃腸の内容物を薬品等を利用しては
まるでわたあめ製造機のような状態で
脳へと巻きつけてくるのです。
首筋に人工管を脳への直結で
作り上げられているからこそできる介入ですが
その紐で脳を縛り上げられると
その箇所によってはとても思考能力が落ちて
すごい暗示状態にもなります。
記事を二日開けてしまったので
今日は出す予定です。
2015年6月24日 AM10:34
不可思議な気象とそれに伴う雷雨を体験すると
まるで地球の意思がこの社会を諌めているような
そんな感覚になることがあります。
やっているのが例えサイレンスだったり、天使達だったりしたとしても
それを導いているのが神の意思で一般市民には目を覚ませという警告であり
サイレンスの傀儡には、いい加減にしろと言う警告である。。。
なんて事を考えていました。
一体いつになったらこの社会は改善されるのか
それともこのままズルズルと行ってしまうのか。。
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「見える事しか信じることができない。」
そんな意識の人間が地球の支配者にとって
とても都合の良い存在である事は言うまでもありません。
私達の社会の中には目に見えないけれども
確実に私達に影響を与えているものが沢山あります。
私達が視覚だけに頼っている状況では、
彼らはその様な物を策略に利用する事もできるのです。
今でこそウイルスなども認識できる時代となっていますが
それでもそのウイルスが自然発生的なものなのか
人為的にテロ目的で作り上げられたものなのかは
遺伝子レベルまで調べても私達には見分けも付きません。
更に例えば目に見えないエネルギーとしての電磁波を
この社会の権力者層の人間達は私達にその効果を
一切知らせようともしません。
それを闇政府が利用していることも言うまでもありませんし
一方では一般市民はその実態を
目に見えないものと言う事で認識する手立てもないのです。
天国と地獄も目には見えませんが
ここでは宗教や一種のマスコミ等による洗脳効果で
都合よく信じ込まされてもいます。
目に見えないものしか信じられないはずの人間達であっても
その時の闇政府の都合により、
目に見えないけれども
その存在を信じ込まされているのがこの天国と地獄という概念、
更にはエイリアンや幽霊の存在ということになります。
つまり私達は、視覚で確認することができれば理解して信じることができるものを
視野に入れないように誘導されている一方で(太陽系の実態、宇宙人の実態など)
現実に魂を持っても確認できないものを
あたかも現実に存在しているかのように誘導されているわけで
それは全て、何事も自らの思考で考えて
物事を認識していないことの弊害であり
一方では人間が独自の価値観で作り上げた
個人的真理をそっくりそのまま普遍的真理に
置き換えようとしている事の現れでもあります。
それを実行しているのがサイレンスグループ。
私達は彼らの術中に嵌っているからこそ
正しく物事を認識する事が出来ないのです。
今、地球社会では思考能力の低下させられた人間
もしくは右脳の機能の低下させられた人間で溢れていると思います。
(携帯・TVのマイクロ波、家電の低周波、電線の超低周波
更には食品や空気中の薬品の影響、
便利すぎる生活環境の影響もあると思います)
見えないだけでなくて、見えない物をイメージする事すら
彼らは妨害しようとしているように見えます。
その一方では戦闘意識や誤った価値観だけは
軍隊や宗教や民族意識やイデオロギーを通じて
しっかりと植え付けられてもいます。
まったくその影響を受けていない人間は殆どいませんし
その影響を直撃されている人間達もいます。
そしてまんまと闇政府の傀儡となるのは
その影響を直撃されている人間達。
目で見たものしか認識できないだけでなくて
闇政府の望み通りの価値観を
その脳裏に植えつけられている人間達ではないでしょうか。
しかし覚醒できた人間達は
その誤りに気がついているはずです。
私達が真実に到達すためには
彼らに植え付けられた先入観を排除するとともに
一方では目では認識できないもの。。。
視覚の影響下にある”心”では認識できないけれども
もともと私達の持っている神の意識である”魂”を通じてであれば
認識できるものこそを意識しなければならないのです。
困った事にこの精神の器があまりにも濁っていると
それは困難になります。
魂に地球の価値観と言うコケが一杯張り付いている人間は
いつまで経っても普遍的真理にたどり着く事は出来ません。
つまり一番厄介な人間達は、
心の価値観に凝り固まりそれを変更する意識すら
まるで持っていない人間達だということ。
そして物事を自分の頭で考えて
自分で判断しようとしない人間達と言うことになりそうです。
それは誤った価値観に囚われて
それを正しいと信じ込んでいる人間達であり
欲やエゴや圧力や先入観に囚われて
それから逃れる事のできない人間達です。
アダムスキーの生命の科学より引用します。
繰り返しになりますが、
アダムスキーは”心”と”魂”でなくて
”心”と”意識”と触れていますが
アダムスキーが広い範囲で意識と言う言葉を使用しているので
私は記事の中では私達の実態である霊魂という言葉のかわりに
魂という言葉を使用しています。
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そこで我々は一つの結果(現象)を見るときに
一体となって現れている原因と結果を見るように
自分自身を訓練する必要があります。
われわれは肉眼でもって結果から結果へという形で
物体を見ます。
しかし心は意識を通じて原因に気づくようにならねばなりません。
あなたの目が一物体をチラリと見る瞬間、
意識は其の物体の(または生き物の)内部に生命があると言う印象を
心に与えることでしょう。
そうするためには人間はイエスが言ったように
誠実になる必要があります。
心でもって現象が見られ、意識が其の原因をもたらす時
我々は同時に眼に見えるものと目に見えないものとを見ます。
たとえばあなたが紙の上に図面を描いて
家を建てようと言う計画を始めるのならば
意識的な印象によって心にやってくる最初の結果を
あなたは生み出しつつあるのです。
貴方は一体化した意識と心とを用いているのです。
このとき意識は家のデザインがどうあるべきであるかについて
心に注意します。
設計図が描かれたと後、あなたは家に関して持っていた経験に従って
色々変更の手を加えるかもしれません。
其のときでさえも、貴方が知っている限りの家には存在しなかった
改良点があることを意識は指摘するでしょう。
これは心の知能的な発達といって良いでしょう。
背後に意識を持たない物で
貴方がやれる物事は存在しません。
貴方の心は心の知性に頼ったり、または其の知性の指導をいかにうまく
受け入れるかによって、良い結果、または悪い結果のいずれかを求めて
印象を変えたり修正したりするかもしれません。
しかし良い結果を生じさせるには心は意識を完全に信用し
心が意識によって導かれるようにする必要があります。
「盲目的な信念に従いたくはない」と貴方は言うかもしれません。
しかし、「自分でやれる」と貴方の内部の奥深く感じる物事を達成するには
右の方法を応用する必要があります。
一体盲目的な信念とは何でしょう?
貴方の其の家はコンクリートやブラスターによる完成した
建造物として未だ存在していないからです。
貴方が生活で何をなそうともそれは盲目的な信念でもって
遂行されます。
その結果がどのようになるかは全然判らないからです。
歩こうと車に乗ろうと、
その他何をしようと貴方は全てうまくいくことを望みますが
確信はもてません。
実際我々の生活の99%は盲目的な信念に頼っています。
一パーセントは過去の経験に頼るのですが
それでも過去と同じ結果が生じるかどうかについては確信はもてません。
信念はあらゆる現象化の基礎です。
信念の無い人は舵または船長の欠けた船のようなものです。
一度貴方の心が信念に頼るならばそれは意識の指導に頼ることになり
こうして意識と心は一体化して働くようになります。
すると原因である神の意識と結果である人間の心は融合する事になります。
そして生命最大のなぞは氷解することにもなるのです。
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”心”と”魂”を同時に使用した状態として
アダムスキーは設計図を作成する事を例にして説明してくれています。
建物の設計図を作り上げるには、完成した建物の姿の想像とと
その詳細の描写と言う両方の作業を同時に行う事になります。
完成した家は”現象”や”結果”として捉える事になるものですし
それが完成するに至る過程が”原因”として捉えられるも事になります。
其の作業は”心”(完成品に対して)と”魂”(イメージや設計に関して)を
同時に意識している事になりますし
全ての現象に関してこのような意識を持って見つめることが
私達が万物を深く理解するための練習になりますし
その結果、魂の意識を感じやすくなるのだと思います。
初歩は”魂”=”神の意識”と言っても
それはイマジネーションに近いものだと言えます。
なぜかと言えば、私達のような精神の進化が伴っていない人間の場合
必ずしもその魂を意識した事による原因や過程という見えない情報は、
正しいとは限らないからです。
しかし、少なからずそんな意識を持つことは、
私達の行動の改善にも役に立つようです。
より良い結果を導き出すためにも魂を意識する事が出来れば、
結果を想定して行動を改善し変更する事が出来るからです。
例えば設計図を作り上げた時にその図面を見つめて
その天井に大きな窓を付けて星空を眺めたいと思いつけば
其の完成した状態を念頭に
今度は其の設計図を変更していく事になります。
この場合設計図自体が一つの結果でも有りありますが
これは同時に過程でもありますので
手直しすることで現象としての完成した家を
少しでも良いものとすることが出来ます。
結果や現象は、それがいつも最良の物とは限りませんので
私達は魂の意識を利用する事で
結果の改善を図ることが必要になるのです。
この場合は”原因”と過程が変更されますし
それによって、自分にとってより望ましいと感じる”結果”としての”家”が
完成した現象として認識される事になります。。
料理での例えが楽なので、
カレーを作る行為を考えて見ます。
普段作っている其のままのカレーを”結果”や”現象”とした時に
それは自分にとって一番美味しい状態に出来上がっているとは
いえないかも知れません。
次の機会に自分好みの辛いカレーを作ろうと意図したとします。
私達はカレーがより美味しくなった状態を
”結果”として想定し
其の調理方法を変更する事になります。
普段作るのカレーの辛さが物足りないと考えているのであれば、
ここではそれよりも辛いカレーが”結果”として心に完成品として
捉えられる事になるわけです。
其の結果を出すためには、
製造過程ではカレー粉を余計に入れるとか
甘さを控えるためにネギを減らす、
と言った行動を私達は想定する事になるはずです。
この変更過程が”魂”が現象の改善のために使用される場面であると
考えて頂ければと思います。
料理の場合も、その結果が必ずしも想像通りになるとは限りませんが
作る度に試行錯誤してはその過程を変更することで
結果なる完成品は限りなく自分の希望に近い
より良い”結果”へと近づく事になるはずです。
カレー粉を多めに入れたり
辛口のカレールーを使用したりたまねぎを減らすことで
出来上がったカレーは以前よりは辛いものとなるわけです。
ここでは確かに心と魂を同時に使用しています。
何も考える事なしに、
何時も通りのカレーを作り上げるのであれば
そのような創意工夫は必要とはしません。
結果を改善するために結果と併用して魂の意識を使用する事の例えですが
却って判りにくいでしょうか。
これは説明のための例ですが、
更に、現実に私達の思考を考えた時に
私達の行動は心だけによって行われる場合と
それが魂を意識することで行われる場合では
その結果が異なってくる事があるという例を考えて見ます。
食事をすると言う行為ひとつとっても、
いつものように単にお腹がすいたから食事をしようと考えたのなら
いつものようにカレーを作ってそれを何杯も平らげれば良いのでしょうが
「最近野菜不足でビタミンが欠乏しているかな?」
という意識が入り込むと
カレーと一緒に野菜を食べようと言う行動が生まれます。
魂を使用したことで食事のメニューに野菜が増えたわけです。
これは魂の意識の導きが
行動の変化を齎すという説明になると思います。
一方道徳的な行為に関してほど
魂と心の行動は大きく異なってくるはずです。
私達は心と魂の意識がかけ離れているがゆえに
心ばかりを意識して行動することは
其のエゴを反映させた結果を導きやすい事にもなりますし
どうやら魂の意識には物事を”改善”するとか
より良い結果に導くと言う意図が存在しているようです。
もしもその結果をより良い物に改善したいと考えるならば
結果ばかりを見つめている心だけに頼るのではなくて
同時に魂に頼ることで其の原因や過程と言った物を意識する事で
殆どの行動は改善することが出来る。
アダムスキーはここではそのような事を私達に伝えているのだと思います。
そしてこれを日々実践する事で行動を変化させて
行動の結果がより宇宙的意識に近いものとなるように
意識する必要があるようです。
そしてその心と魂が同時に働かせる事が出来る状態になると
その結果は限りなく正しいもの(宇宙的真理に近い結果)へと
近づくと言う事なのだと思います。
その状態は聖書のイエスキリストが
「私ではなくて父が私の肉体を持って表現しているのです」
と語ったその状態であり、
私達の心と魂が一致した状態であり、
それはそのまま啓示・悟りへと繋がるものだという事です。
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私達は心ではなく魂を盲目的に信じることが大切だと
アダムスキーは触れています。
其の”魂”なるものは想念の影響や”閃き”とも
関連していると思うのですが
元々の魂なるものは神の意識、宇宙の意識として
私達誰もが本来共通して感じる事の出来るものなので、、
魂は、神から答えを受け取ったり
アカシックレコードから最良の結果を引き出すためにも
使用されるものだと言えます。
私達は時には人からの想念を受け止めそれに誘導されることもありますが
それがなければ魂が受け止める意識は限りなく真理に近いものであるはずなので
それに従えば無自覚のうちにその行動も
結果としては宇宙的真理に近いものになるわけです。
そして私達がそれを頻繁に意識するようになれば
何らかの行動をとろうとした時に私達の魂は
普遍的真理の中から其の答えを引き出してきては
鈍感な私達に語りかけてくれる事になるはずです。
ここではアダムスキーは盲目的な信念が大切であると触れています。
正直、理解不足でうまく説明できませんが
私なりの解釈をして見ます。
私達は行動するに当たり、結果がどうなるかに関しては
必ずしも確信を持つ事は出来ませんが
魂の意識を信じて行動をする事で
最適な結果へと誘導される事になると言う事だと思います。
私達が何らかの行動を起こそうと言う時には
必ずそこには意思の働きかけがあります。
其の時行動を起こし続けている私達は
必ず何らかの信念に乗っ取って結果を予測して行動をしている事になります。
一応結果は想定しているものの
それが未だ現象として出来上がっていない状態の時に
私達はその結果に到達するのだと信じて
其の行動をとり続けているはずです。
其の時私達が持っているのが盲目的な信念であると言う事のようです。
それは不安や恐怖とは裏返しにある意識のようで
ある事に対して信念を強く持っている人間は
その事に対して不安や恐怖を持つことはありません。
例えば私たち覚醒者(地球の法則に目覚めたもの)は
この社会にポールシフトのようなカタストロフィーになりかねない現象が
起きたとしても、同様はしてもそこに強い恐怖や不安を感じることはないはずです。
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アダムスキーによるとこの盲目的な信念を頼ることで
それが”魂”(意識)の指導に頼ることになると言います。
この信念なるものは私達の無意識の働きでもありますし
行動や意思を強化するものであると私は認識しています。
そしてその信念は元々は自分の行動が正しいと
信じる意識でもあります。
だとすればこれは、他人に左右されて影響を受けるべきものではなくて
魂と言う”神の意識”を持つ人間としての
私たち一人一人の確固たる意思でもあります。
そして其の意思に従う行動は無自覚のうちに
魂の、導きに基づいて行動することに繋がって来る。
それが魂の受け止めたひらめきであれば
他人の意見や誘導に影響を受けることなくそれを貫くことで
限りなく真理に近い行動をとることができる。
そういう意味だと思います。
一旦行動を起こしたら神の意識を持った自分の事を信じて
突き進めと言う意味かもしれません。
その結果が予測と異なった場合には
今度はそれを知識と経験として次には行動を変えれば良いと思います。
そして私達はそこから何かを学べば良いのです。
信念のない状態で、行動もしないで、結果何も学ばないよりは
盲目であっても突き進み、そこから何かを学ぶ事の方が
私達の精神の成長にも役立つと思います。
ただし。単なるカルトを盲信することとは区別してくださいね。
信念というのですから
他人に誘導されてふらつくような意識ではなくて
私達一人一人が他人の影響を受けることなく
持ち続けるべき意思とでも理解するべきかもしれません。
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【第一講座VOL9】
アダムスキーは著書の中で、生命の科学を学ぶにあたり
常に心と意識=魂の両方を用いる事を勧めていました。
いくら真理へのきっかけとなる知識を与えられたとしても
それを私達の既存の価値観を持って理解しようと勤めてしまっては
その内容を十分には理解できないことになるからです。
彼は「私達は半分しか世界を体験していないのだ」と
表現していました。
そしてイエスキリストは私達人間の事を「死人である」とさえ
表現していました。
それは私達が見ているようで見ておらず、
聞いているようで聞いておらず、
自ら思考して理解しようと勤めないからでありますし、
目に見える事、耳で聞こえる事しか
認識しようとしないからです。
しかし私達は魂の存在、創造主の想いの存在を理解しているのですから
その事を大前提に常に自らの心を抑えつつ、
素直な気持ちで真理の欠片を眺めるようにすることが
大切なのだと思います。
そして何事にも、「原因があるから結果がある」と言うことを理解し
原因と結果を同時に見つめる様に勤めることで
目に見えるものと目に見えないものの両方を
理解することが出来るようになる。。。
つまりは私達は無自覚であるだけで
元々が心と魂の両方を使用するべき存在であると言う事です。
そして時には自分の中で既存の価値観を持った自分と
それとは事なる意識を持った自分を
同時に感じる事になるのかもしれません。
その時に私達は自分の中に二人の人間が存在しているような
そんな気分になるのではないでしょうか。
自らを客観的に見ることが出来る人間は
おそらくは精神的資質の高い方ではないかと想像できます。
私達も誰もがそんな状態に成れるよう意識して
暮らして行きたいものです。
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【第一講座VOL10】
私達は何事も「経験によって多くの物事を学ぶ」と言うことを
記事の中で頻繁に繰り返し説明してきました。
元々私達に課されている課題自体が経験なのですし、
私達は半永久的な時間の中で肉体のフォーム(形態)を変え、
生活環境を変えながら延々と経験をし続ける事になります。
百聞は一見に如かずと言われるように
他人から聞いたことや本やネットで読んだ事ではなくて
私達は自ら体験した事からより多くを学ぶ事になるのです。
例えそれが失敗と言う経験であっても
私達はそこから学ぶ事になります。
そしてそれは時には自らの戒律として課すことにもなるのです。
一方正しいと確信したこと、それが精神的に良いと感じた事は
それを自らの価値観として持つきっかけにもなります。
ありとあらゆる事は体験によって培われる。。
私達にとって大切なのは自らが経験することです。
そしてそれに関連して自らの頭で思考することでもあります。
もしも失敗した時はそれを教訓とし、
正しいと感じた事や
後になってもっと別の方法があると感じた時や
それが誤りであると感じた時には
それをすぐに心の価値観と置き換える事で
私達はより真理に近いものを自らの価値観とする事も出来ます。
以前に私はジグゾーパズルでその事を説明した事があります。
似たような断片が多く存在しているこのパズルの断片を
誤った箇所にはめ込んでしまうと、
その周辺は残りの断片が正しくはめ込む事が出来なくなります。
その事が多くの混乱を招くことにもなしますし、
それを放置しておくと。時間が経つにつれて大きな誤りとなるかもしれません。
人間は誰もがそれと同じ事を繰り返しているのです。
(例えばグレイの存在を信じた私は
それを正しいとしてパズルに植え込んだがために、
そこから派生するもの全てを真理と見做し
覚醒するまで20年の余計な年月を必要としました)
だからこそ私達は誤りや、より良いものを受け止めた時には
それを訂正し置き換え、改善していく事が求められるのだと言うことです。
同時に私達は、失敗を恐れると何も出来ないと言う事も
意識しなければなりません。
何もしなければ失敗する事も過ちを犯す事もありませんが
同時に私達には進歩はないのです。
この場合は
「君子危うきに近寄らず」ではなくて
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
これこそを私達は実践していかなくては
ならないと言う事になります。
失敗を恐れることなく、かといって慎重さに欠ける事なく
しっかりとした判断力を持って何事も実行する事が
私達には求められているという事です。
私達の社会では多くの方がどちらかと言えば
慎重になり行動を抑制する傾向がありますが
今後はどんどんと何事も積極的になって
誰もが活発に活動してくれるような社会になり
明るい世の中が世界中に広がっていく事を期待しています。
聖書のイエスキリストが
神殿の中で両替商や行商人を追い出した記述があります。
そこから伺えるのはイエスキリストの人間らしい姿でもあります。
イエスキリストのような聖人とされていた人間でも
間違いを犯すのだと言うことです。
天使達に見守られて育ち、彼らに見守られて
活動をしていたであろうイエスでさえ、
自らの教えに反して他人を裁いてしまったのです。
まして私達はイエスと比較すれば
あまりにも至らない存在ではありませんか。
学ぶべき事が多いとしても
私達がより深く宇宙の法則を理解すれば
間違いを犯す機会はおのずと減っていく事になります。
聖人になることが出来なくても
永遠の命・記憶を持っての転生へと進む事が出来れば
私達は次の生では再び今の状態から学び始めることが可能になるのです。
私達の今の知識や知恵を100とすれば、次に生まれ変わった時には
1からのスタートではなくて101から始めることが出来るのです。
そして私達はどんどんと高みに登っていき
結果的には神=創造主に近づく事になる。
その事を何よりの目的として今はこの社会を大いに体験して行きましょう。
この地球社会を十分に体験して学ぶ事も
地球社会の中で生まれてきた人間の課題のはずです。
この社会が例え精神的には幼い保育園程度であったとしても
私達はその社会の中で優等生になるつもりで
多くの物事を学び多くを思考し体験していく。
他人と比較して自分の今の理解を持って驕り高ぶるのではなくて
そのくらいの高い目標をもって
私達は暮らしていくべきだと思います。
そしてその想いはきっと周囲の人間にも
影響を与えていく事になるでしょう。
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

