近所に集う創価学会信者と
同和部落の連中が私の脳機能低下を齎そうと
電磁波攻撃を続けています。
その中で今日は仏教とお釈迦様に関する記事を
イエスキリストや宇宙の法則とからめて書いてみました。
本当はもっと時間をかけて説得力を持って書きたいのですが
創価学会と同和部落の連中に取り囲まれている状態では
脳の栄養も持ちませんし、集中するにも時間制限があります。
その事を是非とも理解していただいた上で
記事を読んで欲しいと思います。
特にこの記事は今までと違って敬虔な仏教徒をも意識しています。
クリスチャンに真理を伝えようという意識だったのが
以前の私ですが今度は仏教徒にも理解を求めようと意識して記事を書いているわけです。
真の聖人の教えというものは
アプローチが違っても到達すべきは同じであるということを
是非とも理解して頂きたいと思います。
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日本の仏教と言われている宗教は
釈迦の教えとどのような関係があるのでしょうか。
原始のお釈迦様の教えとは一体どのようなものであったのかを
理解する事がそれを知る鍵となるようです。
それは仏教の創始者と言われるお釈迦様の教えに
寸分違うことなく存在しているものなのか
それとも当時の面影も失っているものなのか。。
はたしてお釈迦様の真意は私達に正しく
伝わっているのでしょうか。
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以前に私はイエスの教えとして聖書のイエスキリストの教えを
その信者でもあったパウロの手紙の内容をも取り上げて解釈し
記事にしていたことがありました。
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11340819315.html
イエスの教え VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11341663439.html
イエスの教え VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11350189539.html
イエスの教え VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11351112817.html
イエスの教え VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11353060641.html
イエスの教え VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11354468175.html
イエスの教え VOL6
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11440718163.html
イエスの教え VOL7
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11441409335.html
イエスの教え VOL8
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11442143277.html
イエスの教え VOL9
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11442568204.html
イエスの教え VOL10
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11443375918.html
イエスの教え VOL11
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11444930328.html
パウロの手紙
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11445536073.html
パウロの手紙 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11446050602.html
運命を生きる1&パウロの手紙 VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11446795491.html
運命を生きる2・パウロの手紙VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11447479208.html
運命を生きる3&パウロの手紙 VOL5
その他普遍的真理 VOL1~VOL25
日本で知られているイエスの教えはキリスト教と言われているものであり
それは一言で言えばイエスキリストを救世主として信じ
それを信仰することで信者は救われ天国に行けるというものです。
でも、私の理解する真のイエスキリストの教えとは
【イエスの神の国の奥義】と言われる
イエスキリストが十二使徒に対して、そして側近の人間たちに対してのみ
伝えた教えであり、その本質は悟りであり啓示を受けることであると思います。
つまり聖書に記述された事細かなイエスの行動は
全て一般大衆の目に晒されていたような
日々の暮らしの歴史的引用のみ過ぎません。
イエスが弟子と共に学んでいるその姿は
決して聖書には引用されていないからです。
その教えの実態は聖書の
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの伝えの中には
殆ど取り上げられていないのです。
その理由は、その内容が高度でそして奥が深く
更には理解する事が難しいものであったこと。
そしてそれを理解して実行し得る人間は
イエスを信頼する人間の中でもほんのひと握りの弟子であり
それは12使徒と言われた人間や
イエスの死後にイエスにあるものとなった、パウロなど
一部の人間だけだったわけです。
そして真のイエスが伝えたかった内容は
その断片が「パウロの手紙」として紹介されている
新約聖書の章の中で取り上げられているに過ぎず、
その教えを元にした一般市民への
生き方の具体的なアドバイスがパウロの手紙に
綴られているわけです。
その後も少数の人間たちだけがその真の教えを継承し
見るのではなくて神を感じることで啓示を受けて
そこで受け止めた意識を預言や人の戒律として人々に伝え
一部の人間によって継承される事になりました。
しかし多数派の人間はそれを理解できず
歴史の中で少数派の理解と教えは常に潰され
結果真理への架け橋は閉ざされたという経緯があるのだと思います。
そして真のイエスの教えとは直接の民衆の救いではなくて
悟り=啓示にこそあったのだということ。
大衆を啓示へと導くための誘導として
道徳と真理の実践の一部を語ったに過ぎず
一人でも多くの覚醒者を生み出しまずはその人間達を
天の国へのパスポートを与えること、
そしてその後には啓示を受けた人間達を通じて
神の御心を一般庶民へと浸透させることが
イエスの目的だったのだと思います。
そしてイエスの目的通りイエスを信頼して啓示を受けた後に
魂から真理を感じ、それをそのまま人々に伝えたのが
使徒やパウロだったという事です。
つまりはイエスの真の教えとは
如何に人間は覚醒し啓示を受けるかということであり
そのために必要な知識と指針をイエスは使徒達に伝え続けていた事になります。
一方ではそれを理解できないであろう一般市民に対しては
例え話で人間の生きる指針としての道徳や
知恵のあり方を伝えていたのだという事です。
そんなイエスの話を聞いていた人間の中でも
イエスの凄さに気が付いた人間は
自らイエスに従い導かれようとすることにもなります。
道端での説法は人の資質を見抜き
出家へと導くきっかけでもあったわけです。
何故に私がその事に気がついたのか?
私が大昔はクリスチャン崩れであり、
聖書の内容を一応は知っていたこと。
そして宇宙の法則の全貌とそれを伝えた天使達こそが
この社会に多くの宗教を通じて真理を伝え
私たちを導こうとしたという実態を理解したからです。
つまりは地球社会の中に正しい道徳を生み出した
そのきっかけとなった宗教は
全てが太陽系の他の惑星の住人たちによってもたらされたと
言っても過言ではないわけです。
彼らは時には自ら神を演じ、時には地球人として転生して
この社会の中で真理の福音を実行しました。
それが聖書ではどのように表現されているかを自分なりに探求していると
イエスの教えの根底にあるのは
想いの大切さであり、他人に対する慈愛であるということ、
更には一番大切な事は【父なる神の御心の実践】としているのを知って
それを確信するに至りました。
つまりイエスキリストは
「自分は神の子供であり
救世主だから自分を信じれば救われる」
といったのではないのです。
「自分の語っている内容は神なる父からの啓示である。」
ということを大前提に、
「私が行っているのではなくて私の体を持って
父がそれを成している。」
と表現したのも私が表現し語る内容は
神の御心を受け止めたものであるから
私の語ったことを信じてそれを実践しなさいと
触れていたと理解するのが正しいわけです。
つまりイエスキリストは覚醒者であり宇宙的啓示を
受けている人間であり
そして神の意識として存在している諸摂理を
四次元空間から感じそれを伝えていたということです。
その証拠にイエスは
「自分の事を主よ主よと崇拝した人間が
皆天国に行くのではなくて
神の御心を実践した人間こそが天国に行くのだ」
と触れました。
つまりは私達がイエスキリストを神であるとか
神の子であるとか救世主であると信じることで
人が救われるのではなくて
私達はキリストを通じて広報された
神の御心=宇宙の法則を実践してこそ天国に行けるのだと
言うことを語っていた事になります。
つまりはキリスト教の信者であることや
イエスを神や神の子と信じることは
私たちを救う要因にはならないのです。
私たちの救いの要件は神の意志の実践、
つまりは道徳の実践であるという事になります。
そしてイエスの十字架の死の意味も、
それによって人類が救われるなどというものではなくて、
それらは後世の人間によって勝手に信じ込まれ
解釈されたものであるということになります。
しかもこのような内容を語って聞かせた対象は
主として12使徒です。
見えない世界そしてその世界にこそ存在している秩序と戒律を、
直接見たり感じたりすることができなくても
イエスの言葉を信じて理解しようとするものは
幸いだとイエスは使徒達に語って聞かせたのだと思います。
彼ら使徒達も啓示を体験するまでは
イエスの想いの真意を正しくは理解することは出来なかったからです。
一方では庶民に対しては先述のように
例え話を用いては人間の心のあり方の大切さと
知恵の働かせ方を伝え続けていたというのが正しい訳で
民間人たちは真のイエスの教えを直接受けることは
なかったと言っても過言ではないと思います。
家族を捨て、世俗を捨ててイエスキリストに
ついていった人間達だけが
イエスから直接その真理への到達法を聞くことができた。
そしてイエスの死後は
真理へと到達し、四次元と呼んでいる
秩序や空間からあらゆるヒラメキや印象や教えを受けた人間が
イエスの使徒として
今度はそれを持って民間人たちを導いていたというのが
正しいことになります。
真のイエスの教えは覚醒=啓示にこそあった。
そのための手段がイエスの神の国の奥義と呼ばれ
一部の側近に対して述べ伝えられた。。。
そしてそれを実践できたのは一部の使徒でありその弟子たちであって、
多くの民間人たちは使徒を通じて人のあるべき姿やその時代の道徳などを
生きる指針として与えられたというのが正しいと思います。
つまりはイエスキリストもお釈迦様同様に
啓示=悟りこそを意識して信者たちにそれを語っていたというのが
正しいのです。
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では一方お釈迦様の真の教えという物は一体どんなものだったのでしょうか。
お釈迦様の真の教えは奥が深く、説明し難く理解しがたいものであったという
記述が残っているようです。
それは真理としての如を神の意識の空間から感じ
そこからありとあらゆる知識を印象として受け止める手段でもあります。
これはイエスキリストの受けた啓示と何ら変わるものではありません。
神の作り上げた真理は目で見ることもできず
言葉として聞くこともできず、
(詳細を言えばアカシックレコードは
視覚的に感じることができるようですがこれは置いときます)
それは印象や閃きとして感じる事でのみ認識することになります。
その内容を具体的に他人に表現することが難しい事から
お釈迦様の具体的な教えは
当然多くは言葉として残らないことにもなります。
まして当時100年間はお釈迦様の言葉は
記述として記されることもなかったそうです。
具体的にはお釈迦様は
人の生と死の繰り返しを見る事ができるという天眼通
自分や衆生の過去世の生涯を知ることが出来る宿命智
更には全ての現象には原因があるという縁起の理法を
そこを通じて理解し感じることが出来るようになったとされています。
これは間違いなく啓示=宇宙的啓示のことであり
その状態になったことをお釈迦様は悟りと表現し
これを持って解脱としたわけです。
つまりお釈迦様は悟りの後にその悟りに則って生きたわけですから
その生き方は
イエスキリストが体験していた
自分の身を持って父なる御心を実践する事と
何の違いもなかったことになります。
(お釈迦様の教えを学びそれを参考に
自らの教えを告げたのがイエスキリストだと思います)
そしてこれらは言うまでもなく私が
宇宙の法則の中で私達の最終的な目的とすべきであるとした
宇宙的覚醒の事でもあります。
まず、仏教の歴史を確認すると
それは小乗仏教、上座部仏教と呼ばれていたものと、
その後に発展した大乗仏教と言われるものとに分けられる事になります。
この上座部仏教と呼ばれた物を釈迦の元で実践していた弟子たちは
何よりも自らの精神修行そしてお釈迦様が到達した
無我の境地、悟り、解脱と呼ばれた状態へと自らを導くことを
第一の目的としていたようです。
つまりはイエスキリストが身近な側近や12使徒に対して
啓示を受けるための導きを与えたように
お釈迦様の側近はお釈迦様によって悟りへと導かれるための
手ほどきを受けていたことになります。
両者の違いは、お釈迦様が心の煩悩を取り払うことをその中心としたのに対して
イエスキリストは日々道徳を意識して暮らす一方
神の意識を感じることを中心に弟子たちに伝えたという事だと思います。
イエスは当初の仏教が庶民的なものでは無くなっていた事を学び
それを自分なりに改善したのだと言えます。
お釈迦様が自ら体験した世界やそれによって取得したその能力は
他人に言葉で説明して理解されるものではありませんでしたが
一方自分と同じ悟りの状態にまで進みさえすれば
自分が感じた世界を他の弟子たちにも伝えることが出来るわけです。
つまりお釈迦様が弟子に伝えたのは
自らが体験した世界とそこで得た力ではなくて
その状態へと彼らを導くために必要な
知恵や習慣や行動ということになります。
つまり初期のお釈迦様とその弟子たちは
宇宙的覚醒を受ける事を目的とした集団として
存在していたことになります。
彼らの中には一般大衆や世俗に興味なく
ただ、ひたすら自らの悟りにばかり
執着していた人間達も少なくなかったことから
彼らの学んでいた仏陀の教えは
個人的なものであるとされ、上座部仏教と呼ばれ、
その後は民間大衆をも導くための
もっと簡易で具体的な教えが伝わることになります。
そのために彼ら仏陀となった人間達が感じ、
それを実践することが正しいと理解された人の道が
そのまま一般大衆に対して語られることになります。
これは道徳と行って良いのではないでしょうか。
それが後には大乗仏教として広がることになるわけです。
ただ、ここでも問題がおきます。
当初は大乗仏教も、啓示を受けた人間によって導かれ、
その時代の文化や習慣の中で
それが正しいとされた事を教えとしていたのでしょうが、
その一方、大乗仏教では次なる仏陀=悟りを受けた人間を
生み出す事が出来なくなります。
その結果、自ら悟りを目指そうとする人間達が
独自の修行や自分の価値観を新たな教えとして持つに至り
それをもお釈迦様の教えであるかのように触れたために、
後の世界の人間達の多くの教えが、
お釈迦様の教えであるかのように伝わることになり、
それがそのままのちの世界では聖典とされ伝わる事になります。
だからこそ仏教典は分厚いものとなったのです。
その後、仏教は世界中で政治や国家
更には新たな指導者の元変貌を遂げていき
当初の創始者の意図からはかけ離れることにもなります。
ただ、時代が変わろうといつの時代でもどこの場所でも
正しいとされる人間のあり方だけは
そんな教えと共に、今の世に伝わることにもなります。
そして全ての真の神の教えの共通点は
この道徳にこそ集約されることになるのです。
今でも生きているお釈迦様の教えは
仏教の諸行無常、諸法無我、涅槃寂静と言った言葉の中や
八正道と言われるものの中に存在しているようです。
これらは、物質世界の三次元を指し示した真理であり(諸行無常)
四次元を説明する摂理であり(諸法無我)
私達が到達すべき状態として指し示され(涅槃寂静)
諸行無常とは、万物はその形をそのまま留めることなく
長い時間の中で必ず朽ち果てて元の元素に戻るという
宇宙の法則の命題そのものを説明していると言えます。
諸法無我とは、万物は全てが関連しながら存在していて
それ自体で存在し得るものは無いという内容ですが、
これも万物の大元なる魂は四次元のエネルギーを共有していて
結局は全てが繋がっているという
宇宙の法則の命題を伝えたものと言えます。
更には涅槃寂静とは私達が煩悩やエゴから解き放された状態であり
クリスチャンが啓示と取り上げ、仏教徒が悟りと語る内容に
到達した状態だと言えます。
それに到達するための手段として
八正道という手法の実践がお釈迦様によって推奨されたということです。
つまりは私や兄弟姉妹が天使達に与えられた知恵として
生命の科学を学び
心の動きと四つの感覚器官の働きや、
想念とそのあり方、
自ら体験し正しいとしたことを自ら戒律とするなどの行為を実践し
最終的には宇宙的啓示を体験しようというその目的と
全く同じものであるという事です。
時代が違っても教えが違っても
聖人が語った真意には何の差もないのだということ。
そして大元の真理とされるべき実態が
神の御心と表現されようが如と表現されようが
真理と表現されようがそれにも差などないのです。
真理の宇宙空間を作り上げ宇宙の法則を作り上げた
創造主はただ一つの存在だからです。
私達はエゴと垢だらけの教えをも
神の与えた真理であると信じ込んでしまっている。
それを一旦心から取り払うことで
正しい道しるべが私達に指し示されることになるかもしれない、
それを意識してこの記事を取り上げていきたいです。
敬虔な仏教徒が真理の光で照らされますように。
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
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P.S.
独自の聖書解釈をしてイエスキリストの神聖を否定したことで
クリスチャンに顰蹙を買いまくった私ですが
今度は仏教徒にも顰蹙を買いそうです。
しかしこれらは真実です。
イエスキリストやアダムスキーが密教を学んだのも全ては偶然ではなく、
自分達の先人であるお釈迦様の教えを理解した上で
自分達のやり方と語り方でそれをその時代の人々に伝えようとした。。
宇宙空間にいくつもの普遍的真理は存在してはいません。
どの空間でも同じ秩序が働いているのですし、地球だけは真理が異なるということもありません。
つまり真理は一つなのですし、神の教えは一つだということ。
イエスキリストを神だと信じるからお釈迦様と対立することになる。
お釈迦様=仏=神だと信じるからイエスキリストを胡散臭く思う。
残念ながら両者は共に、ただの人間であり
しかも彼らを覚醒に導いたのは間違いなく天使たちです。
この地球社会の波動の中で独自の力だけで覚醒するのは
厳しいという事情もあったのだと想像しています。
両者の共通点は神との対話をしていたという逸話があること。
そして共に道徳を語っていたということです。
勿論、神を演じていたのも天使たちですし、
両者の教えの共通性は私が過去に記事で触れています。
そして人間であるイエスキリストとお釈迦様は
如とか神の御心とか四次元と言われる真理の世界を体感し
それを人々に伝えた聖人であるというのが正しいのです。
創造主としての神はその上にこそ存在している。
厳しいことを言えばこの両者を神・仏として拝んでいる方々は
結局は人間を拝んでいることになりますし
彼らが望んでいたことはその教えを実践して
自らが真理を感じることができるような人間に
なって欲しいということだったのではないでしょうか。
決して自分がゴールではなくて、
地球社会における覚醒のための導き役立ったというのが
正しいのかもしれません。
(覚醒まで進まなくても記憶を持った転生はできるので
それを目指すためにこそ人々を導いたとも言えます)
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362816099.html
続・宇宙の法則番外編 釈迦の教え
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11009631713.html
宇宙の法則VOL1