水俣そして福島

水俣病研究の第一人者であった、原田正純氏が亡くなった。
「私たちは環境問題を何のために勉強するのでしょうか。僕は、命を守るため、弱い人のため、だと考えています」
その言葉通り、一貫して被害者、患者の側に立った、数少ない研究者の一人だった。
水俣病は現在も未解決のまま多くの患者が苦しんでいる。水俣病の原因である有機水銀を垂れ流した地元の大手企業「チッソ」 それを許し続けた政・産・官そして学界。
結果、その被害は長く、かつ甚大なものとなって今日に続いているのだ。
有機水銀を放射能(セシウム)に、チッソを東電に、水俣を福島に替えてみればどうであろうか、半世紀以上を経て変わらぬその確信的犯罪の構図、権力、体質に、改めて虚しさと激しい怒りを覚える。
地元の大企業ゆえ、その権威に、しがらみに、ばらまかれるカネに絡め取られ、また差別や妬みを恐れては、声も出せず分断されてゆく住民や被害者。そしてなによりも、経済(権益)優先、企業エゴ、曖昧な安全基準と眼に見えない汚染、内部被曝、低線量被曝の問題、これからより顕在化してくるであろう健康被害。それは、子供たち、そしてそのまた次の世代へ。
福島の悲劇は、いまだ序章なのかも知れません。
原田氏、水俣そして福島に関する記事を二つほどご紹介します。
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ほんとの空へ・お~い福島:水俣病で得た教訓=大島透(毎日新聞・記者)
毎日新聞 2012年05月19日 地方版
福島原発の被害を、いま私が住む熊本県から見ると、水俣病の問題とあまりによく似ていることに驚かされる。
水俣では多くの悲劇が繰り返された。現場が地方ゆえに政府が被害の政治的影響を軽視したこと。大企業の利益が重視され、被害者の声が黙殺されたこと。汚染物質が生活環境を破壊する中で、被害者が差別視や中傷、風評被害に苦しめられたこと。加害企業に対する姿勢の違いや賠償金を巡るねたみなどで、地元の人間関係が壊されたこと。
日本社会の歩む方向が、これまで通りでいいのかどうか。水俣病も、原発事故も、同じように問いかけてくる。
水俣病の最初の兆候を伝えたのは1954年の地元紙の記事だ。「ネコの謎の狂死が相次いだため、急増するネズミの駆除を住民が市に頼んだ」という内容である。2年後の56年、チッソ付属病院長が原因不明の疾患の発生を保健所に届けた。その年末までに54人の患者が確認され、うち17人は既に死亡していた。
だがチッソは、水俣病の原因が自社工場から海へ排出している水銀であることを決して認めなかった。熊本県は翌57年、食品衛生法により水俣湾の漁獲を禁止するべく国に照会した。しかし国は「湾内の魚介類すべてが有毒化している明らかな根拠はない」と突っぱねた。こうして水銀はたれ流され、海の汚染は広がり、汚染魚の流通も続いた。
当時の国は、一地方の住民の命を救うことよりも、チッソとその背後に控える産業界への配慮を優先したのだった。水俣病の原因として、地元の熊本大学がいち早く「有機水銀説」を唱えれば、東京の学者や産業界は別の説で打ち消し、原因究明を遅らせた。私には、原発の安全性だけを強調してきた今の「御用学者」たちと重なって見える。
しかし「人命より金」だったのは何も国だけではなかった。魚が売れなくなり、怒った漁業団体を除く「オール水俣」の各団体は59年、熊本県知事に「チッソの廃水停止は困る」と陳情した。基幹産業の操業停止は地元の死活問題だ、と訴えたのだ。陳情団は市長、議長、商工会議所、労働組合など28団体に及んだ。水銀を排出する工場が操業をやめたのは68年。ネコの狂死から14年が経過していた。
当時の水俣から遠く離れた所にいる私たちも、この「オール水俣」の人々を笑えない。同じように経済優先の価値観に浸っているのだから。悲観的に見れば、半世紀も前に狂死したネコの行き着いた先に原発事故がある、とも言える。それでも人は過ちから学び直し、違う道の選択もできるはずだ。そう信じたい。
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教訓生きなかった福島原発の事故 専門家とは誰か (2011.5.25朝日新聞 朝刊)
■原田正純氏 インタビュー 3・11 水俣から
半世紀以上前に熊本県で起きた水俣病から、私たちはいったい何を学んできたのだろうか。福島第一原子力発電所の事故から日を追うごとに、水俣で問われ続けたこの国の「病巣」が次々と浮かび上がる。専門家とは、安全とは、賠償とは。現場主義を貫き、水俣病の患者に寄り添って問題提起を続ける医師、原田正純氏に聞いた。
――福島第一原子力発電所の深刻な事故を、どう受け止めましたか。
「懲りてないねえ」
――懲りてない、とは。
「水俣病では、政府も産業界も学者も、安全性の考え方を誤ったんです。その後のいろいろな薬害でも、カネミ油症でも、危険が起きる前に危険を予測し、対策を立てられるはずだった。50年たっても教訓は生かされていない」
「今回、最初はぼくも天災だと思った。でもだんだんわかってくると、やはり人災だった。大地震が起きたり大津波が来たりしたら原発は危ない、と予告した科学者はいた。だから科学が無能、無力ではなかった。ただ、その指摘を無視してきたわけですよ」
――警鐘を鳴らした学者に対し、原発推進派の学者たちは「原子力学会では聞いたことのない人だ」などと言っていました。
「水俣病でも同じ。行政や企業を批判する学者は非難されました。初期には、学界の権威が有機水銀説を否定する珍説を次々に出して混乱した。その後も国の認定基準を巡って対立が続き、専門家や学界の権威とは何なのか、ずいぶん問われました。国の意を受けた学会がどんな役割を果たしたのか。同じことが今回も繰り返されている」
「原発には賛否両方の意見があることを、公平に出しておくべきでした。『原発危険論なんて少数派で過激な活動家』みたいなレッテルが張られた時代が続いた。でも、日本が本当に民主的で科学的な国なら、彼らが議論する場を公平に保障するのが政府の役目だと思いますけどね」
――原田さんが考える専門家とは誰を指すのですか。
「本当に原発の専門家であれば、当然、今回の事態を予測しなきゃいけなかったはずですよね」
「ぼくは専門家の存在そのものを否定するわけじゃない。でも『何が専門家なのか』があいまいだと言いたい。いわゆる『専門家』(学者)の言うことだけをうのみにすると危ない。魚の専門家とは誰か。大学にもいるだろうが、水俣の海で毎日魚を取って暮らす漁師も専門家です」
「水俣で、生まれてきた子が発症しているとわかった時、医学者はみんな、『母親の胎盤を毒物が通るなんてありえない』と考えた。でも、お母さんたちは『私から水銀が行ったに違いない』と一発で言い当てた。胎児性水俣病の発見です。母親は専門家と言っていい。それを『あなた方は素人。俺たちは専門家だから正しい』という風にやってきた」
――そうした反省から提唱したのが「水俣学」だったのですね。
「水俣学は従来の専門家の枠を一度外してしまおうという試みです。水俣病は、社会的、経済的、政治的な側面があるきわめて複合的、総合的な事件です。それを『病気だから』と医学者に丸投げしてしまった。だからいまだに解決できない」
「一番大事なのは、地元の住民とか被害者、あるいはチッソの工場で働いていた労働者です。彼らの知恵とか経験を見直そう、採り入れようというのが水俣学です。本当は『学』なんてつけたくないんだけど」
――福島第一原発の原子炉を冷却した水による海洋汚染は、水俣病を連想させます。海で薄めようという考え方が繰り返されました。
「チッソは、海は広いから有機水銀も薄まると考え、水俣の海に捨てたわけでしょう。確かに薄まりましたよ。ところがそこにはたくさんの生物がいて、食物連鎖によって毒をどんどん濃縮してしまった。自然界には希釈と濃縮の両方があります。裏と表なんです。人間は自分たちにとって都合のいいことだけを考えがち。今度もそうじゃないですか」
――放射性物質の安全基準が問題になっています。どこで線を引き、住民にどう説明するべきでしょう。
「注意してほしいのですが、安全基準とはあくまでも仮説に基づく暫定的な数値であって、絶対的なものではありません。そもそも『安全基準』という言葉がよくない。どこまでなら我慢できるか、『我慢基準』と呼ぶべきだという人もいます」
――それでは安心できません。
「そう。それはものすごく気になっている。住民にしてみたら、自分たちは安全なのかそうでないのか。なぜ避難しなければいけないのか。なぜまだ戻れないのか。その根拠は何なのよ。そういう疑問はまったく当然です」
「テレビの報道でも『政府は根拠を示せ』と言っているでしょ。ところが、実際には絶対的な根拠なんてない。それなのに(政治もメディアも)あるはずだと決めてかかるからおかしなことになる」
「ただし、根拠を示せないからといって政府が口をつぐんだらだめ。『現時点では十分な科学的根拠はありません。でも今後こういう危険が考えられるので、政治的な判断で実施します』ということを、ていねいにていねいに説明することです。もちろん住民の不安をあおったらいけないけれど、放射線の影響には未知の部分があることもしっかり押さえておかないといけない」
■健康を長期管理し賠償基準の協議に被害住民入れよ
――事故全体が解決するには長い時間がかかりそうです。住民の将来にわたっての健康問題も気になります。すぐに取り組むべき方策は。
「水俣では実現できていませんが、関係する地域の住民全体の健康調査を行い、記録台帳をつくることが大事です。放射線は全身の影響を考えなくてはならないし、神経症状が主だった水俣病よりも大変です。長期にわたって管理し、体に何か起きたときはすぐに対応する、そういう態勢が必要です」
「ただ、それを今やってすぐに何かの結果が出るわけではない。調査したという既成事実だけが先行して、『やったけど、影響はなかった』などと幕引きに利用されないように注意が必要です。また、調査結果が新たな差別につながらないよう十分気をつけなくてはなりません」
――政府は現在、被害住民への損害賠償の基準を作ろうとしています。考えるべき点は何ですか。
「どういう賠償をどこまで行うか、それをいわゆる専門家だけで決めないこと。協議の場に被害の当事者を入れるべきです」
――どういうことでしょうか。
「カナダの水俣病が参考になります。補償委員会というのがあって、医者だけでなく法律家、そして被害住民も入っているんです。びっくりしました。医者だけで構成した日本とは全然違う。これはいい方法だと思いました。被害者にどう納得してもらえるかは、実際にどれぐらいの被害があったかということ以上に大切ですから」
「ましてや今回は複雑です。物が売れない、家に住めないなどの被害ならある程度計算できる。でも、心の痛みとか発がん性とかになると、なかなか計算できない。精神的なトラウマも深刻です。だから、賠償の枠組みや方法を決める段階で被害者が納得する方法が必要じゃないですか。一方的に、お上や専門家が決めるのではなく」
――水俣から学べることは。
「賠償の枠組みは、最初にすべてを決めてしまわないこと。水俣病の新救済制度の場合、政府が『いつまでに打ち切る』なんて期限を決めるから人々が不安になった。『何かあったらいつでも相談に応じます』と言って窓口を残しておけば、多くの人がひとまず安心するでしょう。政府や電力会社は早く終わらせたいでしょうが、水俣の苦い経験を、今度こそ、学んでほしいですね」
■はらだ まさずみ 34年生まれ。熊本大大学院時代に水俣病と出合い、一貫して患者の立場から研究を続ける。著書に「水俣が映す世界」など。2010年度朝日賞。
■取材を終えて
「ちょっと偉そうに言わせてもらった」。インタビューの直後、席を立つ原田さんの口から漏れた言葉だった。ちっとも偉そうじゃない人からそう聞くと、言葉の一つ一つが深みを増す。「想定外の津波で……」と繰り返した原子力の専門家たちの偉そうな言葉が、空しく聞こえる。
(西部報道センター長・野上隆生、安田朋起)
〈水俣病と水俣学〉 チッソ水俣工場(熊本県水俣市)の排水が原因の有機水銀中毒。国の公式確認は1956年だったが、公害病と認めたのは68年。今も国の認定基準をめぐって訴訟が続く。認定患者は約2300人、未認定患者は5万人以上。さらに多数の潜在被害者がいる。
水俣学は、半世紀以上も混迷を続ける水俣病問題を通してどのような教訓を導き出せるかを探る、学際的な取り組み。原田氏が2002年から熊本学園大で開講した。従来の学問の枠にとどまらず、被害の現場や当事者から学ぶことが特徴だ。患者も講師になる。栃木県の足尾鉱毒事件で強制破壊された谷中村に住み、被害民から学んだ田中正造の「谷中学」をヒントにした。
夏への扉

ハインライトの 小説 よろしく
猫と乗る タイムマシン
遡る時間 と 甦る記憶
子供の頃に 読んだ 古いSFは
フィクションではなく
胸躍らせる 希望の 未来図だった・・・
*
左右に 近付いては また遠く
流れ去る 煙突や 家並のように
途切れること 無く 過ぎて来た時間 そして 見送った日々
振り返れば 降り積もる 散り敷かれた 花弁のように
いや
掬いあげても さらさらと こぼれ落ちる 砂粒のように
すべてのものに 目を閉じて 振り切って
踏み出した その 一歩は
後悔と嫌悪と 引き換えに ここからの 眺めを 与えたのだから
走りなれた 緩やかなカーブ
しばらく 過ぎれば 港が見える
やがて 海に掛かる 白い橋は 緩やかな勾配で
空の青 と 海の青
繋いでは まっすぐと 伸びてゆく
その 向こうに 浮かぶ雲
雲の 向こうに 夏への扉
「 Rocket Brothers 」 Kashmir
※ 少し 淋しいですね
ホタルの頃・・・

つい 二週間ほど前に
水の中に わずかに覗いた 小さな睡蓮の葉が
今では 幾葉も 鉢の水面を覆って
時折 落ちる 雨のしずくも 波紋を ひろげられない
いよいよ 本格的な 雨の季節に入ります
入梅 だとか 「入る」 って表現が いいですね
約一ヶ月 大きな雨雲の中に すっぽり入るようで
その 雲から抜け出した 日射しも予感させるようで
あまたを潤す この季節 いつも 思い出すのは・・・

「降るのよ蛍が。見たことなかろう? 蛍の群れよ。群れっちゅうより、塊りっっちゅうほうがええがや。いたち川のずっと上の、広い広い田んぼばっかりの所から、まだずっと向こうの誰も人のおらん所で蛍が生まれよるがや。いたち川もその辺に行くと、深いきれいな川なんじゃ。とにかく、ものすごい数の蛍よ。大雪みたいに、右に左に蛍が降るがや」
これは 宮本輝の小説「螢川」の一節
こんな 情景を かつて 一度だけ 経験したことがあります
* * *
「ホタルを見に行かないか」
私はまだ高校生で 誘ってくれたその人は ふたつ年上で
卒業後 進学はせず 地元で就職していた
人は あまりに身近な物には 興味を示さないもの
しかも 日本中が浮かれていた頃で
田舎は 田舎に住む者にとって 価値の無い 憎むべき対象ですらあった
そんな時代
見上げれば 冬は白雪を冠る峰々の その麓に湧き出す泉
ここを 始源とする 家からも そう離れていない その川に
ホタルを 見に行こうなんて人間は 数えるほどだった
小説「螢川」では 四月に大雪の降った年 螢が大発生すると語られるが
螢の数は 年によって変化するだけでなく
一年のシーズンの内でも その年に一度だけ 繁殖に適した 温度 湿度
そんな条件が整った夜に 螢は一度だけ 乱舞を見せるのだと
これは小説で無く その夜に 向かう車の中で 聞いたのだっただろうか・・・
初めて訪れた その夜は 幸運にも
まさしく その たった一度だけの夜 だったのだろうと 思う
泉から流れ出した 小さいが 水量豊かな川に沿って
螢は 帯状に連なり 何百メートルと川に沿って連なり
ほんとうに ひとつの生命のように 点滅する光が 上流から下流へと流れていた
川沿い 土手の上を歩いてゆく私は まばゆい光の中を 泳ぐように掻き分けて進んだ
大粒のぼたん雪が ゆらゆらと風に煽られながら 舞うように
光の粒が 次々に 私の身体にぶつかった
後年 宮本輝の「螢川」を読んだ際も 思ったことだけど
実際に その眼で見なければ 経験せねば きっと これは わからないことだと思う
その夜 帰宅した私は かなり 興奮気味に 見てきた事を 母に語った
母の世代では ホタルなんて なお ありふれたもので どうも うまく伝わらない
それでも あまりに 熱心に語る 私を見てだろうか
めんどくさそうにしながらも 数日後 家族で見に出掛けることになった
前回ほどでは無いにせよ やはり それは 見る者を圧倒する光景で
「こんなのは初めて」
と これまた 私が 見たことが無い
子供のように 興奮して見せた 母の姿を思い出す

翌年も
その翌年も 出掛けた
しかし
初めて見た夜の 光の饗宴は 二度と 見ることは叶わなかった
そして
そうこうしている内に 私は 進学のため 街へ出て
新しいものへの 好奇心だとか 慣れだとか
大股で 歩いては
ホタルのことも しばらく 忘れていた
その後 ホタルは 評判を呼び 県外からも 観光バスが連ねるようになった
しかし 皮肉なことに 人の数が増すのに反して ホタルは減った
農薬や 地下水利用など 水質汚染もあったようだ
観光客も増えすぎて ロープで規制され
土手の上を ホタルを掻き分けて進むなんてことも 今ではありえないそうだ
それでも
今でも この時期 郷里の友人と電話で話せば
「今年はどう?」
「今年はダメだ」
「今年は少し増えたようだ」
そんな会話を 交わしたりしています
梅雨入り頃
いつも 思い出す
草の匂い 川の流れ 湿気まじりの風 明滅する光 夜の闇・・・
* * *
「螢の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた」
小説「螢川」に戻れば・・・
この螢の情景を 眺めていたのも 少年であり少女
否応無い力に導かれて 生と性 そして 死に 目覚めてゆく頃
螢の光の乱舞もまた その営みを 彼らに垣間見させる
光と闇 輝けるものの中に 生々しい 欲望と また 不潔さと
それらを 同居させながら 時に 自身を持て余し 煩悶しつつ 過ごした時間
懐かしいような 永遠に蓋をしてしまいたいような 覗き見たいような
そんな空気を 思い出させる物語です
「 Lotus 」 睡蓮