これが実質、最後の記事です。
何が一番、相応しい内容になるかと考えた末、結局、私の言いたい事は一つしか有りません。
「み言に帰ろう」
それのみです。
ブログ村の傾向を見ると、いわゆる「真のお父様離れ」が、どんどんと進んでいるようです。
形式的にはお父様を尊重しているように見せ、その実、お父様の存在を蔑ろにしているのではないでしょうか。
お父様のみ言は軽視され、数々の摂理的事業は凍結、果ては「失敗した真の父母の代わりに三男夫妻を立てよう」と。
信仰は人それぞれ自由ですし、別に私がそれらの人々を讒訴する資格も、できる根拠も有りません。
ただただ、お父様を愛する私の感情的発露における、私的な見解であります。
しかし、お父様を既に不信しているならばいざ知らず、メシヤと信奉しながら、そのみ言の深淵なる部分を追求せずに、己の望みを果たす事のみに関心を寄せる人達には失望です。
教会で聖歌を歌いながら、あまり新時代に相応しくない歌詞だなぁ、と思ったものですが、「世人は己の願いのみ、果たすを望みて主につくを」の歌詞は、今、正に私達が歌いて悔い改める為に必要な一節でしょう。
そういう観点では、清平教も、三男派も、私から見れば同質なのです。
よく考えてみて下さい。
お父様の言動を元にすれば、現在の教会の方向性の決定も、お母様の御乱心?も、三男の台頭も、清平教の擁立も、分派の派生も、全て致し方の無い、ある意味、必然的とも言える結果と言えるのです。
何度も言うように、お父様のみ言は矛盾だらけ、謎だらけ、支離滅裂も良い所と言っても過言ではないです。
その矛盾性をもって、反対派に糾弾されるのも、致し方のない事なのです。
それぞれが、み言の自分に都合の良い部分だけを切り取り、己の願望を果たす為に利用しています。
お母様がやたら御自身の使命感に陶酔されるのも、致し方のない事です。
お父様から真の母として任命された立場であり、晩年は「母」についてのみ言も多かったはずです。
「天の母」「圓母」「女性アベルUN」等々、それらのみ言や摂理的事業に明確な意義に説明をつけられる人がどこにいますか。
「お母様を中心とするように」という遺言的なみ言も有ったと聞いていますが、いかがですか。
「全ての責任を取るように」とも言われたのでしょう。
まあ、もはや私もお母様には従わない意向なので、別に従わない方々を裁く意味は有りません。
お母様はお母様なりに、自分の使命を果たそうとなさっておられるのだと思いますよ。
気に入らなければ出て行くも、三男を支持するも良いんじゃないですか。
私が言いたいのは、あくまでも、お父様のみ言や指示の真意を考える事です。
お母様の言動を指して「新興宗教の話か?」などと揶揄する方もいらっしゃいましたが、お父様のみ言こそ、かなり早い段階から、原理講論に照らし合わせてみれば、分派的で、新興的だったのではないですか?
そういうお父様の原理とは一致しない不可解な言動は無視するくせに、お母様のみを糾弾しようという姿勢には納得がいきません。
享進様等に対してもそうです。
「教会こそ分派だ」という人達は、「お父様こそ分派だ」と言い換えるべきでしょう。
逆に、三男を支持する方々に対しても理解は有りますよ。
私はどちらかと言えば、教会の考えよりは、顯進様の指導に相対していた者ですから。
でも、私は特に顯進様が真の父のレガシーなるものを正しく引き継いでいるとは思いません。
彼も彼なりに自分の理解できる範囲でベストを尽くしているんじゃないでしょうかね。
なので、是非、それはそれで頑張ってもらったら良いのですけど、彼は別にお父様の絶対的理解者ではないと私は思います。
彼は私達に理解できる範囲の、至極、当たり前のモラルを語っているだけで、お父様のみ言の質とは明らかに違いますよね。
かと言って無知とも断定できないので、批判は慎重でなければなりませんが。
しかし、私はその語られる所を如何にも、お父様のみ言と同質のごとく、有り難がっている人達に違和感を覚えます。
そういや、例のブラジルのビデオの中で、顯進様が「み言で、財団(教会?)のお金は神様のものだと聞いている。それを私が使って何の問題が有るか」という感じの発言が有ったかと思うのですが、それって容認され得ることなのですかね。
まあ、そう信じる人達を責めるわけじゃないですけど、それに反発する人も当然いるに決まっているわけだから、批判の余地なしという態度に徹するのは如何なものかと思いますよ。
独善的で、他への配慮に欠き、ややもすれば、「サタン世界から奪う事は善」などと言って犯罪行為を正当化してきた統一教会の姿にかぶりますけどね。
長子だなんだと言いますが、その人に長子権が有るかどうかは神様が認めてれば良いのですか?
誰から長子権を頂くのか、よく考えた方が良いのでは?
しかしながら、結局のところ、お父様は顯進様を擁護し得るみ言も語っていらっしゃるのである事ですし。
しかし、私が特に注目したいのは、2011年7月6日アメリカ天和宮においてお父様が語られた内容です。
その日、お父様は享進様の息子様達を前に立てられ、兄達を弟の信俊様に敬拝させて語られるには、
「兄たちに弟が腹中で罪もなく敬拝するのに行けなかったのでお兄さんはついていくために敬拝」
「弟に侍り、弟を父母様の命令を代身することのできる王として侍ることのできる準備が、世界の神様・父・母と永遠に暮らすことができる私たちの家ができるのです。この宇宙に家ができるのです」
「幼い赤ん坊のようでなければ天国に行けない」
「これからお母さんのお腹、あなた達はきれいな純潔な腹中でお母さんの教育を受ける初めての息子娘、序列が変わるのです。信俊君が前に立たないといけないでしょう?」
他にもエデンの園で弟に侍る云々というのも有ったと思いますが、日時や詳細は忘れました。
信俊様は奇しくも三男でありますが、どうしてお父様が享進様の家庭を用いて、私達に何か特別な指導をされたのか、誰が説明できますか。
また、「兄が立たねばならない」と主張する方々とは相反する内容にもなり得るかとは思いませんか。
思わないし、そこに解釈を求めないなら、私が前述した通り、皆様は己の願いのみを果たそうとする者ですな。
違いますか。
清平教に興じる方々がいるのも致し方ないでしょう。
言うまでもなく、清平役事はお父様御自身が奨励してきたわけですからね。
「清平ビジネス」という揶揄も有りましたけど、そうなった原因はお父様に有ると私は思いますよ。
國進様が清平の監査を求められた時、それを制止されたのはお父様だと聞いてますし、以下の動画は御覧になった事は有りますか。
2008年3月14日清平訓読会
https://www.youtube.com/watch?v=BaMWZLCxEEU
「実利基盤を整えなければならない。先生と訓母様が苦労したろう。ひと月に何百億、年に何千億も稼ぐのが容易だと思うのか?」
と仰られていますが、これってお父様が実利を得る為に清平役事を利用していたと見る方が妥当なのではないでしょうか。
清平がただ暴走しているかのように見るのは、お父様の実像を見ていない事になるのかも知れませんよ。
どこかの誰かが「見ざる、聞かざる、言わざる」を奨励してましたけど、とっくの昔に統一信徒のほとんどはそういう状態に陥ってますし、お父様の実像を見ずに、清平のみを批判する者も同じ事じゃないでしょうか。
ついでに分派のことについても言っておくと、それこそ、お父様はなぞなぞの様なみ言で意味を含ませながら語られるので、そこに多彩な解釈が生じるのは当然の事ですし、何より、教会組織の非人道性が、信徒の感情的にも教会に反発心を生ぜしめ、分派の派生に拍車をかけているので、彼らの発生も致し方のない事です。
自由なみ言の研究をしたくても、教権により抑制するならば、私の様な者は分派になるしかありません。
分派を批判する方も多いですが、お父様のみ言に準じれば、そうなってしまうのは、致し方のない事なのです。
お父様お一人から、これだけ様々な方向性が生じており、そのどれもが、「自分達こそ正統だ」と主張するわけですが、それに対して私は言いたいのです。
み言に帰りましょう、と。
お父様から始まった私達なのですから、お父様、とりわけ、そのみ言に回帰するのが当たり前ではないですか。
この度、ブログを終えるにあたり、MCIの馬渕氏からも挨拶を頂きましたが、彼が詐欺師と呼ばれているのも承知の上で言わせてもらいますと、自覚してかしないでか、み言を否定する態度をとりながら、お父様を信奉するフリをしている輩こそ私から見れば大嘘つきの詐欺師ですよ。
だから私は最初から、信仰生命をかけてみ言を研究する、と言ってたわけであって、み言の謎が解明できなければ、お父様を不信するしか道は無いではないですか。
真の家庭と言いながら、どこが真の家庭なのですか。
とは言え、私がお父様を大好きだという気持ちは、もうこれは不変的なものでしょうな。
詐欺師なら詐欺師として、これだけ鮮やかに騙されたのであれば、逆に痛快ですよ。
3DAYセミナーの出発からして「騙されててもいいや」でしたからね。
私は変な奴ですし、被害が少ないから言えるのかも知れませんが、一時代を築いた人物として、こんなにも興味深い方は他にいないでしょう。
まあ、当分はお父様に対するメシヤ性やメシヤ観は私の中から消えることは無いです。
私を盲信から覚醒させる為、是非ともみ言研究家、それに反対派の方々は、これからもみ言、及びお父様にまつわる真相を伝え続けて頂きたいものです。
最後に私の立場を再表明しておきます。
1.私は現役教会員として組織に潜伏する単独分派である。
2.顯進様を正統だとは思わないが、その活動を妨害する気は無い。
3.み言による覚醒を求めており、そこが出発である。
4.お父様を疎外するならば、お母様さえ批判する。
他にも色々有ったかと思いますけど、思い出すのが面倒なので、こんな所で良いでしょう。
お父様のみ言には、間違いなく、私達が到達していない真意が隠されています。
現在、社会活動等も、視野に含めて動いてはいますが、み言の真意が定まらない限り、方向性が明確に打ち出せません。
今年の10月までになんとか辿り着きたかったですが、み言が削除される事態が懸念された事で、み言収集が最優先事項となってしまい、予定は少々、変わってしまいましたが、早目にブログを畳んで、収集と研究に集中したいと思います。
最初はマトモ?なブログかと思って好意的にして下さった方がいらっしゃったとしましたら、ここに至っては相当、落胆されたのではないかと思います。
そうした方々には重ね重ね、お詫びを申し上げたい所存です。
自分なりに通過しておきたい、問題定義や議論、読者の反応や批判を伺う実験的内容も有りました。
これから自分が破壊するべき自分自身の信仰観を再確認する意味も有りましたし、皆さんの御意見により、自分の知らない知識を得たいという意図も有りました。
私も様々な真意を隠しながら、ブログを書いてきましたが、妻の事や、教会での出来事等、私の実体験によるところに嘘は有りません。
しかしながら、事実的な部分で修正しなければならない所が多々有る事も思い出します。
例えば、み言の著作権を行使した例は聞いた事が無いと書いた事が有りますが、禹グループに対しては裁判において行使されたという情報が見つかり、確認して書き換えなければならないような所、等、色々有ります。
時間を見つけて整理しなきゃいけないのですが、記事数が多いので大変です。
あと、これも中途半端になっている自作み言集の報告等なのですが、これは一先ずアメンバーの方々に優先的に共有して、一般向けには、それからまた考えたいと思います。
情報共有のツールとしてブログは有効なので、そういう面での利用は今後もあるかも知れません。
ちなみに、以前もお断りしましたように、当方のアメンバーは原則的にみ言研究者、及びみ言収集協力者のみであり、過去に一度でもコメントやメッセージを下さっている方です。
まあ、その原則を非情になりきれず、私自らが破ってしまっている一面も有るのですが、ある条件を定めて、アメンバーを除名する基準も必要かと考えている次第です。
唐突に申請されても対応しません。
また、コメントの名前と、申請時のユーザー名が異なる方もいらっしゃるので、何かメッセージを添えて頂けると有り難いです。
さて、それでは、この辺にて一般読者様にはお別れを差し上げたいと思います。
今まで、多くの御意見を下さったり、議論を交わして下さった方、過大な評価を頂いた方、まあ、一応、その真逆の方々にも、このような私にお付き合い下さった全ての方々に感謝を捧げたいと思います。
私の文言で傷つけてしまった方がいらっしゃったとするならば、それはお詫び申し上げます。
今回の記事の内容もそれに当たるかも知れませんが、ただ、それは私の本音であり、一つの意見として許容して頂けると幸いです。
最後の最後に、私が聞いたお父様にまつわる証を。
お父様はこう仰られたそうです。
「あなた達に全て教えてあげたら、あなた達も私と同じ道を行かなければならなくなる」
なので、教えるのが辛いという事なのでしょうけど、間違いなく、私達はお父様と同じ道を行かなければならないはずです。
真の父母を信じる者ならば、察して行きましょう。
これは自論ですが、愛よりもまず、知る事です。
知る事無しに、愛は生じ得ないし、正しい道も歩めない。
お父様という方を知りましょう。
今まで、お読み下さり、本当にありがとうございました。
前回、デロリアンなんて書いてしまったので、映画の話がしたくなりましてね。
ラス2だと言うとのに、無類の映画好きのゆえに無駄に回数を使わせてもらいますよ。
…まあ、予定通りなんですけどね。
「Back to the Future」面白いっすよねー。
映画史上に永遠に残るであろう不滅の痛快アドベンチャーです。
デロリアンはこの映画に出てくる、タイムマシンに改造された車です。
3部作からなっており、当初は一部完結のつもりで製作されたのに、そうとは思えないくらい続編も完璧な出来ですよね。
一作目は如何にも続編が有りそうな終わり方ですけど、映画公開後に期待された続編は全くの白紙。
二作目は既に三作目の構想を織り込んで様々な伏線を張っていますが、三作目のラストでドクが「未来は白紙だ」というセリフは、まるで、この映画の製作そのものを象徴するかのような言葉ですね。
以前、この三作目を見ている時、作中、ドクがマーティに「Hey,Buddy」と声をかけていたのを聞いて「あ、いいな」と思ったのを思い出します。
「Buddy」って正しくはどう訳すのか知りませんけど、「よお、相棒」みたいな感じですかね。
「海猿」でよく知られるようになった言葉だと思いますけど、「Friend」とか「Brother」よりも、なんか深い絆を持ったパートナーのよに感じる言葉なので好きですね。
「海猿」の主題歌を歌ったB'zも、後にアルバム曲に「バディ」を書き下ろしているので、やはり影響を受けたんじゃないでしょうか。
歌と言えば、一作目にマーティが歌っている「Johnny B.Good」を聴くと、どうしてもこれを歌ってらした顯進様が思い出されますな。
懐かしい。
後、思い出されるのは「Final Fantasy VI」のゲーム曲である「Johnny C.Bad」とかですかね。(←誰が知ってんだ、誰が)
映画曲と言って、ちょっと感動したのは、ある統一教会系のみ言の映像のイントロに映画「ザ・ロック」の中の「Jade」という曲が使われていて、教会にもこんな良いセンス持った人いるんだ、と思った事が有ります。
まあ、良いセンスだ、と言うのは別に私が好きだから、というだけの事なんですけどね。
先程、登場しましたB'zなんかも大好きなんですけど、教会では否定されがちで辛かったですねぇ。
一般的にも「昔の方が良かった」という御意見や、「どれを聞いても同じに聞こえる」という御批判もよく伺うのですが、私からすれば、後の作品の方が断然良いし、彼らは常に新しいものに挑戦し続け、違うものを作っている!と思うのです。
私が「良い」と思うものに対して、誰かが「悪い」と思うのは、それはその人に何らかのセンスが欠けているからなのでしょうな。
逆もしかり。
悪口ではなく、元々、人は違う性格、性質を持っているので、完全に一致する事など無いのです。
それぞれが、それぞれの個性で補い合えば良いのでしょう。
「違う違う。君は僕とは違う。全然、違う。だから光る」
B'zもそう歌ってますし。
「人の心はどうしても何か足りないけれど」
歌詞の意味はちょっと違いますけど、そう感じるようになってるのでしょう。
何の曲か、分かるかな~?
そういうわけで、あいつは愛が足りない、とか言っちゃうのは一面的な考え方なのかも知れません。
おわ、また話が脱線しまくり。
ドクとマーティの関係って、自分的にはちょっとした憧れです。
統一の世界に来たのは、兄弟の様な絆で人と人が結ばれるって所に憧れを持った面も有りますので。
ドク役のクリトファー・ロイドは大好きな俳優の一人です。
彼の漫画的、コミカルな動きは面白くて見ているだけで飽きないです。
他の作品には「アダムス・ファミリー」など。
マーティ役のマイケル・J・フォックスは、最初はこの役にオファーを受けながらも、TV番組との兼ね合いで出演は不可能だと断っていたらしく、彼の代わりにC.トーマス・ハウエルやエリック・ストルツなどの当時の新鋭俳優の名が上がり、実際、エリックを主演にして撮影は開始されていたにも関わらず、製作側がどうしても納得がいかずにマイケルに再度オファーしたところ、マイケルが掛け持ちで撮影するのを承諾したと言います。
マイケルはそれからTVと映画の撮影に追われ、1日2時間の睡眠で頑張ったとか。
世の中には苦労している人はたくさんいるので、私も3、4時間も寝ながら、辛そうにするのはカッチョ悪いですな。
マイケルはハンサムながらもコメディー気質を兼ね備えているので、クリストファーとのマッチングは最高に相性が良いですね。
話変わって、他の作品では「スパイダーマン」において、ハリーがピーターに対して「Buddy」と呼んでたりします。
作中では愛憎が乱れる関係に陥ってしまいますが、やっぱり良いですよね。
父親の愛と恋人を奪い合うかのようなシナリオが、何か歴史に通じるようで食口には共感を呼ぶのではないでしょうか。
「スパイダーマン」も名作ですよね。
登場する敵が悪に陥っていく過程や、主人公が必ずしも完全なヒーローではなく、全編を通して成長していく様子が描かれている脚本が見事ですし、音楽やアクション、サム・ライミ監督ならではのホラー要素も織り込み、ラブストーリーから何まで楽しめる作品として仕上がってます。
何よりも素晴らしいのはMJの大きな胸に集約されたエロスですかね。
強調された衣装に、その揺れ具合、雨の中のシーンでの彼女の胸は、その、何というか、ち、ちく、ちちっ、…びが…
何とも純情でこういう言葉はなかなか書けないですが、要するにパイオツのビーチクが浮いちゃってるわけで、いやぁ、言いにくい言葉も逆さまにすると途端に言いやすくなって便利ですねぇ。
え、何?余計、卑猥に?
気のせいでしょう。
勿論ですが、製作側はこういう演出も間違いなく狙って行っています。
彼らが衣装一つにかけるこだわりは半端じゃないですから。
それに、彼らは子どもの頃から、アメコミに描かれるグラマラスなヒロイン達に興奮、欲情しながら、「孤高なヒーロー」そのものに憧れると言うよりも、「素敵なヒロインに愛される主人公」に憧れを抱いちゃったりなんかして、そういう子どもの頃の欲望が純粋なまでに表現されたのが、この「スパイダーマン」という映画なのであり、とりわけ、MJの胸なのです。(←ホンマかい!)
それにしても、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」では、あんなに可愛らしかった子役のキルスティンが、こんなに成長するとは…。
「アダムス・ファミリー」のクリスティナ・リッチとかもそうですなぁ。
これを読んだ食口の奥様は、近々、旦那が「スパイダーマン」をレンタルしてきたら、問題のシーンを早送りして嫌がらせしてやって下さいませ。
何の話だったか…。
そうそう、私も「Hey,Buddy」なんて呼び合えるソウルメイトが欲しいって事ですね。
それを統一教会の兄弟姉妹に望んだわけですが、そういう意識を持った人達の間柄でも難しいもので、最近ではそういう間柄であったはずの人達に向けて「お前はもう死んでるんだぜ」みたいな事を言っちゃう方もいるわけで。
そういう場合は「Buddy」ならぬ「Hey,body(死体)」なんて皮肉っちゃったりして。
「Body」には「死体」という意味が有るので。
皆さんも大好きなはずの「Stand By Me」のタイトルが、スティーブン・キングの原作では「The Body」なのは、子供たちが森の中に死体(Body)を探しに行く所に物語が展開されるからなのですよ。
それにしても、スティーブン・キングの書く話はどれも面白いよなぁ。
まあ、日本でも警察の隠語で死体の事をホトケと読んだりするし、「あなたは仏様みたいな方だ」と言われても安易に喜ばない方が良いかもしれませんねぇ。
ところで、「Stand By Me」に出演した名優リヴァー・フェニックスは「Back to the Future」のオーディションには落選したという噂も有りました。
若くして亡くなった惜しい役者ですが、その他の良作に恵まれたので幸いでしたね。
私としてはまるでジェームス・ディーンを彷彿させるかのような人物なのです。
その名のごとく、映画史に永遠に生き続ける不死鳥のごとき役者。
話があちこちに飛び回りますが、色々と関係性が有って面白いでしょう。
リヴァーは「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」で若き日のインディを演じていますが、監督はスティーブン・スピルバーグ。
スピルバーグは「Back to the Future」の製作総指揮。
人は如何に良いものを持っていても適材適所、自分に応じた活躍の舞台が有って初めて自分を発揮できるのですね。
映画はそれ自体が人生を表すかの様で、深く観れば観る程、面白い。
私の場合は単にオタッキーなだけですけど。
何の話だったか。
3部作になったアダムス・ファミリーにおけるマイケルの役の話だっけか?
違うか!
まあ、でもそんな見方をしてみれば、永遠の河の流れの中で王が登場し、「私の隣にいるのは誰か」なんて尋ねてみるのも面白い話の展開にできそう。
「Buddy」探しが「Body」にならなければ良いけども。
「Mammy」取りが「Mummy」に、なんて表現でも面白い。
出来れば、趣味の範疇で、しょうもない映画レビューでも書きながら、ウケ狙いだけのお気楽なブログを書きたかったなぁ。
約2年足らずも書いて、何の気兼ね無しの楽しんで書いたのは「○○○のみ言」を集めた記事だけだったかも。
あれだけは、心の底から楽しんで書いた、一番、思い入れの有る作品です。
「こんだけ書いてきて、う○こかい!」
あ、そういうささやかなツッコミ嬉しいです。
読んでない方は意味分かりませんわな。
面倒ですし、特に読んでもらわなくても良いので、リンクも貼りませんけど。
まあ、どの記事も私なりにちょっとでもユーモアを含めて書いてみたつもりではあるので、楽しんで頂けたなら幸いです。
あえて怒りを買う事も書きましたけど、その辺は御免なさい。
じゃあ、次をラストに、しめやかに別れるか、爆弾落として逃げるか。
どっちにしよっかなぁ。
裁判の結果も出て、お母様も暴走し、MCIも再登場、こんな面白い時期に閉店するのは勿体無いですけど、ブログそのものに未練無し。
私の関心事はみ言の収集と解読のみ。
また利用できる事が有れば、ブログを始めるかも知れませんが、正直、今の状態ではしんどいっす。
私が痛感したのは、純粋にみ言を求めている人、ではなく求められる人はあまりにも少ないという事。
また、教えてもらう事のみを頼りに、自分の考えは言わない人とか。
自分は何も出さずに、おいしいものだけ頂こうとするのは泥棒みたいな根性であると苦言を呈したい。
自分の好きな解釈でみ言を選り好みして利用する輩にも。
自戒の意味でも、それは言わねばならないでしょう。
私は一度、み言に帰ります。
それはまるで過去に戻って、もう一度未来に帰ってくるかのような冒険です。
私は2年前まで、自宅に送付されてくるToday's Worldに掲載されているお父様のみ言さえ読まずに捨てていた男です。
何度も言ってますが、実際、偉そうな事が言える立場では全くありません。
出来ることならば、その冒険には多くの方と共に出発したかったですね。
お読み下さり、ありがとうございました。
どうもです。
連絡下さったのに、すぐに返事を差し上げられなかった皆様、どうも本当に申し訳ありません。(最近、こればっかり言ってる気がするけど…)
でも、言い分けさせてもらって、ついに一日に一度もパソコンを立ちあげられない日なんても生じてきましてね。
このパソコンジャンキーがですよ。
毎日、違うネタでブログを更新していた頃が奇跡に近いですね。
うちの奥さんも忙しくなり、うちの子ども達も忙しくなり、必然的に私も忙しくなり、一日中パソコンの前に座るなどという事は環境的に許されないですね。
まあ、でも幸せな事です。
子ども達にかまう時間は楽しいですね。
日々、その成長を見守る事が出来るのは有り難いです。
私に子ども達と過ごせる時間が有る事自体は、ある人達からすれば、別に忙しくない事なのかも知れません。
世の中には子ども達と触れ合う時間もないお父さんも多いでしょうから。
でも、私が忙しさを感じる主な理由というのは、み言の収集作業に最も時間を割きたいという所に第一義が有るからでしょう。
以前は平日でも1件は終わらせていましたが、最近は休みの日でも進みません。
ブログへの時間を削るのは致し方有りません。
あと2回ほどで終わります。
子どもと接していて面白い事は色々有るのですが、彼らはとても早い段階から会話の組み立てを行っているというものが有ります。
どこの子もそうだと思うのですが、うちの子は私に何か伝える時、次に私が何を喋るのか、既に決定してから話しかけてきます。
「パパ、○○が○○です」という彼らのセリフの後、彼らの期待通りの返事を私ができなかった場合、「○○って言って」とこちらの言うべき台詞を要求してきます。
「『あ、そうか』って言って」とか、割と細かいです。
いたずらでわざと要求と異なる回答を続けると怒ります。(これがまた可愛い)
2、3歳の頃からそうですし、恐らく、言葉の話せない段階の時から、泣いたり怒ったりして、親とかけひきしながら成長しているのでしょうね。
私が彼らにとってあまりにも予想外の要求を返すと、今まで体験した事の無い環境に投げ込まれた小動物のように、どうして良いか分からない状態に陥るのも面白いですね。(これがまたまた可愛い)
しかし、それを繰り返しながら徐々に高度なやりとりに対応出来てくるので、やはりそれを見ていて楽しいのです。
彼らは基本的に我を通そうとし、自分の思い通りにいかなければ強行手段に打って出たり、親を欺こうと小さな知恵を働かせます。
人間って本質的に何でも自分の思う通りに出来ないと満足しないのですかね。
まあ、今日はそんな幼児の話から。
私の子どもの頃を、母親から聞く機会が有りました。
幼稚園の時、舞台発表で劇をするのですが、私はナレーターを担当したらしく、舞台に上がって物語の成り行きを説明するわけですが、一人で出るわけでなく、3人くらいで割台詞が有り、一緒に声を合わせてナレーションする部分も有った中、私は自分一人で喋るところはちゃんと喋るのですが、一緒に喋る部分については、沈黙や口パクだったそうです。
合唱でも自分が歌わなくても済む場合は口パク等でやり過ごしていたそうです。
その割に舞台を降りて他の園児の劇を鑑賞する時間は、その全ての台詞を覚えており、母の隣で同時通訳のごとく、全台詞を暗唱していたそうです。
…天才かっ!
まるで全問正解できるテストをあえて白紙で提出するかのような奇児だったようです。
絵本を読み聞かせても、親が読む後を追って文字を解析し、教えてもないのに、勝手に字を覚えたそうで、父親すら「俺の事は思えん」と言う程の麒麟児。
そんな天才っぷりも、この歳になれば別に並以下の能力に成り果てるので、当てにはなりませんが、我が子の才も早目に見出して、良く伸ばしてあげたいものです。
でも、私の妻は子どもが天才で生まれる事は望まないそうです。
天才は常に苦悩の中に生き、幸福になる事が出来ないと言います。
私が天才かどうだったかは知りませんけど、私が自分で自分を分析してみるに、私は恐らく極端に自信が無く、それでいて親や周囲の期待に応えねばならないというプレッシャーから、あまり自己を表現できなくなったのではないかと思う節が有ります。
小学校の時の先生達にも「やればできるのに」と何度言われた事か。
今でも、家の中では一人調子良く歌を歌っても、人前でマイクを渡されれば歌えません。
私にとって書く事というのは、一つの自己表現手段として、自分に出来る限りの最小の選択だったのかも知れません。
最近、高校生について村ではあれこれ言われていますが、私が彼の時分は真っ向から相手に意見をぶつけられるような根性は無かったので、なかなか大したものだと思います。
ネタにされるのが嫌いなようなので(誰も好きじゃない)、こんな所で書かれるのも嫌でしょうけど、まあ、私は良いのじゃないかと。
今は荒削りながらも、人の意見を読み分け、それに対する自分の意思を伝えるような才能が有るのではないですか。
分からない事には質問できると言うのも一つの才だと思いますよ。(私はできない人なので)
心配なのは、彼がここでブログを書いているような大人達と同じような大人になってしまう事じゃないですか。(←コラコラ)
子どもらしくない子どももいれば、大人気ない大人も世の中にはわんさかいるし、特に真意を隠しながらブログを書く、オカルト好きの変人になってしまうと大変だぁ。
将来は、今見せてくれている才を伸ばして物書きでも、弁護士でも目指してくれれば良いですが、もし、御興味がお有りなら、み言や聖書の矛盾を掘り出して解釈を行う研究者になって、私と一緒にオカルトの世界に…(←コラコラコラコラ)
昔はことごとく大人に噛み付いていた子が、教育の情熱に目覚め、将来、学校の先生になったりするのだから、そう目くじら立てなくても、なるようになるものなのかもね。(教育を放棄するという意味ではなく)
私が高校の頃の英語教師で、「最近の若者は言葉遣いがなっていない」と言う先生がいたのですが、補助教員の外国人の先生は、「私の見る限り、彼ら(若者)はちゃんと言葉は使い分けている」とその観察したところを話してくれました。
純日本人から見ると、正しい日本語の形式的部が気になるのですが、外国人から見ると、言葉の形式そのものよりも、彼ら若者が相手に対する態度と実像を見れるのですね。(ちょっと上手い表現がみつからないですが)
私が思うには、子ども、若者は自分達の目で大人を見て、敬意を払うべき人にはそれなりの態度、言葉遣いでもって対してます。
時折、職場でもギョッとするような言葉遣いで声をかけてくる若者がいますけど、彼らが別の人に対する態度を観察しているうちに、それが私に対する悪意ではない事が分かってきたりします。
言葉というのは時代ごとに変容するもので、昔の常識が今は通用しなかったりします。
何の文献か知らないのですが、とある日本の古典には、「今の若者は言葉がなっていない」といった文言が書かれているそうです。
1000年以上前から同じ事を繰り返しているわけですな。
具体的に言ってみて、「あなた」という言葉は「貴方」と書きますけど、これって漢字を見れば、これだけで敬語っていう印象が有りますよね。
「貴様」はどうですか。
どう見ても尊敬語に見えますけど、現代では良い意味ではないですね。
「お前」も「御前」と書けますが、もしかしてこれって相手から見て「前」の事で、「御前」と言ったら「あなたの前にいる私(物)」の事だった可能性が有るんじゃないですか。
「君(と僕)」と言う言葉は、通説によると吉田松陰(もしくは高杉晋作)が最初に使ったと言われていますが、この「君」という漢字は元々「王」や「天皇」に使われていた言葉なので、やはり、相手に対して敬意を示す言葉として使われ始めたと考えるのが自然だと思います。
でも、現代ではそれらのことごとくが、目上から目下に使う、ややもすれば侮蔑の表現へと転嫁されているという奇妙な事になっています。
ところが、これらの事に「使い方間を違っているよ」という人は誰もいないのです。
「おやすみなさい」という言葉は「~しなさい」だから使役の言葉なので、これから眠りにつく人が使用するのは用法としておかしいのですが、もう誰も指摘しません。
私がむかつくのは、「お疲れ様」は目下からで、「御苦労様」が目上からの言葉だという事を始めに言い出した輩です。
タコ殴りにしてやりたいですね。
まあ、でもそれは時代の流れとして受け入れるべきなのでしょうね。多分。
言語が変われば名前すらも変わるし。
イエス様は所により「ヘスス」になったり「ジーザス」になったり「耶蘇」になったり、そもそも「イエス」自体がオリジナル音声じゃない。
韓国人は「リ」が「イ」になったり「ラ」が「ナ」になったりするけども、彼らのアイデンティティは傷つかないのでしょうか。
私は名前の発音が変えられたら気分悪いですけど。
不寛容なのかなぁ。
前回も登場して頂いた、私の知り合いの小学校教師は、「教えるというのは難しい」と言います。
何故かと言うと、時が経つにつれ、教える内容が変化していくからだといいます。
特に社会科は如実に現れると思うのですが、時代が進むにつれて次々に新しい発見がされるので、昨日教えた事が、今日には変わっている可能性が有るのです。
私が子どもの頃も、「四大文明」というものを習ったのですが、マスター・キートンによれば、その頃は他に20を越える文明が存在した事が科学的に証明されているそうです。
漫画の知識も役に立ちますな。
ゆえに、その教師は「今はこう言われていても、後に変わる可能性も含めて教えなければならない」と言います。
何事も鵜呑みにさせず、自分で調べ、自分の目で確かめ、常に新しい変化に対応出来るようにする指導こそが正しい教育であると。
ただ、その先生、反戦教育とかに御熱心で、国歌斉唱、国旗掲揚は不支持。
御自身がされている教育が将来的にどういう結末になるかなんて考えてないように見受けられるけども。
そういう人ほど、もしかして戦時中はバリバリの愛国教育家になってたのだったりして。
ちゃんちゃん。
ところで、突然、カルト原理の話になって申し訳ないですけど、イスラエルで「十戒」が施される前の彼らの倫理観ってどんなものだったのでしょう。
言われた時、「えーっ!姦淫しちゃ駄目なのぉ!?」って感じだったのでしょうか。
イエス様が来られ、「思うだけでも駄目!」なんて仰られたので、「えーっ!思うだけでも駄目なのぉ!?」っていう感じだったでしょうかね。
実体験的にも。
言われなきゃ罪じゃなかったのに。
もう、イエス様の罪作りっ!(←意味が違う)
お父様なんて「思わせても駄目!」と仰られるわけですから、これもまた罪作りなわけで。(←いい加減にしろ)
もし、仮に次に来られる方がいらっしゃるとしたら何と仰られるかなぁ。
「男と女の概念が有ったら駄目!」とか言われたりして。(←ジェンダーフリーじゃねぇか!)
まあ、冗談はさておき。
私は昨日から昔までの自分を思い出すと恥ずかしくてしかたがない事が多いです。
それは今の自分へと新しく成長し、変遷している事なのかも知れませんが、大体は、あんな事しなけりゃ良かったな、という後悔だったりします。
今の自分を形成する為に必要な過程として、過去の失敗が有るのでしょうけど、本当に昔を振り返るのは嫌いです。
このブログだって、別に誰に指摘されたわけでもないのに、以前書いたものを読み返すと恥ずかしくてたまりません。
今書いている文章も明日にはそうなるかも知れません。
そうそう、前回の記事で「中和的主体と統一体では概念が全然違う」という某講師の言葉を捕まえて「そこそんなに重要じゃねーし!」みたいな事を書いたわけですが、MLさんのブログに掲載されたみ言を読みながら考えを改めさせられたのです。
38.「統一教会の人たちがみな原理を知らないでいるのです」
http://ameblo.jp/mnlgs/entry-11887399845.html
こういうお父様御本人のみ言が有るならば、私も改めて、この言葉を精査しなければなりませぬ。
原理を知らないくせに「知ったか」な発言をした自分を今、振り返って恥ずかしいのであります。
でも某講師の語る観点はいずれにせよ陳腐には違いなかったですけど…。
まあ、つまり私は日々、内省・反省しながら自分を常に正す努力をしようという努力を心がけようと注意する事に意識を傾けるつもりで勤しんで頑張るような試みを模索しているわけですね。(←あ~、ゴチャゴチャと意味分からん!つまり曖昧なのね)
なので、やはり皆さんにも、常に変容する時代の流れ、変遷に対応し、生きた化石にならないようにお薦めしたいわけです。
原理主義者のままでは生き残れない、と申し上げたい。
MLさんは控えめな方なので読者に最大限の配慮をもって表現されますが、私としてはMLさんがこれだけ明白に語られているお父様のみ言を提示して下さっているにも関わらず、未だに原理至上主義でいる人達というのはどうかしているんじゃないかと。
原理などどうでも良い事で、良心のみが全てと言っている御父母様信者がいるとしたら、それはもう精神が分裂しているのではないかと。
(※注 MLさんの思いの内を代弁したわけじゃありません。私の意思による私の表現です)
原理は不完全で、み言は矛盾だらけ。
なので信仰を捨てたという人はまともな人です。
私だって、今後、そうなる可能性は有ります。
ただ、これを読む貴方様が今もなお、お父様をメシヤとして信奉する一人ならば、み言と正面から向き合うべきです。
その他の人は、まあ、好きにやってもらったら良いのではないかと。
真の母と呼ばれる方を神格化させたり、今はメシヤ化させようという動きも有るようで。
それを批判する人の一部では三男が長男だとか言う。
彼らの信じるものの主張は異なりますが、そういう事をする心の動きというのは質的に全く同じ。
真実がどうのこうのと言いますが、貴方様御自身の真実はどこに有るの?
未来の事が分かれば、今の私のやるべき事も分かるけど、そうはいかないからなぁ。
過去を学べば、ある程度、未来に予測をつけて生きられるはずなのだけど、人類は同じ過ちを繰り返していると人の言う。
デロリアンに乗って時空を越えた冒険に繰り出してみたいですな。
まあ、私は「Back to the Nature」の方が良いのですけど。
無為自然。
しかし、老子の弟子達は、師匠を権威づける為に事実を改竄して書に残したとか残さなかったとか。
orz...
お読み下さりありがとうございました。
先日、仕事中に体力的限界を感じましてね。
会社に備え付けの自動販売機で栄養ドリンクを買ったのですよ。
栄養ドリンクと言ってもほとんどジュースみたいなレベルのものを買ったわけですが、自動販売機で飲料を購入するなんて1年振りくらいの事でしたわ。
気休め程度でも、プラシーボ効果みたいなものは得られるのではないかと期待して。
で、飲んで数分経った時の事。
電灯をともしたかのごとく、急に視界がパッと明るくなりまして、だるかった足が何となく軽くなったように感じたのです。
まさか本当に栄養ドリンクの効果が!?
偉大なり、プラシーボ効果!(←いや、そこはローヤルゼリーを称えてやろうぜ!)
そんな怪談から始まったわけですが、最近、なんだか眼球の中に蚊が飛ぶ現象が始まっているような感じで…。
長生きできるかなぁ。
関係無いけど、空腹時に甘いもの食べると口内炎が出来る人体的法則を忘れてやっちゃったので、今、唇が痛ぇ…。(←これって私だけかなぁ?)
まあ、人間、思い込みで良くも悪くもなるわさ。へけっしゅ!
ところで、人間は思い込まされる生き物でして、人をトリックにかける生業の人間は、この思い込みを利用して人を騙すのですね。
詐欺師は勿論ですが、手品師などもそうですね。
ビジネスで成功する人も、ある面、この「思い込ませ」の技術に長けた人達。
虚構の世界をリアリティを持たせて描く各界の作家達もそう。
スポーツ界なんかでも、自己暗示をいかに強くかけられるかが重要だったりするし、教育の現場では「あなたは出来る」みたいな暗示をかけて自信を持たせようとする。
ああ、この世は全て思い込みで成り立っているんだ。
逆に現実に近づけば近づく程、もしかしたら人は正気を保てなくなるかも知れない。
人は表面的なものばかりにとらわれ、裏に隠された真意を見ない…ように思われがちですが、実は、人が表面的なものによって動かされるという事はほとんど有りません。
人は目に見える言葉ではなく、目に見えない言葉によって思い込まされ、操られるのです。
え?言葉は最初から目に見えないって?
そりゃそうですな。アハハハ。
表面的な言葉で騙そうとするのは程度が低いですよね。
「消防署の方から来ました」みたいな。
言葉ってのは便利なもので、「消防署の(ある)方(角)から(歩いて)来ました」って内容が、あたかも「私は消防署の職員です」と聞こえるのだから面白い。
詐欺師は「嘘はついていません」と言うのですけど、それは数学的な解釈であって、国語的には騙そうとする意図が明白なわけだから、完全な詐欺行為ですわな。
私がこういう事をしているとしたら、「妻の任地は某国です」みたいなところ。
一応、妻の国籍や経歴を隠す目的で使っている表現ですけど、例えば私は日本人で日本国内で歩んでましたので、「私の任地は日本です」と言っても間違いではないですよね。
そう言う事で、あたかも私が日本人ではないかのような印象、または可能性を与える事が出来ます。
まあ、でも前述したように、この程度の誤魔化しの言葉ってのは最下級程度の言葉遊びです。
遊び心で「某国」や「私の年齢」ぐらいは、意図的に断片的な情報を各回に置いてきたので、それらを組み合わせて、某国がどこで、私が何歳なのか一桁台まで割り出している方もいるんではないでしょうか。
逆に言葉の難しさというのは、はっきりと説明しなければ、相手に正確に伝わらない事。
例えば単純な話、「右」と「左」。
聖書で右側の強盗と左側の強盗が登場しますけど、それってイエス様から見て右なのか、左なのか、イエス様に向かって右か左か分かりますか。
私がイエス様を正面にしてみれば、イエス様の右は私の左になるわけで、左は右となります。
つまり、ただ「右側」と言っても、それは実際の右なのか左なのかは分からない事になります。
自己を中心に見るか、相手を中心に見るかで内容が異なってきます。
あるいは酒の席で、上司が「君、○○について知ってるかね」なんて知識をひけらかしたい時に尋ねてきた場合、「はい、知ってます」なんて言ってペラペラ自分で説明しちゃったら具合悪いですねー。
「無学なもので教えていただけませんか」ぐらいの態度で出れば、上司も気をよくして「そんな事も知らんのかねー」なんて横に座らせている女の子に自分の学を自慢できます。
正解を答えても正解でない時、自分をアホに見せるのが正解な時が、もしかしたら有るかも知れません。
自分を敢えて落としてでも、相手の心理を操作し、自分の利を得る事が出来れば、それが一番、正解だったり。
勿論、上述は例えばの話ですよ。
言葉がいらない時も有りますね。
私なんかは、そんな経験が多いのですが、どうも黙っていると怒っていると思われるようで、高校の頃、私が発表の為に教壇に上がったのですが、教室はもう騒がしくて発表の声など届きそうにもない。
でも、しばらく私が黙っていると、級友は私が怒っていると思って一斉にシンと静まり返ったのです。
先生がいくら大声張り上げて話しても黙らないのにね(笑)。
また、ある時、ホームでビデオを見ている時、近くで姉妹がお喋りをしていたのですが、私がふとビデオを止めて部屋を出ようとすると、その姉妹達が突然、私に謝ったのです。
どうやら、うるさいからビデオの音が聞こえなくて私が怒って出て行くと感じたようなのです。
こっちはそんな事、一言も言ってないのに、勝手に思い込んで解釈するのですから、使い方によって便利な手法になりますね。
人を思い込ますのに言葉は必ずしも必要条件じゃないのですね。
むしろ人を騙したり、操作するには、既に最初からその人が思い込んでいる事を利用して話すのです。
私は真意を隠しながら書いていると言いましたが、今日、何故このような説明をするかという事について、「私のブログの真意の解き方を話している」というのは、程度の低い解釈になります。
当たり前の事に当たり前のツッコミをされるのはシラけるだけなので、あらかじめ言っておきますが、私のブログの真意など、99.99%の人が興味無いですからね!
私も別に解いて欲しいとは思っていません。
私がここに、こうして書くのはまた別の意図があるからです。
話は変わりますが、ある日、知人の小学校教師が私に教えてくれた事が有ったのですが、その人が言うには、サザンオールスターズの「マンPのGスポット」という曲が、従軍慰安婦について歌ったうたではないか、という事なのです。
そんなバカな。
拡大解釈も過ぎるだろ、と思って調べてみたら、従軍慰安婦の比喩として歌われていると推測されているのは「悲しみはメリーゴーランド」という曲でした。
桑田佳祐氏御自身が明言されていないので、あくまでも聞き手の独自的解釈ですが、まあ、彼の詞には社会風刺が含まれていると、ファンが勝手に解釈してくれてるわけですね。
その教師も多分、サザンのファンだったに違いないでしょうけど、どこかの伝言ゲームか、本人の意識の中で従軍慰安婦とマンPの性的イメージが結合・変換されて思い込みとなったのでしょうな。
それとも実際そうなのかな?どっちゃでもええ!
ところで、福島復興支援ライブで桑田氏がマンPを歌ったという事で批判された事が有りましたけど、頭固えなぁ~。
そんなガチガチの頭じゃ平和の世は来ないぜぇ~。
思えば10年以上、準模範的教会員として生きながら、大変な思い違いをしていると気付いたのが、やっとこさ「夜の神様と昼の神様」という言葉を聞いた約2年前。
意味も分からないままに漠然と、新たな理解を得なければならないと、み言を再読。
某有名原理講師O氏は神様を講義しながら「中和的主体と統一体では概念が全然ちがう!」なんて無邪気にはしゃいじゃって、そこそんなに重要じゃないし!と思いながら、過去には尊敬していた先生方が陳腐で滑稽に見え始め。
そして10年以上をかけて築き上げた自分の信仰観をぶち壊す為に毎日、ブログを書き続けた1年間。
表向きはわりかし模範的な事を書くので、それなりの評価を下さった方々もいらっしゃり、直接、連絡をとりたいと素性を明かして下さった方もいましたが、ここまでの予定が有ったので、その関係すら壊れるのを恐れ、失礼ながら、当時にあえて深い関係を築くのはお断り申し上げました。
ここにきても、いまだ同じ事を仰って下さるならば、喜んで私の素性を明かして非礼を詫びたいと思います。
今をもっても、ブログの目的を全て果たす事はできませんでしたが、外的事情により、あと数回でブログを終了します。
ブログを書いていた約2年間の中で最も大きな獲得はAwakeningの実在です。
私はまだそこに到達していませんが、その出会いによって、私はいくらか安心してブログを終えられます。
ブログの初志はAwakeningとの出会いで若干の修正が有りましたが、言いたい事の本質は変わりません。
でも、それは言ってしまったら意味が無いので言いません。
悪しからず。
普段、必ず起床しなければならない事情を抱いて床に着けば、時間通りに目覚めるのに、休みの日に気を抜けば8時間でも、それ以上でも眠ってしまう。
と言うか、疲れすぎて起きれないのかも知れませんが。
実際、妻が言うには起こしても起きないとか。
とは言え、普段は睡眠が2時間でも3時間でも目が覚めるわけですから、目覚めるには、「目覚めよう」という意識が必要なのでしょう。
そう言えば、昔、ホームの兄弟と実験しまして、目覚ましにしていた携帯の着メロ、着ボイスに合わせたジェスチャーで起床する、といのに挑戦しましたなぁ。
例えば「最高ですか!?」という着ボイスが有ったら「最高です!」と言って跳ね起きるとか、ロッキーのテーマが流れたらシャドーしながら起き上がるとか、ですね。
成功率は10割近かったですよ。
面白かったなぁ。
朝からテンション高かった。
一日の中で最も苦痛な起床の時間も最高に楽しいひと時にできるのに、今、辛いように見える現状も悲観的でいるだけじゃ勿体無いですね。
人がどうこう言うことよりも、自分が何をしているのか、よく見た方が良いかと。
あ、それは私の事か!
ああ、なんだかだんだで、今、もう26時間起きてる。
目覚めたいなぁ。
お読み下さり、有難うございました。
最近、マジで時間ねーよぉ。(泣)
自宅に帰ってからの書類の処理が多すぎるし、奥さんには10分おきに子ども達を監視しろと命じられちゃうし。
それでも睡眠時間は毎日3~4時間なのに、休日は気を抜いて8時間も寝てしまうという大失態。
もう、み言収集する時間無いよぉ。
というわけで、もうこのブログはクロージングに入ります。
この約2年間、裏の目的を秘めながら表の記事を展開してきたわけですが、表の目的を果たせないままに終わりそうなのは残念ですが、裏の目的だけは完成させて10月を待たず幕引きです。
あまり期待させては悪いので、お断り申し上げますが、私の文章の秘めたる真意は直接的にはお父様のみ言等は関係有りません。
また、それを明かす事はしませんし、聞かれても答えません。
皆さんはそれを気にしても時間の無駄なので、特に探る必要は有りません。
前回の記事はナイスツッコミを頂き、追記も書かせて頂きましたが、そこに書いた通り、私は無類のオカルト好きなんですよね。
幼稚園の頃から神仏に興味を持ち、小学校の頃には折り紙で提灯を作って神に捧げ、両親の安全を独自的な方法で祈願するという異色な、と言うか変な子どもでした。
自分の子どももそうなると嬉しいかどうか微妙ですが、まあ、宗教人になる素質は生まれながらに有ったわけです。
「宗教はアヘンだ」という言葉が有りますが、対極に分けて、宗教と非宗教人がおり、両者は根本的に反りは合わないですが、一応、共存はしてますわな。
ただ、麻薬に対する一般的な認識がどうかと言えば、それは好意的ではないわけで、大抵の人は宗教人なんて厄介だと思ってる。
話のレベルを下げて煙草を吸う人と吸わない人がいますけど、煙草を吸わない人は、歩き煙草なんかして煙を吹きかけてくる人を見ながら、文字通り煙たがったりするもの。
神様がどういう目的で煙草を創造されたのかという共通の認識でも有れば、互いに折り合う一点が有るかも知れませんけど、まあ、煙草が嫌いな人もいるという認識で喫煙者にはマナーを守ってもらわねば、非喫煙者は忍耐するしかありませんね。
およそ特に新興宗教の問題点としては、煙草を吸いたくない人に煙草を吸うように勧めてくる所に有るとも言えますが、彼らは良かれと思っているわけですな。
そして、非喫煙者から、いかに煙草が有害であるかという事について詳細な資料が突きつけられるけども、一部の喫煙者からすれば、もう自他問わず健康とか環境とか関係無いわけですな。
相手の立場や考えを尊重出来れば問題はそうそう起こらないはずなのですけど、大概は排他的になって相手の存在意義を認められない。
結局、感情的になって泥沼。
人を呪わば穴二つという言葉が有る様に、人々は平常から穴を二つ掘りながら生きてると言っても過言ではない。
ならば、あらかじめ穴を二つ掘って彼らを埋めてしまおう、と。
そこには最初から有るものだけが残り、元の世界へと帰る。
交代ごうたいに進む原則を知っていれば、彼らを穴に誘うのは容易でしょう。
現にある者は誘われ、操られ、主管者の材料になっておいしく調理されてしまっている。
そこから抜け出すには気付くしかない。
人は事実ではなく、信じたいものを信じる事を。
とまあ、もう、あからさまにしつつありますが、ヒントも無しに辿り着く事は不可能でしょう。
一つ言える事は、お父様が真意を隠しながら50年以上もわたってみ言を語り続ける事が可能か不可能か、と言えば、それは不可能ではないという事です。
本当に何か別の真意が有るかどうかは別にして。
難しいのは、それを最終的に気付かせる事と、私が悩んだのは、いかに嘘を吐かずに真意を隠すかという事です。
私はブログの本文やコメントにおいて、嘘はついてません。
事実を知らないで書いてしまった間違いはあるかも知れませんが…。
一流の詐欺師は嘘をつかずに騙すのですよね。
私がそういう事をしているという事は、ずっと最初から「羊の様に従順で、蛇の様に狡猾に」という文言や「魯迅」「嘘喰い」「ダブルミーニング」等々の記事で暗にお伝えしてきたところなのです。
読者からしたら、どうでもいい漫画のネタも、私にとっては最重要事項だったりするわけで、まあ、そんな話も皆さんにとってはどうでも良い話ですよね。
与太話と思って聞き流して下さい。
さて、今日も私の大好きなオカルト話。
と言ったら真剣な研究者には失礼か。
聖書の数学
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/104seisho.htm
いや、もう凄すぎると言うか、意味分からん(笑)。
三角数とかまでならなんとか分かりますけど、ゲマトリアとか何とか言い出すと、もう頭が…。
私は高校生になっても数学では知恵熱出してた程、数字には弱いですからな。
これがもし、韓国語とかでも出来るなら、是非ともお父様のみ言でやってみてもらいたいですね。
要するに偶然の一致とは思えないという程の数学的根拠を並べ、聖書の神秘性を証したいという事なのでしょうけど、これを活かして我々は一体どうしたら良いのか。はてさて。
このサイトの中で、聖書の記述を根拠に、「最終的に、神の救いに入る人々の数は、全人類の3分の1なのである。あとの3分の2は、神への信仰を拒むために、自分の罪の中で滅びるであろう」という文言が有るのですが、この前の記事で「日月神示を読んでます」というコメントを下さった方がいらっしゃり、忙しすぎてコメントを返せなかったのですが、実は「私も読んでました」と答えたかったのです。
なので、ここで書きます。
私が日月神示を知ったのは、約10年前、前線なんかやってられるかー!と言って本屋に言って宗教書を読みあさっていた時、ふと「ひふみ神示」なる本を手にとったのですが、それが「日月神示」と同じものなのですよね?
こんな啓示・預言書が日本に有ったのか!という衝撃と、み言に通ずるんじゃないのか、という事で夢中になって読みましたね。(立ち読みですけど)
確か、この神示の中にも、地球の大掃除が起こって、人類は3分の1になるって事が言われてるんですよね。
うろ覚えなんで恐縮ですけど。
「死んで生き返り、三分の一の臣民になる」かなんかだったのではないでしょうか。
そういう一致点をから何らかの根源的真理を発見できたら良いのですけど、より複雑にもなりそうな。
もっと興味深いのは、この御神託、「八通りに読める」と、この神示自体に示されているようで、訳本が有るとは思うのですが、やはり原文の対訳になったものが欲しいですね。
それにしても、本当に八通りも読めるパターンで構成されているとしたら、本当に神懸かりで驚異的ですが。
私も意図的に3通りまで作った事はありますけど、8は無理だわ。
この神示も記号や漢数字などで構成されており、やはり何らかの数理性と言うか、数字による意味合いを含めているのでしょう。
読みたいなぁ。
読むだけで人生が終わりそうだ(苦笑)。
ただ、人間は信じたいものを信じると言った事と同じ事で、人は物事に対して何らかの意味を無意識的に付加したいという性質も有るのですよね。
ちょっと意味合いは違いますが、車の正面を見ていたら何だか人間の顔に見える。
ある現象と、別の現象を結びつけたがる。
脳がもう、その様な構造になってるそうな。
そのおかげで「CARS」のようなアニメも楽しめるわけですが、そこに登場する車はフロントガラスが目になってますよね。確か。
普通?はライトの部分を目に置き換えたりするのですけど、作者は新たな別の視点から擬人的キャラクターを創作したのですね。
車の常識を打ち破り、乗車する人間がいないコンセプトでもって成し得た業かも知れません。
これって私からすれば画期的な事で、やはり人と違う視点を持った人っていうのは成功するんだな、という気がします。
そういう人が成功するのも、その感性に需要が有るということ。
そう思えば、平均的な常識人も、時には自分が住んでいる当たり前の世界から一歩踏み出して娯楽を楽しみたいと思っているのでしょうけども。
常識人と変わった人はどちらが良いのでしょう。
バランスが取れているのが一番?
勿論、そうでしょうとも。
お父様のみ言に別の意味が有ると見出したい私の気持ちも、既に瓦解した統一教会の原理と現実からくる失望感を慰める為に、無理矢理に何らかの意味を付与しながら一縷の望みに縋ろうという現象なのかも知れませんね。
逆もしかり。
さてさて、人間が二極に分かれるとすれば、この世界は二分の二で構成されているのであり、三点が存在するとすれば、三分の三で構成されている事になります。
この三分の一が単に人数のような量的なものを示しているのであれば、ある人達は生き残る術が有りません。
しかし、もし、この三分の一が新たな一点を発見する事を示しているのであれば、全ての人に生き残る可能性が有ります。
自分の立ち位置が重要ですね。
あ、こんなオカルト話は好きじゃない?
じゃあ、もう読まなくて良いですよ。
余談ですが、世の中には皮肉られてても、全く気づかないおめでたい人もいますからねぇ。
あ、自分の事か(汗)。
しかし、二つに足をかけて股が裂けているのを見たら吹き出しますよ。
でも、お読み下さりありがとうございました。
どうも。
最近、歩いていると膝がカクンッと落ちる頻度が増えてきたUnrestrableです。
だいぶ時期外れな話題の提供となりますが、統一教会グノーシス主義に関連した話なので、あえてこの事について触れておきたいのですが、意味の分からない人には何を言いたいのやら分からない内容になってますので、御留意下さい。
早速、本題なのですが、お父様は基元節の事をよく「D-Day」と呼ばれましたよね。
何故、「D-Day」なのか、お父様は説明された内容って有るのでしょうか。
一般的に、「D-Day」と言うのはアメリカの軍事用語として知られており、作戦決行日とか、攻撃開始予定日を指します。
歴史上、最も有名な「D-Day」とは、第二次世界大戦の1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦が知られており、その日がほぼ「D-Day」の代名詞のようになっています。
ノルマンディー上陸作戦を描いた有名な映画作品としては、「史上最大の作戦(The Lonegest Day)」とか、「プライベート・ライアン」などが有ります。
何故「D」なのか、という理由には諸説有りますが、単に「Day」の頭文字が強調されて反復されているという見解が有力です。
和製英語の「X-Day」というのも、重要な事が起こる日としての意味を持っていますが、これは多分、カレンダーにバッテンを付けるようなところから「X」がきてるのでしょうか。分かりませんけど。
お父様は戦時を駆け抜けて来られた方ですし、「D-Day」と仰られるからには、このアメリカの軍事用語を意識して使われたに違い無いと思うのですが、それにしても「神様の結婚式」と謳われた「基元節」が、どうしてそのような物騒な表現でもって話されたのでしょうか。
まあ、お父様は少々、軍事趣味的な傾向が強いように思える節が有りますし、その影響なのかどうかは知りませんが、御子女様方もいちおうに軍事趣味が有りますよね。
考えてみりゃあ、統一教会自体に軍事趣味は流行していて、最近は使用されなくなりつつあるようですが、過去には「団長」とか「隊長」とかの役職名が有り、実践部所は「前戦隊」などと呼ばれましたよね。
怖いっつーの。
「前線」という言葉はみ言の中でもよく使用されており、統一信徒の意識には、そこが神とサタンとの闘いの一線で有ると考えられてきたのですね。
これは、単なる憶測に過ぎませんが、本来的にこの基元節とは、我々にとって何らかの作戦決行日だったのではないでしょうか。
お父様は暗号通信時代と仰られながら、様々な不可解なみ言を語られてきた節が有りますが、恐らく、気付く者にとっては、その「D-Day」においてやるべき事が明らかだったのかも知れません。
…と言うのは飛躍した考えかもしれませんが。
一つ、考慮に入れたいのは、確か「基元節」は元々、「起源節」と表記されており、後に同音の「基元節」に改称された事です。
以前も書きましたが、お父様がこういう事をなされるのは一度や二度ではなく、それまでにも様々な例が有り、たとえば「分封王→分捧王」とか、「圏→権」のような改称が有ります。
それらの特徴としては、大概、同音異字が使用されます。
単なるお父様の気まぐれとも思えますし、信徒の解釈では、お父様の勝利圏が拡大されたから、と捉える人もいるようです。
何の勝利だ。
一つの音に二種類の漢字をもって表されるのは、もしかしたら夜の神様と昼の神様に通じる内容も有るのかも知れませんが、そこまではまだ断定的には踏み込めません。
私が一つの可能性として示唆したいのは、もしかしてこの改称は計画的に行われており、私達に何かを指し示す合図であり、暗号的内容が含まれているのではないか、という事です。
そうであれば、とりわけ、「D-Day」という別称でもって呼ばれた「基元節」においては、国家転覆を図る程の重要な秘密事項が隠されていたに違い無いと思うのですが、結局のところ、お父様は既にこの世を去られた後となり、当日においても、何か特殊な事態が発生する事は有りませんでした。
お父様は最後まで「夜と昼の闘い」について語られていらっしゃり、我々の意識下においては、いまだサタンとの闘いは厳然として存在し、グノーシス的観点で捉えるならば、偽の神の支配から真の神への通ずる真知へ至らねばならない状況下において、私達が成すべき事はまだ残されていると考えています。
きっと「D-Day」はもう一度、行わなければなりません。
作戦には指揮官が必要です。
その作戦とは秘密裏に伝達されなければならないので、再び、暗号のようなみ言が飛び交う時がくるのではないか、とも思います。
もし、そのような事が有るのならば、私達が第一・第二イスラエルが失敗した時のような事にならなければ良いのですが…。
まあ、今日はそんなお伽話。
お読み下さりありがとうございました。
(追記、追加↓)
こんなオカルト記事にもの凄いアクセスが集まるので何故かな、と思っていたら、ちゃぬさんのブログでツッコミを頂いていたようです。
基元節をなぜ「D-Day」と呼ぶかって? それは単に韓国が「D-Day」を使っているから・・・
http://ameblo.jp/chanu1/entry-11878517925.html
こんなキモいブログにわざわざツッコミ記事を書いて下さるなんて…。
惚れられちゃったかなぁ。(←こういう妄想野郎)
しかし、バレンタイン・デイまでD-Dayだとは知らなかったですが、韓国の攻撃気質がよく表れているという事なんじゃないかな。
D-Day自体が軍事用語には違い無いですからね。
まあ、このブログは徹底的にお父様がメシヤで、全ての事に意味を持たせているという偏った観点で綴る事は宣言して書いてるものですから、是非、そうした客観的意見も聞き入れながら、皆さんもオカルトにはまらないように気をつけて下さい。
私は元々、オカルト好きなんですよ。
でも、時々ちゃぬさんが展開するイルミナティとかフリーメイソンなんかも、見る人によっては似たようなものじゃないのかなぁ。
これは私の常套句ですが、私を含め、人は事実ではなく、信じたい事を信じる生き物ですからな。
何にせよ、そこの正否は私のブログにおける裏の目的とは関係無いので、私はこれを利用して次のメッセージを構築するのみ。
次回に続く。