時代の変遷 | 現役食口Unrestorableの不信仰告白

現役食口Unrestorableの不信仰告白

Unresorableは「救えねえ奴」という造語です。
これは自虐的な意味もありますが、自分を救うのは自分の責任を果たすしかないと反語的に捉えて作りました。
皆様の批判、意見等は返答できないかも知れませんが、ご自由に書き込んで下さいませ。
よろしくお願いします。

どうもです。

連絡下さったのに、すぐに返事を差し上げられなかった皆様、どうも本当に申し訳ありません。(最近、こればっかり言ってる気がするけど…)

でも、言い分けさせてもらって、ついに一日に一度もパソコンを立ちあげられない日なんても生じてきましてね。

このパソコンジャンキーがですよ。

毎日、違うネタでブログを更新していた頃が奇跡に近いですね。

うちの奥さんも忙しくなり、うちの子ども達も忙しくなり、必然的に私も忙しくなり、一日中パソコンの前に座るなどという事は環境的に許されないですね。

まあ、でも幸せな事です。

子ども達にかまう時間は楽しいですね。

日々、その成長を見守る事が出来るのは有り難いです。

私に子ども達と過ごせる時間が有る事自体は、ある人達からすれば、別に忙しくない事なのかも知れません。

世の中には子ども達と触れ合う時間もないお父さんも多いでしょうから。

でも、私が忙しさを感じる主な理由というのは、み言の収集作業に最も時間を割きたいという所に第一義が有るからでしょう。

以前は平日でも1件は終わらせていましたが、最近は休みの日でも進みません。

ブログへの時間を削るのは致し方有りません。

あと2回ほどで終わります。


子どもと接していて面白い事は色々有るのですが、彼らはとても早い段階から会話の組み立てを行っているというものが有ります。

どこの子もそうだと思うのですが、うちの子は私に何か伝える時、次に私が何を喋るのか、既に決定してから話しかけてきます。

「パパ、○○が○○です」という彼らのセリフの後、彼らの期待通りの返事を私ができなかった場合、「○○って言って」とこちらの言うべき台詞を要求してきます。

「『あ、そうか』って言って」とか、割と細かいです。

いたずらでわざと要求と異なる回答を続けると怒ります。(これがまた可愛い)

2、3歳の頃からそうですし、恐らく、言葉の話せない段階の時から、泣いたり怒ったりして、親とかけひきしながら成長しているのでしょうね。

私が彼らにとってあまりにも予想外の要求を返すと、今まで体験した事の無い環境に投げ込まれた小動物のように、どうして良いか分からない状態に陥るのも面白いですね。(これがまたまた可愛い)

しかし、それを繰り返しながら徐々に高度なやりとりに対応出来てくるので、やはりそれを見ていて楽しいのです。

彼らは基本的に我を通そうとし、自分の思い通りにいかなければ強行手段に打って出たり、親を欺こうと小さな知恵を働かせます。

人間って本質的に何でも自分の思う通りに出来ないと満足しないのですかね。

まあ、今日はそんな幼児の話から。


私の子どもの頃を、母親から聞く機会が有りました。

幼稚園の時、舞台発表で劇をするのですが、私はナレーターを担当したらしく、舞台に上がって物語の成り行きを説明するわけですが、一人で出るわけでなく、3人くらいで割台詞が有り、一緒に声を合わせてナレーションする部分も有った中、私は自分一人で喋るところはちゃんと喋るのですが、一緒に喋る部分については、沈黙や口パクだったそうです。

合唱でも自分が歌わなくても済む場合は口パク等でやり過ごしていたそうです。

その割に舞台を降りて他の園児の劇を鑑賞する時間は、その全ての台詞を覚えており、母の隣で同時通訳のごとく、全台詞を暗唱していたそうです。

…天才かっ!

まるで全問正解できるテストをあえて白紙で提出するかのような奇児だったようです。

絵本を読み聞かせても、親が読む後を追って文字を解析し、教えてもないのに、勝手に字を覚えたそうで、父親すら「俺の事は思えん」と言う程の麒麟児。

そんな天才っぷりも、この歳になれば別に並以下の能力に成り果てるので、当てにはなりませんが、我が子の才も早目に見出して、良く伸ばしてあげたいものです。


でも、私の妻は子どもが天才で生まれる事は望まないそうです。

天才は常に苦悩の中に生き、幸福になる事が出来ないと言います。

私が天才かどうだったかは知りませんけど、私が自分で自分を分析してみるに、私は恐らく極端に自信が無く、それでいて親や周囲の期待に応えねばならないというプレッシャーから、あまり自己を表現できなくなったのではないかと思う節が有ります。

小学校の時の先生達にも「やればできるのに」と何度言われた事か。

今でも、家の中では一人調子良く歌を歌っても、人前でマイクを渡されれば歌えません。

私にとって書く事というのは、一つの自己表現手段として、自分に出来る限りの最小の選択だったのかも知れません。


最近、高校生について村ではあれこれ言われていますが、私が彼の時分は真っ向から相手に意見をぶつけられるような根性は無かったので、なかなか大したものだと思います。

ネタにされるのが嫌いなようなので(誰も好きじゃない)、こんな所で書かれるのも嫌でしょうけど、まあ、私は良いのじゃないかと。

今は荒削りながらも、人の意見を読み分け、それに対する自分の意思を伝えるような才能が有るのではないですか。

分からない事には質問できると言うのも一つの才だと思いますよ。(私はできない人なので)

心配なのは、彼がここでブログを書いているような大人達と同じような大人になってしまう事じゃないですか。(←コラコラ)

子どもらしくない子どももいれば、大人気ない大人も世の中にはわんさかいるし、特に真意を隠しながらブログを書く、オカルト好きの変人になってしまうと大変だぁ。

将来は、今見せてくれている才を伸ばして物書きでも、弁護士でも目指してくれれば良いですが、もし、御興味がお有りなら、み言や聖書の矛盾を掘り出して解釈を行う研究者になって、私と一緒にオカルトの世界に…(←コラコラコラコラ)

昔はことごとく大人に噛み付いていた子が、教育の情熱に目覚め、将来、学校の先生になったりするのだから、そう目くじら立てなくても、なるようになるものなのかもね。(教育を放棄するという意味ではなく)


私が高校の頃の英語教師で、「最近の若者は言葉遣いがなっていない」と言う先生がいたのですが、補助教員の外国人の先生は、「私の見る限り、彼ら(若者)はちゃんと言葉は使い分けている」とその観察したところを話してくれました。

純日本人から見ると、正しい日本語の形式的部が気になるのですが、外国人から見ると、言葉の形式そのものよりも、彼ら若者が相手に対する態度と実像を見れるのですね。(ちょっと上手い表現がみつからないですが)

私が思うには、子ども、若者は自分達の目で大人を見て、敬意を払うべき人にはそれなりの態度、言葉遣いでもって対してます。

時折、職場でもギョッとするような言葉遣いで声をかけてくる若者がいますけど、彼らが別の人に対する態度を観察しているうちに、それが私に対する悪意ではない事が分かってきたりします。

言葉というのは時代ごとに変容するもので、昔の常識が今は通用しなかったりします。

何の文献か知らないのですが、とある日本の古典には、「今の若者は言葉がなっていない」といった文言が書かれているそうです。

1000年以上前から同じ事を繰り返しているわけですな。


具体的に言ってみて、「あなた」という言葉は「貴方」と書きますけど、これって漢字を見れば、これだけで敬語っていう印象が有りますよね。

「貴様」はどうですか。

どう見ても尊敬語に見えますけど、現代では良い意味ではないですね。
「お前」も「御前」と書けますが、もしかしてこれって相手から見て「前」の事で、「御前」と言ったら「あなたの前にいる私(物)」の事だった可能性が有るんじゃないですか。

「君(と僕)」と言う言葉は、通説によると吉田松陰(もしくは高杉晋作)が最初に使ったと言われていますが、この「君」という漢字は元々「王」や「天皇」に使われていた言葉なので、やはり、相手に対して敬意を示す言葉として使われ始めたと考えるのが自然だと思います。

でも、現代ではそれらのことごとくが、目上から目下に使う、ややもすれば侮蔑の表現へと転嫁されているという奇妙な事になっています。

ところが、これらの事に「使い方間を違っているよ」という人は誰もいないのです。

「おやすみなさい」という言葉は「~しなさい」だから使役の言葉なので、これから眠りにつく人が使用するのは用法としておかしいのですが、もう誰も指摘しません。

私がむかつくのは、「お疲れ様」は目下からで、「御苦労様」が目上からの言葉だという事を始めに言い出した輩です。

タコ殴りにしてやりたいですね。

まあ、でもそれは時代の流れとして受け入れるべきなのでしょうね。多分。

言語が変われば名前すらも変わるし。

イエス様は所により「ヘスス」になったり「ジーザス」になったり「耶蘇」になったり、そもそも「イエス」自体がオリジナル音声じゃない。

韓国人は「リ」が「イ」になったり「ラ」が「ナ」になったりするけども、彼らのアイデンティティは傷つかないのでしょうか。

私は名前の発音が変えられたら気分悪いですけど。

不寛容なのかなぁ。


前回も登場して頂いた、私の知り合いの小学校教師は、「教えるというのは難しい」と言います。

何故かと言うと、時が経つにつれ、教える内容が変化していくからだといいます。

特に社会科は如実に現れると思うのですが、時代が進むにつれて次々に新しい発見がされるので、昨日教えた事が、今日には変わっている可能性が有るのです。

私が子どもの頃も、「四大文明」というものを習ったのですが、マスター・キートンによれば、その頃は他に20を越える文明が存在した事が科学的に証明されているそうです。

漫画の知識も役に立ちますな。

ゆえに、その教師は「今はこう言われていても、後に変わる可能性も含めて教えなければならない」と言います。

何事も鵜呑みにさせず、自分で調べ、自分の目で確かめ、常に新しい変化に対応出来るようにする指導こそが正しい教育であると。

ただ、その先生、反戦教育とかに御熱心で、国歌斉唱、国旗掲揚は不支持。

御自身がされている教育が将来的にどういう結末になるかなんて考えてないように見受けられるけども。

そういう人ほど、もしかして戦時中はバリバリの愛国教育家になってたのだったりして。

ちゃんちゃん。


ところで、突然、カルト原理の話になって申し訳ないですけど、イスラエルで「十戒」が施される前の彼らの倫理観ってどんなものだったのでしょう。

言われた時、「えーっ!姦淫しちゃ駄目なのぉ!?」って感じだったのでしょうか。

イエス様が来られ、「思うだけでも駄目!」なんて仰られたので、「えーっ!思うだけでも駄目なのぉ!?」っていう感じだったでしょうかね。

実体験的にも。

言われなきゃ罪じゃなかったのに。

もう、イエス様の罪作りっ!(←意味が違う)

お父様なんて「思わせても駄目!」と仰られるわけですから、これもまた罪作りなわけで。(←いい加減にしろ)

もし、仮に次に来られる方がいらっしゃるとしたら何と仰られるかなぁ。

「男と女の概念が有ったら駄目!」とか言われたりして。(←ジェンダーフリーじゃねぇか!)

まあ、冗談はさておき。


私は昨日から昔までの自分を思い出すと恥ずかしくてしかたがない事が多いです。

それは今の自分へと新しく成長し、変遷している事なのかも知れませんが、大体は、あんな事しなけりゃ良かったな、という後悔だったりします。

今の自分を形成する為に必要な過程として、過去の失敗が有るのでしょうけど、本当に昔を振り返るのは嫌いです。

このブログだって、別に誰に指摘されたわけでもないのに、以前書いたものを読み返すと恥ずかしくてたまりません。

今書いている文章も明日にはそうなるかも知れません。


そうそう、前回の記事で「中和的主体と統一体では概念が全然違う」という某講師の言葉を捕まえて「そこそんなに重要じゃねーし!」みたいな事を書いたわけですが、MLさんのブログに掲載されたみ言を読みながら考えを改めさせられたのです。


38.「統一教会の人たちがみな原理を知らないでいるのです」

http://ameblo.jp/mnlgs/entry-11887399845.html


こういうお父様御本人のみ言が有るならば、私も改めて、この言葉を精査しなければなりませぬ。

原理を知らないくせに「知ったか」な発言をした自分を今、振り返って恥ずかしいのであります。

でも某講師の語る観点はいずれにせよ陳腐には違いなかったですけど…。

まあ、つまり私は日々、内省・反省しながら自分を常に正す努力をしようという努力を心がけようと注意する事に意識を傾けるつもりで勤しんで頑張るような試みを模索しているわけですね。(←あ~、ゴチャゴチャと意味分からん!つまり曖昧なのね)

なので、やはり皆さんにも、常に変容する時代の流れ、変遷に対応し、生きた化石にならないようにお薦めしたいわけです。

原理主義者のままでは生き残れない、と申し上げたい。

MLさんは控えめな方なので読者に最大限の配慮をもって表現されますが、私としてはMLさんがこれだけ明白に語られているお父様のみ言を提示して下さっているにも関わらず、未だに原理至上主義でいる人達というのはどうかしているんじゃないかと。

原理などどうでも良い事で、良心のみが全てと言っている御父母様信者がいるとしたら、それはもう精神が分裂しているのではないかと。

(※注 MLさんの思いの内を代弁したわけじゃありません。私の意思による私の表現です)


原理は不完全で、み言は矛盾だらけ。

なので信仰を捨てたという人はまともな人です。

私だって、今後、そうなる可能性は有ります。

ただ、これを読む貴方様が今もなお、お父様をメシヤとして信奉する一人ならば、み言と正面から向き合うべきです。

その他の人は、まあ、好きにやってもらったら良いのではないかと。


真の母と呼ばれる方を神格化させたり、今はメシヤ化させようという動きも有るようで。

それを批判する人の一部では三男が長男だとか言う。

彼らの信じるものの主張は異なりますが、そういう事をする心の動きというのは質的に全く同じ。

真実がどうのこうのと言いますが、貴方様御自身の真実はどこに有るの?


未来の事が分かれば、今の私のやるべき事も分かるけど、そうはいかないからなぁ。

過去を学べば、ある程度、未来に予測をつけて生きられるはずなのだけど、人類は同じ過ちを繰り返していると人の言う。

デロリアンに乗って時空を越えた冒険に繰り出してみたいですな。

まあ、私は「Back to the Nature」の方が良いのですけど。

無為自然。

しかし、老子の弟子達は、師匠を権威づける為に事実を改竄して書に残したとか残さなかったとか。

orz...


お読み下さりありがとうございました。



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