38.「統一教会の人たちがみな原理を知らないでいるのです」 | 御言 missing link

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 原理講論は、神様を知るために、とても大きな恩恵が秘められていると思います。ですが、それでも神様について真に理解するには不十分だということを、第1、第32の記事で、御言を通して確認しました。また、原理講論には、真のご父母様に関しては、その原理的な説明以外は、ほとんど書かれていません。
 ですから、原理講論を読むだけでは、神様に関する理解には限界があり、真のご父母様のことはほとんどわからないまま、ということになりそうです。
 特に、現在の2世教育は、「いかに原理を教えるか」ということに終始しているようで、少々心配なところがあります。原理講論をよく読んでいるという2世は見かけますが、御言を読んでいるという2世にはほとんど出会ったことがありません。

 では、御言です。

「原理のみ言を中心として精誠を尽くす人というのは『原理講論』を毎日、読んで、読むのです。朝に読んで、昼食時に読み、夕方に読みながらも嫌にならないことが精誠です。」(1992.8.27)

「み言と伝道、皆さん、統一教会の人たちがみな原理を知らないでいるのです。み言で武装するのと同時に伝道しなければならないのです。心情の体恤というものは、自分一人では駄目です。伝道しなければなりません。伝道です。どうやって? 何で伝道をするのですか。『原理講論』の本をみな覚えるほどに朗読しなければならないのです。」(天聖経 「天一国主人の生活から」)

 ここでは
「『原理講論』の本をみな覚えるほどに朗読しなければならないのです。」
 とあります。

 別の御言です。

「『統一原理』は膨大です。世の中に『統一原理』で解けないものがありません。大学街のどこに行っても、このような内容を探し出すことはできません。統一教会だけがもっているこのような特権的な内容は、世界万有の百科事典のような内容を備えています。これが当てはまらないものがないのです。なぜでしょうか。人間の根本問題を中心に、天倫の根本的なものを中心としているので、公式と同じだというのです。一つの原則がすべてのものに適用されてこそ、公式と言うことができます。このように、すべてのものに当てはまるのが「統一原理」です。この『統一原理』は、現代哲学や心理学にも当てはまり、物質世界の原則にも、すべて当てはまるのです。 (御言選集  26-193 1969・10・25)

 統一原理さえ勉強していけば解決できないものはない、というわけですから、とにかくある期間「統一原理あるのみ」となることは大事なことかもしれません。
 
「レバレンド・ムーンが『原理』を知っているので、神様が協助できるのです。知らなければどうなっていたでしょうか。ですから、皆さんは、『原理』を知らなければならないのです。どれほど『原理』が重要かということを知らなければなりません。皆さんは、『原理』を勉強していますか。『原理』の本を見て涙を流せば、天が訪ねてくるのです。(御言選集 224-334 1991・12・29)

「『原理』の本を見て涙を流せば」ということですから、「原理」を心情的に理解することも、もちろん大切なことだと思います。
 ただし、これらの御言をもって、「原理がすべてだ、原理だけで十分だ」と理解するのは早計というものでしょう。
 第1の記事で確認したことですが、文先生は、原理講論・創造原理の中の神様の説明について、次のように語っておられます。

「皆さん、創造原理で統一教会の食口たちがいつも原理講義する時、神様は、二性性相の主体として格位においては中和的存在になっていると簡単に語るでしょう? 中和的主体になっている。それ、何ですか? それは何の話ですか? それ、間抜けです。」 (祝福63 「世界統一開天国の関鍵が何なのか」  (1989・10・3)

「原理を見れば、神様が二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在だという話はまだしていなかったのです。そこに、愛を中心として統一的存在だということを添付しなければなりません。 (天聖経 「「宇宙の根本」より)

 原理講論の、神様についての説明は、「愛を中心として統一的存在だ」という大事な概念が抜けていると言っておられます。
 このように、原理講論には、原理原則を説く「創造原理」でさえ、神様を理解する上で不十分なところがあるということです。特に、「愛を中心として統一的存在だ」という大事な概念が抜けていたということであれば、それを一所懸命学んでも、そこから愛の哲学・人生観・他との関係性等、人間にとって大切な価値観が生まれてくるはずがない、統一教会にとって、重大な欠陥だった、といったら言いすぎでしょうか。「間抜けです」という言葉は、いつまでたっても大切な価値観が身に付かない私達に言われたこと、と言ったら、もっと言いすぎでしょうか。原理講論にはなくても、文先生は、御言を通して「真の愛」、「神様の愛」について十分すぎるほど何度も語ってこられました。いずれにせよ、そのような不十分なところを、文先生の御言を通して、見直すことは大切だと思います。
「統一教会の人たちがみな原理を知らないでいるのです」
と言っておられるからといって、ますます原理講論にはまるのというのは、文先生の意図と異なるのではないでしょうか。
 
 2006年10月30日の訓読会(清海ガーデン)で、文先生が次のように言われたという報告が、当時の韓国統一協会・黄善祚会長を通して成されています。

「文先生は原理講論は成約の御言ではなく、旧約と新約の聖書の御言を中心に整理したものだとおっしゃいました。成約時代には、成約の御言を制定されました。成約の御言は、祝福家庭と理想天国Ⅰ、Ⅱを制定されました。」(「大陸観光ニュース」696号2006年11月2日)

「原理講論は成約の御言ではなく、旧約と新約の聖書の御言を中心に整理したもの」ということです。私達は、原理講論はクリスチャンを伝道するために書かれたもの、という認識をもってきたところもあると思います。ですが、もっと重要だったのは、キリスト教徒に代わって集められた私達統一食口を、速成的にクリスチャン化することだったのかもしれません。それが、文先生が劉先生に原理講論を書かせた、より中心的な目的だったのではないでしょうか。
 その役割を第一とすれば、原理講論は決して最終真理としての役割を担っているわけではないということになります。不十分なところや、間違ったところがあっても、文先生は、あえてそれに手を加えたりせず、完璧な最終真理にするということをされなかったのでは、と推察できます。ましてや、人間の責任分担に抵触するような内容があれば、なおさら、詳しく指摘することができなかったのかもしれません。
 くどいですが、もう一度念を押しておきます。
「文先生は原理講論は成約の御言ではなく、旧約と新約の聖書の御言を中心に整理したものだとおっしゃいました」
 とのことです。

「『原理講論』は劉協会長が書いたのではありません。1ページ1ページ鑑定を受けたのです。
私が成したことに手を付けることはできません。ありとあらゆるものが、皆そろっているのです。間違っていたとしても、それを知らないのではありません。間違っているところ何ヶ所かを、そのままにしておかなければならないのです。すべてを教えてあげるわけにはいかないのです。
 (ファミリー 95 2月 P63 「真の父母の勝利圏を相続しよう〈神の日のみ言〉」)

 文先生が「原理講論を読むこと」を強調されたのは、2000年ごろまでだと思います。それは、2000年という、キリスト教を中心とした摂理の節目を超えるために、私達がクリスチャン以上のクリスチャンになっている必要があったからなのかもしれません。

 なお、今回の内容は、決して、原理講論の真理性をすべて否定しようというものではありません。念のため、おことわりしておきます。

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