現役食口Unrestorableの不信仰告白 -2ページ目

現役食口Unrestorableの不信仰告白

Unresorableは「救えねえ奴」という造語です。
これは自虐的な意味もありますが、自分を救うのは自分の責任を果たすしかないと反語的に捉えて作りました。
皆様の批判、意見等は返答できないかも知れませんが、ご自由に書き込んで下さいませ。
よろしくお願いします。

久しぶりに私のブログの主題について書いてみたいと思います。


その前に、MLさんのブログで紹介されていた「本体論に迫る」という本貫氏のサイトを皆さんに御紹介したいと思います。

http://www.hongan-site.com/

MLさんのブログを通じて私も初めてこのサイトの存在を知りましたが、正直、驚きでした。

その内容の正否と言うのは、勿論、まだ分からないのですが、み言研究に対する観点の持ち方などは実に興味深く、本当にこれが真相かもと思わせるくらいに体系的にまとめられてます。

特に斬新的に感じたのは「天使」に対する解釈で、恐らく、今までに無かった視点なのではないかと思います。

嬉しいのはお父様の路程が聖書史から紐解かれており、本貫氏自身の自作と思われる系図の取り方などは秀逸で、お父様が話される謎の数字の意味にも言及した、会心の作ではないかと。

この内容を完全に理解するには、まだまだ何回も読み込んで考証しなければなりませんが、私が一つ根本的な疑問を感じましたのは、果たしてこれは本体論に迫っているのか?というところです。

夜の神様・昼の神様に関する解釈も言及されている部分は有りますが、本体論講義そのものや、晩年のみ言との対比については、若干の物足りなさを感じました。

私の読み込みが足りない部分も有りますので、批判というわけではありません。

本貫氏の研究は以後も継続されるかと思いますが、その論文はひとまずの完結を見せており、更新される予定は不明です。

これと同等と呼べるまでに体系的にまとめられた研究内容を私が組み立てられるのか、あまり自信は無いですが、私なりの観点からも研究を試みながら、お父様の語られたみ言の真意に少しでも迫れたら幸いです。


今回のタイトルはまた怪し気なものとなってしまいましたが、み言を紐解くヒントとして、グノーシス的観点が重要になると目をつけています。

勧められたから、と言うのも有るのですが、聖書の矛盾と戦った彼らの視点は重要に思います。

MCIでも取り扱われていましたね。(馬渕氏は今どこに…)

http://www.mc-i.jp/index.php?QBlog-20130524-1&mode=category&catname=%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%20%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%96%B0%E5%A0%95%E8%90%BD%E8%AB%96%EF%BC%9F%E3%80%8D%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8D%E4%BA%BA%E3%81%8B%EF%BC%9F


キリスト教グノーシス主義にも色々有るみたいなのですが、その基本的な概念としましては、旧約聖書の神は偽の神であり、イエス様の語られた新約聖書の神様こそ本物の神様だというところです。

それは、イエス様の語られる神様と、旧約の神様の言と動に大きなギャップが有ったからです。

統一原理の立場としては、神様の立場は人間の成長の度合いによって段階的に進展するという解釈で、旧約の神様も、新約の神様も同一であるという見解を示しており、旧約の神様は「主人」、人間を「僕」とする関係であり、、新約の神様は「親(父)」として霊的重生を受けた人間を「養子」の立場とします。

その解釈でもある程度の筋が通っていたわけですが、晩年にお父様が語られました「夜の神様・昼の神様」については、その原理を超越しており、まるで偽の神と本物の神が存在するかのような様相を想起させるものとなっていると思えます。


勿論、神様が二人いるというわけではない、というお父様の御教示が有りますので、当然、これは何かを暗示されていると捉えるしかないのですが、最後の最後までお父様が詳細に明確な回答をされる事は有りませんでした。

呉教授のレポートや、劉講師の本体論である程度の説明はされているものの、正直、そこに真意が有るとは思えません。

何故、そう思うかと言うと、暗示的に語られる意図とは、それを隠さねばならないからであり、隠さねばならない内容を公式的な発表がなされ得る統一教会の機関でありのままに明かされるわけがない、という推論からです。

こういう考え方は実にオカルト的で、普通に考えれば有り得ないと思われるかも知れませんが、ただ、統一信徒に限って言えば、皆さんは聖書が比喩や暗示で書かれていると信じる立場なのに、お父様もその様にされるわけがないという決め付けはいかがなものでしょう。

お父様が全てをあからさまにされたかどうか、もう一度よく考えて見て下さい。


一つ注意したい事は、お父様のみ言をグノーシス的観点から見るからと言って、そちらが真理であると安直に捉えない事です。

過去のグノーシスを見てもそうですが、一番、厄介なのは、どちらの観点からでもある程度の筋が通ってしまうという事なのです。

そうでなければ、どの宗教にも分派など生まれ得ませんからね。

その融和点を見出す事こそが、お父様の真意を悟る事になるとは思うのですが、難解ですね。

例えば過去の例に挙げました、ヨハネの黙示録に示された、イエス様が明けの明星であるとする文言ですが、これはルーシェル=明けの明星とする原理の解釈には反するわけです。

ただし、統一原理的観点から見て、イエス様がメシヤの立場を降りて、本然の天使長としての使命に移行され、再臨の主を証する役割に立たれた事を示しているのではないか、という強引な解釈も成り立つかも知れません。

逆にグノーシス的な観点から見れば、エデンの園の蛇とは、偽の神に支配されていた人間を救う為にきた善なる教示者であるという見解を示すものが有り、その観点で見た場合、イエス様が明けの明星であるという言には、そのまま筋が通る事になります。

ゆえに、研究者の観点としては、黙示録に書かれている事が云々と見るよりは、黙示録はグノーシス主義者によって書かれたと見るのが正しいと言えるかも知れません。


ちなみに、この黙示録の内容は当然の事ながら既成のキリスト教においても物議を醸すものであり、信徒が個人的に解釈を試みようとされる動きも有ります。

「イエス 明けの明星」で検索している時に発見した、マグダラのマリアさんのブログが面白かったです。


「明けの星ルシフェルになられた主イエス」

http://blogs.yahoo.co.jp/magtaranomaria/22994736.html


個人でここまでの見解に至る事もさることながら、本当に面白いのはそのコメント欄でのやりとりですね。

こんな光景、どっかで見たぞ、ってな感じでこうして歴史上、闘いが繰り返されてきたんだな、と。

夜と昼の神様が闘ってきたと言われるくらいですから、そりゃまあ、人間も闘いますよ。


これは以前からの繰り返しになるのですが、真意を隠しながら語られると言う事は、私達に隠し事をし、あるいは騙しながらお父様は様々な事を指示されてきた、という事になります。

何故、そのような事をしなければならないか、という事に関しましては、「敵を欺くからには先ず味方から」という言葉があるがごとく、お父様の考えられる作戦を敵に知られてはならない為だという推論も一つ成り立ちます。

ならば、その「敵」が何者であり、如何にして打ち勝つのか、という事が最も重要な結論部分となります。


私達統一教会は現実に巻き起こる社会現象、例えば共産主義の台頭などを「サタン」と見立てて、闘争してきました。

私達の信仰的観念として、この世に生じる悪の背景には見えない敵、サタンが存在すると考えますが、グノーシス敵観点に経てば、そのサタンは本当にサタンだったのか?という疑問が生じるようにもなります。

そこが危険思想にも成り得る所なのですが…。

ただ、一つの仮説として、キリスト教の基盤が真の悪の親玉、偽の神であるとするならば、「キリスト教は悪だ!」と叫ぶ事ほど危険な事は有りません。

キリスト教の味方のフリをしながら、み言に真意を隠し、キリスト教信徒一人一人に「気付き」を促しながら、キリスト教転覆を図る事も作戦として成り立つのかも知れません。

仮説中の仮説ですが、いやいや、これは危険過ぎなのでアメンバー記事とかにしとこうかな。

一説によると、お父様が敬愛するマッカーサー元帥はフリーメイソンだったそうで、お父様が本当に欲しかった基盤とは、このフリーメイソンだったのではないか、という推論を立てる方もいらっしゃいます。

世間でもフリーメイソンの印が定規とコンパスの中央に「G」の文字が書かれたもなので、世間ではこの「G」がグノーシスのGだと主張する方もいます。

更に面白いのが、中国には人類創世の伏羲と女媧の伝説というものが伝わっており、その伏羲(男)と女媧(女)を描いた図柄が、蛇の姿でからまり合った男女が定規とコンパスを手にしているのです。


伏羲

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E7%BE%B2

女媧

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E3%82%AB


苗族系の神話?によると、伏羲と女媧は兄と妹の関係で、この二人だけが洪水の時代を生き延び、夫婦となって人類の祖となったとされています。

結婚の制度を整えたのも伏羲だそうです。

洪水の起こりとしては、大地に四本の柱が立って天を支えていたのですが、このうちの一本が折れてしまい、天の一部が落ち、地が重みに耐えきれずに傾き、高い所から低い所へと海や川の水が流れ出してしまったとの事。

女媧は五色の石を混ぜ合わせて天を修繕し、巨大な亀の足を切り取って柱にし、葦を燃やした灰を固めて洪水を堰止めたそうな。

そして、女媧は黄色い土人間を作り出しますが、面倒なので縄と泥を利用して大量生産するようになりました。

黄色い土から作った人間は位高い裕福な者となり、泥からできた者は貧しい者となったとされます。

どこの神話もそうですけど、類似性が高く、何らかの関連性を示していると思われますよね。

もしかしたら、この手の中国神話もユダヤ系から伝承されており、フリーメイソンに受け継がれているという可能性も有るのかも知れません。

余談でした。


私達が思っている事はそうではないかも知れない、という例として、映画「マイノリティ・リポート」を挙げてみましょう。

スピルバーグ作品としては、少々、がっかりな出来であったような気もしますが、彼が常に新しい分野に挑戦しようという意気込みや良しです。

がっかりとは言っても、サスペンス・ミステリーとしては秀作だと思います。

犯罪を予知するシステムが確率されつつある近未来、主人公のジョンは陰謀によって未来において殺人を犯す嫌疑をかけられ、冤罪を課せられます。

予知に用いられるシステムとは3人の予知能力者である人間であり、その脳から映し出されるイメージ映像を元に捜査は行われます。

時折、3人の予知は食い違う事があり、3人のうちの間違っていると思われる1つだけの過小報告(マイノリティ・リポート)は、削除されてしまいます。

ジョンは一縷の望みを託してマイノリティ・リポートを脳内に有すると思われる預言者を誘拐し、そのリポートの取得を試みますが、マイノリティ・リポートは有りませんでした。

しかし、事件を解決する鍵を持っていたのは、ジョンの探していたマイノリティ・リポートに有るのではなく、過去に生じた事件を映したイメージ映像の重複報告に有ったのです。

予知能力者は時として重複する同じ事件のイメージを予知すると思われ、過去の事件と類似した重複報告、または過多報告も記録から削除されてしまうのです。

これはそのシステムの隙を突いた計画殺人が行われていた事の証拠となり、ジョンは冤罪を証明するに至ります。

この映画のタイトルは、鑑賞者に対して「マイノリティ・リポートにこそ事件解決の鍵が有る」と潜在的意識をすり込ませながら、実際の鍵は別の所に有るという大どんでん返しを起こす手法が用いられているわけです。

あんまり上手く伝わらないかも知れませんが、よく出来てます。

私達研究者にしてもマイノリティーなみ言ばかりに目を向けていると、目の前に有るものが見えなくなってしまうかも知れません。

あまり良い例えにはならなかったかな。


では私からマイノリティーなみ言をプレゼントです。

文字が読めるか心配ですが。



「ラスベガス?フーバーダム?それはなぞなぞです」

2011年8月1日コディアック訓読会にて。

字幕付きの動画は恐らくもうyoutubeからは削除されていますが、字幕無しの動画がvimeoに有るはずです。

御関心が有れば探してみて下さい。



お父様は一世一代をかけた大きななぞなぞを私達に投げかけられたようです。

その為に利用されたと見れば腹立たしさを覚える人もいらっしゃるかも知れませんが、私などには実に刺激的で、興奮を催すものです。

それが神様と、私達の真の救いに関する秘密だったとしたら?

考えただけでワクワクしますね!

あ、しない?そーですか…。


次回は具体的な統一教会グノーシス主義の立場から見たみ言観というところで書いてみたいですが、恐らくアメンバー記事になるのではないかと。

以前も申しましたが、アメンバーの申請は特例を除き、過去に一度でもコメントやメッセージを下さったみ言研究者、み言収集協力者のみです。

お断りさせて頂く事も有りますので御了承願います。


お読み下さりありがとうございました。





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前回の続きとして、本当はこんな事を書くべきなのか悩むところですけど、事実あった事として、私の祝福結婚にまつわる体験記を書いておこうかと思います。

これを読んで、これから祝福を受けようとする人達の希望となるのか、不安を増長させるかは分からないですが、これは私の例として、割り切って読んで下さい。

また、私の一方的な主観でもって書きますので、妻には妻の観点と主張が有る事を御留意下さいますようお願いします。


その前に、この祝福結婚について「犬猫の結婚」という大学教授の侮辱発言が有り、それに対してもっと怒るべきだろう、という御意見もございます。

http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-484.html

確かに私も読みながらムッとはしましたが、昨今の祝福結婚の内情と比べると、このド低俗な犬猫発言などカスみたいなもので、私が怒りたいのはむしろ祝福の価値を下げ続ける統一教会自体に向かうものです。

侮辱発言を受けて訴訟という形で大学側の悪態を晒したその行動と勇気には賞賛されるべき点も有るかとは思いますが、私としましては、この学生さんがその教授に対して直接的に「祝福結婚にはこのような価値が有り、その価値の下に生まれて私は幸せだ」という要点をバシッと言い返せるような内容を求めたいですね。


祝福の中心的教義は勿論、血統転換に有りますが、同時に理想家庭を築く誓いと決意の式でもあり、家庭という単位から国境も宗教も超えて世界平和を目指す高尚な目的の下に集った男女のみに許される神聖な結婚です。(本来的には)

日日家庭であろうと、二世は生まれながらにしてその期待を背負っています。

全祝福家庭はそういう意識を高く持って欲しいものです。

14万4千人の他宗教人が集ったとされる聖職者祝福結婚式の式場でこの教授が「お前達の結婚は犬猫同然だ」と言えるか試してみたいものです。

まあ、この教授の発言の目的がこの女生徒本人に有したという推論も有るので、その場合、到底、無理な話でしょうけども。


祝福の現状はどうですか。

特に韓国など単なる結婚相談所に成り下がっているではないですか。(これに関してはお父様にも因が有る様に思いますけど)

数合わせの為に誰でも受けさせろというような事はもうやめてもらいたいですし、嫌々受ける人は受けさせないでもらいたいです。

二世達にも統一教会外の結婚は「堕落」になるから、みたいな後ろ向きな動機で祝福結婚に臨ませるのはやめて欲しいです。

折角、高潔な気持ちで祝福に参与した純粋な兄弟姉妹達が、自己中心的な動機で参与した愚か者共によって苦労し、傷ついている姿を見るのは耐え難いものが有ります。


顯進様が「祝福は受けるものではなく、捧げるもの」という説教をなさったという話が有りましたけど、その仰る事はよく分かります。

意識次第で本当に祝福は名ばかりの犬猫の結婚にも、それ以下にも成り下がりますよ。

そう言えば、「郭グループに行ったものは祝福も無効、先祖解怨も一からやり直し」みたいな通達も教会でされた事も有ったかと思いますが、そこまでやると、もはや祝福は凶器ですな。


ちなみに祝福結婚についてあまり知らない人が読んで誤解するといけないので、説明を付け加えますと、祝福結婚で相手が決まっても、いきなり結婚式というわけではありません。(通常は…)

ましてや犬猫のごとく、その場で交配させられる事などありません。

国際結婚を希望しない場合は、その様に申請する事も出来ますし、その逆も然り。

相手が決まった後には、互いに人格的交流をなし、双方の合意の上に式に参加するというのが基本です。(基本は…)

勿論、相手の方を断る事も許されています。

統一教会員は神様から与えられた人を断る事は不信仰となるという強迫観念が有りますので断りにくい面は有りますが、現実、祝福式参加の前後で、その祝福を破棄する例は多々有ります。

まあ、でも、私がここでこういう話をしていたら、祝福に参加したいなんて言う人は出てこないでしょうけどね。

ところで昔は再祝福には改めて40万円を要しましたが、今もそうなのですかね。(まあ、140万でないだけ良いと思って)


ここから本編に入りたいと思いますが、実際、私の妻も、嫌々、祝福結婚を受けさせられた人です。

某国の教会スタッフとして優秀で、重用されていましたが、祝福結婚だけは決意しきれずにいた所、無理矢理、責任者が推してマッチングに申請したわけです。

なので、私の妻は理想家庭とかいうものよりも、教会のアクティビティーや社会運動に関心が強い「み旨型」だったのですね。

かたや、私は上記の動機から、祝福結婚に大きな希望を持った「家庭型」の人で、実際にどうだったかは秘密として、国際結婚もOKとして書類を提出しました。

出発点からして、若干の隔たりが有ったマッチングでした。


私の場合ですが、上述した「通常」のパターンではなく、相手の写真を受け取った次の日に祝福式参加という異例のもので、彼女は某国にいるので、写真を隣においての寂しい結婚式でした。

前日、某国から私にメールが届き、その内容が「私はあなたを受け入れますが、あなたはいかがでしょうか」というもの。

私はまだ写真を見る前でしたけど、断る気は一切無かったので、「勿論、受け入れます」と即答で返信しました。

その後日に写真を見て「ああ、こんな顔か(失礼)」という感じでしたけど、祝福が決まった事自体が嬉しかったので、「これからだな」という気持ちでした。

何故、私がそんな無謀な事をしたかと言うと、祝福を申請する何年も前から、私は神様に祈り続けた内容が有ったからです。

「私は共に永遠に神様のみ旨に生きる人と祝福を受けたいです。欲を言えば顔も気立ても良く、スタイルも良い人を希望しますが、神様が望む人をお与え下さい。私は生涯、その人を愛すると誓います」

といった感じ。

相手が誰でも良いと言えば語弊が有りますが、信仰者である私にとって一番に重要なのは私が神様への誓いを果たせるかどうかなのです。

ひどい話が、彼女から送られてきたメールは実は某国の教会責任者が本人を装って送ってきたものだったようで、家庭出発してから妻に聞いてみると、「私はそんなメール送ってないけど」みたいな事で、ちょいと某国教会責任者に対して腹立ちましたね。

きっと当時の某国では「ほら、相手が受け入れているからあなたも式に参加しなさい」みたいなやりとりだったんでしょうな。

まあ、それで今が有るのだから結果オーライかも知れないですけど、やっぱ何か腹立ちますわな!


んで、互いに手紙やら、メールやら、電話やら、直接会ったりしながら情的関係を深めていくわけですが、まあ、ここでのやりとりで相手の本当の姿が分かるというのは、そうそう無いですよ。

どんな場合でもそうかも知れませんが、一緒に暮らし始めた後が(笑)。


家庭出発に至る経緯として、私は当時、教会で献身していたわけですが、組織というものに限界を感じていた頃でした。

それ以前にも感じていたので、何度か出て行くという話はしたものの、残って欲しいと引き止められてやってましたが、どんなに改善を叫んでも響かない体制と人に嫌気がさしてました。

世間に迷惑をかけるようなやり方ではなく、もっと社会貢献できる活動をしながら、自然に人が注目する運動に転換するべきだろうという事を顯進様が立つ前から言ってたのに、顯進様が立った後にも変わらない上に、今のような有様とは…。

そう言えば、当時のCARPの転身ぶりも見事で、顯進様が中心である時はプロジェクトだなんだと活気に満ちていましたが、亨進様に変わった途端、祈祷会は瞑想する静かな雰囲気に。

ある意味、順応性が高いのは素晴らしい事だけども、なんだかな。

私が所属していた教会でもプロジェクトもどきな事をしてましたけど、彼らの主眼はあくまでも如何にVIPを引っ張ってくるかであって、純粋な奉仕精神とはかけ離れてました。

※あくまで、私の体験記であって、全教会が同様であるかは知りません。
「こいつら、もう駄目だな」

と見切りをつけ、これからは組織に依らず、自分の家庭を中心として地域・社会に家庭的な文化を発信するのだ、と期待をもって私は献身生活を降りました。


そして彼女を日本に呼ぶ事となったのですが、ここからが大変です。

まずもって、彼女は日本に来たくなどありませんでした。

重要なポジションで皆にちやほやされながら、自分が意義有ると思う活動に打ち込み、心許せるたくさんの兄弟姉妹に囲まれて、それはそれは楽しい日々だったことでしょう。

それが、誰も知り合いがいない土地で、こじんまりとした借家で寂しく暮らさねばならないのですから、彼女にとって私は全てを奪った大悪人といったところです。

私がショックだったのは、彼女が最初から祝福を破棄する算段で日本に来たという事です。

詳細は省きますが、証拠も有ります。

彼女は某国に帰る準備をした上で日本に来ました。

離婚の話も2度ほどもちかけられましたし。

そんなんだったら私が某国に行っても良かったのですが、彼女からすれば、破棄する理由が作りにくいというのが有ったのではないでしょうかね。

彼女の日本批判、教会批判、夫批判は激しかったですね。

「教会は何もしてくれない」みたいな事を言うのですけど、かと言って自分からは何もしないんですよね。

友達が必要だと思って、私の知り合いを紹介するんですけど、みんなに悪態をついて仲良くなろうとしませんでした。

とにかく、自分の全てを奪ったからには、何でも自分の思い通りにしなければ許さないという脅迫的な雰囲気を感じましたね。


椅子を元に戻さなければ「散らかすな」と怒る。

私が好きな曲をかけて歌っていれば、「その雑音を止めろ」と怒る。

とにかく怒る。

まあ、今では少々散らかっていようが気にもとめないですし、同じ曲をかけて歌っていても小躍りしながら寄って来ますので、その怒りの本質ってのは別の所に有るのですよね。


某国が懐かしいので、国際電話をかけるのですけど、もう、皆さんの見た事の無い電話料金を何回見たことか。

電話料金が食費を越えても仕方無いと思いました。

これは気持ちの問題ですから抑制は難しいですよね。

しかし、その電話料金が家賃を越えた時、さすがにこれでは自滅すると思い、少しきつめに「これだけ使ってるよ」と言ったところ、私としてはさすがに彼女も謝ってくれるだろうと思ってました。

彼女が言った驚きの言葉は「私はこんなに使ってない」でした。

更に、「信じないなら別にいいわよ」みたいな逆ギレ。

そんな事を言われたら、私は電話会社と喧嘩しなければなりません。

どれだけ通話したか今度から記帳して欲しいと頼んでも、当然、やってくれません。


まあ、こういう問題は勿論、今はもう有りません。

日本での友達も増えて落ち着いています。


前回も言った通り、彼女は周りに不幸な人がいると、自分も背負ってしまうような人で、彼女に家計を預けておくと、「知り合いの子が病気で困っていたからお金を送ったの」と事後報告をしてきます。

「それはもう喜んでくれたわ」みたいなノリで。

私は彼女にお金は任せられないと危機感を覚え、家計は私が管理する事にしました。

ただ、それでも彼女からのお金の要求は有ります。

某国でゲリラ紛争地域を通って学校に通う子がいるから某国に家を買って欲しい、と。

心配で眠れない。

死にたくなる。

そんな脅しをかけてくる。

丁度その頃、日本の生活が限界にきていたので、某国に一時帰国するという話が出ていたのですが、いくらなんでも、そこまでの出費をかさむわけにはいかないので、帰国を諦めるという条件でお金を融資しました。

そして送金した直後、唐突に「やはり帰りたい」という妻。

私が怒りに耐えかねて妻を離れて我が家の床を叩いていると、妻が寄ってきて「私を殴って終わりにしましょう」と言う。

結局、彼女も某国に帰国する事となるのですけど、その間、私が例の灰色の職場で働きながら、朝は御飯と卵に醤油をかけて出発し、昼はチキンラーメンを貪り、夜は遅く疲れているので何も食べずに寝て、次の朝は贅沢して納豆をつけて食べるような生活をしていた事など知らないですよね。言ってないし。

そんな生活の中、彼女から連絡が来たと思えば、「式典に参加する為のドレスが必要だから○万円送って」と言ってくる。

私は彼女がもう戻って来ないのではないかという不安と経済的困窮で限界点に達してましたね。

よく生きた、自分。


まあ、一応、帰ってきてくれたのですけど、最初は一時的に元気であっても、その後は相変わらずなもので。

「母の病院代が欲しい」という事で、またお金の話なのですけど、私も家計をやりくりしなければならない都合上、ホイホイと常にニコニコ現金払いできるわけではありません。

そういう態度が恐らく私がお金を出し渋っている様に見えたのでしょうけど、彼女がお金を受け取って言うには「私はあなたからお金をもらいたくない」という事なのです。

私としては「ありがとう」の一言でも貰えればそれで報われるのですけど、彼女の態度ってのは、どうしても「出して当たり前だろう」という雰囲気なのです。

彼女はよく「自分が働いていれば…」みたいな事を言って、私を頼りたくない意志を伝えてきます。(諸事情により働けなかったのです)

近所の仲良くなった知り合いと昼間にカラオケできゃいきゃいやりながら、仕事で帰ってきた私に「私は不幸だ」なんて言ったもんですけどね。

そういう事ならば、という事で私も作戦を立てる事にしました。

彼女に働いてもらおう、と。


私はまあまあ、良い給料を貰っていた灰色の会社を辞職し、年収を半額にしても時間に融通が効く仕事に転職しました。

彼女が働けるようにする為です。

私からお金を貰いたくないなら、彼女が働くしか有りませんので、「君が働くんだね?」という言質をとってそうしました。

にしても、彼女は働きませんでした。

探したのは最初の1、2回で結局、それが難しいと後は探しもしません。

本音を言えば、彼女としては、彼女の要求通りに私が嫌な顔一つせずにお金を出せば、それが大満足なのでしょうが…

何億円必要なんだ!

まあ、作戦としてはそれで良いのです。

彼女の為に、彼女の言った通りの要求に応えるようにすると、彼女自身は自分の言葉に追い詰められるようになるのです。


そうしながら、行き着いたのが、前回に少しだけ明かした事件です。

その詳細はやはり話せません。

とにかく、現在、彼女は浪費も少なく、私に対して辛辣に当たる事も有りませんし、元気な子供たちに囲まれて幸せな生活を送っています。

貧困ですけどね。

その数年で生活費も含め、のべ3000~4000万円を動かしましたけど、現在、もう家計はギリギリの所まできていて、固形資産として残るのは3割くらいかなぁ。

教会に捧げたお金は1%に満たないかも。

10分の1も捧げてないのがバレバレでんがな~((((;゚Д゚))))←自分で言っといて。

ちなみに某国で買った家に、ある時、尋ねてみたのですが、家の中に私と妻の巨大な写真が飾られており、「な、何だこれは!?」と驚愕していたところ、その家は私(と妻)の家という事になっており、それで写真を飾っているのだとか。

私は「この家はあなた達にあげるつもりで買ったのだから、写真は降ろしてくれ」と頼みましたが、結局、今はどうなってるのか。

あれから行けてないので分かりません。


私は必要な分さえ有ればさしてお金を必要としない人なので良かったですが、それでもやはり家庭を持つとお金には悩みますね。

妻と子どもを生かさねばなりませんから。

まあ、私が今死んでも、生命保険も入るようにしましたし、某国に保有した固形資産が有るので、彼女だったら某国で子ども達を大学に送りながらも余裕の有る生活を送れるでしょう。


私はそんな家庭生活の中で一度も神様にすがった事は無いです。(多分)

家庭部長から一度だけ家庭の様子について面接が有りましたけど、「私の家庭について責任をとるのは私自身なので、特に何か相談するつもりは無い」と断って以来、何も干渉してくる事は無かったですね。

私の心の中には常に神様との誓いが有り、それを果たす上において、神様にも教会にも依存する気は毛頭、無かったという事です。

祝福が恩恵であるとか何とか言うのですけど、幸せを掴むかどうかは自分次第であって、それは世間でごく普通に行われている恋愛結婚でも同じ事ですよね。

理解し難いのは、神様の前で永遠の愛を誓い合いながら、性格の不一致程度の事で簡単に離婚してしまう人達ですかな。

そういう傾向が統一教会にも有ります。

私も離婚寸前状態の時も有ったので、そうなる事も仕方無いと思いますし、特に責め立てる気も無いですが、あなたがもう少し努力していれば、何とかなったかも知れないのに、という気持ちは有ります。


「愛が無い」「愛が無い」と言われますけど、無いですよ。

愛は育まれなければ有り得ないです。

マッチングでその日に初めて出会った二人に確かな愛が有るかと言えば、無いですよ。

正直、統一教会員の愛は「神様>人」です。

それが無きゃあ祝福結婚なんて成り立たないですし、でも、それゆえに人への愛も喪失しがちだという難しい一線に立っているわけですが、少なくとも、我々には怨讐を愛するという信条が有ります。

お父様のマッチングにまつわる逸話がどこまで本当なのか分かりませんけど、お父様が仰るには「怨讐同士を組み合わせる」という事です。

だから妻も私にとっては元々、嘘でも互いに怨讐だったわけで、それをどのように愛するか、という事を考えるだけなのです。


ただ、これは本当に私の場合です。

別に何の問題も無く、すんなりと夫婦生活をエンジョイしている(ように見える)家庭も有りますし、逆に旦那がアル中で暴力を振るい、仕事もしないような状況で、それでも離婚せずに信仰を貫けとはとても言えません。

願わくば、各現場で祝福を受けるに値する資格・条件をしっかりと定めて祝福候補者をしっかりと分別して頂きたい。

祝福は万人のものとは言われますが、その価値が薄れないように配慮してもらいたいです。

それで私達一人一人は、犬猫の結婚などという揶揄ごとき一笑にふせるくらいの、理想的な家庭を築きましょう。

うちもこれから何が起こるかは分からない事ですけどね。


さて、最後に私が家庭生活のどん底状態にいる時に思いついた風刺漫談でも一席ぶちながら終わりにしましょう。(結構、余裕有るじゃん)


A「あなたは霊界がどんなところだと思いますか」

B「死んだ後に行くところですよね」

A「そう、そこは肉体を持っていけないので、心が露わになる世界なのです。なので、思った事がそのまま現れるようになります」

B「では、さほど悪い世界でもなさそうですね」

A「はい。時空を超越しているので、誰かに会いたいと思った瞬間に、その人に会う事もできます」

B「便利ですね」

A「でも、心の通じ合わない人とはそうもいきません。互いの気持ちが通じなければ永遠に会う事ができないのです」

B「会いたくないと思ったり、思われたりすると会えないのですか」

A「そうなのです」

B「そんな天国みたいな所があるんですか!」


お読み下さりありがとうございました。



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人という生き物は嘘を吐きます。

子どもの頃はえてして保身の為に嘘を吐いたりしますが、大人になれば悪意の有る嘘を吐くようにもなります。

嘘を吐く人に「嘘を吐くな」と言って嘘を吐かなくなるかと言えば、そうではありません。

なので、嘘を見抜けなければ騙されるだけです。


私が人は嘘を吐く生き物だと実感したのは教会に来てからの事です。

一番、最初の衝撃は伝道した時でした。

勿論、それまでにも嘘を吐いたり吐かれたりした経験は有りましたが、「では明日行きます」と約束して来ないという仕打ちを初めて受けた時はダメージが大きかったですね。

人間って笑いながら嘘をつけるんだな、と思いました。

始めから「行きません」と言って貰えれば良いのですが、その人にとっては断ったら粘られるだろうという、私に対する先天的嫌悪感が有ったのでしょうね。

書いてくれた電話番号がデタラメという事も多かったですね。

ある時は、嘘の番号を書いていると見抜いて、本人の目の前でかけてやった事も有りましたが、そんな事しても、いやらしいだけでした。


伝道活動を繰り返すうちに、その人の言葉に誠意が有るかどうかというのが、少しずつ見えてくるようになりました。

それまでの自分と言うのは、人の言葉に疑いももたず、どんな簡単な嘘にも騙されました。

友人からも「お前は絶対に悪い宗教にひっかかる」と言われていましたが、まさにその通り。

ですが、私が本当に人の嘘を見抜かねば危ないと痛感したのは、私に起こった、とある献金事件でした。


私は当時、青年のホームに所属していましたが、特にまだ教会に献金の問題が有る事など知りませんでした。

教会で泥棒が起きるはずなどないと思い込んでいたので、現金をそのまま裸で放置して、注意された事も有りました。

教会の人を信頼しきっていたんですね。

ある日、ホームのマザーと呼ばれる人物が私にこう言いました。

ややこしい話は省略して、早い話が「お金、預かっておいてあげようか?」という事です。

私は「何故ゆえに(?_?)」という感じでしたが、マザーは「ほら、自分で持っていたら使っちゃうでしょ」などと更に意味の分からない事を言ってきました。

私はその手持ちのお金に対してはもう使い道は決まっていましたし、別に他の事で使う気も無かったのですけど、断っても何か気まずいし、多分、私が何らかの誘惑に負けて後悔する事が無いように気遣ってくれているのかな、と超好意的な解釈をして、自分の全財産であるそのお金を渡しました。

そして、そのお金が必要となった時、青年ホームの部長さんにお金を返してもらおうと相談に行きました。

「すみません、○○費として○○円返して頂きたいのですが」

部長さんは驚いて、

「え!?全部、献金しちゃったよ」

と言いました。

私は衝撃のあまり何が起こったのかあまりよく分かりませんでしたが、やっとの事で、

「なんで勝手にそんな事するんですか…」

と落胆しながら呟きました。

私が本当に衝撃を受けたのは次の部長の言葉でした。

その驚きの言葉が、これだ。

☚1・2・3!


「親に言って(お金を)貰えないの?」


私は部長さんが私に謝って上で、返金するように計らってくれると期待したのですけど、彼が放ったその言葉には、自分が悪いという通常の感覚がまるで無かったのです。

もしかしたら、彼は本当に悪気は無かったのかも知れません。

私からお金を受け取ったのはマザーで、使ったのは部長ですから、その間のやりとりで、部長はそのお金を自由に使っても良いと私が委任したものと思い込んでいた可能性は有ります。

にしても、普通は使う前に本人に確認しても良いだろうに!

使っちゃったのはどっちだよ!

もしかしてこの人達は悪意をもって私からお金を搾取する為に私を騙したのではないだろうかと悩みました。

結局、お金を返金するという形式的な解決も無く、次の月の部費も払えないとマザーに言うと、「また相談しようか」と言われたまま音沙汰無しに、その月は部費未払い状態で時は過ぎました。

あまりにもいい加減。

私も追求しなかったのはいけなかったかも知れませんが、およそ食口と言うのは人を責める事に罪悪感を持つようになっており、彼らが私的目的ではなく、献金の用途でお金を使っているため、批難しにくいという心理が働きます。(多分)

なので、こういう問題が起きながらも、泣き寝入りしている人は、きっと想像以上にたくさんいる事でしょう。

しかし、私はまだまだ新入りで、外部だけでなく、内部においても教会全体で献金に関する様々な問題が発生している事は、まだ知らなかったのです。

いずれにせよ、私が教会内部の人達に対しても、簡単に心を許してはならない事を知ったのです。

私が彼らの嘘を見抜かねば、彼らも罪を犯してしまうのです。

私が彼らを一方的に断罪せず、私の認識の甘さから生じた問題として内省できたのは幸いでした。

ただ、これがエスカレートすると、預金通帳とかになってくるので、本当に気をつけて下さい。

本当に。


ところで、この時のマザーの不可解な言動の解はこうです。

日本統一教会においては、お父様なり、幹部なりが定めた献金目標額というのが毎年・毎月・臨時のノルマとして課せられます。

そして、その全体の目標額が日本を分けるリージョン・地区に割り当てられ、そこから各教区、教会に細分され、青年のホームにもわずかながらの献金目標額が設定されるのです。

この分配比は前月の達成率などに基づいて割り当てられます。

各教会、青年ホームでは毎月、会議が執り行われ、いかにして目標献金額を達成するかという話し合いが行われます。

彼らとしては、まずその達成に対する「見込み」を確定したいのです。

なので、どこからいくら入るかという間違いない収入を算出し、足りない部分を如何に補うかを考えます。

つまり、彼らは誰がいくら持っているという情報は極力手に入れたいわけで、そこから効率よく、誰に話しかけるかという計画をあらかじめ立てるのです。

そこで見込みとして目をつけられたのが私の持っているお金というわけで、勝手に使われてしまう私の手元に有るよりも、しっかり管理出来る自分達の手元に置きたいのです。

教会内で聞いた事か忘れましたが、人は心理的に自分が手に持っているお金に対して、「そのお金を下さい」と言われるとあげないのですが、相手にお金を掴まれてから「このお金を下さい」と言われると、あげてしまう確率が格段に上がるそうなのです。

それを意識してかしないでか、彼らは少しずつ巧みな話をしながら自分の元にお金をたぐり寄せ、ここぞという時にフィッシュするのです。

要するに、「持っていたら使っちゃうでしょ」と言う私を気遣っているかの様に見せかけた強引な思いやりは嘘なのです。

考えたら当たり前の事なのですが、疑う事を知らなかった私は騙されたのです。

と言うか、変だな、と思いながらも、相手に対して一方的に好意的な解釈を与えてしまっていたのですね。

私のそういう甘さが、お互いに傷つけてしまうような結果を生み出しました。

別に彼らだけの責任にはしません。

私が馬鹿だったのです。

人の嘘を見抜く訓練をしなければならないのです。

お父様のみ言で真の愛は対応は出来るが対処は出来ないというものが有ります。

真意は分かりかねますが、相手の嘘をあらかじめ見抜かねば、適切な対処は出来ません。


ちなみに、この部長さんは後に教会長に昇格し、お金に困った食口に教会の公費を無条件で貸し出すというお人好しぶりを発揮しています。

借家の敷金が無いという人にお金を貸し、学費が無いという二世にお金を貸します。

無期限、高利貸しも無しですよ。

婦人部長は「教会だって資金繰りが難しいのに。私なら出来ないわ。それが教会長の良いところでもあるんでしょうけどね…」と嘆いていました。

まあ、良くも悪くもお金に執着しない人なんでしょうなぁ。

振り回される方はたまったものじゃないですが。

その学費を貸してもらったとある二世が、今度は留学するという事で連絡がきたらしく、教育部長が慌てて彼を引き留めました。

お金を返してなかったからです。

その時に、その二世が放った驚きの言葉がこれだ。

☚1・2・3


「やっぱり返さないと駄目ですか」


当たり前だろ。

恐らく「返さないと(留学するのは)駄目ですか」の意味だとは思うのですけど、教育部長がいなければ、この教会長はきっと許していたし、そのまま踏み倒されていたかも知れませんね。

余談でした。


さらに余談ですが、こういう責任者から発生した理不尽な事件を、不満としてぶつけられる環境が有れば、少しは気も晴れるのかな、と考えたりもします。

一般の会社でも上司からの理不尽な仕打ちを受ける事はいくらでも有りますし、そんな時は同僚と飲みながら会社の悪口を言い合って、よし、明日からまた頑張るか、となるものですが、我らが統一教会は酒も駄目な上に、横の兄弟間で責任者の悪口を言おうものなら「アベル批判」の罪となるような教育を受けているので、出来ないのです。

悪の授受作用、略して「悪授受」と言われてました。

だから兄弟間ではあまり深い繋がりが作りにくいし、青年のホームでもストレスとフラストレーションの溜まり場のような雰囲気が無きにしも非ずでしたね。

月一の和動会だけが唯一の楽しみ、みたいな。


彼らの目的性というのは、実際に善である事が多いのですよね。

手段を選ばなくなるだけで。

非宗教人には理解し難いところですが、究極の善の目的の為に手段を選ばなくなり、教義を捻じ曲げてでも正当化しようとする心の動きというのも、一つの人間性だと私は捉えています。

彼らは別に悪人ではありません。

「ダ・ヴィンチ・コード」という作品の中で、サイラスという人物が宗教的目的の為に人を殺すまでに至る様子が描かれていますが、読み手の感想を見てみると、割と彼に対する同情や理解の声は多いです。

読み手にとっては虚構だからでしょうけどね。

あまりこんな事を言うと、統一教会やオウムの悪事を擁護したり、テロの正当化にも聞こえるので、いけないかも知れませんが。


とにもかくにも、私は教会の人に対しても、その人の動機や思考を読み取る訓練を始めました。

言っている事に矛盾が無いか、言葉と行動が伴っているか、話す時の表情や声の変化等、注意深く見るのです。

そういう事を続けていると、ある時から、直感で瞬間的に、その人が嘘を吐いているかどうか分かるようになりました。

分かる、と言っても「そんな気がする」レベルで、確認する作業が無くては本当の嘘かどうかは分かりません。

また、どういうわけでその直感が働くのかもよく分かりません。

霊感は無いですし、わずかな表情や声質の変化に対して敏感に違和感を感じているのかも知れません。

ドラマ「Lie to me」のような分析力によるものでもないです。

でも、私は人よりもこの能力が少し優れているという自信が有ります。


私は普段の付き合いで、「自分は嘘が分かる」なんて絶対に言わないですし、これを読んでいる皆さんにも別に信じてもらえなくても良いです。

私が自信を持っている理由として、師母様やら、マザーと呼ばれる人達が、2時間もかけて面接した兄弟姉妹やゲストの嘘や動機を見抜けないのに、私がその話を伝え聴いたり、本人と10分話しただけで見破る事がよく有った事例などがあげられます。

「いや、そうじゃなくて、この人は○○がしたいんでしょ」と言うと、後に「どうして分かったんですか」と聞かれるのですが、最初に来るのは直感で、後から話の素材を集めて理論的に看破するのですが、その勘と論理の間は微妙で、どうしてなのか自分でもよく分からないのです。


青年ホーム時代、ある子と面接して、「仕事は順調ですか」と聞いた時に、「全然、問題無い」という答えが返ってきたのですが、私は直感的に嘘だと感じ、何度か繰り返して追求してみましたが、その子は決して職場での問題を話しませんでした。

しかし、結局、数ヵ月後にクビになり、「あの時は大丈夫と言っているのに、どうして聞かれるのか不思議でした」と言ってました。

その子は私に心配かけたくなかったような事を言いますが、それも嘘です。

自分が「できない」という印象を持たれたくなかったのです。


また、ある兄弟が家庭出発をするというので、会いに行って状況を聞きに行きました。

話を聞きながら、「まだ早い」と言いましたが、彼は「彼女も大丈夫だと言ってます」と言います。

「その大丈夫は大丈夫じゃないから、せめて○○してからにしろ」とアドバイスしましたが、彼は結局、家庭出発を強行しようとしました。

なんとかサポートしようと二人を家に呼んで食事したりしましたが、結局、家庭出発前に、彼女から破棄されてしまいました。

私が彼に見たのは、彼女に対する思いやりよりも、自分自信への焦りでした。

私の妻もそうでしたが、家庭出発前の女性の「大丈夫」はえてして大丈夫でない事が多いので、家庭出発前の男性諸君はしっかりと見抜いて現実的な対処をしてあげて下さい。


時には私に対して明らかな悪意の有る嘘を吐いてくる人を目の前にしますが、辛いのは彼らが嘘を吐く事ではなく、嘘を吐いていると分かっているのに、多くの場合は最善の対処が行き届かない事です。

「お前、嘘を吐いているだろ」と言っても、ほとんどの人は認めません。

逆ギレされて、更に心が頑なになったりします。

なので、私は嘘を吐いていると分かっても、ほとんどの場合、知らないフリをします。

でも、相手が嘘を吐いていると知った上で、どうしてその嘘を吐くようになったのか、という動機や目的などを掌の上で転がすがごとくに把握出来ていれば、不思議と大して怒りは湧いてこないのです。
対処する余裕が有りますからね。


そうそう、ネットワークビジネスの話を持ちかけてくる人を見てると面白いですよ。

「このサプリを飲んで改善したんです」(本当)

「○○さん(紹介者)はもう、ボーナスでサプリはタダになってます」(嘘)

「私も月にこれだけ収入が有って」(本当)

「○○病院でも買ってくれていて、患者にも奨めてます」(火を見るより明らかな嘘)

みたいな感じでバシバシと虚実を見分ける訓練が出来ます。

そして誘われたセミナーでも嘘だらけ。

本人の嘘には触れず、「このセミナーで言ってる事は嘘だらけですよね」と言うと、「私にも(嘘が)有りました」と言ってくれた人もいます。

鬱陶しくても、訓練の為にそういう場に積極的に行くのも良いかも知れないですよ。


世の中は嘘で溢れてます。

マスコミもしかり。

営業の基本は消費者の需要に対して供給する事ですが、その恐喝的手段の一つは消費者の不安を意図的に煽って、解決策を自社の商品で提供する事ですよね。

霊感商法ってのはそれを更に悪質にしたもので。

教会の中でも外でも、私達を食おうという狼が大勢いるもので、嘘を見抜く訓練というのは生きていく上で必須だと思います。


私が半悪質的だな、と今思い出すのは、ある産婦人科クリニックでの事です。

私の妻が妊娠して、行きつけになったクリニックです。

胎児が形を成してきた頃、超音波?で撮影した写真を見ながら話をしますよね。

その医師か助産師か忘れましたが、彼女が言うには「この辺りの形状に異常が有ると、ダウン症になる可能性が有ります」と説明されました。

そして、こちらが何か質問するよりも早く、「検査する方法に羊水検査を実施している所が有るので、御希望でしたらお申し込み下さい」と約16万円を要する検査を奨めてくるわけです。

私はその時に、いつも人が嘘を吐く時に感じる何らの独特の違和感を彼女に覚えました。

嘘かどうかは判断がつかないのですが、「変だ」と感じるのです。

恐らく、ダウン症になる可能性が有るという所は本当だとは思うのですが、彼女が何か言いたくない事を言っているのは私の中で間違い無いと思うのです。

まあ、生まれてくる子どもがダウン症かも知れない事を宣告するのは、言いにくい事ですから、不自然じゃないのかも知れませんでしたが、それでも、やはり何かおかしい。

初期段階で異常が有っても正常に生まれてくるケースがザラに有る事はクリニック関係者である彼女自身が良く知っているはずなのに、ただ、こちらを不安に陥れて高額な検査を勧めてくる事自体が、考えなくても人として何か無機質な印象を受けますよね。

クリニックとしては、その時に異常を伝えなければ、後から「なんで教えてくれなかったのか」という責めを受ける事を回避したい気持ちが有るのかも知れませんが、十分な説明を受けられなかった私の妻は急激に不安に襲われ、その夜は一晩中、泣き明かしました。

母体の精神状態を最優先的に考えるならば、もう少し安心感を与えるような話の仕方をしてくれても良いだろうに。

他の知り合いでも、胎児の形に異常が有ると言われ、奇形が生まれるのではないかと不安になり、妻と同様に泣いていた婦人がいるのですが、はっきり言って酷いですよね。

羊水検査は検査のみで、ダウン症が判明しても治療法は無いし、出来る事と言えば、事前のカウンセリングか、堕胎です。
私はたとえ子どもがダウン症でも育てていく覚悟が有りましたので、検査は始めから考えていませんでしたが、妻もダウン症について自分で調べ、次の日には落ち着いていました。

ダウン症だからと言って別に悲観する事は有りません。

時にダウン症の子の方が人よりも優れた才を持つ場合も有るし、俳優になった人もいます。

正しい知識を持っていれば恐れる事は無いのです。

それにしても気になるのは、あの時に感じた違和感です。

もしかしてクリニックと医療ビジネスの癒着か何か有るのではなかろうかという疑いがもたげました。

まあ、羊水検査を必要とする人もいるので、クリニックとしては、そういうサービスを提供する事に間違いは無いのでしょうけど、ただ、もう少し羊水検査のリスクや倫理的問題についても説明が有るべきでしょうね。

ワクチン等でも言われてますが、医療とビジネスが癒着したら怖いですよ。

食われるしかないですからね。

あんまり参考にならない話でしたが、まあ、産婦人科と言えども、油断ならないって事で。


他にも面白い話はたくさん有るのですが、あまり具体的に書くには憚られる内容が多いのですよね。

私と妻の事を書きたいのですが、もしかしたら、妻の名誉を傷つけ得るので、今、考え中です。

嘘を見抜けても、特に対処できないもどかしさに、こんな訓練しなきゃ良かったなと思う事も多々有ったのですが、これが有ったがゆえに、妻と私の今が有る、という内容が有ります。


具体的な事を抜きに大筋をお話しすれば、私にも落ち度が有ったのですけど、私の妻は私に対して「あなたは私に呪いをかけた」という程に、私を憎んでたのですよね。

朝は7時に出て帰りは23時、時には週7で働いて、帰宅すればそんな有様ですから、私は本当に肉体的にも精神的にも死にかけ、一度、職場で倒れて病院に運ばれた事も有りました。(妻には内緒ですけど)

そんな状態でありながらも、彼女が私に対して愛そうと努力してくれているのを分かっていたので、まだ希望は持っていました。

ある日の深夜、私と妻である事で話し合いました。

最初は普通の話なのですけど、意見が合わない事が出てくると、関係の無い事で責めたりしてくるようになります。

そこでまた、「呪われた」とか、「私が○○した」という事を色々と言うのですが、私は待ちに待った絶妙なタイミングで、「でも君はあの時○○と嘘を言ったよね?」と確信的に切り返したのです。

すると彼女は「ど、どれの事!?」とうろたえました。

私がずっと気づかないフリをしていた彼女の嘘を確信的に突いたので、咄嗟に嘘が吐けなかったのでしょうね。

私はこの時がチャンスと思い、続けました。

「全部、分かってる。もし君が呪いをかけられたのだとしたら、それは君自身が自分を呪ったんだろうな」

彼女は観念したかのように認め、私を責めれば自分を正当化できると思っていた気持ちを打ち明けました。

私にとっても賭けでしたが、それから彼女の私に対する態度は劇的に変わりました。

多分ですけど、嘘を知りながらも受け入れていた私に対して信頼を寄せ、愛を感じてくれるようになったのではないでしょうか。

多分ですけど。

それって言うのは少々、打算的かも知れませんが、私が彼女の嘘を的確に見抜き、その優位性を有効に利用する事で開けた道だと思うのですよね。

自分が嘘を見抜く能力を持つようになった事に初めて感謝できた瞬間でしたね。

もしかしたら、この時の為の準備だったのかも知れないと思うほどに。



誤解しないで欲しいのですが、妻は良い人ですよ。

世の中の人が全部幸せにならなければ自分は幸せになれない、なんて言っちゃう凶悪的な善人です。

私なんかよりもずっと社交的で、知性に富み、人前で私の悪い事など言いません。




こういう嘘を見抜く能力って別に特別なものでもなく、出来る人は普段から普通に無意識にも有意識にも使ってます。

私がつけ加えて言いたいのは、たとえ誰かが自分を騙そうと近づいて来ても、自分自信がしっかりと相手の動機や目的を把握していれば防げる事態も有る、という事です。

誰のせいで自分はこうなったと言ったところで状況は変わらないですし、教会に騙されて間違いに気付き、教会を批判するようになっても、今度はいつぞやに有ったごとく、教会を批判する人に騙されているなら、それは人間の質としてあまり変わっていない、という事なのです。

脱会屋に説得されて教会をぬけたのに、今度は脱会屋の良いように使われてるなら、あんまり以前と状況は変わってないですよね。

そんな人はどこに行っても誰かに騙され、また人のせいにして不幸になってしまいます。

誤解しないで欲しいですが、別に教会組織を正当化しようというのではないですよ。

自分の人生には自分が責任を持たねばならないという事です。


私がどうしても分からないのはお父様の嘘なのですよね。

反対派の意見を見ながら、いや、そっちの話の方が説得力有るよな、という話は多いですし、み言を読んでいても変なところだらけなんですけど、どうしてもお父様からは嘘が感じられないのです。

嘘が分からない場合、何通りかの要因が有るのですけど、例えば、仮に嘘の情報でも、本人が信じきって話している場合。

他に、聞き手の私が話し手に対して宗教的な依存状態に有る場合、とかですね。

多分、両方ですよね。

私としては、お父様は人類を救うという動機・目的に関してはド本気の大真面目だったと思います。

ただ、絶対に嘘も言ってます。


「神様も詐欺師」というみ言は一時期、一部の人達の間で騒然となりましたが、神様が詐欺師ならば、お父様が嘘を吐いていないわけが有りません。

なので、私たちを騙した上で、私たちを救うという、このギャップに苦しむわけですが、敵を欺くためには、まず味方からという言葉が有る様に、だとすればお父様が何かに対して「敵」と認識していた事が推測されます。

その敵は日本であるという見解も反対派の中では強いですが、お父様のなされる、あからさまな日本バッシングは逆にフェイクに思える事も有ります。

一刻も早くみ言を揃えて研究に乗り出したいと思います。


なのに、こんなにも長々とブログを書くのも意味が有ります。

ネタばらしもなんですが、私の書く記事は、ブログの主題とは違うメッセージを盛り込んで書くようにしています。(嘘を書いてるわけじゃありませんよ)

だから本当に言いたい事は表面的には見せず、言うなれば暗号のように本意を隠して伝えるのです。

実験的な試みですが、お父様のなされた事に通じるだろうかという部分に挑戦しています。

意識的に探してみるのも一興ですが、分からないと思います。

10月までのブログなので、もうしばらくお付き合い下さいませ。


お読み下さりありがとうございました。



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自分のポリシーとして、アメンバー記事は書かない予定でしたが、考えた末に書くことにしました。

慌ただしく記事を書いたせいで、ちょっとお伝えする情報にムラが出来てしまい、過去2件の記事は削除しましたが、どういう事情にしろ、み言を読めるサイトが一つ一つ消えていくのはやるせないものです。


しかし、私もちょっと教会が悪意をもってみ言を削除したり、今後、み言を公開する者達に圧力がかかるのではないか、という不信感を煽り過ぎたという事も反省しました。

そういう可能性が有るというだけで、別にそうとは限りません。

逆に私が不安を煽ったせいで、サイト管理者が自主閉鎖したという可能性だって有るわけですからね。

別に管理人の自己都合の場合も有るでしょうし。


ただ、教会の焚書行為を思わせるような出来事は多いですよね。

700巻のみ言を120巻に縮小する動き、繰り返しが多い・読みづらい等の理由で再編されると思われた天聖経は全く別物に怪編、文字化されない晩年のみ言、本体論の廃止。

異常だと思わざるを得ません。


そういう異常を叫びながら教会は間違っていると糾弾してくれる人もいますが、本当にみ言を守ろうと実質的な行動を起こして下さっている方がどこにいるでしょうか。

眠る時間も、収入を得る機会をも削ってまで。

いらっしゃるかも知れませんが、ほとんどの人はただ教会の間違いを指摘したいだけでみ言そのものに対する実は無いですよね。

ブログ村でブログを書いている方で、「協力します」と連絡を下さった方はたった一人だけ。

後は、皆、ブログを書いていない方々や、ブログ村に参加していないブロガーです。


み言情報を提供して下さった方には、相応の情報を差し上げさせてもらいましたが、本来的には集めたものを全公開したいところです。

が、慎重には慎重を重ねたい気持ちも有ります。


もう一つの問題として、以前から私のブログは期限付きで書いていると申し上げましたが、具体的には今年の10月までです。

それまでに、ある程度、形にしたものを提供したいのですが、それ以前にみ言を紹介している大元のサイトが消えてしまっては意味が有りません。


と言うわけで、私が持っているみ言リンク集をひとまず全公開し、皆様に間接的にみ言を提供すると同時に、その公開したサイトがこの先、どうなるのかを、皆で確認出来るようにしようかとも思いました。

しかし逆に、それらを公開して欲しくないと思う方もいらっしゃるかも知れないとも思いました。

味方も見ていれば、敵も見ている中で、簡単に情報公開をすれば命取りですよね。

お父様のみ言もその様になっている節が有ります。


なので、取り敢えずアメンバー限定という形でみ言のリンク集や、私の製作しているみ言集情報を提供させてもらおうかと思い立ちました。

別に一人も申請が無くても良いわけですし。


アメンバーの条件としましては、最低限、過去に一度でもコメントやメッセージでやり取りした事がある方のみです。

「明らかにお前、み言に興味無いだろ」という方だけでなく、「本当にみ言に興味あるんですか」というような疑わしい方もお断りします。

願わくば、み言研究に興味が有り、分派に対して偏見を持たない人間性を有した方が集い、み言について互いに論じ合い、情報交換出来るような方が申請をして下さい。


アメンバー記事とは言え、情報は簡単に漏れます。

そこでの情報もある程度、制限します。

承認者以外からのアクセスが認められたり、不穏な動きがあれば、記事は全削除します。

御了承願います。


それでは、よろしくお願いします。



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前回、「言い足りない言葉が多すぎて、まだまだ誤解を与える部分が有るかも知れない。そういう部分はどんどんぶつかってきてくれ。」と書いたところ、おやじさんがぶつかってきて下さいました。



「現役食口Unrestorable氏のブログ「二世よ、強く生きろ」を読んでの所見」

http://ameblo.jp/oyajikan/entry-11856305421.html



ただ、まあ、なんと言うか、あんまり話し合いをする気はお持ちでは無いような感じで、交流しようと意気揚々とコメントを差し上げたところ、おやじさんからは「コメントありがとうございます」という一言だけの無機質な返事をされてしまい、もう何かこっちもトーンダウンしそうで、あんまり書く気も無くなってしまったのですが、「回答する」と約束してしまったし、最初は「おやじさんへ回答」みたいなタイトルにするつもりでしたけど、前回の続きみたいなていで、これをおやじさんへの回答とさせて頂きます。

おやじさんの私に対する無機質な対応は、

「おそらく統一食口が今のような冷たい非人道的な統一教会組織から開放されれば、食口一人一人の人間性は情に厚く、冷たい人間などはそれほど居ないと思います。環境が人間を変えてしまう事も大いにあるのです。」

と、おやじさんが仰るように、本来はおやじさん御本人も冷たい人間ではなかったと受け止めておきます。

これも統一教会という組織が生み出した軋轢なのでしょうな。



最初に誤解の無いように、弁解という形で申し上げますと、私は別に組織に問題が無いと言う気は有りません。

私はこれまでも組織の体質の問題についてとりあげた事も有りますし、自分が教会に預けていてお金を勝手に献金されて無一文になった体験談なども紹介してきました。

私の前回の記事は「二次的な問題」として人間関係について取り上げており、「一次的な問題」として統一教会の組織体制自体に問題が有る事は敢えて取り上げなかっただけで、否定はしません。


おやじさんが仰るように「環境が人間を変えてしまう事」は、私も同意見であります。

「衣食足りて礼節を知る」という言葉が有るように、古人からの教えにもあります。

おやじさんのように佐野博士を支持し、フリーエナジーの開発により、社会構造を抜本から改革しようという取り組みも、私的には実に興味深い挑戦の一つです。(勉強不足ゆえに、間違いが有れば御指摘下さい)

ただ、組織を作るのも「人」でありますから、結局、私達個人、一人一人が意識を変えなければ組織も変わりえないという考えから、私は個人に焦点をあてて「本質」としましたが、両面からのアプローチが必要です。


問題の解決は何でも両面からだと考えています。

が、今回の事件の場合、元の情報があまりにも信頼性が薄く、私が一読しただけでも、投稿者の人間性の胡散臭さがプンプンと臭ってくる内容でした。

「貴方はこのような悲劇に対して、もう二度と起こすまいと、なぜ自分のブログで統一教組織の非人道的な所業を断固として追求しないのですか。」

と、この事件を通じて統一教会全体の汚点を断固として追求するようにおやじさんは仰るのですけど、逆にお伺いしたいのは、この出鱈目投稿文を元にどうやって追求するのですか?


怪しい投稿文だな、と思って記事を書いた後、別の用件で米本氏のブログを訪問したところ、以下のような内容が有り、投稿文の内容は嘘だらけだという事が判明したわけです。


佐賀判決文(2)-アカハラ・パワハラをともなう大学の“カルト対策”

http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-480.html



後出で宗族的メシヤさんも書いてます。



「日本南東京教区で二世が自殺」の記事には多くの間違いがあります

http://ameblo.jp/souzokutekimeshiya/entry-11856947257.html



何故、統一教会直接関係者が事実関係もよく調べもせずに、こんな出鱈目投稿文に踊らされて狂ったような組織批判が出来るのかが私にとっては不思議です。

もとい、情報発信者が事実確認をしていない事が自体が異常ですが。

不思議と言うか、彼らは組織批判さえできれば、何でも有りなんでしょうけどね。

ルポライターという職業柄、事実確認はもう当然になっている米本氏であるでしょうけど、何故、間接関係者である米本氏にここまで言われなければならないのか、自分達の醜態を確認するべきでしょう。

私も無知の部類ですが、少なくとも、例の投稿文が嘘くささ満開であることは瞬間的に判断が出来ます。

この出鱈目投稿文で一方的に組織を批判したが為に、かえって批判者の後味が悪くなって、教会の立場を有利にしただけではありませんか。



おやじさんは、

「教会側の平信徒に対する必要以上の無理な献金追求が祟ったことで、平信徒が自己破産し、一家離散し、路頭に迷い、それを協会側が無情にも見て見ぬ振りをして見捨て結局、その平信徒と家族が自ら命を絶ってしまったと言うケースはこれまで多々あります。」

と仰るのですが、おやじさんのブログを見たある人物が教会に抗議をしたとしましょう。

例えば、こんなやりとり。



「教会では自殺者が出てると聞いてるぞ!」

「すみません。それはどこの誰の事でしょうか」

「え、詳しくは知らんがインターネットで見たぞ。そうだ、おやじというブロガーが書いてたぞ」



そして、おやじさんが自殺事件の詳細な情報を話せなければアウトでしょう。

勿論、そこまで堂々と書いていらっしゃるわけですし、私よりも信仰歴が長いとお見受けしますので、様々な事件の詳細を御存知だと思います。

無知な私も努力しますが、是非とも情報に長けたおやじさんにこそ声を上げてもらいたいと思います。



そもそも、私も教会組織は悪いと思っているのですから、本来は私とおやじさんが喧嘩する理由などありません。

私が常日頃、言っているのは「批判するなら、まっとうな批判をしろ」という事です。

「不確定情報なのに断定的な表現を使うべきではない」とか、そういう情報発信者にとって当たり前に持つべき倫理観を言っているわけです。

嘘の情報で教会を貶めて何になるんですか。

教会も嘘をついて、教会批判者も嘘をついているなら、一体、誰を信じれば良いのですか?

自分自身で嘘を見分け、事実を分別するしかないのだから、私が「大人を信じるな」と言う事に何の問題が有るでしょう。

おやじさんがブログ村に登録されたブログのタイトルは、

「神の摂理の真実を追求します」

ですけど、目の前の虚偽を放置したままで、なおかつ虚偽情報に乗っかって組織批判しちゃうあたり、「真実」という言葉が泣いてるように感じますけどね。



そんなおやじさんが別のRyoさんとやりとりした記録が有り、おやじさんの人間性と思想の一部が理解できるものでもあるので、興味が有ればお読み下さい。

内容は本件とは特に関係有りません。

ただ、この時と同じように会話をぶつ切りにされるようであれば、私はおやじさんの人間性をここからでしか判断できなくなってしまいますが…。



「しばき隊」、「反原発」、「日本赤軍」、「9条の会」の口座番号は同じか?

http://ameblo.jp/ryoushinnisitagau/entry-11777382234.html



おやじさんにも相手にされないし、このごろ髪が抜けるなぁ

http://ameblo.jp/ryoushinnisitagau/entry-11779393713.html



Ryoさんは文章も良く、情報量も多く、仮に反対派に転向しても書き続けて欲しいブロガーのお一人ですね。



さて、また、別の観点からおやじさんや、教会批判型教会人にお伺いしたいのですが、

「金集めだけを効率的に成し遂げる事を主眼に置いた冷たい非人道的な組織作りから生まれた統一教団の冷たい人間環境文化が、食口同士の人間関係の希薄さと仲間に対する無関心さを生んだのです。」

という事をもっておやじさんは本質的な問題と捉えているようなのですが、もし、教会組織のみ、に原因を置く事を本質と捉えるならば、その組織を作ったのは誰か、というのがもっと根源的な原因であるのではないですか?

当たり前ですけど、世界摂理と称して献金の要求を始められたのは真のお父様ですし、世界宣教の摂理の時も多くの二世が犠牲(被害)にあったと聞いてますし、教会員の経済力が疲弊してもなおかつ、巨額な献金を要求されたのはお父様です。

日本が沈むと脅されながらも。

おやじさんのように組織の構造が本質だと捉えるよりは、反対派が言うようにお父様や教義自体に問題が有るという主張の方が筋が通っているといますけどね。

アベルカインの教義の誤解に問題が有ったという人もいますが、アベルカインのみ言にあまりにも多様で多岐にわたる見解を提示したのはお父様ですし、「日本のアベルカインは間違っている」としながらも、結局、正しく指導し、是正されなかったのはお父様でしょう。

記事にする為にまとめていたものが有りましたが、途中で止まってます。



これは私が青年のホームで生活していた時の話。

2000年か、2001年か確かその辺りの出来事であったと記憶していますが、当時も強烈な献金の要求が有りました。

日本が期限までに献金目標額を勝利できなかったので、当時の日本総会長が(名前は忘れました)お父様に御報告にあがったところ、猛烈に激怒され、口汚く罵倒され、総会長の顔面に唾を吐きかけられたそうです。

これは反対派が言った事とかではなく、当時の青年ホームの祈祷会において、責任者を通じて話された公式的なニュースです。

私が言えるのは、

「日時曖昧な当時、お父様が献金勝利できなかった日本総会長を非人道的とも思える態度でお叱りになられた、という報告が青年のホームでされました」

という所までです。



皆さんはこの情報に対して色んな所感を持つでしょう。

1.お父様はそこまで切実であられたのだなぁ。

2.こんな奴がメシヤなはずがない。

3.いや、これは幹部の作り話だ。

4.そもそもUnrestorableの妄想だ。

etc...



皆さんにはあらゆる選択肢が存在する中で、恐らくほとんどの方は自分に一番都合の良い選択肢を選ぶでしょう。

私を含め誰も当時の総会長の名前を調べたり、献金摂理の内容を調べたり、他にもこの出来事を知っている人がいるか探したりしないでしょう。



今回の自殺事件についても投稿文の情報のみでは、動機は全く不明、方法は服毒自殺という事でしたが、かなり強引な可能性としては、自殺に見せかけた殺人であったり、事故である可能性も有るにもかかわらず、皆さんが選んだ選択肢は「教会の非人道的対応」の一択。

そして「滅べや、滅べ」「逃げろや、逃げろ」とお祭り騒ぎ。

故人も可哀想だし、死んでいない人が死んだ事にされているのも、可哀想です。

本当ならば、こんな記事のネタにもしたくないと言うのに。



信者の信条としては、お父様は神様の摂理勝利の為に献金が必要だったと思っているはずですが、お父様がこれほどまでに非人道的と思える程の仕打ちを総会長にされたと聞かされれば、教会員としては、もう必死にならざるを得ませんよね。

特に教会職員ならば、なおさら。

献金を捧げ尽くした教会員の生活を保証する程の余裕は当然、教会には無いですし、昔の公職者の公費(給料)が一ヶ月の給料分のメッコール現物支給という事も有ったと聞きます。

組織が非人道的だと言っても、組織人も非人道的な扱いを受けているわけで、その大元が誰かと言えばお父様しかいません。



土台、組織のみに批判の的を絞るのは、私から言わせてもらえば、それこそ的外れもいいとこ(的足らずか)。

結局、お父様を信じるのであれば(信じるのでなくても)、教会員同士が互いに支え合うしか無い。

今もなお、お母様は多額の献金の要求をしてきますし。

私が言える事は、「無理な献金はしないで下さい」「お互いに関心をもって声をかけ合いましょう」という事だけです。



私の事で言わせてもらいますと、私は今の教会に所属するようになってから、特に献金の要求も、厳しい詰めもなく、誰がどうやって献金しているのか不思議な感じです。

礼拝や集会でもっと献金の話が出るのかと思えばそうでもなく、身構えて行った分、拍子抜けしました。

対策マニュアルが有るのでしょうか。

それでも毎週、本を伝授されたりしてる方がいますから、お金持ってそうな人にだけ面談して献金をお願いしてるのでしょうかね。

分かりません。

聞いてみるか。

他にも教会では、不登校の児童を持つ親に向けてのセミナーを開いたり、少しずつですけど、家庭の諸問題に取り組もうとする動きも有ります。

教会も微力ながらも変わろうとしつつ有るので、それはそれで良いのではないですか。



私が心配するのは、むしろ教会が潰れた後の事です。

裁判に負ければ教会は無くなるという方もいますが、そうなった後で、私達がまた兄弟姉妹として集えるのか。(むしろ財団が潰れたら日本教会は韓国組織から解放されて自由を得られるとも思うけど)

お父様御自身が、最後の大会において「統一教会を無くそうとしたのに」「もう無くなります。見ていて下さい」という事を仰ってますし。(同時通訳者によると)

放っておいても統一教会は近いうちに無くなる可能性が有るという事は言えそうです。

そうなった時に教会に頼りきっていた人々、特に公職者家庭などで苦境に立たさられる二世も出てくるはず。

統一教会の腐敗をそのままにしておけば、更に被害者が増加し得るというのは勿論、分かりますが、逆に統一教会を積極的に潰そうとしている人達が、教会が潰れる事で現れてくるであろう被害者に目を向けてあげないならば、それこそ非人道的ではないですか。

私は人格的に未熟なので、全ての人を平等に愛するなどとは言えませんので、善人ぶっているという言葉は甘んじて受け入れますが、皆が一人一人、身近な人に目を向ければ、防げる被害も有るはずです。


こういう過酷な環境だからこそ芽生えた友情も有ります。

私が青年ホーム時代、私をいつも支え応援しえくれた二世の兄弟がいて、自分は彼と献身したいと、心から願うようになりました。

しかし、彼はある時から急に組織に反抗的になり、しばらくして何も言わずにホームを出て行ってしまいました。

私は寂しさと、裏切られた様な感覚をおぼえ、彼を恨みました。

時が経ち、次第に私も組織の異質さに嫌気を感じ、少し教会と距離を置いた時期が有りました。

そんな時に、彼と再び出会い、話をする機会を得ました。

私は正直に自分の気持ちを伝えました。

何故、何も言わずに出て行ったのかと。

彼は初めて、自分の内に秘めいていた秘密を明かしてくれました。

親が献金の為に自分を担保に借金している為に、働いて返さねばならない事、その事を責任者に相談に行くと、「君はここから出た方が良いんじゃないか」と冷たくあしらわれた事、その他諸々の、私の知らなかった事、言いにくかった事を教えてくれました。

彼の立場を理解し、私ははじめて彼と本当の友情で結ばれました。

他県に住んでいますが、今も年に一、二回ほど家族ぐるみで付き合ってますし、過去に比べると、むしろ今は教会に批判的な私より、彼の方が模範的教会員になって頑張ってますね。

不思議なものです。


あと、もう一つ、二次的被害について話しておきます。

私が献身時代に所属した部所で、ある二世の姉妹の班長を担当する事になりました。

彼女は別の教会から、色んないきさつで私の部所に来ました。

始めの頃は教会に対する恨みがもの凄く、別に彼女に危害を加えたわけでもない私につっかかってきて、私を嘘つき呼ばわりまでしました。

彼女の話の中には親が教会から受けた非人道的な待遇と思われる部分があり、それをずっと母親から聞かされてきたのです。

彼女とは夜中の2時、3時まで話し合い、それで5時から訓読会でしたから、お互いよく頑張ったものです。

そんな中、私は彼女に対して逆ギレしました。

そこまで言うなら、自分で自分の教会に直接文句を言ってこい、と。

親の気持ちを伝え、決別するなら決別しろ、と。

そして、彼女に時間をあげて、彼女の母親の所属する教会を訪問させました。

途中、「やっぱり行きたくありません」と大泣きして私に電話で報告してきましたが、私は「何の為に行ったんだ!行け!」と問答無用に行かせました。

彼女の話を聞いた上で勝算は有ったからです。

私が付き添うかも迷いどころですが、そうしたら彼女は私に依存してしまうし、私も甘やかしてしまうので、一人で行かせました。

彼女は勇気を振り絞り、よく頑張って行ってくれました。

結局、教会の担当者と話したところ、彼女は自分が多くの誤解をしていた事に気づきました。

ここでは書けない部分もありますが、簡単な話では、例えば「教会の人は私が教会に行かなくなっても連絡もいてこない」という様な母親の言葉などは、嘘が有りました。

むしろ教会を避けていたのは母親の方でした。(まあ、連絡してきて何の話をするのか、という懸念も有りますが…)

要するに、母親を傷つけた教会側の一次的な問題も有りますが、二次的な問題として、母親は必要以上に教会を悪く言っていた事を、彼女が知ったという話です。

話してみて、教会の担当者が悪い人だという印象は受けなかったと言います。

彼女は今も自分で決めて教会の活動に参加し、頑張っています。

しかし、もし、教会に対する誤解をそのまま持ち続けていたとしたら、私との関係は劣悪なままだったでしょうし、下手すれば、彼女が自殺する程に自分を追い込む事になっていたかも知れません。

可能性は誰にだってあります。

勿論、教会が正常な活動をしていれば、その様なややこしい問題は生じなかったわけですが、私達の努力次第で人間関係は改善し得ます。

むしろ教会が無くなってしまった後では、彼女の恨みが解ける事は一生無かったかも知れません。

偏った情報、嘘、恨みを吹き込む事で二次的被害は拡大しています。


正確な情報を伝えないままに教会を批判する事は、「私を盲信しなさい」と言っているのと同じ。

教会に依存するか、批判者に依存するか、人間の本質として何も変わらないのです。

おやじさんをはじめ、多くの批判者は自分の考えで教会がおかしいと感じ、自分で色々と調べ、そして、自分が今やるべき事を見出しているはずです。

世の中の嘘を見抜き、自分の自立した考えを持つ事が本質的解決でないとするなら、皆さんがやっている事は何の意味も無いのではないですか。


最近は顯進様支持派の事を批判していましたが、これも念の為に言っておくと、私は顯進様を支持するなとは言ってません。

「言ってる事おかしいよ」「自分で自分の首を締めてますよ」と言っているのに、正論とそうでない部分を分別もせずに、大事な人を批判されているようで反発すると言うのなら、それはもうファンの心理であって、偶像を拝んでるのと同じですよ。


パシセラさんは分派に対して「恨みを喚起している」と言うのですけど、御自分のサイドにいる人達が何をしているのか知ってるのですかね。

私の妻は顔が広いし優秀な人なので、某国から「国に提出する公式文書を作成して欲しい」というような名目で勧誘を受けたりするのですけど、そんな妻に「顯進様の活動に参加しないのか」と聞いたところ、「活動は魅力的で好きだけど、嫌だ」と言います。

理由を聞いても言いたがりません。

聞こえてくる話、「教会の幹部は不正を働いている」とかそんな話ばかりするらしいですけど、それって恨みを喚起する事とどう違うのでしょうか。

自分達が分派だと自白しているようなものですよ。

統一教会に語りかける前に、自前の雑兵どもを教育して頂きたい。

Visionを語りなさい。Visionを。


ほとどの人は「実(じつ)」を見ていないのです。

私も今、探しているところですし。

教会も嘘をついている。

教会を批判する人も嘘をついている。

ややもすれば私達は自分で自分に嘘をついている。

誰を信じるんですか?

自分で見分けるしかない。


こういう言葉はかえって皆さんを人間不信に陥らせるかも知れないですけど、それを乗り越えなければ真実には辿りつけないでしょう。

虚構の中で生きたいなら、私なんぞ無視すれば良いですし、実を取るならば、誰からも学ぶべき。


イソップ童話の嘘つき少年の話がありますけど、たいては、いつも嘘をつき続けてきた少年の行為を愚行と見ますよね?

私はこれを嘘つき少年の嘘を分別できなかった村人が狼に食われた話だという、もう一面の解釈をします。


私は自分が見たいものを見ました。…1997年映画作品「ジャンヌ・ダルク」


人は事実を信じるのではない。自分が信じたいものを信じる。それが人間だ。…江川達也先生の漫画作品「DEAD MAN」


セリフはうろ覚えですが…。

過激な暴力描写や性描写が大丈夫な方にはお薦めの作品です。


お父様も見たいものを見ず、聞きたいものを聞かず、自己否定するように仰いませんでしたっけ?

もう一段階意味を深く掘り下げて考えるのも良いかも知れませんね。


お読み下さりありがとうございました。



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二世が自殺したという。


(情報元)

http://ameblo.jp/gildong/entry-11851373539.html


会ったこともなく、名前も知らない子だが、私も子を持つ親として、こんなに傷ましいことは無い。

事件の原因は教会組織の非人道的対応という憶測がされているが、この自殺した二世の子を精神的に支えてあげられる人が周りに一人もいなかったという事が二次的な問題としてもっと考えられるべきではないだろうか。

食口達の不幸な事件は、勿論、これが初めてではない。

このような事態が生じるのは、教会組織の体質の問題でもあるだろうが、本質的に我々、食口同士の人間関係の希薄さが問題だ。

組織の改善を叫ぶのは結構だが、責任を転嫁してはならない。

これは我々一人一人の問題だ。

そもそも、この投稿記事の憶測は事実不詳のままに書かれている。

知り得る限りの事実関係を調べてみれば、少しこの投稿内容はおかしい。

違和感を感じる所が多いので検証が必要だ。


ところで、過去、私の最も衝撃的な事件として記憶に残る焼死事件の犯行に及んだ婦人は、恐らく、ブログ村を読んでいた。

と言うのも、彼女が今回の記事の情報元のブログ主にコンタクトを取っていた事が、同ブログで書かれていたことから推測できる。

彼女がそのブログ主とコンタクトを取っていたという事は良くも悪くも、そのブログに最も同調していたという事であろうが、ブログを書いている我々一人一人が、もっと彼女の考えを改めさせてあげられるような内容を書いていたならば、もしかしたら結果は変わっていたかも知れない事を深刻に考えるべきだ。

関係無いような顔をする輩もいるが、そうではない。


教会の体質として、伝道や献金できない人は疎外されやすい傾向が有る。

私が所属していたある青年宿舎でも、主に伝道を実践する「伝道部」と、様々な事情で伝道できない「青年部」の区分けが有り、伝道部の人間の一部には、青年部の人達を意識の低い者と蔑むような雰囲気が有った。

結局、青年部の人達は居づらくなってやめたり、反感を持って関係が悪くなってしまう状況も有った。

逆に、伝道しないのが負債になる(良心に反する)と教育される事によって、嫌だけども無理に気勢を張って伝道部に属する人もおり、結局、無理がたたってやめてしまうような事も有る。

組織の体質も有るだろうが、やはり同じ宿舎に住む兄弟姉妹として、互いの事情を知り合い、精神的に支え合う関係が有ったなら、やめなくて良い、むしろ、自分の個性を発揮した何らかの活動を見つけて展開できたかも知れない。


統一教会ブログ村はどうだ。

1、2年前は顯進様支持派VS教会派の闘争が最も激化している頃で、私もそうだったが「ここに入りたくないな」という空気が有った。

政治的問題を口にしなければ意識が低い者として扱われる傾向が強かっただろう。

ポイントが入るのは教会を批判するブログばかりだ。

漫画家さんとか、イラストレーターさんとか、個性的で面白そうなブログを書けそうな方々はたくさんいるのに。

霊界通信を研究している方や、個人的にはazuさんとか、もっと書いて欲しい。

自分は関係無いと思っているかも知れないが、我々一人一人がそういう個性や能力を持った貴重な人達が居づらい空気を作ってしまっているのだ。

統一教会ブログ村と統一教会組織(顯進様支持派も同様に)は本質的に同じ傾向を持っている。

ここに属する者達は最後的に「無視」と「暴力」を行使している。

愛や良心など無い。

両組織が発展しない原因はブログ村を見てもよくわかる。

ここでブログを書いていた高校生も「環境が悪い」という事で結局、出て行く事を願われた。


だから、二世達に言いたい。

人を信じるな。

人を頼るな。

自分が強くなれ。


こんな事を言うと、私の人間性を疑われるかも知れない。

愛を求める中高生に言うのは酷かも知れない。

確かに私はひねくれている。

だが、現実を見て欲しい。

誰があなた方を助けてくれる?

誰が自殺した二世を助けてあげた?

世の中も教会も同じ。

誰も助けてはくれない。


日本語では感謝の意を示す時、「ありがとう」と言う。

誰も助けてくれないのが当たり前の世の中で、助けてくれる事が「有り難い」事であることから生まれた言葉だろう。


あなた達は、今回、パイオニア・カフェに投稿された匿名の記事を読んでどう思った?

韓国人牧会者だろうという推測だが、彼の言葉が真実だと思うか?

韓日の一体化の為に、教会の改善の為に彼が何をしてくれたというのか。

私の率直な感想として、「人の死を利用して善人ぶるな」と言いたい。

もしかしたら、彼は本当に真心から記事を投稿したのかの知れない。

だが、本当に捨て身なら実名で体制に立ち向かえと言いたい。

匿名の安全圏で何を叫んでも空虚だ。

教会の人間かどうかさえ怪しいじゃないか。

組織を批判するだけして、後は誰かが何とかしてくれという態度に見えるが、とても責任の有る言動とは言えない。


どっかの誰かは「匿名性の高いアメブロメッセージは読みません」と言っていたが、それは匿名の人間は信用しないという事だろう。

この匿名性の高い掲示板についてはどうかな。

この匿名性の高い掲示板の引用を多用するブログが、その人のお薦めブログなのだから、何か違和感を感じるよな。

メールだっていくらでも偽名を仕える。

私はその匿名性の高いアメブロメッセージを通じて、かけがえのない仲間に出会えた。

要は何事も自分自身の捉え方、使い方次第で有効にも害にもなる。

自分で自分に制限をかければ幅の狭い人間になる。


ついでに言うが、「あなた方が書いている内容は、あなた方が支えようとしている方に害を及ぼしている」という事を実例を示しながら批判しているのに、「これまで通り、書いて欲しい」と言う人がいるのだから、私としては、これは常軌を逸しているとしか思えない。

少し前に、偶然、観たテレビ番組で、Dr.なんとか(レオンだっけか?)という人物が超能力者の嘘を暴くというコーナーが有った。

ロシアの超能力研究所で、ガラスケースの中に吊られた紙が、生徒達の念力によって、手も触れずに動きだすというものだが、Dr.が「室温上昇によるガラスケース内の対流現象により紙が自然に動く」事を科学的に説明したにも関わらず、生徒達は自分達の誤りを認めず、「今日は調子が悪かった」と言って、自分達の超能力を信じてはばからない。

自分達が特別な存在である事を否定したくないのだ。

神コンプレックスという言葉が有っただろうか。

信仰者は誰しもそれに似た性質を有している。


もう一度言う。

二世よ、強くなれ。

綺麗な事を言う大人の嘘を見抜け。


人間は嘘をつく。

自分が嘘をついている事に気づけない人もいる。

あなた方がそれを見分ける事ができるようになった時、本当の人間関係が始まる。

無条件に人を信じるのは盲従だ。

人に依存すれば、裏切られた時、その人を責め、恨みになるだろう。

人を責め、恨んでも何も変わらない。

ある者達はあなた方を依存させようと偽りの愛を振りまき、あなた方を利用しようとする。

それは罠だ。

人間を研究するのだ。


「人を信じるな」と言うと愛が無いように思うだろうか?

ある大会で、真のお父様は講演文を読み上げる最中に、突然、「人間が一番信用できません!」と大声を挙げられた事が有る。

私は面食らった。

その部分を感想会で述べると、「またUnrestorableは、そんな所に相対して…」などと班長から白い目で見られたものだが、それはお父様の口から発せられたみ言だったのだ。

誰よりも裏切りを体験して来られたお父様であるし、「栄光の冠」を読めば、そういう道を行く決意を16歳の頃からなされていた事が分かるのである。

人は嘘をつき、裏切る、という事を分かった上で、決意された道であることを忘れてはならない。

16歳、数えなら15歳だ。


他にも、「終わりの時にはお父様さえ信じてはならない」というみ言まで有る。

時に我々はお父様でさえ疑わねばならない。

だから、嘘を見抜く訓練が必要だ。

私は騙されやすい性格だったので統一教会に来たが、伝道を通じて人間の嘘を見抜く、と言うか、相手が何を考えているのかという本質を見る訓練をした。

話す雰囲気や細かな言葉の使い回し、様々な素材を集めて真実を見つけ出す。

方法は何でもいい。

自分を鍛えるのだ。

隠された真実を見つけろ。


み言が嫌いならば漫画の話でもしようか。

甲斐谷忍先生の作品「Liar Game」の中で、主人公・秋山深一は同主人公・神崎ナオにこう言う。

「人を疑え。疑わない事は無関心と同じ」

細部のセリフは忘れたが、そういう主旨の内容だ。

相手の事を知ろうとしない所に本当の理解や愛など生まれ得ない。

相手が嘘をついているならば、その嘘をついた背後の事情まで知ってあげる事だ。

そうすれば自分が傷つく事もなく、相手の為に何をしてあげられるかが分かってくるはず。


正直、人生は苦難の連続だ。

私だって時に何もかも投げ出し、逃げたくなる事が今でも有る。

そんな現実を無視しながら、生きる事は素晴らしいとか綺麗事は言えない。

だけども、生きていて嬉しかった事もたくさん有る。

今は子ども達が一番の幸せだ。

パパと言って無邪気に抱きついてきては仕事を邪魔しに来る鬱陶しいほどの可愛さが、まだあなた達には分かるまい。

日々、成長していくその姿を見れば、将来には希望しか感じない。

それは私の場合だが、出来れば、本当にそういう気持ちをあなた達と共有したい。

自ら命を絶ってしまった、その子の事を思うと本当に涙が出るんだよ。

泣いている私の横で、子ども達が楽しそうにお化けの真似をして遊んでいる。

彼らには、まだ私の涙の意味は分からない。

親が逮捕され、世間から白い目で見られ、周囲の人々からも捨てられた立場に立った事の無い私に、自殺した子の気持ちは本当の意味では分かり得ない。

御子女様方がそれに近い事情を通過されているのではないだろうか。

御子女様方の生き様に習うのも良い。


だから本当は私には「何が何でも生きろ」などと偉そうな事は言えない。

だけども我が子ども達には強くあって欲しいと願う。

現社会では、たった一人ででも生き抜く力が必要だ。

少なくとも、もし、あなた達が自らの命を絶った悲劇が政治的に利用される事が有れば悔しすぎる。

強くなって偽善的な大人達を見返してやれ。

口ばかりで何もしない。

表面的な綺麗事でなく、動機と実体を見るのだ。

勿論、自分自身を冷静に分析する事もしなければならない。

何故、自分が今の考えに至ったのか。

今の自分の考えは誰かに操作された思考ではないか。

その考えた結果、あなた達が教会のリーダーになるのも良ければ、教会を見限って信仰を捨てるのも良いし、顯進様の活動が本物だと思ってそこに参加するのも良い。

それが、あなたの考えならそれで良い。

大切なのは、自分で考え、自分で決める事だ。

祝福を受けろと言われたから受けるのか、祝福を受けるメリットとデメリットを熟考した上で自ら決意して臨むのとでは結果が変わる。

受けたくないなら理由を上げて親に説明しなさい。

お互いの考えを話し合い、理解し合う事が必要だ。

ただし、自分の考えで決めた事には、自分で責任を持て。


強くなるしかない。

強さの意味が違うが、私は中学時代から自己流で格闘技を始めた。

動機は父親越えだった。

父親の支配から抜け出す為の準備だった。

後日談、母は私がいつか父親を殺すのではないかと心配だったそうだ。

と言う程、非道な父でもなかったし、そこまでする気も無かったが…まあ、どんな家庭だったかは想像に任せる。

だが、この格闘技を始めたのは私にとって良かった。

武道の持つ精神性と宗教性が私の内性を向上し、格闘技好きの友人との出会いの機会も持てた。

格闘技は今の自分の人格形成に一役かっている。


誤解してはいけないが、強くなるとは、相手を負かしたり、強情になって誰も寄せ付けないことではない。

柔軟性や協調性も必要だ。

ある時、私が格闘技をしていたという事で、教会の兄弟に武術を指導する機会が有った。

3人の兄弟がおり、2人は以前に別の武術をかじってきており、もう1人はまったくの初心者だった。

この中で最も吸収力が有り、上達したのが、意外にもまったくの初心者だった。

他の2人は、過去に学んだ武術の形式に囚われて、新しいものを受け入れる事が難しくなっていたのだ。

勿体ない事だが、彼らの幅は狭くなっていて、さらに広い見識を飲み込めず、自分の考えの幅を広げるチャンスを失ってしまった。


藤原芳秀先生の漫画作品「拳児」において(原作の松田隆智先生は本物の武術家)、主人公・拳児は幼少の頃より八極拳を学んでいたが、ある時、太極拳を本格的に学ぶことになる。

その時の老師に諭された事が、「以前に学んだものは一時忘れる事」だ。

また、「これまでに学んだものが全て壊れるかも知れない」という事も言われた。

だが拳児は太極拳を良く習得し、実戦にける技の幅を広げたのだ。


私は今、夜の神様と昼の神様について考察しているが、今までの原理観は一旦、全て捨てている。

そうしなければ、新たな見識の幅を得られないと思うからだ。

真理を得るという事は無限の自由を得られるようでもあり、行く道が限定されるようでもある、難しい話だ。


話が横道にそれたが、組織を批判する人達の中には公職者全てを非道な極悪人、犯罪者のように弾劾し、組織が潰れて無くなってしまう事を望む人達がいる。

時に、献金ボイコット運動なるものが登場し、署名を集めて何をするかと言えば、特に何もしないという、私から見れば下らない動きが有った。

その折に、経済的困窮に立たされ、犯罪者と呼ばれたその家族、特に罪も無い子ども達に二次被害が起こったらどうするのか、という私の問いかけに対し、食口は過重の献金の要求に自殺している人達までいるのだから、公職者にそのような被害が出てもやむなし、という意見が有った。

そうだろうか。

そうなのかも知れない。

難しい問題だが、ただ、社会的にもまだ自立し得ない幼い二世達が経済的にも精神的に追い込まれ、更に悲惨な事態が発生する事が既に予想されるのだから、我々はそういう事態を収拾する準備を始めなければならない。

二度と同じ悲劇を繰り返してはならない。

二世諸君は二世同士、お互いに事情に通じて、友達に困っている事があるなら、親にもよく相談して欲しい。

(ただ、誰にも話さないで欲しいと言われた事はペラペラ喋るなよ)

経済援助までは出来ずとも、あと一家庭が入るくらいのスペースなら我が家も提供できると思うし、本当は皆、誰しも互いに助け合いたいと思っているはずだ。


確かに仮にそんな事態になって、他人の家に居候などすれば、迷惑がる人もいるかも知れない。

仕方なしに泊めてやるという嫌な空気を感じるような事もあるかも知れない。

そういう時は食器を洗え。

掃除を率先して行え。

バイトできる年齢ならば、働いて家賃を払え。

いらないと言われてもやれ。

考えろ。

相手の気持ちを見抜け。

依存するな。

与えられるのではなく、あなたが与えるのだ。


長々と書いてしまったが、言い足りない言葉が多すぎて、まだまだ誤解を与える部分が有るかも知れない。

そういう部分はどんどんぶつかってきてくれ。

私も考えを改めたり、逆にアドバイス出来るかもしれない。

あまり中高生がこんなブログを読まないだろうが…。

次は私の体験談でも書いてみよう。

来週になるだろうが、興味が有れば読んでくれ。


御訪問ありがとう。


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連休は結局、家族サービスに時間をとられて、逆になかなか時間がとれないものですね。

先日、米本和広氏の記事を勝手に引用させて頂いた折り、これまた勝手に謝意として、私自身の拉致監禁に関する体験談というものを記事で取り上げる事を言いましたので、連休の最終日、この時しかチャンスは無いので、書いてみたいと思います。

もし、被害者の方々の心を傷つけてしまう不適切な文言が有れば御指摘下さい。

直ちに訂正・削除します。


拉致監禁に関する体験談と言っても、私は実際に拉致監禁されたわけではありません。

ただ、その危険性は大いに有りました。


私が拉致監禁という事件の存在を知ったのは、いつの事だったかあまり覚えていませんが、割と信仰歴の浅い頃からその話は教会側から聞かされます。

私の曖昧な記憶では弁護士よりも「反牧(反対牧師)」という言葉がよく出てきました。

今でこそ、そんなに厳しくないかも知れませんが、当時の青年宿舎の生活はスケジュール作成や、定時の報連相、自宅帰省の際の帰省願いの書類提出等が徹底されており、監禁される危険度が高いと判断された場合には帰省させてもらえない人もいましたし、一度監禁の体験を受けた人は一人で外出する事は許されていなかったので、宿舎からたった5m先の用事でも、護衛として付き添った事も有ります。

とある修練会では反牧対策講義などが講じられ、思想武装を施したりしました。

拉致監禁に対して大々的に攻勢に出ている現在よりは、かなり消極的な姿勢でした。


何故、統一教会が拉致監禁という人権侵害に対して強気の攻めに出る事が出来なかったのか、という事に関しては、もしかしたら教義上の問題が有るかも知れません。

それは、原理の復活論で論じられるところによると、どんなに悪い事が起こっても、全て「感謝」と「甘受」で受け入れた時に、「復活」が成されるという内容が有るからです。

また、「打たれて奪ってくる」等のみ言、聖書の「右の頬を打たれたら…」という、こちらからは攻撃・反撃しない姿勢を尊ぶ傾向も有るでしょう。

それに、氏族復帰は統一教会員にとっての使命であり、家族を告訴する事はその使命が遠のく事にも成り得ます。

縦型組織ゆえに、個人の判断で告訴に踏み切れなかったという場合も有るかもしれません。

邪推するなれば、統一教会という組織自体に後ろめたい事が多すぎて、自らの実態までも明るみになるのを恐れたのかも知れません。

國進様が拉致監禁問題に取り組むように指示され、現在の裁判勝訴の結果に現れてきている事は実に快挙です。

お父様のみ言に「拉致監禁問題を解決させる為に國進様を日本に送った」という内容が有ったので、拉致監禁問題に関してはお父様も気にかけて下さっていたのでしょう。


話を戻しますが、青年宿舎時代、様々な事を管理されたそんな環境で過ごす息苦しさや拘束感に嫌悪するものの、一方で拉致監禁という懸念もしながら、家に帰るのも、宿舎に帰るのも嫌な時期が有りました。

親に教会を明かしていない時においては、ひたすら実家が恋しくなるのですけどね。

親に明かした後は、たいてい親は受け入れませんので、宿舎が我が家となって、段々と居心地が良くなります。(私の場合はですが)

当たり前ですが、拉致監禁の危険が高いのは、この教会を明かす時、もとい、自分の子が宗教に関わっていると知られる時だと思います。

いつどのタイミングで親に話したかは訳有って言えませんが、これからその話をしたいと思います。


その前に、もう一つ余談。

宿舎生活を過ごしていたある日、担当の教会長が拉致監禁の体験談を話してくれる機会が有りました。

なかなか無骨な方で、彼は拉致監禁を受け、牧師からお父様の悪口を言われ続ける事に耐え切れずに逆上した結果、その牧師をボコボコに殴り倒したそうです。

そんな事が有った為に、親が拉致監禁を諦め解放されたのですが、親はただ申し訳なさそうに牧師に謝り続け、牧師は「大事(おおごと)にするつもりはありませんから」と良い人を演じる。

でも恐らく、警察を介入させて困るのは牧師の方。

その牧師が言った言葉が「統一教会の人は殴らないと思っていました」だったそうな。

そんな武勇伝みたいな話でしたが、その教会長はそれでも、拉致監禁を受けた時の恐怖は今でもトラウマになって離れないと言います。

しかし、若くて馬鹿だった私は、

「自分もその手で行こう」

と軽々しく監禁者を血祭りに上げるイメージトレーニングに勤しんだものでした。

本当に馬鹿。


拉致監禁被害者の体験談や、米本氏の記事を読みながら、改めてそんな簡単な事ではない事が分かります。

後藤さんのインタビューの中で、信仰が無ければ発狂したり、暴力を振るっていたかも知れないという内容の部分を読み、その環境の過酷さは当人でしか知り得ないですし、実際に説得に当たるのが教育を受けた家族だったら、当時の自分でも手が出せたかは分かりません。

何より、拉致監禁という事件が生じた時点で修復困難な傷が家族との間に生じるのです。

ただ、それは実際の体験者でなければ口にする事は出来ないですよね。


ようやく、私が親に教会を明かした件に戻りますが、当時の私は拉致監禁されても暴力的に解決する脱出シミュレーションを立てていたので、拉致監禁に対してはさほど恐れていませんでした。

親は昔、「自分の決めた道を行けばいい」みたいな事を言ってたし、原理を聞いたら理解してくれるんじゃないかな、などと安直で愚直な姿勢で説得に臨んでいました。

お察しの通り、現実は甘くありません。

伝えた一日目は、父も「反対しても止められんだろうから仕方ない」などと言ってたのですが、二日目(私は特殊なケースで明かしてからしばらく、親と過ごしました)、父はネットを通じて様々な情報をかき集め、急激に反対姿勢に打って出てきました。

教会の悪事やら、何やら、もう言わなくても大体分かりますよね。

その中に、拉致監禁の情報に加え、さらに拉致監禁によって、かえって家族関係や人格障害が生じる被害情報も集めていたのです。

その情報がどこからの出典なのかは分かりません。

ただ、父はそれを読んだために、拉致監禁という手段を「悪手」として思いとどまったのです。

つまり、米本氏をはじめとする、拉致監禁被害を取り上げる言論人の方々の取り組みゆえに、私は拉致監禁を免れたのです。

その情報源が米本氏のものかは分からないのですが、間接的、もしかしたら直接的に、米本氏は私の恩人かも知れません。

残念ながら、当時の私は米本氏の事を知りませんでした。

ブログを書いていらっしゃる事を知ったのも、私がブログ村でブログを読み始めた約2年前の事でした。

教会が拉致監禁に取り組む以前から、この問題に対して取り組んで下さっている方がいる事で、どれだけの教会員が救われたんだろうか、と感謝に絶えません。

価値中立的な立場で教会の悪い所もつついて下さるので、ちょっとばかし痛みを感じますが、それも有り難いですよね。

逆にそれがある面で拉致監禁問題に対して効果的でも有るし。

米本氏がここ統一教会ブログ村でブログを書いて下さっている意義は大きいと思います。

(金輪際、強制移動とかすんなよな!)


一方、母は別ルートでカルト対策をしているキリスト教会と連絡をとり、話を聞きに行ってました。

母から伝え聞くところ、「いっそお母さんも息子さんと一緒に統一教会に入ったら楽ですよ」などと心にも無い事をいう牧師。

反牧で有名なS教会(仮名)だったので、打算的な言葉であることはすぐに分かりました。

そういう中立的な立場を演じる事で親御さんを安心させてるんだなぁ、と感じましたね。

こちらは、ある身内Hの「宗教やめさせる為に教会行くんだったら一緒じゃないか」という助言によって、母は教会に通うのをやめました。

価値中立的な人間の存在って大きいですね。


父も「1年間、俺に説得させろ」と言い、母も「牧師さんと話をしてみて」と願ってきたのですが、諸事情により断わざるを得ませんでした。

今、思えば、納得のいくところまで話合ってみるのも悪くなかったかも知れないと思うところがあります。

ただ、父に原理の話を始めたところ、「お前の話に納得のいく所を一つでも認めた時点で、そこからマインド・コントロールされるんだ」と言って、「原因が有って結果が有る」という話でさえ、「そうとは限らん」みたいな態度だったので、こりゃ話し合いは無理だと思っちゃったんですよね。

思い返せば後悔する事がとてもたくさん有ります。

伝道は愛によって自然屈服させる事を分かってませんでした。


拉致監禁に関しては、私が親に教会を明かしたその前後、私の住まう青年宿舎でも、色々な事が有りました。

家に帰ってから帰ってこなくなった人とか、別人格になったかのように攻撃に転じる人とか、二階の窓から飛び降りて帰ってきた人とか。


なので、拉致監禁の手段に出るか迷っている教会員の御家族の方が、万が一、このブログの記事にたどり着かれましたらば、是非、その手段だけはとらないで欲しいと申し上げたいです。

拉致監禁は犯罪です。

詳しくは米本氏のブログを御覧下さい。

http://yonemoto.blog63.fc2.com/


また、教会はいい気にならずに、拉致監禁の原因となるような悪質な組織体制の改善を心がけて頂きたい。

まずはコンプライアンスの遵守でしょう。


現在、私は家族とちょっとしたギクシャク感を感じる瞬間はありますが…例えば子どもが「神様」とか口走った時とかね…それでも基本的に親子の関係で助け合いながらやっています。

私が教会の言う事を聞かずに、家族に献金を頼んだり、物販したり、講演会とかに動員しないからかも知れませんけど。

そこはお互いの意思を尊重し合う気持ちが、双方に必要だと思います。

一方的な意見の押し付けとか、聞く耳持たない態度というのが良くないです。


ワケ有って詳細が記せない所や書いていない事も有りますが、私が信仰生活の中で関わった拉致監禁関連の体験談というのはこんなところです。

普段から「拉致監禁に関心を持て」と訴えられる米本氏に呼応しきれていないのが申し訳ないですが、とりあえず第一歩の記事としてお送りします。

あとは消極的ですが拉致監禁問題を取り扱って下さっているブログのバナーをクリックする事とかですかね。


こういう特別な機会だったので、なんとか書けました。

拉致監禁問題が撲滅される事、言葉知らずで相応しい表現が見つかりませんが、被害者の方々の受難が報われる事を願って。

お読み下さりありがとうございました。



にほんブログ村

せっかく準備していたので顯進様支持派叩きシリーズとして最後に掲載します。

本当はまだまだエグいところまで突っ込もうと思ってましたが、批判ばかりしていたら自分の気持ちもめげるし、読む方も辛いでしょう。

ただ、批判は批判なのですけど、私が望む本意とは、皆さんに「考える」機会を持ってもらいたいというだけです。


デマを指摘し合うのは水掛け論になるだけという御意見を見ましたが、顯進様支持派の諸君は真実を伝える為に立ち上がった方々ではないのですか。

真実を明確に伝達する事に妥協し、行き着くところまで話し合わないのはおかしいのではないでしょうか。

事実不確定の情報をさも事実かのように流布し、一方的に批判するなら、それは政治的弾圧以下の問題に過ぎません。

そもそも、統一教会の教義が間違っているという指摘自体が水掛け論に陥りがちな宗教論争です。

水掛け論になるからという理由で話し合わないなら、どうやって世界を一つにするのですか。

もし、そうした論争が意味の無いものなら、顯進様支持派も、「結果」や「実績」で勝負すべきであるにも関わらず、ひたすらに結論の出るはずもない水掛け論で、統一教会に汚水を放水し続けていることに「なるのではないでしょうか。

デマに関する明確な物的証拠を突きつけてあげれば、彼らの良心も目覚めますか。

考えておきましょう。


政治的批判という事で、最もその誹りを受けたのは國進様でしょう。

教会の拉致監禁問題に取り組み、日本の経済負担を軽減する為の抜本的改革を志し、公金横領に厳しく、清平の監査も提案し、表面的に見える部分だけではありますが、私はそんな國進様が嫌いではありません。

それに対して、顯進様支持派の中には、國進様の祝福の問題や私生児の噂を持ち上げ、彼の講演の内容がさも狂気に満ちているかの如く教義的弾圧をし、果ては銃会社を経営していることまでも異常扱いするような人格攻撃的表現も有ったと見ます。

当時は顯進様VS國進様の対立構造が主軸であると思われていたため、國進様攻撃が盛んであり、米国で発生した銃乱射事件等の影響も有り、内外から國進様の発言、及び銃販売を批判する声は非常に大きかったのを覚えています。

お父様が危篤の際、病室で対面した顯進様と國進様のやりとりでさえ、デマと憶測が飛び交っていました。

顯進様支持派はひたすら國進様にだけ都合の悪い情報を流し続け、民衆の心理を操作しようという政治的批判の傾向が強かったと私は考えています。


國進様の講演内容については私もまだ疑問点が残る故に結論的部分が明確に出せない所は有りますが、顯進様支持派は國進様の仰る内容を捻じ曲げ、読み手に曲解を促しています。

http://kigensetsu.wordpress.com/2012/10/01/%E5%9B%BD%E9%80%B2%E6%A7%98%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%B5%E3%82%A8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E2%80%8F/


このサイトは、多分、P氏が作っているので、彼のブログも読めば良いと思います。

彼が言いたい事も分かりますけど、吐き気がするような中傷も大いに含まれてます。

シリーズは1~21まで有りますが、リンクを貼るのが面倒なので最初の記事だけリンクを貼ります。

「文国進理事長にどうして疑問を感じないのでしょう?」

http://ameblo.jp/pacificera/entry-11307997299.html


國進様のfreedom societyの講演ビデオがyoutubeにアップロードされるので、英語が分かる方は見比べて頂ければ良いかと。

https://www.youtube.com/watch?v=UnctyeQd78I


今回の本題は國進様のVisonの正否を論じる事ではなく、顯進様支持派が國進様を批判する事によって、同時にお父様を批判する結果となっていないか、という所に主眼を置きます。

統一教会員全般にも投げかけたい質問でもあります。

多分、あまり見たくない情報かも知れませんが、現実は直視しなければなりません。


まずは、最も情報力を有する反対派、ちゃぬさんの記事を全て熟読した上で考えて頂きたいです。

読まずにコメントを寄せるのはやめて下さい。

ちなみに、掲載されているみ言の有無はある程度確認しています。

み言選集等で、所持していない巻数については調べられませんが、調査可能な範囲において、み言は一致していますので、ちゃぬさんがみ言の捏造をしているような事は無いと考えています。


「統一教会の銃製造と軍需産業」

http://ameblo.jp/chanu1/theme-10033865624.html


P氏は本人の記事の中で、自衛の為の武器を買う事は将来的に自分にも有り得るという意思を表明しているので、國進様が銃を売る事それ自体に反対しているわけでもない事は理解できます。

ただ、以下の様な気色の悪い論理のすり替えも有るので、読み分けが必要ですが。


それで、何をどう書けば良いのか迷うのですが、まず、本当に自然の中に、神様に精誠を捧げる為に命を懸けて行ったら、「武器で主管するという発想は出ない」と思います。空気も太陽も、人間には主管できないものが沢山あります。神様も、人間には主管できません。



例えばP氏はサファリでライオンが襲ってきた時にどう対処するつもりなのでしょうか。

猛獣も主管できないから食われれば良い?

天国では猛獣も人間を襲わないと信じているタチ?
「空気や太陽」と「銃」をかけて論じる事自体がナンセンスであり、P氏は「主管」という言葉を誤解しているのでは。

人間が住み良い環境を模索する為に太陽や空気について研究し、活用しようと挑戦する事を否定するつもりですか?

私がP氏の本意を理解しようとしていないと言うならば、P氏も國進様に対して同様です。


で、とりあえずP氏は民間に銃を売る事自体は否定していないわけですが、その他顯進様支持派も含め、教会員の中には否定する人もいます。

今回はP氏の事はおいておいて、そういう方々に問いたいのですが、お父様が國進様の銃製造の才能を見出し、会社設立の資金を提供し、軍需産業の責任を任せ、國進様の会社の製品を賞賛して教会員にも購入する事を奨め、武器を通じて国家戦略を展開していた事をどのようにお考えなのでしょう。

これは「武器で社会を変革するなんておかしい」と主張する人々にとって大きな課題ではないですか。

お父様はあくまでも抑止力としての武器を製造・販売している?

そうですね。

國進様は違うのですか?

そもそも國進様は市民が武装して政府を打倒するような事を言っているのではなく、あくまでも良心に基づいた自己主管型の社会を訴えているのであり、顯進様支持派が批判する文言は間違ったところも有るわけですが、本質的な問題として、お父様の考えと國進様の考は本当に異なっていたのでしょうか。


とある教会員の意見では、統一産業の軍需産業は國進様が勝手に行っているというような意見が有りましたが、そうでしょうか。

み言が指し示す通り、お父様が國進様に指示、支援している内容は多く、晩年においても、ヘリコプターやラスベガスの事業等をその御意思によって展開し、統一産業に大きな実権を握っていたお父様が軍需産業だけは自由に手を出せなかったとは考えにくいでしょう。

少なくとも世間はそうは見ません。


また、ある人は平和メッセージを引用し「今や、『銃や刀を溶かして、すきとくわを作る』時が来ています。 」という聖句の内容一つでもって、もう時代が違うと主張し、統一産業の軍需産業を否定する意見も有ります。

ですが、今は本当にその時なのでしょうか。

例えば、日本が自衛隊を放棄して、その浮いた軍事費をベーリング海峡プロジェクトに全部投入する事を統一教会員の皆様は望むのでしょうか。

平和メッセージに従うならば、皆さんはそういう運動をしなければなりません。

韓国と日本の潜水艦が闘う韓国映画「幽霊(ユリョン)」が製作された当時(99年)、確か自衛隊はまだ潜水艦を持っていませんでしたが、今は持っています。

日本もどんどん軍備を増強していますよ。

他人が武器を持って闘うのは良しとして、自分達は武器製造に反対するなんてムシが良すぎると思いませんか。

み言の一文をもって短絡的に全てに適用させるのは危険です。

こう言っては身も蓋も無いですが、お金を集める為なら何だって言うのでは?


顯進様は自分の子どもを士官学校に入学させ、アフガンの駐屯軍に志願させた話が賞賛されていましたが、それはOK?

平和を愛する世界人は特に泣いてない?

果たしてアメリカは平和の為にアフガンに派兵してるのかどうか。

信元様の証に対しては私も賞賛しましたけど、顯進様が自分の子どもにそうさせた意図っていうのは御本人は何か詳しく説明しているのでしょうか。

もし政治的意図があってそうさせたなら、顯進様も立派に「武力」を利用して売名しているとも見れますよね?

例えばの話ですよ。

さらに言えば、その軍で使用されている武器が統一産業のものだったらもっと話はややこしくないですか。


要するに、物事には多角的な考え方が有るのに、議論の機会を作らず、偏った考えを相手に押し付けるだけならまだしも、論を捻じ曲げ中傷するというのは倫理的にどうかと思うわけです。

思慮深く考える人であれば、簡単に人を批判はできないはずです。

その批判の矢はそのままお父様や顯進様に突き刺さるかも知れないのに。


統一教会が武器の製造に携わっていると私が知ったのは信仰歴1年未満の事です。

その当時から、私はすんなりと受け入れていたので、特に反対派の意見に戸惑う事もありませんでした。

歴史を振り返れば、平和を叫んだ偉人達の多くは暗殺されています。

なので、私は教会に来る前から、ただ平和を叫ぶだけで平和は成せないという考えでいました。

お父様が積極的に軍需産業に関わっていらっしゃった事は、逆に「この方は只者ではない(色んな意味でね)」と思わせるものが有りました。

お父様は確かに戦争反対を叫ばれますが、ベトナム戦争が開戦された以降は「Go」と言ってアメリカを支援しました。

戦争に反対したキング牧師が殺害された事を考えれば、命運を分けた事情がそこに有る様な気がしてなりません。

キング牧師の偉大なる業績を否定するわけではありませんが、皆様はお父様に美しく散ってもらいたかったですか。

お父様は生きてみ旨を成さねばならなかったという事に関しては教会員の皆様には同意頂けるのでは。

平和運動家が殺害されてきた歴史的結果を見た時に、本当の平和にとっての敵って、外的に見て単純に共産主義じゃない気がしませんか?

右と左が逆になっているというみ言が有りますけど、これに当てはまるのかは研究中です。

ただ、私が思うに、お父様は私達にも明かせない戦略を立てながら、事大主義と酷評されても、この世と闘ってこられたという事です。

話せば敵にも知られるという孤独で過酷な道を私達がどれだけ理解しているでしょうか。

地上の事を語っても信じないのに、天上の事を語れるわけがありません。


國進様の提唱する理想社会を批判するなら、自分達の思い描く理想社会も明示すべきではないですか。

私は顯進様の目指す理想世界の具体的な形とプロセスが見えません。

原理講論や統一思想をもって國進様の論を否定していますけど、それらの教書の言っている事はまだまだ抽象的ですよ。

まさか国境を超えて奉仕活動していれば、自然に人々が打ち解けて国境が撤廃されるとか言うわけじゃないでしょ?

GPFで祭やってれば政治家達の意識が変わるとか?

お父様が提唱された平和国連を通じた摂理はもうオジャンですか?

平和を叫ぶだけだったら、顯進様の身も危うくなるかも知れませんよ。

実際にお父様がなされようとした事も、私達にはまだまだ見えない事が多いんじゃないですか。

顯進様支持派の諸君が「顯進様で間違い無い」と主張するなら、その一貫した顯進様のVisionを見せてもらえませんか。

手始めに一番初級の問題かと思われる軍と軍需産業の是非について。

どこからどこまでお父様を肯定し、どこまでを否定するのか。

そこで言う事がてんでバラバラだとしたら、顯進様の組織も行く末は分裂しかないですよ。

都合の悪い事は無視して放置するとそうなります。

この先、どんどん疑問を呈していった場合、全部答えられますかね。

また、あなた方が顯進様の明確な見解も知らずに勝手に國進様を批判していたとするなら、お父様が武器を扱っている事を知らずに後からショックを受けた人達の様になりかねません。


自分の子供たちが成長して様々な情報を得た時、本当に自分の意見を矛盾無く、伝える事が出来ますか。

「お父さんは國進様の銃販売を糞味噌にけなしていましたが、真のお父様が銃を売ってらしたので、私は真のお父様を糞味噌にけなして良いでしょうか」

と尋ねられ、

「あの時は國進様を貶められたら良いだけの、批判の為の批判だったので、父さんの脳味噌が糞だったんだよ」

と答えることにならないように。


と言う事で、以降からさらに顯進様支持派の具体的な矛盾点を指摘していく予定でしたが、宣言通り、これで終わります。

中途半端にして申し訳ありませんけど、誰も議論してこないですし、今はみ言収集の方に力を入れたいです。


まずはみ言に返るべき。


お読み下さりありがとうございました。




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